小笠原 佑子。 小笠原忠幸

小笠原祐子(Yuko Ogasawara)

小笠原 佑子

旧聞に属することで大変申し訳ございません。 ほとんどのフォレスタファンの方々はとうにご存知かと思いますが、結婚・出産・子育てのため長くフォレスタ活動休止中だった小笠原優子さんが、今年遂に復帰されました!『フォレスタ通信』サイトの告知では、「当面は(東京)近郊のコンサートから」とありましたが、コンサートのみならず、上の画像どおり『BS日本・こころの歌』収録にも一部参加されています。 小笠原優子さんのご復帰。 フォレスタファンの一人として、心よりお慶び申し上げます。 本当におめでとうございます。 私が、小笠原さんの『BS日本・こころの歌』一部収録参加を知ったのは、「on ojisann」さんの最近の動画投稿によってでした。 余談ながら、このようにon ojisannさんを初めとした複数の方により、徐々にフォレスタ動画が増え始めていることを大変嬉しく思います。 ただどちらかと言うと新メンバーによるコーラス動画が多いようです。 欲を言えば、大変厚かましいお願いながら、代表例として『別れのブルース』『みかんの花咲く丘』『月の沙漠』『浜千鳥』『花かげ』など、初代女声+吉田静さんの頃の懐かしい動画も・・・と思います。 どなたかアップをお願いできれば幸甚に存じます。 この歌はそもそも、当時私立佐世保女学校の音楽教師だった田中穂積(たなか・ほずみ)がかねてから、同地の北松浦半島西岸に広がる九十九島(くじゅうくしま)の美しい風景を教材にしたいと考えていたことに始まります。 そこで折りよく入手した武島羽衣(たけしま・はごろも)の詩に作曲し、この歌は誕生しました。 武島の詩は、田中の思い描いていた九十九島にぴったりだったといいます。 この歌は、女学校の愛唱歌として地元では長らく親しまれてきましたが、広く一般に知れ渡ったのはかなり後のことです。 活動写真の伴奏や、サーカスやチンドン屋のジンタ(市中音楽隊の意)として演奏されたことも、この曲が有名になった大きな要因の一つでした。 詞を作った武島羽衣は、東京帝国大学国文科、同大学院を経た後、東京音楽大学(現・東京藝術大学)、日本女子大学、聖心女子大学などで教鞭を執った詩人、国文学者であり、当時超一流の教養人でした。 この『美しき天然』の歌詞は、(同じく武島作詞の)滝廉太郎作曲の『花』とともに、武島作品の精華であるように思われます。 (ここまで『ウィキペディア』を参照) 歌詞は1番から4番までありますが、全体を通してひたすらな天然自然賛歌です。 それとともに、美しき天然を「かく在らしめている」神への賛歌でもあるようです。 各番の最後のフレーズで謳われている「神」とは、自然万物を生み為しかつ日々生成化育し給うわが国固有のアニムズム的、汎神論的な自然神としての「産み育む」神であるとともに、明治以来本式にもたらされることになった「神初めに天地を創り給えり」というキリスト教的一神教の「創った」神の両義がありそうです。 と言うより、この歌にあっては、その両神が見事に和洋融合しているようでもあります。 難解な古語や雅語を駆使して歌われているのは、2番や3番に顕著なように、「雪月花」あるいは「青松白砂」といった王朝文化以来伝統的な自然への美意識です。 これは武島が国文学者であったことに由来するものなのでしょう。 この歌の発表(明治35年)の少し前に発刊された(西洋文学の影響による)国木田独歩の名作『武蔵野』(明治31年)の中の、「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもつて絶類の美を鳴らしてゐたやうにいひ伝えてあるが、今の武蔵野は林である」と言うような「雑木林の美」などを賛える歌はまた別の歌に拠らなければなりません。 なるほど言われてみれば。 武島羽衣の詞がそうであるなら、田中穂積の曲もまた格調高く典雅なメロディです。 確かこの歌は初代女声4人によってすでに歌われていたはずです。 その元の女声コーラスもなかなか良かったと記憶していますが、ごらんのとおりこのたび、男声、女声フルメンバーによる新バージョンとして歌い直されました。 しかもその中に冒頭申し上げたとおり、長期休養中だった小笠原優子さん(ソプラノ)が加わり、また新男声として塩入功司さん(ハイバリトン)が加わりました。 男声7人(テノール3人、ハイバリトン1人、バリトン3人)、女声6人(ソプラノ5人、メゾソプラノ1人)、計13人による圧巻、壮観の混声合唱です。 男声&女声渾然一体となったフルコーラスです。 かつての『まほろば』を髣髴してしまいます。 フォレスタは、歌によって一人の人がメーンとなって独唱したり、デュエットがあったりと、多彩なコンビネーションがありますが、合唱の基本と思しきこのような全体合唱もいいものですね。 「かわいいピアニスト」(と、つい余計なフレーズを冠したくなる)吉野翠さんのピアノ演奏も、軽快で流暢で、なかなかいいです。 今回も、以前ある歌のある人のコメントにあった「おすまし顔」でピアノに向かっていて、ほほえましい!なお余談ですが、当ブログ検索フレーズで見るかぎり、吉野翠さんは総勢16人のフォレスタメンバーの中でも、(脇役なのに)ベスト5に入るほどの人気ぶりです。 5月の「きゅりあんコンサート」終了後に やっぱり優子さん、美人!(小笠原さんブログ画像より) この歌のコーラス全体の印象から、『これでフォレスタ全体が安定してきたな』という感じがします。 なんとなくしっくりした調和が感じられるのです。 これぞ「小笠原優子復帰効果」です。 一例として、白石佐和子さんを取り上げます。 白石さんは、昨年の各歌の動画を拝見するに、なんとなくキツく険しい表情になっていて、大変失礼ながら『この人少し老けたな』と思わせられました。 おそらく責任感の強い彼女のこと、小笠原さん、矢野聡子さんという二枚看板が抜けた穴を何とかカバーしようと必死だったのに違いなく、相当の心労があったのではないでしょうか。 ところが(小笠原さん復帰が決まった)今年の白石さんはどうでしょうか。 すっかり表情が和み、のびやかな本来の白石さんに戻っておられます。 それに去年より若やいで感じられます。 重い肩の荷が下りた感じなのではないでしょうか。 やはり女声フォレスタにあって、最年長でもあり、肝心の歌唱力も折り紙つき、しかも唯一結婚・子育てを経験しておられる小笠原優子さんの存在は不可欠です。 女声にリーダーというポストがあるのかどうか私にはわかりませんが、小笠原さんは女声各メンバーにとって「精神的支柱」であることは間違いないようです。 男声は(小笠原さんのご主人の?)大野隆さんを中心に、女声は小笠原優子さんを中心に、世の「良い歌を愛する」人たちのために、この『美しき天然』のような素晴らしいコーラスを今後ともどしどし発表していっていただきたいものです。 (大場光太郎・記) 参考サイト 『EVENT & FROM YUKO』(小笠原優子ブログ) BS日テレ『BS日本・こころの歌』 関連記事 『フォレスタの「まほろば」』.

次の

(小笠原優子さんの復帰を祝し)フォレスタの「美しき天然」: 今この時&あの日あの時

小笠原 佑子

おことわり 本記事は、著作権および故人の名誉に関わる記載が多分に含まれているため、自主規制により公開日、時間を限定してお送りしていますことをご了承願います。 2011年1月に「若くして亡くなった有名人」と題したシリーズ記事を、前編・後編に分けて掲載したところ、2年近く経過した今でも、毎日それぞれ100件近いアクセス数を頂いている。 その時代で亡くなった方々をこよなく愛したファンは、いくら歳月を重ねようとも、彼らの存在を決して忘れずに愛し続けていることを知り、深い感銘を受けた。 そして今年もまた、数多くの著名人がこの世を去った。 森光子さんを始め、桑名正博さん、大滝秀治さん、二谷英明さん、千石正一さん、左右田一平さん、地井武男さん、小野ヤスシさん、北公次さん、山口美江さん、伊藤エミさん、安岡力也さん、荒木しげるさん、中原早苗さん、尾崎紀世彦さん、山田五十鈴さん、馬渕晴子さん、山田吾一さん、藤本義一さんらがそれぞれの天寿を全うし、天に召されていった。 彼らのけれんみのない数々の功績に敬意を表すると共に、謹んでご冥福をお祈りしたい。 彼らの生前の活躍と命日は、歳末恒例の「墓碑銘2012」で改めて紹介するが、今日は、「若くして亡くなった有名人」の続編をお送りし、在りし日の彼らのご活躍を振り返ると共に、そのお姿を偲び、決して記憶から失われることがないようにしていきたいと考え、記事を執筆した次第である。 <歌手・タレント・俳優> 志賀真理子 NHKの「どんなモンダイQテレビ」にて子役の頃から活躍していた。 歌手としての実際のデビュー曲は、1985年に発売された「夢の中の輪舞-ロンド-」という曲である。 この曲は1985年7月発売のOVA「魔法のプリンセス ミンキーモモ 夢の中の輪舞」の主題歌として使用された。 その後、『魔法のアイドルパステルユーミ』(1986年)で主人公、花園ユーミの声優、及び主題歌「フリージアの少年」を担当。 それにあたり、改めて「デビュー」という形式となった。 そのため現在では「夢の中の輪舞-ロンド-」はプレデビュー曲とされている。 唯一のオリコン週間チャート100位以内ランクイン曲は「フリージアの少年」で、最高位48位である。 「夢の中の輪舞-ロンド-」は最高位102位。 その他のシングルに「Rainy Day Hello」(1987年8月25日発売)など。 1988年4月に大学進学時に学業と芸能界活動との両立問題に直面してしまい、芸能界を引退。 その後、語学勉強や元々好きな音楽ジャンルであったジャズの勉強のために1989年8月よりアメリカカリフォルニア州に留学する。 ところが、たまたま旅行中だった11月23日(日本時間24日)、アリゾナ州フラッグスタッフ近郊にてフリーウェイ上での事故に遭遇し、車から投げ出され全身打撲により急逝した。 享年19歳。 他にも海外で交通事故により夭逝した方には、「ショムニ」や「天国に一番近い男」に出演したファッションモデル兼俳優の「橋爪浩一」もまた26歳で亡くなっている。 アメリカ滞在中の不慮の事故だった。 映画「花より男子」で共演した谷原章介と藤木直人はメンズノンノモデルコンテストの同期であった。 また『ウッチャンナンチャンのウリナリ!! 』などのバラエティ番組で陽気な個性を発揮した。 2005年には「仮面ライダー響鬼」 (2005年1月30日 - 2006年1月22日、テレビ朝日系) - 立花日菜佳役で出演した。 しかし2007年、出演予定だったミュージカル『レ・ミゼラブル』を体調不良を理由に降板。 その後入退院を繰り返していたが、2008年6月18日4時8分に心不全のため死去。 24歳没。 血液型はO型 上原美優 1987年5月2日 - 2011年5月12日は、元タレント・グラビアアイドルで鹿児島県種子島(熊毛郡中種子町野間)出身。 「貧乏アイドル」として貧しい家庭でのエピソードを明るく話し、プラチナムプロダクションの看板タレントの一角までに成長する 2006年、桜井ひな、藤崎まやと共にフォーミュラ・ニッポン「ディレクシブレーシングガールズ」としてレースクイーンデビューをするが、チームの突然の撤退により第5戦までで活動終了する。 2007年、「sabraブロガール選手権」出場。 その後ブランクを経て「種子島出身の貧乏アイドル」として知名度を上げる。 2007年のクリスマス(当時20歳)に恋人に振られた寂しさから睡眠薬を服用し自殺を図ったが一命を取り止めた。 2008年夏頃からテレビのバラエティ番組にも多数出演するようになった。 』が出版される。 「泣きながら書いた」という父や母にも黙っていた体験を綴っている。 2011年5月11日23時頃、東京都目黒区のマンション自室で交際中の一般男性と過ごしていたが、「2時間ほど一人にして欲しい」と男性を外出させたという。 その後、外出先の男性の携帯電話に死をほのめかすメールが着信し、折り返し電話をかけても彼女が出なかったため男性が上原宅に向かったところ、自室のドアにスカーフとベルトで首を吊っており、5月12日午前3時37分に病院で死亡が確認された。 24歳没。 血液型はA。 戸川京子 東京都新宿区出身。 5歳の時から劇団ひまわりに所属し、子役として数々のドラマや映画に出演。 明るいキャラクターとトークで知られる。 歌手の戸川純は姉。 女性ファッション雑誌『CUTiE』では尖端的な着こなしでモデルをつとめた。 テレビのバラエティ番組などでも活躍し、「11PM」のパーソナリティや、「もっと過激にパラダイス」(NHK)「真夜中の王国」(NHK-BS)などに出演。 音楽活動も行い積極的にアルバムもリリース。 1993年1月にはロックバンドZIGGYのドラマー大山正篤と結婚するが、その後に離婚。 2002年7月18日、都内の自宅マンションで首を吊っているところを事務所スタッフによって発見される。 37歳没。 幼いころから喘息の持病を抱えており、病気を苦に命を絶ったと言われている。 血液型はA 中川勝彦 (1962年7月20日 - 1994年9月17日)は、東京都出身の マルチタレント(ミュージシャン・歌手、俳優、声優)。 血液型A型。 主に1980年代に活動 した。 娘は、同じくマルチタレントの中川翔子。 1978年、慶應義塾高等学校に入学し、そこでバンド活動を始める。 1980年の高校3年の時に、NHK「ヤングミュージックフェスティバル」に出場し、デビューのきっかけとなる。 慶應義塾大学進学後(後に中退)も映画『ねらわれた学園』や『転校生』などに出演し、人気を博す。 『ねらわれた学園』では、薬師丸ひろ子の相手役オーディションで最終選考まで残った。 結婚は、当時としては珍しいできちゃった結婚で、その時に授かった子が長女・翔子である。 当時としては珍しいヴィジュアル系アーティスト、日本版グラムロックアーティストとして、本田恭章と人気を二分していた。 しかし、美しいルックスとは裏腹に、気さくで腰が低く茶目っ気のある人柄で、関係者に親しまれた。 俳優としてもテレビドラマ等で活躍していたが、1992年9月に急性骨髄性白血病を発症した。 以後9か月の闘病生活を経て復帰するも1994年8月に白血病が再発し、32歳で死去。 血液型は娘の中川翔子と同じA。 個人的にはNTVの年末大型時代劇「白虎隊」の沖田総司役の美少年としての姿が強く目に焼きついている。 病気のために急逝した芸能人にはタレントやファッションモデルとして活躍した「岩田ゆり」(25歳)やレースクイーンとしてならした「青山加奈」(21歳)、グラビアアイドルだった「村上恵梨」(25歳)らがいる。 菅原加織 俳優の菅原文太の長男で、本名は菅原薫(すがわら かおる)。 東京都出身。 埼玉・自由の森学園高等学校在学中に、東宝映画「恋する女たち」で芸能界デビュー。 父親のバックアップもあってテレビや舞台、映画(特にやくざ映画)で活躍。 そして時代劇に数多く出演した。 代表作は「暴れん坊将軍」やNHK大河ドラマ「徳川慶喜」や「元禄繚乱」など。 Vシネマなどにも出演し、任侠やヤクザシリーズにも出演した。 2001年10月23日、東京都世田谷区北沢の小田急小田原線の踏切内で上り電車に撥ねられ、病院に搬送されたが頭や胸を強打しており、翌24日の午前1時すぎに死去。 事故当時、携帯電話で話をしていたという。 「酒を飲んでいたようだ」という目撃者もいた。 享年31。 香月弘美(かつき ひろみ) 1936年8月21日 - 1958年4月1日)は、宝塚歌劇団月組の元タカラジェンヌ(娘役・41期生)。 神奈川県藤沢市片瀬出身。 本名:小笠原 弘恵 1958 昭和33 年4月1日18:30、兵庫の宝塚大劇場の花組四月公演「春のおどり、花の 中の子供たち」26場の上演中、研究科5年生で月組の香月弘美こと小笠原弘恵 21 が、 縦1メートル、横3メートルの舞台のせり出し装置で下へと下がる途中、ドレスの裾が せりのシャフトに巻き込まれ、そのまませり台の鉄のベルトと舞台下の鉄の支柱に足を挟まれて動けなくなり、腹部切断で死亡するという事故が起こった。 観客からは事故は見えず、一瞬の出来事だったので何があったのか観客は理解できないままに公演中止が告げられた。 事故が起こったせり出し装置は前年末に改装したばかりで、事故発見からスイッチが切られるまでは15秒、衣装が巻きついたスクリューは10回転で止まったが手遅れであった。 香月は風邪の日夏有里の代理でこの日は出演しており、娘役として人気があり、前年7月には鏡三枝子、高千穂佑子、木谷マリ、日夏有里と「エレガントガールズ」を組んで、宝塚でも売り出し中だった。 一緒にせりにいた松島三那子は精神的な打撃から4月3日の朝に失踪、松島も事故に遭った香月も神奈川の藤沢に実家があり、香月は湘南白百合の出身、劇団内でも2人は地元話などでそれなりの接点があったのであろう。 松島は4月4日には警察の調べに応じている。 工場経営者の娘であった香月の葬儀は、墨田区にあったその工場敷地で営まれ、4月15日に菊田一夫ら380人が参列した。 享年23(満21歳)。 舞台機構が原因の上演中劇場事故による日本国内唯一の殉職者。 詳しい事故の模様は下をクリック なお宝塚関係者では、星組だった北原遥子が、1985年8月に起きた日航機墜落事故で24歳で亡くなり、花組の清月輝が1970年に中華航空機墜落事故で22歳で急逝、そして世れんかが1980年4月に骨髄腫瘍により29歳の若さでこの世を去った。 菊 容子 2歳の時に富士フイルムのモデル、6・7歳の小学生の頃から少女雑誌の表紙モデルで芸能キャリアをスタート。 中学に進学した時に一時芸能活動を止めるが、中学3年生の秋にNHK主催の新人オーディションで2位合格となり、後に女優業に転向する 1967年、『でっかい青春』第26話から、レギュラーとなり、女生徒・丸山しぐれ役を演じる。 1971年、朝日放送系で放映したドラマ『好き! 魔女先生』のヒロイン・月ひかる役を務め、その他ドラマ・映画・舞台を中心に活躍した。 1975年4月29日、交際を強要されていた23歳の元俳優の男性(のち自殺未遂後、逮捕)に、新宿区諏訪町の自宅に侵入され、首を絞められて殺害された。 24歳没。 殺害されてこの世を去った芸能人には、AV女優だった桃井望(享年24歳)や里中まりあ(21歳)がいる。 保倉幸恵 劇団若草出身。 幼い頃から舞台女優として活躍しており、1960年代から1970年代にかけて「週刊マーガレット」、「女学生の友」、「少女フレンド」などの少女雑誌に少女モデルとして頻繁に登場していたほか、週刊朝日でも1970年1月2日から1971年12月31日までカバーガールを務めた。 若草時代の同期生に女優の桃井かおりがいる。 少女を中心に高い人気を得るが、その後モデル業を引退。 映像メディアへの出演はモデル時代だった頃は1968年放送の「竜馬がゆく」や1971年放送の「天下御免」に出演していたが脇役に過ぎなかった。 その後、モデル廃業後の1974年11月に芸能界に女優として復帰し、同年11月20日から放送が開始されたNHKの銀河テレビ小説「黄色い涙」で本格的な女優デビューを果たす。 その後、1975年1月にNETテレビで放送された「鏡の中の女」に出演して仕事を順調にこなしていたものの、私生活では1974年12月頃に母親が重病を患ったことがきっかけとなってノイローゼを発症してしまい、1975年2月頃より通院のために芸能活動を一時休止。 女優業を休止して療養中だった1975年7月8日午前5時55分、東京都大田区の自宅近くにある東海道本線大森~蒲田間の跨線橋において1. 2mの柵を越えて8m下の線路に飛び降り、そこを通りかかった横須賀線久里浜発東京行きの普通列車に轢かれて即死した。 22歳没。 血液型はO 遠藤康子(写真左) 中学2年生の春休みにスカウトされヒラタオフィスに所属。 モデルとしてデビュー。 雑誌、CMで活躍。 1985年、テレビドラマ『スケバン刑事』の海槌亜悠巳役で注目を集める。 1986年5月、「IN THE DISTANCE」という曲でアイドル歌手デビュー予定であったが、同年3月29日(30日説も有)、東京都台東区のビルの7階屋上から飛び降り自殺、享年17。 動機は事務所に恋人との交際続行を反対されたためと言われている。 血液型はA。 他にアイドル歌手でデビューし、自ら命を絶った方は、元「みるく」の堀口綾子(享年22・写真右上)がいる。 また、自殺により若くしてこの世を去った芸能人にはAV女優が多いようだ。 麻生美由樹(20歳)、倉沢七海(28歳)、牧野田彩(30歳)、美咲沙耶(21歳)などである。 <アスリート> 木村拓也 現役時代は日本ハム、広島、巨人で活躍したプロ野球選手。 「俊足・強肩・巧打」と、攻守ともに優れたユーティリティープレイヤーとして重宝された選手だった。 2006年の代打成功率は4割を超えた。 投手以外全てのポジションを守れる(投手も高校時代に経験あり)上にスイッチヒッターという器用な、言い換えれば采配を取る監督にとっては自在に使える便利な選手であった。 2010年4月2日17時40分頃、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島での対広島東洋カープ1回戦の試合前、本塁付近でシートノック中に突如として意識を喪失しそのまま倒れ込んだ。 直ちにその場で関係者や両チームの選手、救急隊によってAEDで蘇生処置を受けた後、広島大学病院に緊急搬送された。 医師による検査などの結果、クモ膜下出血と診断され、そのまま緊急入院して治療を受けていたが、意識不明の重体から容態は改善することのないまま、2010年4月7日3時22分に入院先の病院で息を引き取った。 37歳没。 血液型はA。 三沢光晴 本名は三澤 光晴、1962年6月18日 - 2009年6月13日)は 、日本のプロレスラー。 1981年に全日本プロレスにてデビュー。 同団体のトップレスラー として活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。 レスラー兼社長として同団体を牽引した。 2009年6月13日、試合中リング禍により死去した。 46歳没。 三沢は1984年8月26日、ラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。 はじめは小林邦昭を破って NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得するなどジュニアヘビー級で活躍したが、1985年10月にヘビー級に転向した。 1990年春、天龍源一郎が全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。 騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。 三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。 1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴だった」ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。 とくに超世代軍は高い人気を獲得し、全日本プロレスに大きな収益をもたらした。。 三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した。 1992年7月にジャンボ鶴田が内臓疾患により長期休養を余儀なくされたことにより超世代軍と鶴田軍の抗争は終わりを告げ、同時に三沢は全日本プロレスの実質的なエースとなった。 超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え(正式に解散したのは1998年)、それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った。 三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。 1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。 2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。 これを受けて7月4日、「プロレスリング・ノア」を旗揚げした。 社長に就任した。 2009年6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場(【王者チーム】バイソン・スミス&齋藤彰俊 vs 【挑戦者チーム】三沢&潮崎豪)。 試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。 リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。 46歳没。 血液型はO。 プロレスラーでは橋本真也もまた早すぎる死を遂げた。 アンディ・フグ スイス・ ボーレン出身の空手家、キックボクサー。 本名はアンドレーアス・フーク。 得意技は踵落とし、下段後ろ回し蹴り(フグトルネード)、左フック。 入場時にはゴットハードの『Fight for Your Life』(邦題:闘え!アンディ・フグ)やクイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」をテーマ曲に使用していた。 勝ちも負けもKO決着が多い、倒すか倒されるかの選手であった。 ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、マイク・ベルナルドと共に創成期のK-1四天王として君臨し、K-1ファイターの中では決して大きくない体で、負けても負けても立ち上がる不屈の戦いぶりとリベンジマッチでの強さ、彼が得意としていた踵落とし等の華麗な技、そしてCMやテレビ番組で見せるユーモア溢れる人柄も併せ、K-1の人気を押し上げることに大きく貢献した。 2000年に急性前骨髄球性白血病(APL)により35歳で死去し、多くの格闘技ファン・関係者に衝撃を与えた。 フローレンス・ジョイナー (Florence Griffith-Joyner, 1959年12月21日 - 1998年9月21日)は、アメリカ・ロサンゼルス出身の陸上競技選手。 愛称はFlo-Jo。。 陸上競技における女子100m(10秒49)、200m(21秒34)の世界記録を2012年10月現在も保持している。 1988年のソウルオリンピックで100m、200m、400mRで金メダルを獲り3冠を達成した。 長く伸ばした爪に鮮やかなマニキュアをつけ、長い髪の毛をそのまま伸ばした髪形でも話題を呼んだ。 ソウルオリンピックが終わった後、29歳で第一線の競技から引退した。 1998年9月21日、38歳の若さで心臓発作により急死した。 生前からステロイド系の薬物疑惑がかかっていたが、結論が出ないまま死去したことにより、記録はすべて公認されている。 坂井宏未 彼女は数少ない女性のプロオートレーサーのひとりで、その世界ではアイドルのような存在だった。 2010年6月24日、佐藤摩弥とともに、女子受験者としてオートレース第31期養成員試験に合格した2人のうちの1人となった。 合格発表後にJTBを退社し、同年9月、茨城県下妻市に所在するオートレース選手養成所に入所した。 2011年3月11日、正式に船橋オートレース場への配属が決定。 7月8日に養成所を卒業し、佐藤と共に44年ぶりの女子オートレーサーとなった。 指導員には、師匠でもある永井とともに、SG8勝の池田政和も助手として協力し、7月30日に船橋オートレース場でデビュー(8着)し、8月21日の同場で初勝利を挙げた。 2012年1月15日、船橋オートレース場で第1R一般戦に出走して6着となり、全レース終了後、午後4時5分過ぎからの走行練習に参加したが、この時第1コーナーで落車してしまい、坂井はすぐに医務室に搬送され応急処置が施された。 報道によると、ホーム直線を通過して加速した際に激しくドドドを起こして姿勢を制御できなくなり、バイクから放り投げられ滑走し、第1コーナーコース脇にあった観客防護用の二重フェンス内側に衝突する。 その直後、不運にも後方から自分の競走車が同じ方向に滑走し、坂井もろともフェンスに激突してしまった。 現場のフェンスは事故の衝撃により内側の金網が大きく凹んで外側の鉄パイプにまで達してパイプが曲がってしまい、坂井の愛車もフレームの中央が破断して真っ二つになったほどで、激しい衝撃を受けていたことが伺える状況だった。 坂井は重度の全身打撲や頭蓋骨骨折などにより、午後5時13分に死亡が確認された。 まだ27歳の若さで、レースデビューからわずか半年での殉職となり、通算成績は22戦1勝と上述の初勝利が生涯唯一の勝利となった。 スポーツ選手では、他にサッカーの松田直樹(急性心筋梗塞)選手や広島のストッパーとして活躍した津田恒美(悪性脳腫瘍)、水泳のダーレ・オーエン(心臓冠動脈の凝血による心臓麻痺)らがいる。 古くは巨人の大エースだった沢村栄治(戦死)やスタルヒン(交通事故死)も該当する。 さて、今回の記事には、どのように感想を持たれたでしょう。 前回の記事の際にも申し上げたが、このテーマの目的は、冷やかしや興味半分などではなく、同じ時代を生きた彼らの生涯にスポットを当てることで、彼らの遺した足跡を振り返り、その功績を讃えるためのものであるとご理解ください。 若くして亡くなるというのは、私たちファンに相当な衝撃を与えるものである。 しかし、一時期であるにせよ、彼らが命の限りに生き、輝いていた時期があったという事実は、過去の出来事として葬り去るべきではないし、忘却してもならないと思うものである。 この記事を読んで、同じ時代を生きた者ととして、時々彼らの存在と生涯を思い出していただけたら幸いに思う。 若くして亡くなった有名人~前編~ は 若くして亡くなった有名人~後編~ は 記事作成:11月21日(水).

次の

小笠原忠幸

小笠原 佑子

傘寿(80歳)を機に、帝塚真織さんはAVから卒業した 3年前には「あと10年続ける」と公言していたが、傘寿を機に卒業を決めたのは、「自分好みの男優じゃないと撮影が辛くなったから」との理由だ。 「もともとギャラ(お金)目的じゃないし、節目だと思ったの。 一通り頑張ったから未練は全然ない」と言うが、監督らからは「『もったいない! 2~3年したら戻って来てよ』と強く言われちゃってね。 困っちゃった。 『その時になったら考えるわ』と返したけど、相手役次第かしら」と笑い、カムバックには含みも持たせる。 男性経験は亡夫のみ 人生の記念に80歳でデビュー 一方、入れ替わりで最高齢女優となったのが、昨年に80歳でAVデビューして、現在5タイトルに名を連ねる小笠原祐子さん(81歳)だ。 「お店の常連客から『ママ、女優にならない?』と言われてビックリよ。 畑違いもいいところで、『エー! 何で私が!? 』って腰を抜かしたわ」 57歳で未亡人となってスナックを営んできたが、男性経験はこれまた亡夫のみ。 「人生の記念に。 一生に一度のこと」と業界関係者の客に強く説かれ、一人の男しか知らない好奇心から、とりあえずAVの撮影現場へ見学に出向いた。 「『こんなに明るい場所で、何人も人がいる所でなんかできない!』と言ったの。 いざ、収録を終えてみると、「どうってことなかったな、と。 ただ、女優の気持ちは分かったの。 現場は別世界で別人になる。 何より『こういう世界ってあるんだ。 この年になってこんな経験するなんて、周りの人見てもいないな』って」。 先月にはフランスのテレビ局が取材に訪れ、「いつまでやるか」の質問に「クルマの運転ができるくらい元気なうちはやるんじゃないかしら」と返答。 近々にも新作を撮影予定だ。

次の