志村けん追悼。 “バカ殿ファミリー”が志村けんさん追悼(2020年3月30日)|BIGLOBEニュース

【追悼】ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか(てれびのスキマ)

志村けん追悼

志村けんさんの訃報を受け沢山の芸能人・著名人・スポーツ選手から、生前の思い出や、お悔やみが発表されてました。 掲載は順不同でまだまだ掲載しきれないほどあるかと思いますが、もし良ければコメント欄に、この方からコメントがありましたなど入れて頂けると幸いです。 また、新たに情報が入り次第更新する予定です。 ザ・ドリフターズのメンバーから志村さんへの追悼・お悔やみコメント ザ・ドリフターズのメンバー加藤茶さん(77)仲本工事(78)高木ブー(87)からメンバーの志村さん さんへのコメント 加藤茶 さんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです。 皆さんも身近に感じて、気を付けてくださるようお願い致します」 仲本工事 さんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント 「ドリフも順番に逝く歳になったとは思ったけど、一番若い志村が長さんの次になるとは、、、。 非常に悔しいです」 高木ブー さんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント 「志村早すぎるよ、俺より先に逝くなんて。 3年前に、久しぶりにドリフでコントやった時、『高木さんも80歳過ぎて、頑張ってるんだから、自分も頑張らなきゃなぁ』って言ってたよね。 また一緒にコントやりたかったのに。 心よりご冥福をお祈り申し上げます」 研ナオコ さんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント 研ナオコさんのツイッターより 「けんちゃん、駄目だった(涙)どうしよう、、」 「今は何も考えられません けんちゃんと、もう会えなくなっちゃう 悲し過ぎて あり過ぎる想(おも)いが整理できません 一緒に仕事が出来て幸せでした ありがとう…」 山田邦子 さんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント 山田邦子さんのブログから 「悲しいお別れです ケンさん、70はまだ早いですよ。 悲しいなぁ」 声優の神谷明 さんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント 「志村けんさんの訃報に声も出ません。 ボク自身を含め周り中か打ちひしがれています。 こうしている今も涙が溢れてきます。 今まで沢山の笑顔のプレゼント、ありがとうございました。 衷心よりよりお悔やみ申し上げます」 GLAYのTERU さんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント 「8時だよ全員集合の頃からずっと大好きでした。 残念でしかたありません。 ご冥福をお祈り申し上げます」 ハリセンボン近藤春菜 さんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント ハリセンボン近藤春菜さんスッキリでのコメント 「突然の悲しいお知らせにメンバー一同呆 ぼう 然としております。 必ず戻って来ると思っていました。 残念です。 プライベート、仕事に本当にお世話になりました。 志村さんがいらっしゃったので今のダチョウ倶楽部があるのだと思います。 いろいろなコントを共演させていただきありがとうございました。 これで日本に作り込んだコント番組を作る人が、1人居なくなりました。 時には本当に沢山 たくさん 叱られ! 本当に沢山笑わしてもらい! 本当に学ばせていただいた偉大な師匠でした! 今、ただ切なくて悔しいです。 一緒に過ごした日は、今も私たちにとって大切な思い出です。 ご遺族、ご関係者の皆様もお気持ちを強く持ち、ご自愛ください。 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。 ダチョウ倶楽部」 志村けんさん…。 信じたくない気持ちでいっぱいですが…。 とても優しくしていただきました。 またあの笑顔で戻ってきてくれると…。 心からお悔やみ申し上げます」 X JAPANのリーダーYOSHIKIさん から志村さんへの追悼・お悔やみコメント YOSHIKIツイッターより 「日本から悲しいニュースが届きました」 「志村けんさんとは、以前格付けで共演させていただきました。 心よりご冥福をお祈りいたします」 ヒップホップのZeebraさん から志村さんへの追悼・お悔やみコメント ヒップホップミュージシャンのZeebraさんのTwitterより 「うわー…志村けんさん…。 子供の頃誕生会で皆でヒゲダンスした思い出が…。 日本中を笑顔にしてくれた英雄です。 楽しい時間をありがとうございました。 安らかにお眠り下さい。 」 古坂大魔王さん から志村さんへの追悼・お悔やみコメント 古坂大魔王さんインスタグラムより 「お笑い芸人の古坂大魔王さん子供の頃ドリフブーム後半。 世はひょうきん族へと。 僕はドリフ負けるな!と帽子にペンキで「ドリフ・イズ・ナット・デッド」と書き被ってた。 上京時Gジャンに志村さんのシルエットをプリントして。 こうなる為にと。 音楽と笑いのまさしく「日本史上最高のエンタテイナー」。 ピコと…。 心も泣く。。 」 全日本プロレス社長の秋山準さんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント 全日本プロレス社長の秋山準さんTwitterより 「若い頃、会場にも観戦に来て下さり、渕さんと一緒に飲みにも連れて行ってもらったなぁ…謹んでお悔やみ申し上げます」 新日本プロレスのタイチさんから志村さんへの追悼・お悔やみコメント.

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志村けんの追悼番組や過去の再放送はある?ドリフ大爆笑や全員集合も!

志村けん追悼

新型コロナウイルスに感染し、亡くなった志村けんさん(中央)(写真:時事) 3月30日、コメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスに感染し、肺炎で亡くなったというニュースにもっとも敏感に反応したのは台湾だった。 どの台湾メディアも、おそらく台湾ではコメディアンに対する最高の敬称である「喜劇王」「爆笑天王」と呼び、志村さんの訃報を伝えていた。 東京都内を中心に新型コロナウイルスの患者数が増え続けているという報道に接しながらも、台湾国内で日本の感染状況を身近に感じることは難しかった。 そこに飛び込んできた志村さんの訃報は、台湾国内に大きな衝撃を与えたと言っても過言ではない。 志村さんの訃報が伝えられた3月30日午後には、台湾の蔡英文総統が自らのSNSで日本語による追悼を行った。 一国の元首が他国のコメディアンを追悼することは異例中の異例のことだ。 このことからも、台湾における志村さんの存在感がどれだけ大きかったかがわかる。 台湾で浸透する志村さんのギャグ しかし、彼はなぜここまで台湾で有名なのだろうか。 筆者の個人的体験からご紹介しよう。 筆者は1990年代に台湾に住み、現地の学校に通っていた。 校内で筆者が日本人だとわかると、クラスメートたちから必ず発せられた日本語があった。 「なんだ、ちみは?」だ。 続いて「そうです、わたしが変なおじさんです」「変なおじさん、だから変なおじさん……」と、つたないながらも、日本語で一世を風靡した志村さんのギャグを口にするクラスメートは少なくなかった。 それほどまでに、志村さんのギャグは台湾に浸透していたのだ。 志村さんが台湾で人気を得た背景には、1987年の民主化前後、政治的にも社会的にも躍動していた台湾社会で、体を張ったコントが台湾人の心をもわしづかみにしたからだろう。 「笑いは国境を越えるか」という問いに、志村さんはまさしく「越えられる」と答えられるほどの人気を得たのだ。 今の30代後半から50代の台湾人は、経済は高度成長にありながら政治的には戒厳令という時代を生きてきた。 メディアのコンテンツのほとんどは、当局の検閲を受けたものが流されていた。 海外の情報はそんなメディアからしか得られないうえ、テレビの地上波放送局は3チャンネルしかなかった。 台湾の人々は、とにもかくにも海外の生の情報に飢えていた。

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【追悼】元セクシー女優・麻美ゆまが告白する「志村けんが涙した日」初対面からプライベートまで

志村けん追悼

新型コロナウイルスに感染し、亡くなった志村けんさん(中央)(写真:時事) 3月30日、コメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスに感染し、肺炎で亡くなったというニュースにもっとも敏感に反応したのは台湾だった。 どの台湾メディアも、おそらく台湾ではコメディアンに対する最高の敬称である「喜劇王」「爆笑天王」と呼び、志村さんの訃報を伝えていた。 東京都内を中心に新型コロナウイルスの患者数が増え続けているという報道に接しながらも、台湾国内で日本の感染状況を身近に感じることは難しかった。 そこに飛び込んできた志村さんの訃報は、台湾国内に大きな衝撃を与えたと言っても過言ではない。 志村さんの訃報が伝えられた3月30日午後には、台湾の蔡英文総統が自らのSNSで日本語による追悼を行った。 一国の元首が他国のコメディアンを追悼することは異例中の異例のことだ。 このことからも、台湾における志村さんの存在感がどれだけ大きかったかがわかる。 台湾で浸透する志村さんのギャグ しかし、彼はなぜここまで台湾で有名なのだろうか。 筆者の個人的体験からご紹介しよう。 筆者は1990年代に台湾に住み、現地の学校に通っていた。 校内で筆者が日本人だとわかると、クラスメートたちから必ず発せられた日本語があった。 「なんだ、ちみは?」だ。 続いて「そうです、わたしが変なおじさんです」「変なおじさん、だから変なおじさん……」と、つたないながらも、日本語で一世を風靡した志村さんのギャグを口にするクラスメートは少なくなかった。 それほどまでに、志村さんのギャグは台湾に浸透していたのだ。 志村さんが台湾で人気を得た背景には、1987年の民主化前後、政治的にも社会的にも躍動していた台湾社会で、体を張ったコントが台湾人の心をもわしづかみにしたからだろう。 「笑いは国境を越えるか」という問いに、志村さんはまさしく「越えられる」と答えられるほどの人気を得たのだ。 今の30代後半から50代の台湾人は、経済は高度成長にありながら政治的には戒厳令という時代を生きてきた。 メディアのコンテンツのほとんどは、当局の検閲を受けたものが流されていた。 海外の情報はそんなメディアからしか得られないうえ、テレビの地上波放送局は3チャンネルしかなかった。 台湾の人々は、とにもかくにも海外の生の情報に飢えていた。

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