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金沢初心者がやるべきこと10選

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茶屋建築を見る 文化財保護のため、手荷物はコインロッカーに預ける形式になっている。 館内には携帯やスマートフォン、小さなカメラのみ持ち込み可能。 よくわからなかったのが、サイズ感そんな変わらないのにミラーレス一眼がダメでコンデジならいいよ、って言われた件。 レンズが取り外しできるものはダメなのか…。 というわけで、ここから先は画質がひどいO社の防水コンデジで撮影。 フォトショでごまかしたのでそこまで酷さは感じられないかもしれないけど、正直これならスマホのほうがキレイに撮れたかも…ってレベル。 さて、お茶屋については前回の記事で紹介した通りである。 少し補足すると、お茶屋はあくまで場所を貸すだけということ。 料理屋から料理を手配し、芸妓置屋から芸妓を手配(実際には見番がやるわけだけど)する。 というか、客を愉しませるためにありとあらゆることをするのがお茶屋の仕事。 総合プロデューサー的な役割を担うわけである。 ちなみに、京都や金沢では「お茶屋」と呼ぶけど、東京の花街だと「待合」になる。 前座敷。 客が床の間を背にして座ると正面に来る「ひかえの間」で、芸妓が演舞を披露する。 金屏風が見えるのがひかえの間。 襖が開くと、目の前で芸妓による艶やかな舞が披露されるという仕組み。 近づいてもう1枚。 ところで、茶屋は二階が客間となる。 加賀藩では、武士を二階から見下ろすのはいわゆる不敬にあたるということで、町人地では二階建ては許可されず、茶屋街だけが許可された。 そういう意味でも、当時の二階建てというのは非常に貴重な建物なのだそうだ。 もうひとつの「ひかえの間」。 こちらも芸妓たちのステージ。 その前にある「ひろま」。 こちらも観覧席ということになる。 床の間の壁は弁柄塗り。 柱は漆塗り。 ひろまの前の廊下から中庭を見下ろせる。 はなれ。 この部屋だけが柱に漆がかかっておらず、色調も含めシックなつくりになっている。 襖の引手も凝ったつくり。 釘隠しにはうさぎの頭。 コレが何なのかよくわからず、ずっとグレムリンにしか見えなかった(笑) 欄間の意匠。 弁柄色は結構胸にくるものがある。 1階へ 台所。 井戸や石室は創建当時のままだとか。 こちらが石室(いしむろ)。 要は食品の貯蔵室。 地下は夏でもひんやりしていたんでしょうね。 女将さんが帳面を記帳する場所。 信頼で成り立つ茶屋遊びでは、精算は後日となる。 最後はみせの間(展示室)。 化粧や舞台の準備に使われた部屋だそう。 上流階級の町人や文人たちが通ったお茶屋は、社交の場としてお茶屋文化を育み、客の教養や芸妓の技能を高めることに寄与した。 200年の時を経て、華やかだった時代の名残を今に伝えるお茶屋建築、「志摩」。 ひがし茶屋街を訪れた際は、是非とも見学されることをオススメしたい。

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この記事の目次• 金沢観光といえば美味しい海鮮物と兼六園。 絵として思い浮かぶのは何でしょうか?いつも目にする兼六園の霞ヶ池に立つことじ灯篭の絵でしょうか?はたまた「ひがしやま茶屋」の風情でしょうか? この風景。 見覚えがあるのではないでしょうか。 テレビCMにもよく使われていて、金沢といえばこの風景という風景の一つではないかと思います。 この「ひがし茶屋」はどういう場所なのかを知るだけでまた金沢観光の味わい方も違ってくるかもしれません。 金沢人でも詳しい歴史を知らないのでは?と思います。 難しくて大変「退屈」なブログ内容かと思いますが 汗 歴史を知って深く味わうということをコンセプトに本記事を利用していただけると本望です。 夜のひがし茶屋もまた風情があります。 ひがし茶屋のはじまり 東山茶屋そのものはそれほど古いものではありません。 延宝年間 1673? 1681 に描かれた延宝金沢図では東山地区の多くは町家、地子 土地に対する税を払う場所 となって記されています。 今の形になったのは文政3年 1820年 加賀藩が金沢城下に点在していた多くの茶屋を「ひがし」「にし」とまとめ開業許可 文政3年3月25日に を出したことが今の形の始まりとされています。 その当時に作られた建築物、懐華樓 かいかろう など幾つか今も形を残しています。 歴史を少しずつ紐解いていきましょう。 寛永時代 現在と同じ場所ではありませんが、茶屋という場所は歴史的には今で言う風俗街 出合宿 でした 語弊がないように、今回のひがしの歴史を追う上での解釈です。 最も古い記録は元和6年 1620年 堀川町に遊女の記録があり、加賀藩は何度も何度も出合宿を禁止しようと規定を何度も出します。 577• 648• 843• 891• 902 寛永8年 1631年 4月14日、寛永12年に金沢城下を焼く大火 寛永の大火 がありましたが、それでもこの出合宿、遊女出合宿はしぶとく姿を残すこととなります。 高崎事件 元禄時代 そして、加賀騒動の始まりの年となっている元禄3年 1690年 この出合宿の転機となる事件が起こります。 困窮していた武士4人が町人 出合宿つくわの町人11人 と共に19人の遊女を禁制の出合宿を行っていたことが発覚した。 懲りない出合宿に対しての見せしめ的な思惑もあったのだろう。 事件に関わった武士、町人、遊女が刑を受けることになる。 まず、事件の中心となっていた武士は以下の4人。 いい年こいたおっさんから働き盛りの30代〜40代。 悪代官のような61歳の高崎半九郎の姿が目に浮かんでくるのは私だけでしょうか。 高崎半九郎 61歳 五箇山へ流刑 終身刑• 青木治太夫 37歳 五箇山へ流刑、東叡山へ 家族がいたことで酌量• 池田傳七郎 40歳 五箇山へ流刑• 安見興八郎 38歳 五箇山へ流刑 武士は4名は元禄3年7月9日流刑。 流刑地となった五箇山には「流刑小屋」として今もその歴史の痕跡が残っています。 流刑小屋は明治以降は物置と利用されていたが、昭和38年の豪雪によって倒壊、現在の流刑小屋は古文書を参考に復元されたものとのことである。 それにしても実際に見てみると小さい。 また、下記の町人は打首、または耳や鼻などをそがれる刑に処される。 今では信じられない刑です。 77 遊女19人は禁牢の後、元禄3年10月18日に能登州奥郡 輪島周辺 に流刑。 この19人の遊女の詳細も記されています。 どこへ誰のところへがしっかりと書かれているので面白いものです。 ひらがなの二文字の名前は時代を感じさせてくれます。 今では考えられませんがこの時代では、流刑として妻として送られ、または商売の手助けさせられる時代なんだなと。 しか : 能州鳳至郡剣地村 彌二兵衛門組小石村 いずみや長右衛門• さよ : 能州鳳至郡道下村 清助組定庵村 いずみや長右衛門• すま : 能州鳳至郡小伊勢村 八左衞門組宅田村 いずみや長右衛門• くめ : 能州鳳至郡道下村? 助組宮古場村 から物や吉左衛門• きん : 能州鳳至郡大澤村 權兵衞組釜熊村 竹松屋興三右衛門• しち : 能州鳳至郡粟藏村 彦三郎組吉ケ池村 竹松屋興三右衛門• あかし : 能州鳳至郡小伊勢村 八左衛門組與呂見村 ゑびや又四郎• しき : 能州鳳至郡粟藏村? 三郎組徳成谷地村 たばこや利右衛門 以上8人能州鳳至郡外浦へ流刑• 三彌 : 能州鳳至郡中居村 三右衛門組洲衛村 杉山理兵衛• 市彌 : 能州鳳至郡中居村 三右衛門組柏木村 日用取勘右衛門• たも : 能州鳳至郡飯田村 次郎兵衛門組法住寺村 妻として• れん : 能州鳳至郡鴨川村 六臓組會又村 たばこや利右衛門• くめ : 能州鳳至郡宇出津村 源五郎組神和住村 上下之市郎右衛門• つね : 能州鳳至郡宇出津村 源五郎組五十里村 古手買吉兵衞• やつ : 能州鳳至郡松波村太郎右衛門組國重村 いづみや長右衛門• きよ : 能州鳳至郡松波村太郎右衛門組泥木村 最前三國や平兵衞 妻• りく : 能州鳳至郡飯田村次郎兵衛組熊谷村 福光屋喜右衛門 妻• 三笠さん : 能州鳳至郡高屋村長次郎組山中村 から物や右衛門• 89 能登送りにされた遊女、上記の「さよ」 能州鳳至郡道下村 清助組定庵村 いずみや長右衛門のところへ送られたとあります。 きっと彼女のことでしょう。 彼女の話は伝説となって今な語り継がれています。 それは「お小夜伝説」というおはなしで、能登出身だったお小夜だけ能登への流刑は意味が無いということで、五箇山に再度流刑され29年間の数奇な生涯を自ら閉じるというお話です。 石川県の方であれば「鳴き砂伝説」と言うと意外と分かる方もいるかもしれません。 お小夜は寛文5年 1665年 門前町暮坂 生まれとされており元禄3年 1690年 の事件当時、彼女は25歳。 お小夜 さよ の悲恋伝説を紹介しておきます。 昔、能登国・仁岸の郷の渡瀬という部落に、次郎助という百姓家があった。 次郎助の娘お小夜は家が大変貧乏だったので近くの女郎屋に遊女として売られたが、その後、江戸の吉原まで流れてゆき、吉原いちの売れっこ花魅になった。 義理にかたく、情に厚く、芸に秀でていたので、一目千両の花魁お小夜と、もてはやされた。 そのうち同郷の誼で、能登輪島の重蔵という船乗りが、お小夜のもとへ通いつめ、お小夜はこよなく重蔵に魅かれた。 だがあるとき重蔵は輪島に帰ったまま、ばったり寄りつかなくなってしまった。 不審に思ったお小夜が輪島の重蔵のもとへ行ってみると、すでに他の女がいた。 愛憎半ばする心で故郷の靱地へ帰ったお小夜は、海に身を投げて自らの命を絶ってしまった。 その怨念が砂浜にのりうつって、砂の上を歩くと泣き声に似た音をたてるようになった」 現在の場所での茶屋開業許可 宝暦9(1759年)4月10日 金沢城下の大火金沢城下の大火 1万戸あまりが焼失 意外と再建のために江戸幕府より5万両貸し与えられていたということを知った私でした。 少しずつ今の金沢の形になっていきます。 この東山あたりが地子だらけだったということもあるのかもしれませんが、どうしてこの場所になったかという理由は調べ抜けていません。 ご存知のかたいらっしゃいましたら教えて下さい。 旧諸江屋、旧蛍屋が2つの建物 「吉文字や いそ」「越中や 又吉」 に別れているところもこの図から見て取れます。 あいも変わらずというか出会宿などが増えたのでしょう。 その後も風俗に関する心得や「かこい女」を禁止する定書が何度も出されることになります。 1010 少しずつ茶屋を廃止しようと対策がなされていきます。 弘化3年 1846年 12月20日 ひがし茶屋街は「愛宕」(あたご)と名称が変更させられます。 907 愛宕1丁目〜3丁目に改定。 そして、建物の作りまで変えさせようとします。 というのは見つかりにくいようにと二階建てなどの出会宿など特有の作りを普通の建物に改めなさいという理由からです。 913 結果的に言うと今の姿の通り、2階建ての茶屋が残っているように改築は進むことはなく、一度許可した茶屋の廃止はなかなか進まなかったというのが現実です。 そしておよそ20年後の慶応3年 1867年 再び茶屋街が再び公認 9月9日営業開始 されることとなる。 取り締まりより認めたほうが良い。 そういう判断だろう。 現代の風俗の仕組みにも通じるようにも思えるが、当時もそういう判断なのではないだろうか。 これ以降はこの場所は「東新地」「ひがし」呼ばれるようになる。 慶応3年の「東新地細見 さいけん のれん鏡」によると茶屋数112軒 大暖簾61軒、中暖簾42軒、小暖簾9軒 、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人の記録がある。 「東新地絵図」で当時の様子がうかがえるが2階建ては確認できるが3階建ては確認できない。 明治に入ると加賀藩と言うより明治政府の発令が力を持ちます。 なんだか歴史を感じる瞬間です。 明治5年に横浜に停泊していたペルー船籍のマリア・ルス号内の中国人が奴隷であるとして日本政府が開放したという事件をきっかけに人権問題が取り上げられることとなり、明治5年10月2日 「芸娼妓解放令」(人身売買禁止)につながる。 そして貸座敷が公認された後に明治12年「貸座敷規則」で規則が定められる。 明治21年に発行されている「石川県下商工便覧」では今と変わらない「ひがし茶屋」の姿を見ることができるから面白い。 そして、明治34年の「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則俗解」により従い営業することとなる。 こちらは昭和の初期まで存続することとなる。 歴史を紐解くとまた、このひがし茶屋の味わい方も変わってきます。 現代のひがし茶屋ギャラリー 少しずつショップが増えてきたひがし茶屋。 一本路地に入ると昭和の風情が今も残っている。 6月には金沢灯篭流しが行われる。 灯篭には多くの鎮魂の意味があるという。 さいごに ひがし茶屋の歴史いかがだったでしょうか。 この場所が遊郭だったという話は聞くけれど?というぼんやりとした話と話が綺麗に線となってくながりましたでしょうか? ひがし、にしなどと茶屋が分かれるまでは金沢市内に点在していた遊郭。 何度も何度もそれを消し去ろうとするもののなかなかうまく行かず、高崎事件が起こる。 その後、にし、ひがしと場所を決めて営業開始。 それでもルールを守らないなども問題が出てまたまた茶屋を消し去ろうとするけれども上手く行かず。 そして、明治、大正は規律の元営業していたが先の大戦のあとは徐々に今の形に。 明治〜昭和初期あたりまで調べが甘かったかなぁと反省していますが、おおまかな歴史の流れがお分かりいただけたでしょうか? 金沢観光として必ず訪れて欲しいこの「ひがし茶屋」の歴史を知ることでまた、味わいの出る場所になるのではないでしょうか。 ひがし茶屋へのアクセス ひがし茶屋 〒920-0831 石川県金沢市東山• バス: 金沢駅から橋場町 はしばちょう 下車 10分程度 混んでなければワンメータ程度です• タクシー:「ひがし茶屋」までの一声• 徒歩: 金沢駅から40分 かなり大変です 近江町市場から20分 結構汗かきます.

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【石川県】歴史的風情が残る町、金沢観光でやるべき4つのこと

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この記事の目次• 金沢観光といえば美味しい海鮮物と兼六園。 絵として思い浮かぶのは何でしょうか?いつも目にする兼六園の霞ヶ池に立つことじ灯篭の絵でしょうか?はたまた「ひがしやま茶屋」の風情でしょうか? この風景。 見覚えがあるのではないでしょうか。 テレビCMにもよく使われていて、金沢といえばこの風景という風景の一つではないかと思います。 この「ひがし茶屋」はどういう場所なのかを知るだけでまた金沢観光の味わい方も違ってくるかもしれません。 金沢人でも詳しい歴史を知らないのでは?と思います。 難しくて大変「退屈」なブログ内容かと思いますが 汗 歴史を知って深く味わうということをコンセプトに本記事を利用していただけると本望です。 夜のひがし茶屋もまた風情があります。 ひがし茶屋のはじまり 東山茶屋そのものはそれほど古いものではありません。 延宝年間 1673? 1681 に描かれた延宝金沢図では東山地区の多くは町家、地子 土地に対する税を払う場所 となって記されています。 今の形になったのは文政3年 1820年 加賀藩が金沢城下に点在していた多くの茶屋を「ひがし」「にし」とまとめ開業許可 文政3年3月25日に を出したことが今の形の始まりとされています。 その当時に作られた建築物、懐華樓 かいかろう など幾つか今も形を残しています。 歴史を少しずつ紐解いていきましょう。 寛永時代 現在と同じ場所ではありませんが、茶屋という場所は歴史的には今で言う風俗街 出合宿 でした 語弊がないように、今回のひがしの歴史を追う上での解釈です。 最も古い記録は元和6年 1620年 堀川町に遊女の記録があり、加賀藩は何度も何度も出合宿を禁止しようと規定を何度も出します。 577• 648• 843• 891• 902 寛永8年 1631年 4月14日、寛永12年に金沢城下を焼く大火 寛永の大火 がありましたが、それでもこの出合宿、遊女出合宿はしぶとく姿を残すこととなります。 高崎事件 元禄時代 そして、加賀騒動の始まりの年となっている元禄3年 1690年 この出合宿の転機となる事件が起こります。 困窮していた武士4人が町人 出合宿つくわの町人11人 と共に19人の遊女を禁制の出合宿を行っていたことが発覚した。 懲りない出合宿に対しての見せしめ的な思惑もあったのだろう。 事件に関わった武士、町人、遊女が刑を受けることになる。 まず、事件の中心となっていた武士は以下の4人。 いい年こいたおっさんから働き盛りの30代〜40代。 悪代官のような61歳の高崎半九郎の姿が目に浮かんでくるのは私だけでしょうか。 高崎半九郎 61歳 五箇山へ流刑 終身刑• 青木治太夫 37歳 五箇山へ流刑、東叡山へ 家族がいたことで酌量• 池田傳七郎 40歳 五箇山へ流刑• 安見興八郎 38歳 五箇山へ流刑 武士は4名は元禄3年7月9日流刑。 流刑地となった五箇山には「流刑小屋」として今もその歴史の痕跡が残っています。 流刑小屋は明治以降は物置と利用されていたが、昭和38年の豪雪によって倒壊、現在の流刑小屋は古文書を参考に復元されたものとのことである。 それにしても実際に見てみると小さい。 また、下記の町人は打首、または耳や鼻などをそがれる刑に処される。 今では信じられない刑です。 77 遊女19人は禁牢の後、元禄3年10月18日に能登州奥郡 輪島周辺 に流刑。 この19人の遊女の詳細も記されています。 どこへ誰のところへがしっかりと書かれているので面白いものです。 ひらがなの二文字の名前は時代を感じさせてくれます。 今では考えられませんがこの時代では、流刑として妻として送られ、または商売の手助けさせられる時代なんだなと。 しか : 能州鳳至郡剣地村 彌二兵衛門組小石村 いずみや長右衛門• さよ : 能州鳳至郡道下村 清助組定庵村 いずみや長右衛門• すま : 能州鳳至郡小伊勢村 八左衞門組宅田村 いずみや長右衛門• くめ : 能州鳳至郡道下村? 助組宮古場村 から物や吉左衛門• きん : 能州鳳至郡大澤村 權兵衞組釜熊村 竹松屋興三右衛門• しち : 能州鳳至郡粟藏村 彦三郎組吉ケ池村 竹松屋興三右衛門• あかし : 能州鳳至郡小伊勢村 八左衛門組與呂見村 ゑびや又四郎• しき : 能州鳳至郡粟藏村? 三郎組徳成谷地村 たばこや利右衛門 以上8人能州鳳至郡外浦へ流刑• 三彌 : 能州鳳至郡中居村 三右衛門組洲衛村 杉山理兵衛• 市彌 : 能州鳳至郡中居村 三右衛門組柏木村 日用取勘右衛門• たも : 能州鳳至郡飯田村 次郎兵衛門組法住寺村 妻として• れん : 能州鳳至郡鴨川村 六臓組會又村 たばこや利右衛門• くめ : 能州鳳至郡宇出津村 源五郎組神和住村 上下之市郎右衛門• つね : 能州鳳至郡宇出津村 源五郎組五十里村 古手買吉兵衞• やつ : 能州鳳至郡松波村太郎右衛門組國重村 いづみや長右衛門• きよ : 能州鳳至郡松波村太郎右衛門組泥木村 最前三國や平兵衞 妻• りく : 能州鳳至郡飯田村次郎兵衛組熊谷村 福光屋喜右衛門 妻• 三笠さん : 能州鳳至郡高屋村長次郎組山中村 から物や右衛門• 89 能登送りにされた遊女、上記の「さよ」 能州鳳至郡道下村 清助組定庵村 いずみや長右衛門のところへ送られたとあります。 きっと彼女のことでしょう。 彼女の話は伝説となって今な語り継がれています。 それは「お小夜伝説」というおはなしで、能登出身だったお小夜だけ能登への流刑は意味が無いということで、五箇山に再度流刑され29年間の数奇な生涯を自ら閉じるというお話です。 石川県の方であれば「鳴き砂伝説」と言うと意外と分かる方もいるかもしれません。 お小夜は寛文5年 1665年 門前町暮坂 生まれとされており元禄3年 1690年 の事件当時、彼女は25歳。 お小夜 さよ の悲恋伝説を紹介しておきます。 昔、能登国・仁岸の郷の渡瀬という部落に、次郎助という百姓家があった。 次郎助の娘お小夜は家が大変貧乏だったので近くの女郎屋に遊女として売られたが、その後、江戸の吉原まで流れてゆき、吉原いちの売れっこ花魅になった。 義理にかたく、情に厚く、芸に秀でていたので、一目千両の花魁お小夜と、もてはやされた。 そのうち同郷の誼で、能登輪島の重蔵という船乗りが、お小夜のもとへ通いつめ、お小夜はこよなく重蔵に魅かれた。 だがあるとき重蔵は輪島に帰ったまま、ばったり寄りつかなくなってしまった。 不審に思ったお小夜が輪島の重蔵のもとへ行ってみると、すでに他の女がいた。 愛憎半ばする心で故郷の靱地へ帰ったお小夜は、海に身を投げて自らの命を絶ってしまった。 その怨念が砂浜にのりうつって、砂の上を歩くと泣き声に似た音をたてるようになった」 現在の場所での茶屋開業許可 宝暦9(1759年)4月10日 金沢城下の大火金沢城下の大火 1万戸あまりが焼失 意外と再建のために江戸幕府より5万両貸し与えられていたということを知った私でした。 少しずつ今の金沢の形になっていきます。 この東山あたりが地子だらけだったということもあるのかもしれませんが、どうしてこの場所になったかという理由は調べ抜けていません。 ご存知のかたいらっしゃいましたら教えて下さい。 旧諸江屋、旧蛍屋が2つの建物 「吉文字や いそ」「越中や 又吉」 に別れているところもこの図から見て取れます。 あいも変わらずというか出会宿などが増えたのでしょう。 その後も風俗に関する心得や「かこい女」を禁止する定書が何度も出されることになります。 1010 少しずつ茶屋を廃止しようと対策がなされていきます。 弘化3年 1846年 12月20日 ひがし茶屋街は「愛宕」(あたご)と名称が変更させられます。 907 愛宕1丁目〜3丁目に改定。 そして、建物の作りまで変えさせようとします。 というのは見つかりにくいようにと二階建てなどの出会宿など特有の作りを普通の建物に改めなさいという理由からです。 913 結果的に言うと今の姿の通り、2階建ての茶屋が残っているように改築は進むことはなく、一度許可した茶屋の廃止はなかなか進まなかったというのが現実です。 そしておよそ20年後の慶応3年 1867年 再び茶屋街が再び公認 9月9日営業開始 されることとなる。 取り締まりより認めたほうが良い。 そういう判断だろう。 現代の風俗の仕組みにも通じるようにも思えるが、当時もそういう判断なのではないだろうか。 これ以降はこの場所は「東新地」「ひがし」呼ばれるようになる。 慶応3年の「東新地細見 さいけん のれん鏡」によると茶屋数112軒 大暖簾61軒、中暖簾42軒、小暖簾9軒 、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人の記録がある。 「東新地絵図」で当時の様子がうかがえるが2階建ては確認できるが3階建ては確認できない。 明治に入ると加賀藩と言うより明治政府の発令が力を持ちます。 なんだか歴史を感じる瞬間です。 明治5年に横浜に停泊していたペルー船籍のマリア・ルス号内の中国人が奴隷であるとして日本政府が開放したという事件をきっかけに人権問題が取り上げられることとなり、明治5年10月2日 「芸娼妓解放令」(人身売買禁止)につながる。 そして貸座敷が公認された後に明治12年「貸座敷規則」で規則が定められる。 明治21年に発行されている「石川県下商工便覧」では今と変わらない「ひがし茶屋」の姿を見ることができるから面白い。 そして、明治34年の「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則俗解」により従い営業することとなる。 こちらは昭和の初期まで存続することとなる。 歴史を紐解くとまた、このひがし茶屋の味わい方も変わってきます。 現代のひがし茶屋ギャラリー 少しずつショップが増えてきたひがし茶屋。 一本路地に入ると昭和の風情が今も残っている。 6月には金沢灯篭流しが行われる。 灯篭には多くの鎮魂の意味があるという。 さいごに ひがし茶屋の歴史いかがだったでしょうか。 この場所が遊郭だったという話は聞くけれど?というぼんやりとした話と話が綺麗に線となってくながりましたでしょうか? ひがし、にしなどと茶屋が分かれるまでは金沢市内に点在していた遊郭。 何度も何度もそれを消し去ろうとするもののなかなかうまく行かず、高崎事件が起こる。 その後、にし、ひがしと場所を決めて営業開始。 それでもルールを守らないなども問題が出てまたまた茶屋を消し去ろうとするけれども上手く行かず。 そして、明治、大正は規律の元営業していたが先の大戦のあとは徐々に今の形に。 明治〜昭和初期あたりまで調べが甘かったかなぁと反省していますが、おおまかな歴史の流れがお分かりいただけたでしょうか? 金沢観光として必ず訪れて欲しいこの「ひがし茶屋」の歴史を知ることでまた、味わいの出る場所になるのではないでしょうか。 ひがし茶屋へのアクセス ひがし茶屋 〒920-0831 石川県金沢市東山• バス: 金沢駅から橋場町 はしばちょう 下車 10分程度 混んでなければワンメータ程度です• タクシー:「ひがし茶屋」までの一声• 徒歩: 金沢駅から40分 かなり大変です 近江町市場から20分 結構汗かきます.

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