いとあはれなり。 『枕草子』の現代語訳:26

いとあはれなり: 渡嘉敷島の集団自決は軍命令であるとする説が覆る決定的な材料

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同じ言論機関として、違和感を覚える社説だ。 寛仁さまは、 皇位が男系で維持されてきたことを強調し、 政府の「皇室典範に関する有識者会議」が一年足らずの議論で女系容認の結論を出したことを「拙速」と批判されている。 また、 男系維持のため、元皇族の皇籍復帰や養子制度導入などを提案された。 朝日は「一連の寛仁さまの発言は、皇族として守るべき一線を超えているように思う」とした上で、「天皇は日本国民統合の象徴だ。 国民の意見が分かれている問題では、一方にくみする発言は控えた方がいい。 これは皇族も同じである」「そろそろ発言を控えてはいかがだろうか」と書いている。 寛仁さまの発言を批判することは言論の自由の範囲内であるが、 その発言を封じようとする社説は、言論・報道機関として、守るべき一線を越えているように思われる。 皇位継承問題に限らず、靖国、歴史認識問題など多くのテーマで、産経と朝日は対立しているが、もし、朝日の言論が封殺されるような事態が起きれば、言論の自由を守る立場から、産経は朝日を徹底して擁護するだろう。 現に過去に起きた朝日へのテロ行為に対しても、この立場を貫いてきた。 朝日は、寛仁さまの発言の趣旨について「戦後に皇籍を離れた元皇族を復帰させるなどして男系維持を図るべきだ」などとしている。 しかし、寛仁さまが言わんとしていることは、安易に女系を認める前に、いろいろな選択肢があり、あらゆる手を尽くすべきだという趣旨だ。 それでも男系維持が難しければ「女帝・女系の議論に入っていけばいい」「最終的には皆さんのご判断を待つ」(雑誌『正論』三月号)とも言っている。 「国民的な議論が不十分だ」という寛仁さまの発言全体の趣旨を正しくとらえてほしかった。 今国会での皇室典範の拙速な改正に反対する国会議員の署名は、百七十三人に達した。 皇位継承問題は、寛仁さまが指摘するように、政治を超えた日本の歴史と伝統文化の問題である。 結論を急ぐべきではない。 Weblog: まーくんの言うだけ言ってみる Tracked: 2006-02-03 12:29 Excerpt: 昨日の朝ピー新聞の斜説には正直度肝を抜かれました。 Weblog: まいっちん愚ログ Tracked: 2006-02-03 12:49 Excerpt: 話題にすべき事柄は沢山あるのだろうが、憂国日記としては盛り上がっているこの事案を話題にしなくてはならない。 様々な閣僚や派閥から改正慎重論が出てきている。 流石海千山千の議員さん達である。 本件では.. Weblog: ラッキーゲラン憂国日記 Tracked: 2006-02-03 16:29 Excerpt: 産経新聞【主張】朝日社説 「言論封じ」こそ控えては Weblog: このブログには嘘が書いてあるかもしれません。 Tracked: 2006-02-03 17:22.

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清少納言もインコ・オウムを知っていた!?「春はあけぼの」以外の枕草子

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エモいは当初こちらの意味で使われ始めたが、現在こちらの意味での使用は少ない。 と 感情的な意味を表すコギャル語とのこと。 これがコギャルを中心に波及したものか、それとは別にコギャルが使い始めたのかは不明。 (読者追加情報) と注釈が入っています。 このことから「エモい」という言葉は もともとは音楽ファンから始まりその後コギャルによって広められた と解釈するのが正しいのかもしれません。 バンドが由来? 先ほどの注釈で音楽ファンの間で使われていたと言われていますが、 調べてみた所、もともとの由来は 2000年代初頭の海外バンドからだったという話があります。 この時代はストレートで感情的・情緒的な音楽が多く登場するようになり、 これらの音楽が 感情的・情緒的を表すエモーショナルの略である「エモ」というジャンル として分類されるようになってから 「エモい」という言葉が音楽ファンの間で急速に広がっていったとのこと。 「エモい」という言葉は感情・感動を表す言葉であることは上記の通りですが、 「あはれ」という言葉は しみじみとした情緒。 味わい。 感動を受けるさま。 立派だ。 感心だ などの意味があり、 「エモい」と似ている意味であることがわかります。 実際に国語辞典の編纂者である飯間さんのツイートでは 古代には、「エモい」とほとんど同じ用法を持った「あはれ」ということばがありました。 「いとあはれ」と言っていた昔の宮廷人は、今の時代に生まれたら、さしずめ「超エモい」と表現するはずです。 昔の「いとあはれ」という言葉を現代の言葉で言うなら「超エモい」となるという意外な事実笑 昔の人も現代の人も考えることは一緒ということでしょうかね笑 意外と「エモい」にはいろいろと面白い事実があったようです。 hatenablog. で放送されていた「こたつランキング」でポータブルこたつ、一人用こたつというのが Yahoo! yomiuri.

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わさび : 作品情報

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第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。 当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。 渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。 琉球政府の当局者が実名で証 言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。 当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。 この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。 村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。 これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。 赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。 作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。 平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。 武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。 渡嘉敷村によると、現在までに判明している集団自決の死者は315人。 【用語解説】戦傷病者戦没者遺族等援護法 日中戦争や第二次大戦で戦死、負傷した軍人や軍属、遺族らを援護するため昭和27年4月に施行。 法の目的に「国家補償の精神に基づく」と明記され、障害年金や遺族年金、弔慰金などを国が支給する。 サイパン島などの南方諸島や沖縄で日本軍の命を受けて行動し、戦闘により死傷した日本人についても戦闘参加者として援護対象とされている。 沖縄戦の渡嘉敷島で起きた集団自決の「軍命令」を新証言で否定した元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)。 島民が年金や弔慰金を受け取れるようにするために名前を使われた赤松嘉次元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきた。 照屋さんは、自分のついた「うそ」で、赤松元大尉が長年非難され続けてきたことがつらかったという。 赤松元大尉は昭和19年9月、海上挺身隊第3戦隊の隊長として渡嘉敷島に赴任した。 任務は120キロ爆雷を積んだベニヤ製特攻艇を使った米艦船への体当たり攻撃。 ところが、20年3月の米軍主力部隊上陸前、作戦秘匿を理由に出撃前に特攻艇の自沈を命じられ、終戦まで島内にとどまった。 戦傷病者戦没者遺族等援護法では、日本軍の命令での行動中に死傷した、沖縄やサイパンの一般住民は「戦闘参加者」として準軍属として扱うことになっている。 厚生労働省によると、集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたるという。 照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。 こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、厚生省(当時)は32年5月、集団自決した島民を「戦闘参加者」として認定。 遺族や負傷者の援護法適用が決まった。 ただ、赤松元大尉の思いは、歴史の流れのなかで踏みにじられてきた。 45年3月、集団自決慰霊祭出席のため渡嘉敷島に赴いた赤松元大尉は、島で抗議集会が開かれたため、慰霊祭に出席できなかった。 中学の教科書ではいまだに「『集団自決』を強制されたりした人々もあった」「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)、「なかには、強制されて集団自決した人もいた」(清水書院)と記述されている。 渡嘉敷村によると、集団自決で亡くなったと確認されているのは315人。 平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、「軍命令」とは一切刻まれていない。 渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末の文章だという。 村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られている。 同村の担当者は「命令があったかどうかは、いろいろな問題があるので、はっきりとは言えない。 しかし、命令があったという人に実際に確認するとあやふやなことが多いのは事実。 島民としては、『命令はなかった』というの が、本当のところではないか」と話した。 今回の照屋さんの証言について、「沖縄集団自決冤罪(えんざい)訴訟を支援する会」の松本藤一弁護士は「虚偽の自決命令がなぜ広がったのか長らく疑問だったが、援護法申請のためであったことが明らかになった。 決定的な事実だ。 赤松隊長の同意については初めて聞く話なので、さらに調査したい」とコメント。 昨年、匿名を条件に照屋さんから話を聞いていた自由主義史観研究会の代表、藤岡信勝拓殖大教授は 「名前を明かしたら沖縄では生きていけないと口止めされていたが、今回全面的に証言することを決断されたことに感動している。 また一つ歴史の真実が明らかになったことを喜びたい」と話している。 照屋さんは、CS放送「日本文化チャンネル桜」でも同様の内容を証言。 その様子は同社ホームページで視聴することができる。 いつ死ぬかわからない。 以前は新聞記者をしていたが、政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になった。 これは断言する。 隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。 座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。 沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。 南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。 でも厚生省が『だめだ。 日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。 喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。 そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。 赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。 『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。 しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。 だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。 でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。 赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。 赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。 玉井村長も亡くなった。 赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」 <産経新聞> ------------ここまでiZaより引用です------------- 夏も終わります。 夏だけでなく秋も冬も、そして春も 戦争の悲しみを思いましょう。 決してこの空の下で起こしてはならない戦禍。 悲しみ。 哀しみ。 合掌であります。 そして実名での証言に敬意を表したいと思います。 この記事へのトラックバック Excerpt: 【沖縄戦】「ウソをつき通してきたが…」 "日本軍の命令で自決"、実は創作 渡嘉敷島集団自決で、初証言 第二次大戦末期の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍.. Weblog: 白の女王 Tracked: 2006-08-29 08:38 Excerpt: 「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わ.. Weblog: 陶芸ブログ 炎と土にたわむれて Tracked: 2006-08-29 12:34.

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