古関 裕 而 栄冠 は 君 に 輝く。 古関裕而

古関裕而氏の代表曲

古関 裕 而 栄冠 は 君 に 輝く

概要 [ ] に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、青年期にはに師事。 に主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品としてノミネート。 これを日本の新聞で「 チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、それを機会にの推挙で東京の楽壇に進出。 クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの・や、の作曲を手掛け、の「」、「」、の「」、・の「」などを発表した。 戦後は、「」や、の「」、の「」、伊藤久男の「」、の「」、の「」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。 他方で、第一応援歌「」、応援歌「我ぞ覇者」、応援歌「あゝ中央の若き日に」、応援歌「カレッジソング」、応援歌「真澄の空に」、応援歌「」、 の大会歌「」、の球団歌「」、の球団歌「」、の初代球団歌「」、の「オリンピック・マーチ」、スポーツ中継テーマ「」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手掛け、 和製と呼ばれた。 巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関はスポーツにはあまり興味はなく球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた。 また母校である福島商業高等学校の校歌を作曲している。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。 父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。 古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。 同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。 (大正5年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校(現)へ入学した。 担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。 古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販のなどを買い求めるようになった。 ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って古関に作曲を依頼してくるようになる。 こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。 青少年期 [ ] (大正11年)、旧制福島商業学校(現)に入学した。 同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。 妹尾楽譜や著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。 初めて自分の作品が披露された出来事であった。 しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った。 学校を卒業する頃、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。 古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。 ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。 傾倒したのは、の『』との『』、、などである。 このレコードコンサートには頻繁に通っていたという。 1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現川俣支店)に勤務した。 町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた。 この頃、学生時代から憧れていたの事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。 古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。 福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現)の記念番組に出演する。 この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していたに師事することになった。 金須はで、正教のを学ぶため前のの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフからを学んでいた。 コロムビア専属へ [ ] (昭和4年)、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等入賞を果たす。 これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、(昭和5年)1月23日ので大々的に報道されている。 ただし、これは主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある。 日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのはの「やまとの声 」である。 『竹取物語』は、色彩的で斬新ながなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。 この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で在住 の(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も約100通に及ぶ熱烈な文通を経て1930年6月、古関20歳、金子18歳で結婚。 古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。 この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。 『竹取物語』の所在も知れないという。 同年9月、の顧問の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。 東京ではに師事した。 菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関にはよりも才能があったと、後年まで称賛している。 師と仰いだ菅原明朗のほかに、とも親交が厚かった。 しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。 コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。 古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、それは叶わなかった。 東京に移ってからのオーケストラ作品には、を描いた交響詩『大地の反逆』がある。 これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。 また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。 (昭和10年)、古関が26歳の頃、調の「船頭可愛や」(詩:、唄:)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。 この歌は世界の舞台でも活躍した・もレコードに吹き込んだ。 この頃、声楽家志望だった妻の金子はへ進んでいた。 金子は後に声楽家の(よしこ)及びその師のノタル・ジャコモの教えを受けた。 また同時期に古関は同郷のと交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。 戦中から戦後 [ ] 1955年 戦時中の古関は数々の名作を発表した。 古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「」「」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。 戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。 古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「」に結びついたと証言している。 また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。 戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「」。 戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『』の主題歌「」。 戦後日本の発展の象徴でもある開催のの開会式に鳴り響いた「」。 現在も毎年に流れている高校野球大会歌「」。 その他にも「」「」「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。 また、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。 の美しい音色と格調のあるの唱法を基礎にした「クルーン唱法」で歌唱する、叙情溢れるリリックなで熱唱するなどの歌手にも恵まれた。 のと名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、のヒット作品を世に送り出した。 に菊田と手がけた主演の『』は長期公演舞台となった。 また、戦後の古関は、の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。 また、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組に出演。 ラジオドラマ『』では放送中に、スタジオにオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め、他の番組でも時折生演奏を行った。 晩年と死後 [ ] 系の音楽番組『』の審査員を、10月の放送開始から初代司会者のとともにに降板するまで務めていた。 、「」制定30周年を記念しての開会式に招待された。 大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したという。 また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。 1979年には最初の福島市名誉市民に選ばれ 、同地には11月12日に「」も建てられている。 しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。 の誕生日を迎えて1週間足らずの(平成元年)午後9時30分、古関はのためで没した(享年80歳)。 古関の没後、の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。 その理由について、古関の長男は「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている。 4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。 在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。 同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の東口駅前広場に設置された。 制作・施工費は約1500万円。 30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。 夏以降、出生地などで「」入りを応援する動きが活発になっている。 春から、NHKとして、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とする『』が、の主演で放送されている。 家族 [ ]• 妻・金子との間に2女1男• 娘2人は戦前の生まれ。 終戦間際に娘2人を福島県に疎開させ、裕而も一時同居している。 長男・は戦後生まれ。 アマチュア時代ののキーボード担当だったが脱退。 会社員を退職後、祖父の屋号に因んだ女性2人との音楽ユニット「喜多三」を主宰して、伴奏を担当。 父母を回想する新聞雑誌や音楽番組にも協力している。 主な作品 [ ] 戦前 - 戦中期 [ ]• 1931年「 ~応援歌~」(作詞:住治男)• 1931年「福島行進曲」(作詞:、歌:)• 1934年「」(作詞:桑原節次、歌:、)• 1934年「利根の舟唄」(作詞:、歌:)• 1935年「船頭可愛や」(作詞:高橋掬太郎、歌:)• 1935年「応援歌 カレッジソング」(作詞:吉田精一)• 1936年「」(作詞:、歌:)• 1936年「」(作詞:、歌:中野忠晴)• 1936年「を」(作詞:高橋掬太郎、歌:コロムビア合唱団)• 1936年「大島くづし」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1936年「串本そだち」(作詞:西岡水郎、歌:音丸)• 1936年「米山三里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1936年「浜は九十九里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1937年「釜石市民歌」(作詞:広瀬喜志、歌:)• 1937年「田家の雪」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1937年「彈雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)• 1937年「」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、、伊藤久男、、佐々木章)• 1938年「」(作詞:、歌:)• 1938年「婦人愛國の歌」(作詞:仁科春子、歌:霧島昇、)• 1938年「憧れの荒鷲」(作詞:西條八十、歌:ミス・コロムビア、二葉あき子)• 1939年「」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男)• 1939年「荒鷲慕いて」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1940年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1940年「嗚呼」(作詞:、歌:、二葉あき子)• 1941年「」(作詞:海老名正男、歌:伊藤久男、、二葉あき子)• 1941年「宣戦布告」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1941年「皇軍の戦果輝く」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1941年「」(作詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)• 1941年「みんな揃って翼賛だ」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1942年「」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1942年「防空監視の歌」(作詞:、歌:藤山一郎、二葉あき子)• 1942年「大東亞戰争陸軍の歌」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男、、)• 1942年「シンガポール晴れの入城」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1942年「」(作詞:野村俊夫、歌:コロムビア合唱団)• 1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「みなみのつわもの」(報道部選定、歌:伊藤久男)• 1943年「大南方軍の歌」(南方軍制定歌、歌:霧島昇)• 1943年「海を征く歌」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1943年「戰ふ東條首相」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1943年「あの旗を撃て」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)• 1943年「かちどき音頭」(作詞:野村俊夫、歌:佐々木章、松原操、)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、)• 1943年「撃ちてし止まん」(作詞:小田俊與、歌:霧島昇)• 1944年「」(作詞:佐伯孝夫、歌:)• 1944年「制空戰士」(作詞:大木惇夫、歌:波平暁男、酒井弘、奈良光枝)• 1944年「雷撃隊出動の歌」(作詞:、歌:霧島昇、波平暁男)• 1944年「の凱歌」(作詞:サトウハチロー、歌:近江俊郎、朝倉春子)• 1944年「の決戦」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1944年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤武雄、安西愛子、伊藤久男)• 1944年「比島決戦の歌」(作詞:西條八十、歌:酒井弘、朝倉春子)• 1944年「」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響楽団、松竹軽音楽団)• 1945年「特別攻撃隊(斬込隊)」(作詞:、歌:) 戦後 [ ]• 1946年「」(作詞:藤浦洸)• 1946年「々歌」(作詞:土井晩翠)• 1947年「夢淡き東京」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1947年「白鳥の歌」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1947年「雨のオランダ坂」(作詞:、歌:渡辺はま子)• 1947年「三日月娘」(作詞:薮田義雄、歌:藤山一郎)• 1947年「」(作詞:菊田一夫、歌:、)• 1947年「夜更けの街」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:菊田一夫、歌:二葉あき子)• 1948年「」(作詞:西條八十)• 1948年「若き日のエレジー」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1949年「」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1949年「」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、コロムビア合唱団)• 1949年「を讃える野球の歌」(作詞:青木薫、補作:サトウハチロー)• 1950年「別れのワルツ」(「」(日本ではとして知られる)の編曲)• なお、レコードに表示されている「ユージン・コスマン(編曲)」「ユージン・コスマン管弦楽団(演奏)」は本名(古関裕而)をもじって命名された。 1950年「」(作詞:小島情、歌:伊藤久男)• 1950年「薔薇と蜜蜂」(作詞:野村俊夫、歌:二葉あき子)• 1950年「」(作詞:若葉清成、補作:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1951年「恋を呼ぶ歌」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1951年「さくらんぼ大将」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1951年「あこがれの郵便馬車」(作詞:、歌:)• 1951年「の鐘」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1951年「」(作詞:米山治、歌:藤山一郎、)• 1951年「白いランプの灯る道」(作詞:丘灯至夫、歌:)• 1951年「長崎の雨」(作詞:丘灯至夫、歌:藤山一郎)• 1952年「黒百合の歌」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1952年 校歌(作詞:吉田精一)• 1952年「夜船の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:久保幸江)• 1953年「」(作詞:菊田一夫、歌:織井茂子)• 1953年「君いとしき人よ」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1953年「」(作詞:西條八十、歌:伊藤久男)• 1953年「みどりの馬車」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1953年「岬の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1954年「高原列車は行く」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1954年「サロマ湖の歌」(作詞:中山正男、歌:伊藤久男)• 1954年「」(作詞:、補作:西條八十、歌:岡本敦郎、奈良光枝、コロムビア合唱団)• 1954年「数寄屋橋エレジー」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「チャンドラムの夜」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「花のいのちを」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、奈良光枝)• 1954年「百万石音頭」(作詞:、歌:伊藤久男、)• 1954年「福島音頭」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男、)• 1954年「郡山市民の歌」福島県郡山市(作詞:内海久二)• 1954年「忘れ得ぬ人」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1955年「花売馬車」(作詞:西條八十、歌:)• 1956年「メコンの舟歌」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1957年「荷物片手に」(作詞:、歌:)• 1957年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1958年「」(作詞:コスティス・パラマス、作曲:スピロ・サマラス。 第1回時の紛失ピアノ楽譜を発見、採譜・オーケストラ編曲。 古関のオーケストラ譜は現在に至るまで用いられる)• 1958年 茨城県大子町立袋田小学校校歌(作詞:野村俊夫)• 1959年 校歌 「希望羽ばたく」(作詞:門田ゆたか)• 1959年「城南信用金庫の歌」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1960年 隊歌「この国は」(作詞:大関民雄、補作:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊隊歌「君のその手で」(作詞:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊行進歌「聞け堂々の足音を」(作詞:梅津統秋、補作:サトウハチロー)• 1960年「スカイラインの歌」(作詞:野村俊夫、歌:)• 1961年「」(作詞:、、、歌:)• 1961年「夕月」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「あの橋の畔で」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「」(作詞:椿三平、歌:、、)• 1964年「」(演奏:陸上自衛隊中央音楽隊)• 1964年「故郷はいつも瞼に」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1966年「スカーレット・オハラ」(作詞:菊田一夫、歌:那智わたる)• 1968年「」(作詞:藤浦洸)• 1968年 隊歌「」(作詞:山田哲、補作:、歌:藤山一郎)• 1968年「若鷲の歌」(作詞:西條八十、歌:)• 1970年「」テーマソング「決断」(作詞:丘灯至夫、歌:幹和之)• 1970年 陸上自衛隊隊歌「栄光の旗の下に」(作詞:赤堀達郎、補作:)• 1971年「純白の大地(の歌)」(歌:日本合唱協会)• 1977年「」挿入歌「ああ甲子園」(作詞:、編曲:、歌:日唱)• 1979年「若さと英知~社歌」(原案:社内公募、作詞:丘灯至夫、歌:)• 1985年「社歌」(作詞:丘灯至夫、歌:三鷹淳)• 隊歌「海をゆく」(作詞:旧版 - 佐久間正門 現行版 - 松瀬節夫) 映画音楽 [ ] 主題歌のみのものは除く。 1939年「」(監督)• 1944年「」(演出)• 1948年 - 1949年「」3部作(佐々木啓祐監督)• 1950年「」(監督)• 1952年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年 - 1954年「」3部作(大庭秀雄監督)• 1955年「」(監督)• 1957年「」(田中重雄監督)• 1957年「」(監督)• 1958年「」(田中重雄監督)• 1959年「」(本多猪四郎監督)• 1961年「」(監督)• 1961年「」(本多猪四郎監督・特技監督)• 1962年「」(監督) クラシック音楽 [ ]• 交響曲(第1番から第3番の3曲)• ヴァイオリン・チェロのための協奏曲• 五台のピアノのための協奏曲• 一茶の句による小品童曲• 和歌を主題とせる交響楽短詩• 舞踊組曲「竹取物語」• 舞踊詩「線香花火」• 交響詩「大地の反逆」• 管弦楽組曲「戦場の印象」• 室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」 その他 [ ]• 1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「」(演奏:コロムビア・ブラスバンド)• 1950年 NHK「」テーマ曲(作詞:藤浦洸)• 1956年 NHKテレビ「歌の広場」テーマ曲(作詞:丘灯至夫)• 1956年「豊橋市歌」(作詞:辰己利郎、補作詞:丸山薫)• 1961年 「」• 1964年 東京私立「・」第2校歌(作詞:西條八十)• 1970年 テーマソング「わらじ音頭」(作詞:茂木宏哉、補作詞:丘灯至夫、歌:)• 1970年 NHK「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)• NHK「放送開始・終了」テーマ曲• 制定歌「の歌」(作詞:春日紅路、補作詞:西條八十)• 主題歌「みどりの歌」(作詞:中村利春)• 応援歌「ああ中央の若き日に」(中央大学学友会選定歌詞)• 応援歌「紫紺の旗の下に」(作詞:明治大学応援団)• 水上応援歌「水の覇者日大」(作詞:サトウハチロー)• 日大松戸歯学部学生歌(作詞:)• 学歌(作詞:)• 横浜市立大学校歌(作詞:西條八十)• 社歌(作詞:)• 城南信用金庫の歌(作詞:西條八十)1959年• 社歌(作詞:)• 社歌(作詞:布谷真須枝)• 社歌「明日をつくる」(作詞:)• 初代社歌「パイオニアわれら」• 関西電力社歌「呼ぼうよ 雲を」• (ホームソング)• 社歌(作詞:藤浦洸、歌:伊藤久男、安西愛子、コロムビア合唱団)• 松下電器行進曲「月日とともに」(作詞:山田博夫)1951年• 社歌「清くけだかき白鳥の」(作詞:)1961年• 歌(作詞:)• 学園歌「意気と熱(まこと)に」(作詞:)• 山形県北村山郡大石田町町民歌(斎藤茂吉歌集「白き山」より)• 校歌(作詞:白鳥省吾)1950年• 校歌(作詞:柳澤健)• 校歌(作詞:多田利男)• 福島県立平工業高等学校校歌(作詞:土井晩翠)• 校歌(作詞:丘灯至夫)• 校歌(作詞:西條八十)• 日光市立日光中学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:下山つとむ)• 校歌(作詞:)• 大多喜町立大多喜小学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:サトウハチロー)• 東京都世田谷区立経堂小学校校歌(作詞:西條八十)• 東京都大田区立徳持小学校校歌(作詞:野村俊夫)1955年• 東京都板橋区立成増小学校校歌(作詞:和田隆夫)• 校歌(作詞:)• 東京都立工業高等専門学校校歌(作詞:野村俊夫)• 町田市立町田第一小学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:西條八十)• 静岡市立安東中学校校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:船橋久男)• 愛知県西尾市立吉良中学校校歌• 校歌(作詞:高女十二回生)• 校歌(作詞:内藤敏夫)• 京都市立紫竹小学校校歌(作詞:)• 京都市立加茂川中学校校歌(作詞:吉井勇)• 宮津市立宮津中学校校歌(作詞:能勢佐十郎)• 校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:中河与一)• 北九州市立熊西小学校校歌(作詞:)• 大牟田高等学校・中学校校歌 作詞:頓田元穂• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 応援歌(作詞:)• 福岡県立八幡工業高等学校校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 長崎県立小浜高等学校校歌 作詞:宮崎康平• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:西條八十)• 受賞 [ ]• (1952年度)• (1969年)• 福島市名誉市民(1979年)• (1979年)• 特別賞(1979年)• (1987年) 著書 [ ]• 古関正裕『君はるか 古関裕而と金子の恋』、、2020年2月• 結婚前の文通録を書籍化。 ビジュアル本 [ ]• 古関正裕『古関裕而の生涯 傑作メロディーCD付き』、、2020年4月 評伝等 [ ]• 齋藤秀隆『歴春ふくしま文庫67 古関裕而 うた物語』歴史春秋出版 2019年6月 978-4897575940• 『評伝古関裕而 国民音楽樹立への途』彩流社 2012年• 『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』 、2019年11月• 『古関裕而 応援歌の神様 激動の昭和を音楽で勇気づけた男』 2020年2月• 『古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様』 中経の文庫 2020年2月• 『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』 2020年3月• 『古関裕而・金子 その言葉と人生』(古関正裕 監修)宝島社 2020年3月 参考文献 [ ]• 武満徹 02 古関裕而• 古関裕而全集 関連項目 [ ]• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 度重なる古関の「放言癖」 楽器を使わずペンから音楽があふれる等々)から、元からそのような作品群は存在していなかったという説もある。 同名の歌が2曲存在する(現行の2代目の歌は作詞:酒井祐春、作曲:)。 古関本人が書き表した楽譜には「船頭可愛いや」と表記されている。 「」の元歌。 この作品以降、伊藤久男との結びつきが強くなる。 による同名異曲がある。 同名の歌が3曲存在する(2代目の通称「ジャイアンツ・ソング」はの作曲)。 による同名異曲がある。 初めてレコード化されたのはのことである。 「」と同じ曲。 で試聴可能である。 作詞の佐伯、歌の灰田がビクター専属だったので、例外的にビクターから発売された。 伊藤武雄、安西は当初予定された歌手。 レコード番号も用意され3月発売予定と報じられていたが、伊藤久男を迎えて初めてレコード化されたのは戦後のことである。 「戦後にレコードがすべて破棄された」など、曰く因縁のついている戦時歌謡であるが、この曲に予定されていたレコード番号と、その前後の番号がすべて欠番になっていることから、「初めから作られなかったのではないか」という説もある。 楽譜は古関裕而記念館で展示。 また、レーベル原稿等も現存している。 に、の編曲によって、初めて発売された。 に発売された藍川のアルバム「レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」《古関裕而歌曲集2》 」に収録されているものが唯一の音源と思われる。 「」および「」とは別の曲。 ところによっては「メコンの舟唄」という表記もみられる。 による同名異曲がある。 「オリンピック行進曲」と呼ばれることもある。 1943年発表の同曲を西郷輝彦がカバーしたもの。 出典 [ ]• withnews. Withnews. 2020年6月7日閲覧。 フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 1』講談社、2003年。 川俣町. 2020年4月22日閲覧。 twitter. com. twitter. 2020年6月7日閲覧。 www. jscm. net. JSCM. 2020年6月7日閲覧。 当時はまだ。 豊橋への編入は(昭和7年)以降。 「古関裕而(作曲家)」 2019年7月20日放送。 刑部芳則『古関裕而』p140• - 福島市古関裕而記念館、2020年5月28日閲覧。 「若鷹の歌」、「君の名は」、「長崎の鐘」 古関裕而さん死去。 1989年8月19日夕刊15面• NHK生活情報ブログ. NHK 2017年12月28日. 2019年2月28日閲覧。 www. city. fukushima. fukushima. 福島市. 2020年6月14日閲覧。 NIKKEI NET 日本経済新聞社. 2009年8月11日. の2009年8月15日時点におけるアーカイブ。 2019年2月28日閲覧。 東京本社版 2018年• デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2019年2月28日. 2019年2月28日閲覧。 福島民友. 2020年6月2日閲覧。 産経新聞 2014年2月5日. 2020年6月2日閲覧。 2014年10月11日. Extra便. TAP the POP. 2019年2月28日閲覧。 『Fujiya Book』不二家、1990年、61頁。 『AV CREATOR PIONEER 音と光の未来をひらくパイオニア50年史』パイオニア、1988年。 2020年5月1日閲覧。 cms. edu. city. kyoto. 2020年4月13日閲覧。 topics. smt. docomo. NTT DOCOMO. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 外部リンク [ ]• - (英語)•

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古関裕而

古関 裕 而 栄冠 は 君 に 輝く

古関裕而氏の代表曲• 福島行進曲 作詞:野村俊夫(昭和6年) 昭和初期には、全国的に新民謡(いわゆるご当地ソング)が流行。 日本コロムビアの専属作曲家になる前年の昭和4年、福島でも何か作ろうということになり、古関裕而氏が作曲。 故郷に捧げる意図で、昭和6年5月デビューレコードとしてこの曲が発売。 昭和2年に完成し当時の福島のシンボルだった「福ビル」や、福島駅前通りにあった柳並木が歌詞に含まれており、当時の福島が偲ばれます。 福島夜曲(セレナーデ) 作詞:竹久夢二(昭和6年) 古関裕而氏デビュー曲「福島行進曲」のB面としてレコード化。 昭和4年に竹久夢二展が福島市で開催。 竹久夢二氏の「福島夜曲」の詩に深く感動した古関裕而氏が、感興のおもむくまま作曲したもの。 12編あった民謡調の詩から、「吾妻山」「弁天山」「信夫山」の3編を選びます。 当時20歳の古関氏が福島のホテルに滞在中の竹久夢二氏に直接面会し、楽譜を贈呈。 竹久氏も大変喜び、その場で描いた吾妻山のスケッチを古関氏に返礼。 これを期に文通・交流が始まりました。 遠い山河 たずねて来たに 吾妻しぐれて 見えもせず 川をへだてた 弁天山の 松にことづて してたもれ 信夫お山に おびときかけりゃ 松葉ちらしの 伊達模様 ふくしま小唄 作詞:野村俊夫(年代不明) 福島民報社が新しい郷土歌謡を生み出そうと歌詞を公募したものの、一等に該当する作品がなかったため、選者の野村俊夫氏により作詞され、古関裕而氏が作曲を引き受けました。 歌詞には福島の名所(吾妻山・競馬・飯坂温泉・弁天山など)や、名物(さくらんぼ・萱場梨)が盛り込まれ、当時の宴会の席では欠かせない歌だったようです。 福島音頭 作詞:野村俊夫(昭和29年) ラジオ福島・福島民報社が制定した新民謡。 作曲に古関裕而氏、作詞は野村俊夫氏、歌唱を伊藤久男氏と、コロムビアの福島三羽烏に、当時人気のあった神楽坂はん子氏が加わり、盆踊り用のレコードとして発売。 同時に日本コロムビア文藝部によって、音頭の振り付けもおこなわれました。 花のスカイライン 作詞:内海久二 補作:野村俊夫(昭和35年) 昭和34年に開通した「磐梯吾妻スカイライン」を記念して作曲されたもの。 新しい観光スポットとなった吾妻スカイラインは、日活映画「赤い夕陽の渡り鳥」の舞台ともなりました。 福島民友新聞社と福島県によって、「スカイラインの歌」として詞を募集したところ、多くの作品が寄せられ、郡山市の内海久二氏の作品が当選作となり、補作を野村俊夫氏が担当しました。 阿武隈の歌 作詞:若山牧水(昭和41年) 大正5年、東北を旅していた若山牧水が福島を訪れた際に詠んだ歌 つばくらめ ちちと飛び交ひ 阿武隈の 岸の桃のはな 今さかりなり に古関裕而氏が作曲したものです。 若山牧水が来福して50年の節目の年:昭和41年に、有志によって福島市の板倉神社にある阿武隈川畔に歌碑が建立されるのを記念して、古関氏により作曲されました。 除幕式には、古関裕而氏が指揮をとり、岡本敦朗氏が独唱するなど、大々的に催されました。 さらに、昭和45年には、有志により音符を刻んだ「曲碑」が設置されました。 歌人として広く親しまれていた牧水の歌碑は、全国に275基もの歌碑があると言われています(東郷町若山牧水顕彰会調べ)が、楽譜が歌碑に添えられているのは、めずらしいもののようです。 また、福島市市民会館には、福島ライオンズクラブによって建てられた碑があります。 () ふるさとはいつも瞼に 作詞:野村俊夫(昭和39年) 昭和39年に福島市出身の詩人野村俊夫氏が、望郷の思いと母への情愛を切々と詩にしました。 同年は、東京オリンピックが開催された年であり、古関裕而氏作曲の「オリンピック・マーチ」が世界的に注目された頃です。 この曲は、残念なことにレコード化されてはおりません。 わらじ音頭 作詞:茂木宏哉 補作:丘灯至夫(昭和45年) 昭和45年から始まった、福島の夏を彩る風物詩である「福島わらじまつり」の「わらじおどり」の音楽として作曲されたもの。 現在の「福島わらじまつり」は、例年8月初旬に2日間開催されています。 船頭可愛や 作詞:高橋掬太郎(昭和10年) コロムビア専属作曲家としてデビュー以来5年目での初の大ヒット曲。 高橋掬太郎氏の歌詞に日本民謡の旋律を活かしながらも、クラシック調として作曲したもの。 日本歌謡界黎明期の重鎮作曲家:佐々紅華(さっさ こうか)氏や、蝶々夫人が代名詞の三浦環(みうら たまき)氏などからも大絶賛を博しました。 古関氏は自伝で「私は初めて、自分で作曲した曲がどこへいっても流れている喜びを知った。 」と述べております。 露営の歌 作詞:藪内喜一郎(昭和12年) 昭和12年春、古関裕而氏は夫婦で満州旅行に行っていましたが、その帰りの船でコロムビアから「急ぎの作曲があるので上京されたい」との電報がありました。 日本に戻ってから目にした新聞に「進軍の歌」歌詞募集の結果が掲載されていました。 古関氏は東京へ向かう特急の中で、その第2席の歌詞に、満州で見たままの光景が浮かぶなど共感するものがあり、自然と作曲してしまいました。 東京に到着すると、コロムビアの担当者からは、その「進軍の歌」第2席の作曲依頼があり、古関氏も驚く偶然の一致でした。 この曲は「露営の歌」としてレコード化し、大ヒットしました。 前線でも多くの兵士に愛唱され、戦いの疲れや気持ちをどれだけ癒したことでしょう。 京都嵐山に「露営の歌碑」があります。 暁に祈る 作詞:野村俊夫(昭和15年) 愛馬思想普及のために松竹映画「暁に祈る」の主題歌として作曲依頼のあったもの。 作詞に福島市出身の詩人:野村俊夫氏、歌唱に福島県本宮市出身の伊藤久男氏(2010年生誕100年)のコロムビア福島県トリオでの担当となりました。 古関氏の自伝によれば「中支戦線に従軍した経験がそのまま生きて、前線の兵士の心と一体になり、作曲が楽だった。 兵隊の汗にまみれ、労苦を刻んだ日焼けした黒い顔、異郷にあって、故郷を想う心、遠くまで何も知らぬままに運ばれ歩き続ける馬のうるんだ眼、すべては私の眼前に彷彿し、一気呵成に書き上げた」快心の一作。 作詞の野村俊夫氏の死去を悼む友人知人により、福島市の信夫山第一展望台には、「暁に祈る」の歌碑があります。 () 若鷲の歌 作詞:西条八十(昭和18年) 海軍航空隊の予科練習生をテーマとした映画「決戦の大空へ」(東宝)の主題歌。 作詞を担当した西条八十とともに、土浦航空隊に一日入団し、その体験をもとに長調の曲を作曲するも、古関裕而氏自身納得できずにいたところ、 「担当のディレクターに聞かせると、これで十分とのことで航空隊へ行って聞かせることになった。 歌手の波平暁男やアコーディオンの伴奏者、西条氏、ディレクターと共に出掛けた。 常磐線の車中、曲に対する不備が頭から離れない。 利根川を渡り茨城県に入った頃、ふとある短音階のメロディが浮かんだ。 「これだ、長い間求めていたのはこれだ」と言いきかせて、持参した五線譜に十六小節のメロディを書き、歌詞を入れて波平君に渡した。 」(古関裕而自伝より) 長調の曲と、短調の曲を生徒が聴き比べをした結果、短調の曲が採用となった経緯のある曲。 昭和20年にB-29による土浦海軍航空隊が空爆を受け、壊滅状態になったとき、重傷を負った同期の予科練生を病院に運ぶなか、ずっと「若鷲の歌」を歌って励ましたというエピソードがあり、予科練生たちに深く親しまれた曲でした。 雨のオランダ坂 作詞:菊田一夫(昭和22年) 菊田一夫氏から、演劇で使用するため依頼のあった曲。 昭和10年に長崎を訪ねていた古関裕而氏は、菊田氏の抒情的でありロマンティックな美しい詞に、かつての長崎の情景を重ね、作曲意欲をそそられた快心の一作。 間奏には、「マダム・バタフライ」(蝶々婦人)のハミングコーラスの一部を入れたり、歌は三拍子・間奏は四拍子とするなど、古関氏ならではの独特な妙味を表現しています。 しかし作曲当時の長崎は、原子爆弾によりかつての美しい町並みは灰燼と化しておりました。 白鳥の歌 作詩:若山牧水(昭和22年) 連続ラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌として作曲されたもの。 若山牧水の有名な短歌 白鳥は 悲しからずや 空の青 海の青にも 染まずただよう に曲をつけたものでした。 古関裕而氏は、福島県川俣町で銀行に勤務をしていた経歴がありますが、その当時から和歌に曲をつけるなど、作曲の勉強をしておりましたので、その経験を活かしたものでした。 レコード化に際しては、一首のみでは短すぎるので、 いざ行かむ 行きてまだ見ぬ 山を見む このさびしさに 君は耐ふるや 幾山河 越えさり行かば さびしさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく の二首を加えました。 短歌の作曲は難しいといわれていますが、短歌のもつムードをそのまま表現した古関氏ならではの歌曲といえましょう。 この曲は、当時の高校生の音楽教科書にも採用され、大衆歌曲が教科書に掲載された珍しいケースでした。 長崎の鐘 作詞:サトウハチロー(昭和24年) 長崎医科大学の永井隆博士(医学博士、作家、長崎市名誉市民)が自身の被爆体験をもとに記された「長崎の鐘」「この子を残して」がベストセラーとなり、多くの人々の心を打ちました。 この出版を援助された式場隆三郎氏(精神科医。 山下清氏を物心両面から支える。 )の強い要請があり、レコード化が企画されたものでした。 作詞を担当したサトウハチロー氏は、当初ベストセラーに便乗した企画と思ったため依頼を断りましたが、贈られた著書を読み、感動し、魂を込めて作詞をされました。 実は、サトウ氏の弟も広島で被爆死されていたのです。 古関氏も自伝で、「サトウハチローさんの詞と心と共に、これは単に長崎だけでなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だと感じ、打ちひしがれた人々のために再起を願って、「なぐさめ」の部分から長調に転じて力強くうたい上げた。 」と述べております。 存命中であった永井博士は、この曲をとても喜び、作詞:サトウハチロー氏、作曲:古関裕而氏、歌唱:藤山一郎氏の三者に、御礼の手紙を贈りました。 古関氏は以後、何度か文通を重ねましたが、生前の永井博士に会うことはできませんでした。 古関裕而記念館には、永井博士から贈られたロザリオ(病床の中で博士が自ら編んだ木綿製のもの)が展示されております。 あこがれの郵便馬車 作詞:丘灯至夫(昭和26年) 古関裕而氏・丘灯至夫氏のコンビで作った乗物シリーズ第1段。 「こんな唱歌みたいな歌が売れるだろうか」と言われたそうですが、丘氏の「夢の世界」「ロマンの世界」の詞に、岡本敦朗氏のさわやかな声がマッチし、明るく健康的なホームソングとして多くの人に愛唱されました。 「郵便馬車」は、実際には配達に使われたことはなく、郵便局と郵便局との間に使用されたものでした。 二人が手掛けた乗物シリーズは、ケーブルカー、ヨット、高原列車、人工衛星などがあります。 丘灯至夫氏は福島県小野町出身であり、プライベートでも親交のあった二人ですが、古関・丘コンビで作っていない乗物シリーズは、「乳母車」と「霊柩車」だけだねと、冗談を言い合っていたと言います。 高原列車は行く 作詞:丘灯至夫(昭和29年) 「あこがれの郵便馬車」と双璧をなす作詞:丘灯至夫氏、作曲:古関裕而氏、歌唱:岡本敦郎氏のトリオ曲。 丘灯至夫氏は、幼少の頃、湯治で利用していた沼尻軽便鉄道の思い出を歌詞に込めていましたが、その歌詞からイメージした古関メロディは、スイスなどのヨーロッパを巡る高原列車をイメージした曲想でした。 この明るく健康的なホームソングは、中学校の音楽の教科書にも取り上げられ、当時遠足のために乗っていた中学生が「高原列車は行く」を歌っているのを、たまたま同乗していた古関氏がこれを聞き、大層喜んだといいます。 現在では、古関生誕100年を記念し、JR福島駅の在来線の発車メロディとして平成21年4月11日から流れています。 とんがり帽子 作詞:菊田一夫(昭和22年) 戦災で父母を失った子供たちが巷にあふれ、上野の地下道の凍死者はあとを絶たず、誰も食べるのに精一杯の時代、CIE(連合国総司令部の民間情報教育部)により、戦災孤児救済のキャンペーンとしてNHKラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」がスタート。 主題歌として作曲された曲です。 マーチテンポの明るい四拍子の曲に、菊田氏らしい愛らしく優しい詩情に満ちた美しい詞により、多くの人に愛唱されました。 ラジオ・ドラマは、週2回1年間の予定が、週5回3年6か月の長期放送となりました。 この作品で、古関氏はハモンド・オルガンと出会います。 2億数千万種の音色が出せ、幽玄な境地さえ表現できるこの楽器は、このラジオ・ドラマにその機能が十分に発揮されました。 古関氏の代名詞とも言えるハモンド・オルガンは、古関裕而記念館に展示されております。 なお、古関裕而記念館の外観は、「とんがり帽子」をイメージしております。 イヨマンテの夜 作詞:菊田一夫(昭和25年) NHKラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」のなかで、奥多摩の山奥で木材を切っている樵が歌詞のない歌を口ずさむという場面で使われましたが、奥多摩の深山をイメージして作曲したこの曲を古関裕而氏は、わずかの放送で消えるのが惜しくなり、菊田氏が旋律にあう歌詞をつけた曲です。 前奏があって始まるパターンを破り、オペラのアリア風に冒頭から歌詞が始まるこの曲は、アイヌの「熊祭り」を題材としたものです。 古関氏は自伝でも「派手で劇的な効果に男性的な豪快さがあり、男性なら一度は歌ってみたくなる曲である。 が、難しいことも第一級で、リズムが十六分音符と八分音符の二拍子系なのに、メロディには三連音符が多く現れる二対三の変則的なリズムをいかに歌いこなすかが問題で、作曲にその面白みをねらってある。 」と述べています。 一方、レコード会社は「こんな難しい歌は売れっこありませんよ」と見捨てて、ポスター一枚作成しなかったようですが、のど自慢でも男性のほとんどがこの曲を歌うなど、レコードはヒット盤となりました。 さくらんぼ大将 作詞:菊田一夫(昭和26年) 「とんがり帽子」に続くNHKラジオ・ドラマ「さくらんぼ大将」の主題歌。 前作に続き、脚本を菊田一夫氏、音楽を古関裕而氏が担当。 子供向けの番組として、社会問題抜きの明るいユーモアのある純情物語であるこのラジオ・ドラマは、福島市の茂庭が物語の舞台となっていますが、番組構想の段階で、舞台候補地に茂庭を菊田氏に推薦したのは、他ならぬ古関氏でした。 ここにも、福島を故郷として想う古関氏の恩返しがうかがえます。 物語の舞台となった一部は、現在福島市の水源となっています「摺上川ダム」となっており、ダムの畔には物語の主人公「六郎太少年像」が設置されております。 () 君の名は 作詞:菊田一夫(昭和28年) 「さくらんぼ大将」に続くNHKラジオ・ドラマ「君の名は」の主題歌。 前作同様に、脚本を菊田一夫氏、音楽を古関裕而氏が担当。 大人向けのメロドラマとして、毎週木曜日の午後8時30分からの30分番組としてスタート。 春樹と真知子のすれ違いは、ラジオ・ドラマはじまって以来の大ヒットともなりました。 松竹映画によって映画化となり、春樹に佐田啓二氏、真知子に岸恵子氏を起用。 「真知子巻き」などの社会現象を生みました。 ラジオ・ドラマでは、同曲の歌唱を古関氏・菊田氏の意向でクラシックの声楽家とし、藤原歌劇団の高柳二葉氏が担当。 ベルカントの美声はドラマに品位を添えました。 一方、映画では織井茂子氏が起用され、双方とも大ヒット曲となりました。 「ラジオの時間には街の銭湯の女湯がガラ空きになる」という話は、松竹のうまい宣伝だったと古関氏は自伝で述べています。 放浪記(昭和36年) 現在も舞台として上演されております「放浪記」(主演:森光子)は、林芙美子氏の自伝的小説「放浪記」を原作として、菊田一夫氏が脚本・演出し、昭和36年にスタート。 その舞台音楽を古関裕而氏が担当しました。 菊田一夫氏と約36年間のコンビを組んで多くの作曲をしてきた古関氏。 菊田氏の活動の場が、電波から舞台に変わってからの18年間、約150編の作品のなかで、今もなお続けられているこの「放浪記」。 現在でも音楽キャストには、小川寛興氏ともに古関裕而氏の名があります。 平成21年5月9日に2,000回の公演を迎えました(昭和56年以降は三木のり平氏の潤色・新演出による)。 栄冠は君に輝く 作詞:加賀大介(昭和24年) 昭和23年の学制改革に伴い、それまでの全国中等学校野球大会が、全国高等学校野球選手権大会に変わったことを受けて、主催者の朝日新聞社からの依頼により作曲されたもの。 歌詞は全国から公募されました。 古関裕而氏は自伝で、甲子園球場の「無人のグランドのマウンドに立って周囲を見回しながら、ここにくり広げられる熱戦を想像しているうちに、私の脳裏に、大会の歌のメロディが湧き、自然に形付けられてきた。 やはり球場に立ってよかった。 」と述べています。 作詞を担当した加賀大介氏は、野球の試合中の怪我から身体に障害を負い、野球を断念した経緯があり、野球への熱い想いを歌詞に込めたといいます。 歌詞の3番に「美しく匂える健康」とあるのもうなづけるものがあり、加賀氏の高校球児に対する暖かい眼差しがうかがえます。 現在でもテレビなどでこの曲が流れており、多くの人に馴染みのあるこのメロディは、古関生誕100年を記念して、JR福島駅の新幹線発車メロディとして平成21年4月11日から流れています。 スポーツ・ショー行進曲(昭和24年) 昭和22年、NHKのスポーツ放送のテーマ曲として作曲されたもので、昭和24年にコロムビアからレコード化されました。 現在でもNHKで使われておりますが、最初の放送のときは、NHK交響楽団を使って演奏されました。 番組のテーマ音楽にN響が使われたのはこれが最初と言われています。 放送が始まると、誰の作曲か?外国人の作曲か?スーザ(「星条旗よ永遠なれ」の作曲家。 「マーチ王」が異名。 )の曲ではないか?など問い合わせがたくさんあったようです。 オリンピック・マーチ(昭和39年) 昭和39年に開催されたアジア初の東京オリンピックで選手入場の行進曲として使用された曲。 オリンピック東京大会組織委員会とNHKから作曲依頼があったときには、「日本的なもの」という要求がありましたが、古関裕而氏は自伝で「各地の民謡や越天楽(えてんらく:雅楽の曲)も「日本的なもの」には違いないが、私はこれを曲想に活用することは考えなかった。 また「君が代マーチ」や「軍艦マーチ」を参考にしようとは全く思わなかった。 私にとって東京オリンピックにふさわしいマーチがどんどん浮かんでくる。 私はひたすらこれを書き取った。 」と述べています。 東京オリンピックが、戦後復興を象徴付ける国家イベントであると同時に、国際社会に復帰する意味合いも含まれておりましたので、東京オリンピックの選手入場行進曲の作曲を依頼されたということが、どれほどの名誉であったことでしょう。 事実、古関氏の長女は、そのときの父の喜びが尋常ではなかったと回想しています。 世界的作曲家古関裕而の誕生でした。 オリンピック讃歌(編曲 昭和33年) スピロ・サマラ氏により作曲され、第1回アテネオリンピックで演奏されましたが、その後消失したと考えられ、長らく演奏されませんでした。 しかし、作曲者によるピアノ譜が発見されたため、日本オリンピック委員会がオーケストラへの編曲を古関裕而氏に依頼、詩人・野上彰氏による訳詞で昭和33年のオリンピック総会にて再演されました。 以降、古関氏の編曲版が公式の「オリンピック讃歌」に認定され、現在においてもオリンピックの開会式・閉会式等で演奏されています。 六甲おろし 作詞:佐藤惣之助(昭和11年) 現在では「阪神タイガースの歌」が正式名称ですが、一般的には「六甲おろし」として今もなお、阪神ファンに親しまれております。 作曲した当時は、「大阪タイガースの歌」でしたが、現存するプロ野球球団のなかでも、最も古い球団歌です。 作詞を担当した佐藤惣之助氏は、神奈川県川崎市の出身であり、佐藤氏の生家跡地は現在、川崎信用金庫本店となっており、敷地内に「佐藤惣之助生誕の地碑」が建っております。 阪神タイガースがリーグ優勝した平成15年には同碑の上に同曲の歌碑が設置されました。 なお、川崎信用金庫の社歌は、古関裕而氏の作曲というのも、偶然という言葉で片付けてよいものでしょうか? 闘魂込めて 作詞:椿三平(昭和38年) プロ野球の読売巨人軍創立30周年を記念し、同球団の球団歌「巨人軍の歌」として作曲されました。 現在では、「闘魂込めて」という通称で親しまれております。 「闘魂込めて」は、巨人軍の球団歌として3代目となります。 3曲のうち2曲が古関氏の作曲となり、1代目の球団歌が、昭和14年に作詞:西條八十氏、作曲:古関裕而氏、歌唱:伊藤久男氏(2010年生誕100年)により、「巨人軍の歌-野球の王者-」として発表されております。 福島商業高校青春歌 作詞:坂内萬(昭和5年) 古関裕而氏の母校、福島県立福島商業高等学校(以下「福商」。 )で校歌と共に、現在でも歌われております。 作詩の坂内萬(ばんない よろず)氏は、教師として福商(大正15年から昭和15年まで)で国語、漢文を担当されておりました。 昭和初期といえば、昭和恐慌の暗い世相のなか、「大学はでたけれど」「卒業即ち失業」などと言われた時代。 当時の生徒たちは世相から来る不安から流行唄ばかり歌っていることを嘆いた坂内氏は、若い学生に誇りと夢を持たせたいという願いを込めてこの詩を作られました。 当時の古関氏は、結婚、そしてコロムビアとの専属契約という大きな人生の転換期を迎えていた頃で、ちょうど上京の荷造りをしていた時に、作曲の依頼を受け、その場(約1時間)で作曲をしたというエピソードがあります。 紺碧の空 作詞:住治男(昭和6年) 上京したての古関裕而氏は、福島県本宮市出身の伊藤久男氏(歌手。 2010年生誕100年。 )と懇意になり、伊藤氏の従兄弟が早稲田大学の応援部に属していたことから、第六応援歌として作曲依頼を受けたもの。 当時の早稲田は、早慶戦で慶応の応援歌「若き血」に圧され気味だったため、新しい応援歌を作ろうということになり、歌詞を早大全学生から募集しました。 今までの応援歌は第一から第五まであり、作曲に山田耕筰氏、中山晋平氏、近衛秀麿氏など、錚錚たる作曲家が名前を連なっていたことから、無名の新人に任せてよいものか、と作曲者選定に難航があったといいます。 応援歌の作曲に経験の浅かった古関氏は、なかなか歌詞に合う旋律が浮かばず、苦労しましたが、見事後生にまで歌い継がれる応援歌(現在では第一応援歌)として完成させました。 昭和51年、早稲田大学内大隈庭園内に「紺碧の空」記念碑が建立されております。 我ぞ覇者 作詞:藤浦洸(昭和45年) 昭和21年、戦争によって中断されていた東京六大学野球リーグ戦が再開されました。 慶応大学応援団は、「打倒早稲田」を意識し、「紺碧の空」があまりにも良い曲であったので、新しい応援歌に同曲の作曲者である古関裕而氏に依頼。 古関氏は、早稲田大学の了解を得ることを条件に承諾し、作曲されました。 歌は4番まであり、その4番が早慶戦専用の歌詞になっていて、「早稲田を倒せ」とあります。 歌詞に特定の相手方の名前を入れる。 今までに無かったことでした。 それを受けて、早稲田はさらに古関氏に作曲依頼をして「ひかる青雲」(昭和21年作曲。 作詞:岩崎巖)を作っています。 その歌詞には「慶応倒し」とあり、「目には目を。 歌には歌を」なのでしょうか。 早慶それぞれの力の入れようがうかがえます。 ライバル同士の作曲に同じ作曲者を双方が選ぶというのは、古関メロディがそれだけ応援歌として優れているという事実なのでしょう。 別れのワルツ スコットランド民謡(昭和24年) スコットランド民謡「Auld Lang Syne」(オールド・ラング・サイン。 日本では「蛍の光」として有名。 )が、昭和24年公開のアメリカ映画「哀愁」で効果的にアレンジされていました。 そのレコードには、古関裕而の名前をもじった、編曲:ユージン・コスマン、演奏:ユージン・コスマン管弦楽団と表記されていた上、レコード規格が洋楽規格でしたので、当時の人々は外国録音のレコードと信じて疑わなかったといいます。 これがロング・セラーとなり、現在でもデパートやレストランなどの店舗閉店時のBGMとして使われています。 モスラの歌 作詞:由紀こうじ(昭和36年) 昭和36年に東宝により公開された映画「モスラ」で劇中に使われた曲です。 ザ・ピーナッツ扮する小美人がモスラを呼び出す歌として作曲され、日本の劇中音楽のなかでも、今なお多くの人々の耳に残っている曲の一つと言えるでしょう。 作詞の「由紀こうじ」は、田中友幸氏、本多猪四郎氏、関沢新一氏の3人の共同ペンネームであり、当初、歌詞は日本語で書かれ、インドネシア語に翻訳されて使われました。 古関裕而氏は、本当に幅の広い作曲活動をされていることがこのことからしてもうかがい知れますが、劇中に使われた多くの音楽(効果音楽)も古関氏が担当しました。

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栄冠は君に輝く

古関 裕 而 栄冠 は 君 に 輝く

hiroshikohata がシェアした投稿 — 2019年12月月30日午前12時06分PST 若き日の古関裕而さんと金子さん。 古関裕而さんの奥さんは、小関金子 こせき きんこ さん。 声楽家でもあり、詩人でもあったわ。 愛知県豊橋市出身で、子供の頃はおてんば。 音楽と文学が好きでオペラ歌手を目指していたわ。 NHK連続テレビ小説「エール」では、金子をモデルとするヒロインの関内音役は二階堂ふみさんが演じるわ。 古関裕而さんとの馴れ初め 昭和5年1月に金子さんは「福島の無名の青年が国際作曲コンクールで入賞」という新聞記事を読んだの。 これが若き日の古関裕而さん。 金子さんはすぐに手紙を書き、ふたりの遠距離恋愛が始まるわ💌💕 古関裕而さんは、自分と金子さんの関係を作曲家シューマンとその妻クララになぞらえて、金子さんを自分の音楽活動のパートナーとして共に生きる夢を描いていたの。 わずか半年の恋愛結婚。 でも、子育てに専念するために学校は中退。 昭和55年7月23日に乳がんが全身に転移し、68歳で亡くなっているわ。 古関裕而さんの子供は? 子供は3人いて、長男は古関正裕さん。 現在は74歳で音楽家よ。 昭和21年生まれで東京都出身。 成城学園初等科入学後、ピアノを習い始めるわ。 でも高校在学中にはバンド活動に熱中しているの。 古関正裕さんも音楽の道に進んだものの、音楽の道から外れるわ。 1965年に早稲田大学理工学部に入学し、1970年日本経済新聞社に入社。 1998年早期退職後にピアノを再び習い音楽活動を再開。 2013年より父、古関裕而の楽曲の演奏を中心としたライブ・ユニット「喜多三」 きたさん を結成しライブ活動継続中よ。 2009年古関裕而生誕百年記念CD全集の企画・監修で、日本レコード大賞企画賞受賞しているわ。 長女と次女について 長女は古関雅子さん。 昭和7年1月生まれ。 次女は古関紀子さん。 昭和9年7月生まれ。 調べてわかったのはこれだけよ。 古関裕而の孫は? 長男の古関正裕さんは結婚しているので、お子さんがいらっしゃるわ。 つまり古関裕而さんと金子さんのお孫さんね。 当時は両親と二世帯住宅での同居で、孫の子育てをめぐって嫁姑バトルもあったみたい(笑) 尚、別居するようになってからは、うまく行くようになったと古関正裕さんのブログで語っているわ。 古関裕而さんは孫のために書いた「幸子の子守唄」の2曲作曲しているから、お孫さんは女の子で幸子ちゃんの可能性が高いわね。 古関裕而さんの生家は? 古関裕而さんは福島県福島市出身。 生家は、「喜多三(きたさん)呉服店」跡地として記念碑が建てられているわ。 午前9時・正午・午後3時の3回、「さくらんぼ大将」「とんがり帽子」「阿武隈の歌」が流れるそうよ。

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