柿本 人麻呂 百人一首。 【第三番歌・柿本人麻呂|百人一首】

百人一首/柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

柿本 人麻呂 百人一首

わたしの衣の袖が、夜露にぬれてしまっているよ。 農民の生活が浮かんできませんか?天智天皇が詠んだものではなく、農民の民謡のようなものが時代を経て、天智天皇の作と伝わるようになったといわれています。 なぜ、天智天皇の作とされるようになったのか、その理由はなぜなのかわかりますか?答えはひとつではありませんが、農民の生活に思いを至らせられるくらい天智天皇が偉大で思いやりが深い天皇であったと考えられていたか、または、そういう人物であって欲しいというひとびとの思いがあったのかも知れませんね。 栄えある第1番に選ばれたのは、「大化の改新(たいかのかいしん)」で有名な天智天皇です。 いまから1400年前の飛鳥時代に起こった「大化の改新」は、まだ中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と呼ばれていた天智天皇が、藤原氏の祖である中臣鎌足(なかとみのかまたり)と協力して、巨大勢力となった豪族蘇我氏を倒し、天皇中心の政権をつくろうとしたものです。 その行動はやがて実を結び、即位した天智天皇は日本の国家の礎を築きました。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。 夏になると白い衣服を乾すと聞いている天の香具山に白い衣服が干してあるわ。 初夏の緑あふれる山に、真っ白な衣服がひるがえっている様子が目に浮かびませんか?持統天皇は、宮殿で執務をされていたのでしょうか。 ふと気分転換に外を眺めていると、「あら?衣が乾してあるわ。 もう夏なのね」と思われたのかもしれません。 天の香具山とは、現在の奈良県橿原市にある山です。 耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)とあわせて3つの山がちょうど三角形を描くように並んでいて、飛鳥の昔から、親しまれてきました。 この三角形の真ん中に、持統天皇は都を置かれていましたので、ちょうど山がよく見えたのかもしれませんね。 この和歌は、『万葉集(まんようしゅう)』では「春すぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」と、少し言葉が違っています。 持統天皇は、第1番の歌人であるの娘です。 天智天皇の弟の天武天皇(てんむてんのう)に嫁して皇后となりました。 天武天皇との間に儲けた皇子が若くして亡くなってしまったため、その王子(持統天皇には孫にあたります)が成人して即位できるまで、女帝として即位しました。 いまから1300年以上も前のことです。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。 人麻呂は、とても愛妻家だったそうです。 この和歌は、現代の出張のような仕事で、家を離れなければならないときに詠んだものと考えられています。 仕事先へ向かいながら、「あぁ、今日は奥さんと一緒に寝られないんだなぁ。 寂しいなぁ。 」と考えていたときの気持ちが和歌になったのでしょうか。 あなたのお父さんもこんなことを考えながら、出張に出掛けてるかも知れませんね。 お父さんが帰ってきたら、お母さんに会えて嬉しそうにしていませんか?お父さんが出張に出掛けたら、この和歌を思い出してみてくださいね。 柿本人麻呂は、第2番の歌人であると同じくらいの時代に生きた下級官僚です。 和歌を詠むのがとても上手だったので、天皇や皇族のために和歌を詠んだり、一緒に旅行へ出掛けたときには、和歌を詠んで、座を盛り上げました。 『万葉集』には、450首以上もの作品が残されています。 第4番の歌人であると並んで「山柿(さんし)」と呼ばれ、歌聖として尊敬されています。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。 都の奈良から、遠く静岡まで旅をしてきた赤人は、見晴らしのよい田子の浦に出てみました。 すると、真っ白い雪を降らせた富士山が、それはそれは美しく見えたのでしょう。 その景色の美しさに感動した赤人が思わず詠んだ和歌なのではないでしょうか。 この和歌は、『万葉集』では「田子の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ ふじの高嶺に雪は降りける」とあります。 『万葉集』の方が力強くはっきりした感じですね。 赤人は「すっごく真白だぞ。 」と詠んだのかも知れませんが、百人一首の時代には、「白妙の」と優美な感じが好まれて、変化したのでしょう。 山部赤人は、第2番の歌人である・第3番の歌人であると同じくらいの時代に生きた官僚です。 人麻呂と同じように和歌を詠む才能を愛され、天皇や皇族たちと旅行に出掛けることも多くありました。 人麻呂と並んで「山柿(さんし)」とよばれ歌聖として尊敬されています。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。 秋も深まり、山は紅葉の葉もだいぶ落ちました。 葉が落ちたことによって、木々の黒っぽい幹や枝が見え、地面は赤や黄色に埋め尽くされています。 そんな静かな秋のある一日に、カサッカサッと音がするなか、鹿の鳴く声が、「ケーン」、「ケーン」と澄み渡った空気のなかに、響いてきます。 そんな景色が目に浮かぶような和歌です。 猿丸大夫は、奥山に入っていたのでしょうか?ひとりで散策をしていたのかもしれませんし、多くの同僚とともに景色を愛でながら管弦の宴に参加していたのかもしれません。 ひとりでいるときよりも大勢のなかにいるときの方が、より寂しさを感じることがあると思いますが、猿丸大夫も、ふとそんな気持ちになったのかもしれませんね。 猿丸大夫は、その来歴がまったく記録に残っていない、謎の歌人です。 猿丸は名前、大夫とは神職のひとつで、特に神楽や奉納舞のような芸能で神様にお仕えする職業なのですが、あまりにも正体不明なので、政変で敗れた皇子の世を忍ぶ名前だとか、没落した皇族や有力政治家だった人物が名前を出せないでいる、などと憶測されてきました。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。 そのカササギが天界のような宮殿に掛けた橋に霜が降りているなぁ。 その白さにを見ると、夜がずいぶんと更けたなぁと思う。 奈良時代の昔のことですから、もちろん電気はありません。 霜が降りている様子は見えるようなので、きっと月明かりがあるのでしょう。 冬の夜の静かで冴え渡った景色が目に浮かびませんか? 中納言家持は、本名を大伴家持(おおとものやかもち)といいます。 いまから1350年ほど前の官僚です。 中納言は職名で、奈良時代ではなかなかの高官でした。 大伴氏は、後に貴族のほとんどを占める藤原氏よりもずっと古い家柄でしたが、家持の生きた時代は、藤原氏の勢力に圧され、大伴氏はかつての勢力を失いつつありました。 そんななか、家持は、勤勉に天皇にお仕えし、また和歌を詠むのがとても上手でした。 日本最古の歌集である『万葉集』の編者であると考えられています。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。 あの月は、故郷の奈良の春日にある三笠山にかかっている月と同じなんだろうなぁ。 この和歌は、仲麿がいよいよ日本へ帰国できるというとき、送別会の席で詠んだといわれています。 長く離れていた故郷を思う気持ちがとてもストレートに伝わってきますね。 この後、船が遭難して結局、日本へ帰れずに中国で亡くなったことを思い合わせると、なんとも切ない気持ちになる和歌です。 阿倍仲麿は、仲麻呂とも書きます。 いまから1300年ほど前の官僚です。 若いときから優秀だったので、20歳のときにいまの中国である唐(とう)へ勉強をしに行きました。 当時の中国は、日本よりもずっと文化が進んでいて、多くの優秀な日本人が勉強に行ったのです。 仲麿は中国で一生懸命勉強し、科挙(かきょ)というとても難しい試験に合格して、中国の皇帝にお仕えしました。 35年もの間、中国で勤め、いよいよ日本に帰ろうとしたとき、日本へ向かう船が遭難し、仲麿は再び中国へ戻らなければならなくなりました。 そして、一度も日本に帰ることなく、73歳で中国で亡くなりました。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。 なのに、皆さんは、私が人々とのお付き合いがわずらわしいと思って、そんなところに住んでいると言っているようですね。 いまも昔も噂好きなひとがいたようですね。 根も葉もない噂は気にしないでいられたら気持ちもラクなのだけど、あまりにも本心と違うことを言われたり、あることないことを言われたりすると、少しわずらわしく感じることはありませんか?喜撰法師もきっとそんな気持ちだったのでしょうね。 喜撰法師は、京都のお茶で有名な現在の宇治市に住んでいたお坊さんです。 いまから1200年ほど前の平安時代の初めに生きたひとです。 この第8番の歌ともう一首が伝わるのみで、まったく正体が不明です。 貴族の子息だとか、天皇の出家した後のお名前だとかいわれていますが、詳しいことはわかっていません。 第35番の歌人である紀貫之(きのつらゆき)が選んだ、六人の優れた歌人『六歌仙』のひとりにも選ばれています。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。 桜の花の色が、長雨にあたって、ずいぶんと色あせてしまったのね。 その桜の花の色と同じように、私の美しさもおとろえてしまったわ。 恋愛の悩みなんかに思い悩んで、むだに長雨を眺めながら、ぼんやりと暮らしているうちに・・・。 いまも昔も、女の人の悩みは、恋愛と自分の姿の美しさのようですね。 皆さんが小野小町のように悩む日は、まだまだ先のことでしょうけど、どうか後悔をしない、恋愛と自分磨きをしてくださいね。 小野小町は、いまから1150年ほど前の宮廷女官と考えられています。 昔は、女性の本名や家族関係などは公の記録に残ることが少なかったので、小野小町の本名も伝わっていません。 絶世の美女だったといわれています。 『小倉百人一首』の絵札では、後ろを向いていますよ。 どんなに綺麗だったのか、気になりますね。 第35番の歌人である紀貫之(きのつらゆき)が選んだ、六人の優れた歌人『六歌仙』のひとりにも選ばれています。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。 その名前のとおり「あふさか」(会う坂=逢坂)の関だなぁ。 逢坂の関は、京都の周囲に三箇所あった関所のうちのひとつで、現在の京都府と滋賀県の間あたりにありました。 蝉丸は、この関所の近くに住んで、人々が往来する様子を眺めていたのでしょうか。 それとも、蝉丸自身も関所を行き交ったのでしょうか。 蝉丸は、関所の往来になぞらえて、人間の出会いと別れをも詠っているようです。 皆さんも、小さい頃、仲良く遊んだお友達となんとなく疎遠になったり、幼稚園や小学校が違って、会わなくなったお友達がいるでしょう。 生きていれば、たくさんの新しい出会いがありますが、また多くの別れもあります。 皆さんもいまそばにいるお友達や、そして家族を大事に思って、生きてくださいね。 蝉丸は、いまから1100年ほど前のひとです。 詳しい来歴は伝わっていません。 宇多天皇(うだてんのう)の皇子敦実親王(あつざねしんのう)の家来とも、醍醐天皇(だいごてんのう)の皇子ともいわれています。 また、琵琶の名人だったそうで、盲目の琵琶法師だったとも、逢坂関(おうさかのせき)の関所にいた乞食ともいわれています。 『小倉百人一首』の絵札では、琵琶を持ち、絵によってはお坊さんのようにも見えるので、坊主めくりでは、蝉丸ルールというローカルルールがある地方もあります。 旧仮名遣いは、仮名のとおりに発音しないものがあるので連記します。

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従来の人麻呂像

柿本 人麻呂 百人一首

小倉色紙(蝉丸) 小倉百人一首は、末期から初期にかけて活動した・が選んだ秀歌撰である。 その原型は、ので歌人でもある宇都宮蓮生()の求めに応じて、定家が作成したである。 蓮生は、(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘のの装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。 定家は、のから鎌倉時代のまで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。 小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、の前半と推定される。 成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。 後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。 後期に連歌師のが著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。 に入り、の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。 小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『』がある。 百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた秀歌撰である。 『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1 「との歌が無く、代わりに・・の歌が入っていること、2 の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。 この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。 定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。 室町時代にが広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。 の武将・が配下のに暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房がに伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。 小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。 『百人一首』の歌と歌人たち [ ] 百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。 この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。 内は漢字の読みを示す。 歌一覧 番号 詠み人 歌 1. 秋(あき)の田(た)の かりほの庵(いほ)の とまをあらみ わが衣手(ころもで)は 露(つゆ)にぬれつつ 2. 春(はる)すぎて 夏(なつ)きにけらし 白妙(しろたへ)の 衣(ころも)干(ほ)すてふ 天(あま)のかぐ山(やま) 3. 足曳(あしびき)の 山鳥(やまどり)の尾(を)の しだり尾(を)の 長々(ながなが)し夜(よ)を獨(ひと)り かも寝(ね)む 4. 田子(たご)の浦(うら)に うち出(い)でて見(み)れば 白妙(しろたへ)の 富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ 5. 奥山(おくやま)に 紅葉(もみぢ)踏(ふ)み分(わ)け 鳴(な)く鹿(しか)の 聲(こゑ)きく時(とき)ぞ 秋(あき)はかなしき 6. 鵲(かささぎ)の 渡(わた)せる橋(はし)に おく霜(しも)の 白(しろ)きを見(み)れば 夜(よ)ぞ更(ふ)けにける 7. 天(あま)の原(はら) ふりさけ見(み)れば 春日(かすが)なる 三笠(みかさ)の山(やま)に 出(い)でし月(つき)かも 8. わが庵(いほ)は 都(みやこ)のたつみ しかぞ住(す)む 世(よ)をうぢ山(やま)と 人(ひと)はいふなり 9. 花(はな)の色(いろ)は 移(うつ)りにけりな いたづらに わが身(み)世(よ)にふる ながめせしまに 10. 是(こ)れやこの 行(ゆ)くもかへるも 別(わか)れては 知(し)るもしらぬも 逢坂(あふさか)の關(せき) 11. わたのはら 八十島(やそしま)かけて こぎ出(い)でぬと 人(ひと)には告(つ)げよ あまの釣船(つりぶね) 12. 天津風(あまつかぜ) 雲(くも)の通路(かよひぢ) ふきとぢよ をとめの姿(すがた) しばしとどめむ 13. 筑波嶺(つくばね)の みねより落(お)つる みなの川(がは) 戀(こひ)ぞつもりて 淵(ふち)となりぬる 14. 陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)故(ゆゑ)に 亂(みだ)れそめにし われならなくに 15. 君(きみ)がため はるの野(の)に出(い)でて 若菜(わかな)つむ わが衣手(ころもで)に 雪(ゆき)はふりつつ 16. 立(たち)別(わか)れ いなばの山(やま)の 峯(みね)に生(お)ふる まつとしきかば 今(いま)かへりこむ 17. 千早(ちはや)振(ぶ)る 神代(かみよ)もきかず 竜田川(たつたがは) から紅(くれなゐ)に 水(みづ)くくるとは 18. 住(すみ)の江(え)の 岸(きし)に寄(よ)る波(なみ) よるさへや 夢(ゆめ)の通(かよ)ひ路(ぢ) 人(ひと)めよくらむ 19. 難波(なには)がた 短(みじか)き蘆(あし)の ふしの間(ま)も 逢(あ)はで此世(このよ)を すぐしてよとや 20. 佗(わび)ぬれば 今(いま)はたおなじ なにはなる みをつくしても あはむとぞ思(おも)ふ 21. 今(いま)来(こ)むと いひしばかりに 長月(ながつき)の 有明(ありあけ)の月(つき)を 待(まち)出(い)でつるかな 22. 吹(ふ)くからに 秋(あき)の草木(くさき)の しをるれば むべ山風(やまかぜ)を 嵐(あらし)と云(い)ふらむ 23. 月(つき)見(み)れば 千々(ちぢ)に物(もの)こそ 悲(かな)しけれ わが身(み)一(ひと)つの 秋(あき)にはあらねど 24. 此(こ)の度(たび)は ぬさも取(とり)あへず 手向山(たむけやま) 紅葉(もみぢ)のにしき 神(かみ)のまにまに 25. 名(な)にしおはば 逢坂山(あふさかやま)の さねかづら 人(ひと)に知(し)られで くるよしもがな 26. 小倉山(をぐらやま) 峯(みね)のもみぢ葉(ば) 心(こころ)あらば 今(いま)一度(ひとたび)の みゆきまたなむ 27. みかの原(はら) わきてながるる いづみ川(がは) いつみきとてか 戀(こひ)しかるらむ 28. 山里(やまざと)は 冬(ふゆ)ぞ寂(さび)しさ まさりける 人(ひと)めも草(くさ)も かれぬと思(おも)へば 29. 心(こころ)あてに をらばやをらむ はつしもの 置(お)きまどはせる 白菊(しらぎく)のはな 30. 有明(ありあけ)の つれなく見(み)えし 別(わか)れより 暁(あかつき)ばかり うきものはなし 31. 朝(あさ)ぼらけ 有明(ありあけ)の月(つき)と 見(み)るまでに よしのの里(さと)に 降(ふ)れる白雪(しらゆき) 32. 山川(やまがは)に 風(かぜ)のかけたる 栅(しがらみ)は 流(なが)れもあへぬ 紅葉(もみぢ)なりけり 33. 久方(ひさかた)の 光(ひかり)のどけき 春(はる)の日(ひ)に しづ心(こころ)なく 花(はな)の散(ち)るらむ 34. 誰(たれ)をかも しる人(ひと)にせむ 高砂(たかさご)の 松(まつ)も昔(むかし)の 友(とも)ならなくに 35. 人(ひと)はいさ 心(こころ)も知(し)らず ふるさとは 花(はな)ぞ昔(むかし)の 香(か)に匂(にほ)ひける 36. 夏(なつ)の夜(よ)は まだ宵(よひ)ながら 明(あ)けぬるを 雲(くも)のいづこに 月(つき)やどるらむ 37. 白露(しらつゆ)に 風(かぜ)の吹(ふ)きしく 秋(あき)の野(の)は つらぬきとめぬ 玉(たま)ぞ散(ち)りける 38. 忘(わす)らるる 身(み)をば思(おも)はず ちかひてし 人(ひと)の命(いのち)の をしくもあるかな 39. 浅(あさ)ぢふの をのの篠原(しのはら) しのぶれど あまりてなどか 人(ひと)の戀(こひ)しき 40. 忍(しの)ぶれど 色(いろ)に出(い)でにけり わが戀(こひ)は 物(もの)や思(おも)ふと 人(ひと)の問(と)ふまで 41. 戀(こひ)すてふ わが名(な)はまだき たちにけり 人(ひと)知(し)れずこそ 思(おも)ひそめしか 42. 契(ちぎ)りきな かたみに袖(そで)を しぼりつつ すゑの松山(まつやま) 波(なみ)こさじとは 43. 逢(あひ)見(み)ての 後(のち)の心(こころ)に くらぶれば 昔(むかし)は物(もの)を 思(おも)はざりけり 44. 逢(あ)ふことの 絶(た)えてしなくば なかなかに 人(ひと)をも身(み)をも 恨(うら)みざらまし 45. 哀(あはれ)とも いふべき人(ひと)は おもほえで 身(み)のいたづらに なりぬべきかな 46. 由良(ゆら)の門(と)を わたる舟人(ふなびと) かぢをたえ ゆくへも知(し)らぬ 戀(こひ)の道(みち)かな 47. 八重葎(やへむぐら) しげれる宿(やど)の さびしきに 人(ひと)こそ見(み)えね 秋(あき)は來(き)にけり 48. 風(かぜ)をいたみ 岩(いは)うつ波(なみ)の おのれのみ くだけて物(もの)を 思(おも)ふころかな 49. 御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)のたく火(ひ)の 夜(よる)はもえて 晝(ひる)は消(き)えつつ 物(もの)をこそ思(おも)へ 50. 君(きみ)がため 惜(を)しからざりし 命(いのち)さへ ながくもがなと 思(おも)ひけるかな 51. かくとだに えやはいぶきの さしも草(ぐさ) さしも知(し)らじな もゆるおもひを 52. 明(あけ)ぬれば 暮(く)るるものとは 知(し)りながら 猶(なほ)恨(うら)めしき 朝(あさ)ぼらけかな 53. なげきつつ 獨(ひと)りぬる夜(よ)の あくるまは いかに久(ひさ)しき ものとかはしる 54. 忘(わす)れじの 行末(ゆくすゑ)までは かたければ 今日(けふ)をかぎりの 命(いのち)ともがな 55. 瀧(たき)の音(おと)は 絶(た)えて久(ひさ)しく なりぬれど 名(な)こそ流(なが)れて 猶(なほ)聞(き)こえけれ 56. あらざらむ 此世(このよ)の外(ほか)の 思(おも)ひ出(で)に 今ひとたびの 逢(あ)ふ事(こと)もがな 57. 巡(めぐ)りあひて 見(み)しや夫(それ)とも わかぬまに 雲(くも)がくれにし 夜半(よは)の月(つき)かな 58. 有馬山(ありまやま) ゐなの笹原(ささはら) 風(かぜ)ふけば いでそよ人(ひと)を 忘(わす)れやはする 59. 安(やす)らはで 寝(ね)なましものを 小夜(さよ)更(ふ)けて かたぶくまでの 月(つき)を見(み)しかな 60. 大江山(おほえやま) いく野(の)の道(みち)の 遠(とほ)ければ まだ文(ふみ)も見(み)ず 天(あま)のはし立(だて) 61. いにしへの 奈良(なら)の都(みやこ)の 八重櫻(やへざくら) けふ九重(ここのへ)に 匂(にほ)ひぬるかな 62. 夜(よ)をこめて 鳥(とり)の空音(そらね)は はかるとも 世(よ)に逢坂(あふさか)の 關(せき)はゆるさじ 63. 今(いま)はただ 思(おも)ひ絶(た)えなむ とばかりを 人(ひと)づてならで いふよしもがな 64. 朝(あさ)ぼらけ 宇治(うぢ)の川(かは)ぎり たえだえに あらはれ渡(わた)る 瀬々(せぜ)のあじろぎ 65. 恨(うら)みわび ほさぬ袖(そで)だに あるものを 戀(こひ)に朽(く)ちなむ 名(な)こそをしけれ 66. もろともに あはれと思(おも)へ 山櫻(やまざくら) 花(はな)より外(ほか)に 知(し)る人(ひと)もなし 67. 春(はる)の夜(よ)の 夢(ゆめ)ばかりなる 手枕(たまくら)に かひなく立(た)たむ 名(な)こそをしけれ 68. 心(こころ)にも あらでうき世(よ)に 長(なが)らへば 戀(こひ)しかるべき 夜半(よは)の月(つき)かな 69. 嵐(あらし)吹(ふ)く 三室(みむろ)の山(やま)の もみぢ葉(ば)は 龍田(たつた)の川(かは)の にしきなりけり 70. 淋(さび)しさに 宿(やど)を立(た)ち出(い)でて ながむれば いづこも同(おな)じ 秋(あき)のゆふぐれ 71. 夕(ゆふ)されば 門田(かどた)のいなば おとづれて あしのまろやに 秋風(あきかぜ)ぞふく 72. 音(おと)に聞(き)く たかしの濱(はま)の あだ浪(なみ)は かけじや袖(そで)の ぬれもこそすれ 73. 高砂(たかさご)の 尾上(をのへ)の櫻(さくら) 咲(さ)きにけり 外山(とやま)の霞(かすみ) たたずもあらなむ 74. 憂(う)かりける 人(ひと)をはつせの 山(やま)おろしよ はげしかれとは 祈(いの)らぬものを 75. 契(ちぎ)りおきし させもが露(つゆ)を 命(いのち)にて あはれ今年(ことし)の 秋(あき)もいぬめり 76. 和田(わた)の原(はら) こぎ出(い)でて見(み)れば 久方(ひさかた)の 雲(くも)ゐにまがふ 沖津(おきつ)白(しら)なみ 77. 瀬(せ)をはやみ 岩(いは)にせかるる 瀧川(たきがは)の われても末(すゑ)に あはむとぞ思(おも)ふ 78. 淡路島(あはぢしま) かよふ千鳥(ちどり)の 鳴(な)く聲(こゑ)に いく夜(よ)ねざめぬ 須磨(すま)の關守(せきもり) 79. 秋風(あきかぜ)に 棚引(たなび)く雲(くも)の 絶間(たえま)より もれ出(い)づる月(つき)の 影(かげ)のさやけさ 80. 長(なが)からむ 心(こころ)もしらず 黒髪(くろかみ)の みだれて今朝(けさ)は ものをこそ思(おも)へ 81. ほととぎす なきつる方(かた)を ながむれば ただ有明(ありあけ)の 月(つき)ぞ残(のこ)れる 82. 思(おも)ひわび さても命(いのち)は ある物(もの)を うきにたへぬは 涙(なみだ)なりけり 83. 世(よ)の中(なか)よ 道(みち)こそなけれ 思(おも)ひ入(い)る 山(やま)の奥(おく)にも 鹿(しか)ぞなくなる 84. 永(なが)らへば また此頃(このごろ)や しのばれむ うしと見(み)し世(よ)ぞ 今(いま)は戀(こひ)しき 85. 夜(よ)もすがら 物(もの)思(おも)ふころは 明(あ)けやらで 閨(ねや)の隙(ひま)さへ つれなかりけり 86. 嘆(なげ)けとて 月(つき)やはものを 思(おも)はする かこち顔(がほ)なる わが涙(なみだ)かな 87. 村雨(むらさめ)の 露(つゆ)もまだひぬ まきの葉(は)に 霧(きり)たちのぼる 秋(あき)の夕(ゆふ)ぐれ 88. 難波江(なにはえ)の 蘆(あし)のかり寝(ね)の ひと夜(よ)ゆゑ 身(み)を盡(つくし)てや 戀(こひ)わたるべき 89. 玉(たま)の緒(を)よ たえなばたえね 永(なが)らへば 忍(しの)ぶる事(こと)の よわりもぞする 90. 見(み)せばやな 雄島(をじま)のあまの 袖(そで)だにも 濡(ぬ)れにぞぬれし 色(いろ)はかはらず 91. きりぎりす なくや霜夜(しもよ)の さむしろに 衣(ころも)かたしき 獨(ひと)りかもねむ 92. わがそでは 潮干(しほひ)に見(み)えぬ 沖(おき)の石(いし)の 人(ひと)こそしらね かわく間(ま)もなし 93. 世(よ)の中(なか)は 常(つね)にもがもな 渚(なぎさ)漕(こ)ぐ 海士(あま)の小舟(をぶね)の 綱(つな)でかなしも 94. みよし野(の)の 山(やま)の秋風(あきかぜ) 小夜(さよ)更(ふ)けて ふる郷(さと)さむく 衣(ころも)うつなり 95. おほけなく 浮世(うきよ)の民(たみ)に おほふかな わがたつ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖(そで) 96. 花(はな)さそふ 嵐(あらし)の庭(には)の 雪(ゆき)ならで ふりゆくものは わが身(み)なりけり 97. 來(こ)ぬ人(ひと)を まつほの浦(うら)の 夕(ゆふ)なぎに やくや藻塩(もしほ)の 身(み)もこがれつつ 98. 風(かぜ)そよぐ ならの小川(をがは)の 夕暮(ゆふぐれ)は みそぎぞ夏(なつ)の しるしなりける 99. 人(ひと)もをし 人(ひと)も恨(うら)めし 味氣(あぢき)なく 世(よ)を思(おも)ふ故(ゆゑ)に 物(もの)おもふ身(み)は 100. 百敷(ももしき)や 古(ふる)き軒端(のきば)の しのぶにも 猶(なほ)あまりある 昔(むかし)なりけり 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。 男性の内訳は、7名、1名、28名(うち4名、1名)、下級貴族28名、12名、詳細不明3名。 また女性の内訳は、天皇1名、1名、女房17名、公卿の母2名となっている。 歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。 100首はいずれも『』『』などのに収載されるから選ばれている。 万葉の歌人 『』の時代はまだおおらかで、身分の差にこだわらずに天皇、貴族、、農民などあらゆる階層の者の歌が収められている。 自分の心を偽らずに詠むところが特徴。 有名な歌人は、、、など。 六歌仙の時代 この時代になると、や、などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。 選者のが「」と呼んだ、やなどが代表的な歌人である。 女流歌人の全盛 の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。 文学の世界では、女性の活躍が目ざましくが『』、が『』を書いた。 『百人一首』にはそのほかにも、、、、、といった宮廷の才女の歌が載っている。 隠者と武士の登場 貴族中心のから、が支配するへと移る激動の世情の中で、を心の支えにする者が増えた。 『百人一首』もそうした時代を反映し、やなどのも登場する。 自身も撰者となった『』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。 用途 [ ] 下の句かるた。 『百人一首』は現在では歌集としてよりも、としての方が知名度が高く、特にの風物詩としてなじみが深い。 『百人一首』のかるたは 歌がるたとも呼ばれ、現在では一般に以下のような形態を持つ。 百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。 札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。 読み札の表面にはふうのの(これは歌仙などを模した意匠が多い)と作者の名、和歌が記されており、取り札には全て書きでだけが書かれている。 読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。 かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である、、で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。 までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。 これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。 また、現在でもでは、「」というやや特殊な百人一首が行われている。 この「下の句かるた」に用いられるかるたでは、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてある。 江戸期の面影を残したかるたであると言える。 21世紀においては、にされた百人一首によるかるた大会も行われている。 歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由がある訳ではない。 元々は様々な折に子供や若者が集まって遊ぶ際、百人一首がよく用いられたことによるものである。 その中でも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことを許されていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。 首を用いたかるたの遊び方には以下のようなものがある。 散らし取り(お散らし) [ ] 古くから行われた遊びかたのひとつで、以下のようなルールに従う。 読み手を選ぶ(普通は一人)。 読み札をまとめて読み手に渡し、取り札は百枚すべてを畳の上などに散らして並べる。 取り手は何人でもOK。 みなで取り札のまわりを囲む。 このとき不平等にならないように、取り札の頭はそれぞればらばらな方を向いているようにならなければならない。 読み手が読み札を適当に混ぜてから、札の順に歌を読み上げる。 歌が読み始められたら、取り手は取り札を探して取ってかまわない。 ある文字まで読まれればその札だと確定できるという文字をといい、決まり字の把握が札を取る早さを左右する。 同時に何人もが同じ札を押さえた場合には、手が一番下にある人がこれを取る権利を持つ。 間違った札を取った場合(お手つき)には何らかの罰則が行われるが、源平のようにしっかりとした決まりごとはない。 百枚目を取ったところで終了。 最も多くの札を取った人が勝ちである。 本来は読み札には上の句しか書いてなかったために、この遊び方は百人一首を覚えるうえでも、札の取り合いとしても、それなりの意味があった。 現在では読み札に一首全てが書かれているため、本来の意図は見失われている。 ただし大人数で同時に遊ぶためには都合の良い遊び方で、かつてのかるた会などではたいていこの方法を用いていた。 お散らしに限らず、江戸時代までは読み手は作者の名前から順に読み上げ、上の句が終わったところで読むことを止めるのが常であったようだ。 現在では作者名を省き、最後まで読んでしまう(なかなか取り手が取れない場合には下の句を繰り返す)。 読み方に関しては上の句と下の句の間で、間をもたせすぎるのは良くないとされるが、本来の遊び方からすればナンセンスな問題とも言える。 逆さまかるた [ ] 本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。 このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。 もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札にはが混じるため視覚からくる思わぬなども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。 源平合戦 [ ] 源平とはとのこと。 二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。 散らし取り同様に絵札と字札を分け、読み手を一人選ぶ。 百枚の字札を五十枚ずつに分け、それぞれのチームに渡す。 両チームはそれを3段に整列して並べる。 散らし取り同様に読まれた首の字札を取る。 この時、相手のチームの札を取った時は、自分のチームの札を一枚相手チームに渡す。 これを「送り札」という。 先に札のなくなったチームの勝ちとなる。 で行われる大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。 リレーかるた [ ] 源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。 交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。 競技かるた [ ] 詳細は「」を参照 一般社団法人の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。 毎年1月の上旬ににあるでが開催される。 名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。 で毎年生中継される。 また、7月下旬にはが行われている。 そのほか、全国各地で色々な大会が開催されている。 取り札を半分の五十枚しか用いないことが特徴である(ただし読み札は百首すべて読まれる)。 その他 [ ] 首を読まず、絵柄を利用した遊びもある。 坊主めくり [ ] 使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。 百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。 多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。 男性が描かれた札を引いた場合は、そのまま自分の手札とする。 坊主(「ハゲ」と呼ぶこともまれにある)の描かれた札を引いた場合には、引いた人の手元の札を全て山札の横に置く。 女性の札(姫)を引いた場合には、引いた人がそれまでに山札の横に置かれていた札を全てもらう。 の札を引いた場合、引いた人は一回休み。 裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。 このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。 様々な地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。 山札の数が1束のみのルールや複数の束に分割するルールがある。 山札の横に札が無い場合に、姫を引いた場合はもう1枚札をめくることができる。 天皇札(台座に縞模様がある札)を引いた際には、数枚引ける。 天皇を引いた際には、山札とその横の札を除き、すべての札が引いた人の手札となる。 段に人が乗っている札を引いた際、もう一枚めくることができる。 蝉丸が出た場合、全員の札を供託に置く。 蝉丸も坊主扱い。 坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでない。 の文献には現われないことから、以降に成立したものと考えられている。 青冠 [ ] 詳細は「」を参照 読み札のみを使用し取り札は使用しない。 4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。 書かれた絵柄で、青冠(あおかんむり)、縦、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。 ただし、天智天皇と持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、持統天皇は天智天皇以外の全ての札に勝つが天智天皇には負ける。 その他の札はどちらにも負ける。 絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。 100枚の札を4人に25枚ずつ全て配る。 最初の人を決めその人が右隣の人に対して1枚手札から出す。 出された人は、出された札に対し受けられる札で受けるか、受けられる札を持ってないもしくは持ってても出したくない場合はパスをする。 同じ種類の絵柄の札か、出された札に勝つ札(天智天皇もしくは持統天皇)であれば受けることができる。 なお、持統天皇は天智天皇のみで受けられ、天智天皇はどの札でも受けられない。 受けた場合は受けた人が、パスをした場合はした人の右隣の人、つまり最初に出した人の向かい側の人が、自分の右隣の人に対して1枚手札から出す。 以下同様に続けていく。 この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。 これを何回か行い勝敗を決める。 銀行 [ ] 「銀行」は1950~60年代まで、各地方で盛んに行われた子供、あるいは大人も入れた家族の遊びで 、和歌は使わず、文字札は1、冠の札は10、姫の札は50、弓持ちの札(2枚ある)は150、烏帽子の札は300、坊主は400、台付き札(天皇と皇族)は500、の札は最高位の1,000の価値があると見なす。 遊び手の一人が「銀行」となり、4・5枚の札を伏せて置いたあと、その他の遊び手はあらかじめ一定額を貰った札の一部を銀行が置いた札の前に置いて賭けて、銀行が「空(あ)きの方(かた)は」などといいながら札を開けた時に、銀行の札の点数が多ければ没収されて、点数が同じなら引き分け、点数が少なければその他の遊び手に利子として支払いをする。 (空きの方が坊主で負けたら2倍、坊主だったら3倍も銀行に取られるなどの細かいルールもある。 )手持ちの札の点数が多い人の勝ちで、また銀行に点数が集まり過ぎた時には、銀行はわざと少ない点数の札を置いて、負けてやって、ゲームを続ける。 異種百人一首 [ ] 小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。 以下に代表的なものを挙げる。 『』 撰。 小倉百人一首に採られなかった歌人の作を選定しているが、91番「従二位成忠女」は小倉の54番・儀同三司母()と同一人物というミスが起こっている。 また、79首目の歌はの歌となっているが、実際にはの歌である。 その他、『』に見えるも64番に入首(百人秀歌とは別の歌)している。 『』 同名の物が複数ある。 半ばの成立と見られている。 からにかけての武人による和歌を採録。 6年(1666年)刊。 の撰とされるが、本自体にはその旨の記述はなく、後にが『群書一覧』で比定したものである。 また寛文12年(1672年)、の挿絵、和歌はの筆で再刊された。 菱川師宣の署名した絵入り本の最初とされ、絵師菱川吉兵衛と署名されている。 5年(1858年)刊。 賞月堂主人の著。 のものと比べると、23人が別人の歌に置き換えられている。 42年(1909年)刊。 神代から幕末までの武将・大名・夫人等の和歌を採録。 『』 成立。 室町時代から江戸中期にかけての武将・大名による和歌を採録している。 『』 初頭に成立。 序文によればの撰、中院関白顕実の補作とするが、後者の存在が疑わしいため成立年代は未定である。 勅撰集だけでなく、『』などの私撰集からも採録しているのが特徴。 『』 10年(1839年)刊。 『』に登場する人物のを採録しているが、その数は123人。 肖像を入れ、人物略伝、和歌の略注をのせる。 和歌は、絵はの筆。 『』 天保15年(1844年)刊。 から室町期までの武人の和歌を採録。 『』 弘化4年(1847年)刊。 緑亭川柳撰。 英雄百人一首に対し、著名な女性の和歌を採録。 『』 2年(1849年)刊。 緑亭川柳撰。 英雄百人一首の続編で、平安からまでの武将・大名の和歌を採録。 『』 嘉永3年(1850年)刊。 緑亭川柳撰。 平安から江戸初期までの武将やその夫人等の和歌を採録。 『』 嘉永4年(1851年)成立。 ・の女流歌人のを採録。 『』 明治7年(1874年)刊。 の等の和歌を採録。 『』 中の17年(1942年)に選定・発表された。 恋歌の多い小倉百人一首に代わって「愛国の精神が表現された」名歌を採録。 『』 平成14年(2002年)刊。 小倉百人一首、愛国百人一首と重複しないように和歌を採録。 から、から新かなづかいで出版という企画が巧妙。 『』 平成24年(2012年)刊。 小倉百人一首、愛国百人一首、平成新選百人一首と重複しないように和歌を、一選者一歌人で101首採録。 当初は寄贈だけで、販売せず。 小倉百人一首関連作品 [ ] 音楽 [ ]• 『』(・) 作曲、手付。 百人一首より衣を詠んだ歌五種を選び、四季の順に配した地歌の大曲。 「石川の三つもの」(三大名曲)の一つ。 『』(箏曲・曲) 作曲。 後唄に「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に・・・」が採られている。 『』(邦楽) 作詞、作曲。 歌詞の一部に「こひしかるべき」「神のまにまに」「わがなみだかな」の3フレーズが入っている。 『』(邦楽) 作詞、作曲。 歌詞の一部に「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ・・・」の歌が入っている。 by ラジオCM『百人一首篇』(全4曲)中島光一作曲、歌。 2010年5月より放送。 全歌詞が百人一首の歌からなる。 『』(邦楽)作詞、作曲、歌。 メンバーが一首ずつ選び各々その意味をラップ調で歌っている。 歌曲集『小倉百人一首』。 作曲家・による100曲の歌集。 弦楽四重奏版、ピアノ版、オーケストラ版がある。 『和歌うた 小倉百人一首 』 小説 [ ]• 『』(第2作目、)• 『歌枕殺人事件』(、)• 『』(1作目、講談社) 漫画 [ ]• 作画 、工藤治 原作 『あやかし歌姫かるた』• 『』 、2008年3月~5月• 『』 連載中• 『』 アニメ映画 [ ]• (2017年) 映画 [ ]• (2016年3月)• ちはやふる -下の句- (2016年4月)• ちはやふる -結び- (2018年) 落語 [ ]• ゲーム [ ] ここでは、を用いるゲームのみを扱う。 ( )• ( )• テレビ番組 [ ]• (坊主めくりが出てくる) テレビドラマ [ ]• (2003年、)• (2008年、)• (2010年、NHK総合) 検定 [ ]• 『小倉検定問題集』 編 評論・解説 [ ]• 『絢爛たる暗号 百人一首の謎を解く』 文庫 序文にが「なぜ類似の歌が多いのか。 なぜ駄作・愚作の歌を、一世の大歌人・定家ともあろう人が採録したのか。 織田さんは素人の素朴な疑問と直観を大事にして、その謎に挑戦していった」と書いた通りの、百人一首解説本。 著者本人も「百首解読といういささかの吉報を七百年後に持ちこした」(あとがきより)と、歴史的事業であると自負する。 新しい解釈の中心をなすのは、収録歌がそれぞれ言葉の類似性および縁語的使用と、意味上の正連鎖(類義語)・逆連鎖(対義語)という二つの相関関係を縦横の軸とする二次元的な構造に再構成できるという主張である。 ゆえに、選歌の基準はそれらの構造上の必然性に基づいてなければならず、従来の「一首ずつ鑑賞するための詞華集」という暗黙の前提は的外れであると批判する。 この説を支持するために、同じ定家の選による「百人秀歌」および「新古今集」と「百人一首」との対応関係、および定家と後鳥羽上皇との関係を新たに指摘する。 翻訳書 [ ]• 『スペイン語で詠う小倉百人一首 Cien Poetas, Un Poema Cada Uno, Ogura Hyakunin Isshu 』 訳、エレナ・ガジェゴ・アンドラーダ監修、2016年、大盛堂書房(日西対訳版、日西音声CD付)。 脚注 [ ] []• による。 定家の日記『』の2年5月27日(1235年6月14日)の条には、「古来の人の歌各一首」を書き送った旨の記述がある。 ただし、この時に書き送った物が『百人一首』であったとする確証はない。 『』巻一・二十八歌では『春過而 夏来良思 白妙之 衣乾有 天香具山』で、「夏(なつ)来(き)たるらし」(来たようだ)と「現在形」になっているが、『』は「夏(なつ)来(き)にけらし」で「過去完了」の「推量」に転じている。 『』巻一・二十八歌では、「衣(ころも)干(ほ)したり」(干してある)と「断定」になっており、「衣(ころも)干(ほ)すてふ」(干すと聞く)の「伝聞」の意味に『』までに変じたとされる。 『万葉集』巻三・三百十七歌には「田児の浦ゆうち出て見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける」とある。 柿本人麻呂、猿丸大夫、蝉丸の3名。 また、僧侶の内に入っている喜撰法師も経歴・出自が一切不明である。 宗政五十緒著「新編小倉百人一首 日本古典のこころ」中央図書• 『日本経済新聞』朝刊2018年4月20日(文化面)• 2015年10月26日. 2015年11月16日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキソースに の原文があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 (小倉百人一首文化財団が運営するテーマパーク)• (『新々百人一首』を上梓)• (百人一首の研究者、共通した札ごとに並べると風景をイメージさせる事に気づいた)• (創立当初、劇団員の芸名は百人一首にちなんだ名がつけられていた)• 外部リンク [ ]•

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英語で百人一首 第三首「あしびきの…」柿本人麻呂

柿本 人麻呂 百人一首

仮に名もない番人(たぶん農民でしょう)が歌った歌としましょう。 天智天皇が 668年2月から671年にご即位されてますから、その時代の農民たちです。 そんな時代背景を踏まえてこの一番歌を読み返してみましょう。 詠み人解説 詠み人:第38代天皇 天智天皇(てんぢてんのう) 在位期間:668年2月20日-671年1月7日• 即位前の名は 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ• 中臣鎌足と一緒に蘇我氏を滅ぼした人物• 日本で初めて 元号を用いた天皇様 天智天皇と大化の改新 聖徳太子(しょうとくたいし)の死後、 天皇中心の政治体制が 蘇我入鹿 (そがのいるか)によって崩されます。 天皇をないがしろにした政治を行っていく 蘇我入鹿をみて、 その政治体制を危ういと考えていた 中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに、 蘇我氏を滅ぼし、天皇中心の政治体制を取り戻します。 中大兄皇子は天智天皇として即位された際に 「大化」と はじめて 元号を定めました。 その他、天皇中心とした様々な政治改革を行われたそうです。 その政治改革が後に 「大化の改新」と呼ばれるようになりました。

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