おい はぎの そうい。 夏目漱石作品_日语文学作品赏析《坊っちゃん》(4)_沪江日语

夏目漱石 坊っちゃん

おい はぎの そうい

何だか ワクワ クする。 私の父 は仕事 場まで 電車で 2時間 かかる から 座って 行くた めに朝 早い電 車に乗 って出 勤して るらし い。 本来な ら7時 の電車 で間に 合うら しいけ ど、 5時半 の電車 に乗っ てるん だって。 そのた めに母 は毎日 4時半 起床。 眠くて 気が遠 くなる って会 う度言 ってる よ。 「タモ リ倶楽 部」に 出るの かぁ。 スゴイ ね、愛 理ちゃ ん。 しかも 誕生日 放送。 嬉しい 報告あ りがと う。 「ワラ ッタメ 天国」 もそう だし、 昨日の 「王様 のブラ ンチ」 もそう だし、 テレビ に映る 愛理ち ゃんを 見ると 本当に 嬉しい よ。 見なが ら緊張 感半端 ないけ ど。 笑 おぎや はぎの ユルい 笑いが 大好き な旦那 と 4月1 2日の 「タモ リ倶楽 部」楽 しみた いと思 います。 んじゃ 、今か ら新曲 のMV チェッ クして くる。 セクシ ーなん だよね ? よし、 わかっ た。 旦那に 見せる のやめ とく。 花粉症 がひど くて抵 抗力か なり落 ちてる から。 刺激物 は避け ないと ね。

次の

夏目漱石作品_日语文学作品赏析《坊っちゃん》(4)_沪江日语

おい はぎの そうい

七 おれは 即夜 ( そくや )下宿を引き 払 ( はら )った。 宿へ帰って荷物をまとめていると、 女房 ( にょうぼう )が何か 不都合 ( ふつごう )でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、 云 ( い )っておくれたら改めますと云う。 どうも 驚 ( おど )ろく。 世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり 揃 ( そろ )ってるんだろう。 出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだか 分 ( わか )りゃしない。 まるで 気狂 ( きちがい )だ。 こんな者を相手に 喧嘩 ( けんか )をしたって 江戸 ( えど )っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。 出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。 車屋が、どちらへ参りますと云うから、だまって 尾 ( つ )いて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。 面倒 ( めんどう )だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。 こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。 そうしたら、そこが天意に 叶 ( かな )ったわが宿と云う事にしよう。 とぐるぐる、 閑静 ( かんせい )で住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう 鍛冶屋町 ( かじやちょう )へ出てしまった。 ここは士族 屋敷 ( やしき )で下宿屋などのある町ではないから、もっと 賑 ( にぎ )やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。 おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。 うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を 控 ( ひか )えているくらいだから、この辺の事情には通じているに 相違 ( そうい )ない。 あの人を 尋 ( たず )ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。 幸 ( さいわい )一度 挨拶 ( あいさつ )に来て勝手は知ってるから、 捜 ( さ )がしてあるく面倒はない。 ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ご 免 ( めん )ご免と二返ばかり云うと、 奥 ( おく )から五十ぐらいな 年寄 ( としより )が古風な 紙燭 ( しそく )をつけて、出て来た。 おれは若い女も 嫌 ( きら )いではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。 大方 清 ( きよ )がすきだから、その 魂 ( たましい )が方々のお 婆 ( ばあ )さんに乗り移るんだろう。 これは大方うらなり君のおっ 母 ( か )さんだろう。 切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。 まあお上がりと云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を 玄関 ( げんかん )まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。 うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に 萩野 ( はぎの )と云って老人夫婦ぎりで 暮 ( く )らしているものがある、いつぞや 座敷 ( ざしき )を明けておいても 無駄 ( むだ )だから、たしかな人があるなら貸してもいいから 周旋 ( しゅうせん )してくれと 頼 ( たの )んだ事がある。 今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。 その夜から萩野の家の下宿人となった。 驚 ( おどろ )いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、 翌日 ( あくるひ )から入れ 違 ( ちが )いに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を 占領 ( せんりょう )した事だ。 さすがのおれもこれにはあきれた。 世の中はいかさま師ばかりで、お 互 ( たがい )に乗せっこをしているのかも知れない。 いやになった。 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、 世間並 ( せけんなみ )にしなくちゃ、 遣 ( や )りきれない訳になる。 巾着切 ( きんちゃくきり )の上前をはねなければ三度のご 膳 ( ぜん )が 戴 ( いただ )けないと、事が 極 ( き )まればこうして、生きてるのも考え物だ。 と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を 縊 ( くく )っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。 考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を 資本 ( もとで )にして牛乳屋でも始めればよかった。 そうすれば清もおれの 傍 ( そば )を 離 ( はな )れずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに 暮 ( くら )される。 いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして 田舎 ( いなか )へ来てみると清はやっぱり善人だ。 あんな 気立 ( きだて )のいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。 婆さん、おれの立つときに、少々 風邪 ( かぜ )を引いていたが 今頃 ( いまごろ )はどうしてるか知らん。 先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々 尋 ( たず )ねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。 ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに 双方 ( そうほう )共上品だ。 爺 ( じい )さんが 夜 ( よ )るになると、変な声を出して 謡 ( うたい )をうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと 無暗 ( むやみ )に出て来ないから大きに楽だ。 お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。 どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお 出 ( い )でなんだのぞなもしなどと質問をする。 奥さんがあるように見えますかね。 可哀想 ( かわいそう )にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと 冒頭 ( ぼうとう )を置いて、どこの 誰 ( だれ )さんは二十でお 嫁 ( よめ )をお 貰 ( もら )いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を 二人 ( ふたり )お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて 反駁 ( はんばく )を試みたには 恐 ( おそ )れ入った。 それじゃ 僕 ( ぼく )も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を 真似 ( まね )て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。 「本当の 本当 ( ほんま )のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」 「そうじゃろうがな、もし。 若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この 挨拶 ( あいさつ )には痛み入って返事が出来なかった。 「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに 極 ( きま )っとらい。 私はちゃんと、もう、 睨 ( ね )らんどるぞなもし」 「へえ、 活眼 ( かつがん )だね。 どうして、睨らんどるんですか」 「どうしててて。 東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち 焦 ( こ )がれておいでるじゃないかなもし」 「こいつあ 驚 ( おどろ )いた。 大変な活眼だ」 「 中 ( あた )りましたろうがな、もし」 「そうですね。 中ったかも知れませんよ」 「しかし今時の 女子 ( おなご )は、 昔 ( むかし )と 違 ( ちご )うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」 「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」 「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」 「それで、やっと安心した。 先生、あの遠山のお 嬢 ( じょう )さんをご存知かなもし」 「いいえ、知りませんね」 「まだご存知ないかなもし。 ここらであなた一番の 別嬪 ( べっぴん )さんじゃがなもし。 あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。 まだお聞きんのかなもし」 「うん、マドンナですか。 僕あ芸者の名かと思った」 「いいえ、あなた。 マドンナと云うと 唐人 ( とうじん )の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」 「そうかも知れないね。 驚いた」 「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」 「野だがつけたんですかい」 「いいえ、あの 吉川 ( よしかわ )先生がお付けたのじゃがなもし」 「そのマドンナが不たしかなんですかい」 「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」 「 厄介 ( やっかい )だね。 渾名 ( あだな )の付いてる女にゃ昔から 碌 ( ろく )なものは居ませんからね。 そうかも知れませんよ」 「ほん当にそうじゃなもし。 鬼神 ( きじん )のお 松 ( まつ )じゃの、 妲妃 ( だっき )のお百じゃのてて 怖 ( こわ )い女が 居 ( お )りましたなもし」 「マドンナもその同類なんですかね」 「そのマドンナさんがなもし、あなた。 あのうらなり君が、そんな 艶福 ( えんぷく )のある男とは思わなかった。 人は 見懸 ( みか )けによらない者だな。 それや、これやでお 輿入 ( こしいれ )も延びているところへ、あの教頭さんがお 出 ( い )でて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」 「あの赤シャツがですか。 ひどい 奴 ( やつ )だ。 どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。 すると赤シャツさんが、 手蔓 ( てづる )を求めて遠山さんの方へ 出入 ( でいり )をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを 手馴付 ( てなづ )けておしまいたのじゃがなもし。 赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが 悪 ( わ )るく云いますのよ。 いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお 出 ( いで )たけれ、その方に 替 ( か )えよてて、それじゃ 今日様 ( こんにちさま )へ済むまいがなもし、あなた」 「全く済まないね。 今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」 「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の 堀田 ( ほった )さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。 破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにお 戻 ( もど )りたそうな。 赤シャツさんと堀田さんは、それ以来 折合 ( おりあい )がわるいという評判ぞなもし」 「よくいろいろな事を知ってますね。 どうして、そんな 詳 ( くわ )しい事が分るんですか。 感心しちまった」 「 狭 ( せま )いけれ何でも分りますぞなもし」 分り過ぎて困るくらいだ。 この 容子 ( ようす )じゃおれの 天麩羅 ( てんぷら )や 団子 ( だんご )の事も知ってるかも知れない。 厄介 ( やっかい )な所だ。 しかしお 蔭様 ( かげさま )でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。 ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しない。 おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。 「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」 「山嵐て何ぞなもし」 「山嵐というのは堀田の事ですよ」 「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはある 方 ( かた )ぞな、もし。 それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」 「つまりどっちがいいんですかね」 「つまり月給の多い方が 豪 ( えら )いのじゃろうがなもし」 これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。 それから二三日して学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。 やっと参りました。 と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と云って出て行った。 取り上げてみると清からの便りだ。 符箋 ( ふせん )が二三 枚 ( まい )ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ 廻 ( まわ )して、いか銀から、 萩野 ( はぎの )へ廻って来たのである。 その上山城屋では一週間ばかり 逗留 ( とうりゅう )している。 宿屋だけに手紙まで 泊 ( とめ )るつもりなんだろう。 開いてみると、非常に長いもんだ。 坊 ( ぼ )っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり 寝 ( ね )ていたものだから、つい 遅 ( おそ )くなって済まない。 その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。 甥 ( おい )に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ 下 ( し )たがきを一返して、それから清書をした。 清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。 読みにくいかも知れないが、これでも 一生懸命 ( いっしょうけんめい )にかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。 という 冒頭 ( ぼうとう )で四尺ばかり何やらかやら 認 ( したた )めてある。 なるほど読みにくい。 字がまずいばかりではない、 大抵 ( たいてい )平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか 句読 ( くとう )をつけるのによっぽど骨が折れる。 おれは 焦 ( せ )っ 勝 ( か )ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは 真面目 ( まじめ )になって、 始 ( はじめ )から 終 ( しまい )まで読み通した。 読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。 部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう 椽鼻 ( えんばな )へ出て 腰 ( こし )をかけながら 鄭寧 ( ていねい )に拝見した。 すると 初秋 ( はつあき )の風が 芭蕉 ( ばしょう )の葉を動かして、 素肌 ( すはだ )に 吹 ( ふ )きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、 向 ( むこ )うの生垣まで飛んで行きそうだ。 おれはそんな事には構っていられない。 坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ 肝癪 ( かんしゃく )が強過ぎてそれが心配になる。 坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。 おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え 込 ( こ )んでいると、しきりの 襖 ( ふすま )をあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。 まだ見てお 出 ( い )でるのかなもし。 えっぽど長いお手紙じゃなもし、と云ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして 膳 ( ぜん )についた。 見ると今夜も 薩摩芋 ( さつまいも )の 煮 ( に )つけだ。 ここのうちは、いか銀よりも 鄭寧 ( ていねい )で、親切で、しかも上品だが、 惜 ( お )しい事に食い物がまずい。 昨日も芋、 一昨日 ( おととい )も芋で今夜も芋だ。 おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。 うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。 清ならこんな時に、おれの好きな 鮪 ( まぐろ )のさし身か、 蒲鉾 ( かまぼこ )のつけ焼を食わせるんだが、 貧乏 ( びんぼう )士族のけちん 坊 ( ぼう )と来ちゃ仕方がない。 どう考えても清といっしょでなくっちあ 駄目 ( だめ )だ。 もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京から 召 ( よ )び 寄 ( よ )せてやろう。 天麩羅 蕎麦 ( そば )を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。 禅宗 ( ぜんしゅう )坊主だって、これよりは口に 栄耀 ( えよう )をさせているだろう。 生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。 今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。 しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。 汽車にでも乗って 出懸 ( でか )けようと、例の 赤手拭 ( あかてぬぐい )をぶら下げて 停車場 ( ていしゃば )まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。 ベンチへ腰を懸けて、 敷島 ( しきしま )を吹かしていると、 偶然 ( ぐうぜん )にもうらなり君がやって来た。 おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。 平常 ( ふだん )から天地の間に 居候 ( いそうろう )をしているように、小さく構えているのがいかにも 憐 ( あわ )れに見えたが、今夜は憐れどころの 騒 ( さわ )ぎではない。 出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと 明日 ( あした )から 結婚 ( けっこん )さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと 威勢 ( いせい )よく席を 譲 ( ゆず )ると、うらなり君は 恐 ( おそ )れ入った体裁で、いえ 構 ( かも )うておくれなさるな、と 遠慮 ( えんりょ )だか何だかやっぱり立ってる。 少し待たなくっちゃ出ません、 草臥 ( くたび )れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。 実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。 それではお 邪魔 ( じゃま )を 致 ( いた )しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。 世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。 山嵐のようにおれが居なくっちゃ 日本 ( にっぽん )が困るだろうと云うような面を 肩 ( かた )の上へ 載 ( の )せてる奴もいる。 そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。 教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの 狸 ( たぬき )もいる。 皆々 ( みなみな )それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように 大人 ( おとな )しくしているのは見た事がない。 顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに 靡 ( なび )くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。 赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な 旦那様 ( だんなさま )が出来るもんか。 「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。 大分たいぎそうに見えますが……」「いえ、別段これという持病もないですが……」 「そりゃ結構です。 からだが悪いと人間も駄目ですね」 「あなたは大分ご 丈夫 ( じょうぶ )のようですな」 「ええ 瘠 ( や )せても病気はしません。 病気なんてものあ大嫌いですから」 うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。 ところへ入口で若々しい女の笑声が 聞 ( きこ )えたから、何心なく 振 ( ふ )り返ってみるとえらい奴が来た。 色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが 並 ( なら )んで 切符 ( きっぷ )を売る窓の前に立っている。 おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。 何だか 水晶 ( すいしょう )の 珠 ( たま )を 香水 ( こうすい )で 暖 ( あっ )ためて、 掌 ( てのひら )へ 握 ( にぎ )ってみたような心持ちがした。 年寄の方が背は低い。 しかし顔はよく似ているから親子だろう。 おれは、や、来たなと思う 途端 ( とたん )に、うらなり君の事は 全然 ( すっかり )忘れて、若い女の方ばかり見ていた。 すると、うらなり君が 突然 ( とつぜん )おれの 隣 ( となり )から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。 マドンナじゃないかと思った。 三人は切符所の前で軽く挨拶している。 遠いから何を云ってるのか分らない。 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。 早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ 馳 ( か )け 込 ( こ )んで来たものがある。 見れば赤シャツだ。 何だかべらべら然たる着物へ 縮緬 ( ちりめん )の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り 金鎖 ( きんぐさ )りをぶらつかしている。 あの金鎖りは 贋物 ( にせもの )である。 赤シャツは 誰 ( だれ )も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。 赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符 売下所 ( うりさげじょ )の前に話している三人へ 慇懃 ( いんぎん )にお 辞儀 ( じぎ )をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく 猫足 ( ねこあし )にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。 あの時計はたしかかしらんと、自分の 金側 ( きんがわ )を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの 傍 ( そば )へ腰を 卸 ( おろ )した。 女の方はちっとも見返らないで 杖 ( つえ )の上に 顋 ( あご )をのせて、正面ばかり 眺 ( なが )めている。 年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。 いよいよマドンナに違いない。 やがて、ピューと 汽笛 ( きてき )が鳴って、車がつく。 待ち合せた連中はぞろぞろ 吾 ( わ )れ 勝 ( がち )に乗り込む。 赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。 上等へ乗ったって威張れるどころではない、 住田 ( すみた )まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。 こういうおれでさえ上等を 奮発 ( ふんぱつ )して白切符を 握 ( にぎ )ってるんでもわかる。 もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、 大抵 ( たいてい )は下等へ乗る。 赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。 うらなり君は活版で 押 ( お )したように下等ばかりへ乗る男だ。 先生、下等の車室の入口へ立って、何だか 躊躇 ( ちゅうちょ )の 体 ( てい )であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。 おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。 上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。 温泉へ着いて、三階から、 浴衣 ( ゆかた )のなりで 湯壺 ( ゆつぼ )へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。 おれは会議や何かでいざと極まると、 咽喉 ( のど )が 塞 ( ふさ )がって 饒舌 ( しゃべ )れない男だが、 平常 ( ふだん )は 随分 ( ずいぶん )弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。 何だか憐れぽくってたまらない。 こんな時に一口でも先方の心を 慰 ( なぐさ )めてやるのは、 江戸 ( えど )っ子の義務だと思ってる。 ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。 何を云っても、 えとか いえとかぎりで、しかもその えと いえが大分 面倒 ( めんどう )らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご 免蒙 ( めんこうむ )った。 湯の中では赤シャツに逢わなかった。 もっとも 風呂 ( ふろ )の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。 別段不思議にも思わなかった。 風呂を出てみるといい月だ。 町内の両側に 柳 ( やなぎ )が 植 ( うわ )って、柳の 枝 ( えだ )が 丸 ( ま )るい影を往来の中へ 落 ( おと )している。 少し散歩でもしよう。 北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が 妓楼 ( ぎろう )である。 山門のなかに 遊廓 ( ゆうかく )があるなんて、前代未聞の現象だ。 ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。 門の並びに黒い 暖簾 ( のれん )をかけた、小さな 格子窓 ( こうしまど )の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。 丸提灯 ( まるぢょうちん )に 汁粉 ( しるこ )、お 雑煮 ( ぞうに )とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、 軒端 ( のきば )に近い一本の柳の幹を照らしている。 食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。 食いたい団子の食えないのは情ない。 しかし自分の 許嫁 ( いいなずけ )が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。 うらなり君の事を思うと、団子は 愚 ( おろ )か、三日ぐらい 断食 ( だんじき )しても不平はこぼせない訳だ。 本当に人間ほどあてにならないものはない。 淡泊 ( たんぱく )だと思った山嵐は生徒を 煽動 ( せんどう )したと云うし。 生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に 逼 ( せま )るし。 厭味 ( いやみ )で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに 余所 ( よそ )ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを 胡魔化 ( ごまか )したり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。 こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。 箱根 ( はこね )の向うだから 化物 ( ばけもの )が寄り合ってるんだと云うかも知れない。 おれは、 性来 ( しょうらい )構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを 物騒 ( ぶっそう )に思い出した。 別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。 早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。 などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を 渡 ( わた )って 野芹川 ( のぜりがわ )の 堤 ( どて )へ出た。 川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると 相生村 ( あいおいむら )へ出る。 村には 観音様 ( かんのんさま )がある。 温泉 ( ゆ )の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。 太鼓 ( たいこ )が鳴るのは遊廓に相違ない。 川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。 ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに 人影 ( ひとかげ )が見え出した。 月に 透 ( す )かしてみると影は二つある。 温泉 ( ゆ )へ来て村へ帰る若い 衆 ( しゅ )かも知れない。 それにしては 唄 ( うた )もうたわない。 存外静かだ。 だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。 一人は女らしい。 おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの 距離 ( きょり )に逼った時、男がたちまち振り向いた。 月は 後 ( うしろ )からさしている。 その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。 男と女はまた元の通りにあるき出した。 おれは考えがあるから、急に全速力で追っ 懸 ( か )けた。 先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。 今は話し声も手に取るように聞える。 土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。 おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の 袖 ( そで )を 擦 ( す )り 抜 ( ぬ )けざま、二足前へ出した 踵 ( くびす )をぐるりと返して男の顔を 覗 ( のぞ )き 込 ( こ )んだ。 月は正面からおれの五分 刈 ( がり )の頭から顋の 辺 ( あた )りまで、 会釈 ( えしゃく )もなく 照 ( てら )す。 男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を 促 ( うな )がすが早いか、 温泉 ( ゆ )の町の方へ引き返した。 赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り 損 ( そく )なったのかしら。 ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。 八 赤シャツに勧められて 釣 ( つり )に行った帰りから、 山嵐 ( やまあらし )を疑ぐり出した。 無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ 不埒 ( ふらち )な 奴 ( やつ )だと思った。 ところが会議の席では案に 相違 ( そうい )して 滔々 ( とうとう )と生徒 厳罰論 ( げんばつろん )を述べたから、おや変だなと首を 捩 ( ひね )った。 萩野 ( はぎの )の 婆 ( ばあ )さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を 拍 ( う )った。 この様子ではわる者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が曲ってるんで、 好加減 ( いいかげん )な 邪推 ( じゃすい )を 実 ( まこと )しやかに、しかも 遠廻 ( とおまわ )しに、おれの頭の中へ 浸 ( し )み 込 ( こ )ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、 野芹川 ( のぜりがわ )の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは 曲者 ( くせもの )だと 極 ( き )めてしまった。 曲者だか何だかよくは 分 ( わか )らないが、ともかくも 善 ( い )い男じゃない。 表と裏とは 違 ( ちが )った男だ。 人間は竹のように 真直 ( まっすぐ )でなくっちゃ 頼 ( たの )もしくない。 真直なものは 喧嘩 ( けんか )をしても心持ちがいい。 赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、 高尚 ( こうしょう )なのと、 琥珀 ( こはく )のパイプとを 自慢 ( じまん )そうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。 喧嘩をしても、 回向院 ( えこういん )の 相撲 ( すもう )のような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。 そうなると一銭五厘の 出入 ( でいり )で 控所 ( ひかえじょ )全体を 驚 ( おど )ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。 会議の時に 金壺眼 ( かなつぼまなこ )をぐりつかせて、おれを 睨 ( にら )めた時は 憎 ( にく )い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした 猫撫声 ( ねこなでごえ )よりはましだ。 実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、 野郎 ( やろう )返事もしないで、まだ 眼 ( め )を 剥 ( むく )ってみせたから、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。 それ以来山嵐はおれと口を利かない。 机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。 ほこりだらけになって乗っている。 おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。 この一銭五厘が二人の間の 墻壁 ( しょうへき )になって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐は 頑 ( がん )として 黙 ( だま )ってる。 おれと山嵐には一銭五厘が 祟 ( たた )った。 しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。 山嵐とおれが絶交の姿となったに引き 易 ( か )えて、赤シャツとおれは 依然 ( いぜん )として在来の関係を保って、交際をつづけている。 野芹川で 逢 ( あ )った翌日などは、学校へ出ると第一番におれの 傍 ( そば )へ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょに 露西亜 ( ロシア )文学を 釣 ( つ )りに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。 野芹川の土手でもお目に 懸 ( かか )りましたねと 喰 ( く )らわしてやったら、いいえ 僕 ( ぼく )はあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。 何もそんなに 隠 ( かく )さないでもよかろう、現に逢ってるんだ。 よく 嘘 ( うそ )をつく男だ。 これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。 おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。 信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。 世の中は 随分妙 ( ずいぶんみょう )なものだ。 ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、 惜 ( お )しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時 頃 ( ごろ )出掛けて行った。 赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの 昔 ( むかし )に引き 払 ( はら )って立派な 玄関 ( げんかん )を構えている。 家賃は九円五 拾銭 ( じっせん )だそうだ。 田舎 ( いなか )へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ 奮発 ( ふんぱつ )して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。 頼むと云ったら、赤シャツの弟が 取次 ( とりつぎ )に出て来た。 この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。 その 癖渡 ( くせわた )りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が 悪 ( わ )るい。 赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな 臭 ( くさ )い 烟草 ( たばこ )をふかしながら、こんな事を云った。 そこで君が今のように 出精 ( しゅっせい )して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして 都合 ( つごう )さえつけば、 待遇 ( たいぐう )の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」 「へえ、 俸給 ( ほうきゅう )ですか。 だれが転任するんですか」 「もう発表になるから話しても差し 支 ( つか )えないでしょう。 その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」 「はあ、結構です。 しかし無理に上がらないでも構いません」 「とも角も僕は校長に話すつもりです。 今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する 気遣 ( きづか )いはない。 それに、生徒の人望があるから転任や 免職 ( めんしょく )は学校の得策であるまい。 赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。 要領を得なくっても用事はこれで済んだ。 しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。 発句 ( ほっく )は 芭蕉 ( ばしょう )か 髪結床 ( かみいどこ )の親方のやるもんだ。 数学の先生が朝顔やに 釣瓶 ( つるべ )をとられてたまるものか。 帰ってうんと考え込んだ。 世間には随分気の知れない男が居る。 家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。 それも花の都の電車が 通 ( かよ )ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。 おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。 延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。 赤シャツの云うところによると船から上がって、 一日 ( いちんち )馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた 一日 ( いちんち )車へ乗らなくっては着けないそうだ。 名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。 猿 ( さる )と人とが半々に住んでるような気がする。 いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という 物数奇 ( ものずき )だ。 ところへあいかわらず 婆 ( ばあ )さんが 夕食 ( ゆうめし )を運んで出る。 今日もまた 芋 ( いも )ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお 豆腐 ( とうふ )ぞなもしと云った。 どっちにしたって似たものだ。 「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」 「ほん当にお気の毒じゃな、もし」 「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」 「好んで行くて、誰がぞなもし」 「誰がぞなもしって、当人がさ。 古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」 「そりゃあなた、大違いの 勘五郎 ( かんごろう )ぞなもし」 「勘五郎かね。 だって今赤シャツがそう云いましたぜ。 それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの 法螺右衛門 ( ほらえもん )だ」 「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお 往 ( い )きともないのももっともぞなもし」 「そんなら両方もっともなんですね。 お婆さんは公平でいい。 一体どういう訳なんですい」 「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」 「どんな訳をお話したんです」 「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど 暮 ( くら )し 向 ( むき )が豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」 「なるほど」 「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。 それでお母さんも安心して、今に増給のご 沙汰 ( さた )があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。 しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。 古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに 居 ( お )りたい。 屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」 「へん人を 馬鹿 ( ばか )にしてら、 面白 ( おもしろ )くもない。 じゃ古賀さんは行く気はないんですね。 どうれで変だと思った。 よくない 仕打 ( しうち )だ。 まるで 欺撃 ( だましうち )ですね。 それでおれの月給を上げるなんて、 不都合 ( ふつごう )な事があるものか。 上げてやるったって、誰が上がってやるものか」 「先生は月給がお上りるのかなもし」 「上げてやるって云うから、 断 ( こと )わろうと思うんです」 「何で、お断わりるのぞなもし」 「何でもお断わりだ。 お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。 卑怯 ( ひきょう )でさあ」 「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、 大人 ( おとな )しく頂いておく方が得ぞなもし。 若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの 我慢 ( がまん )じゃあったのに惜しい事をした。 腹立てたためにこないな損をしたと 悔 ( くや )むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、 難有 ( ありがと )うと受けておおきなさいや」 「 年寄 ( としより )の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。 おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」 婆さんはだまって引き込んだ。 爺 ( じい )さんは 呑気 ( のんき )な声を出して 謡 ( うたい )をうたってる。 謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。 あんな者を毎晩 飽 ( あ )きずに 唸 ( うな )る爺さんの気が知れない。 おれは謡どころの 騒 ( さわ )ぎじゃない。 月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を 跳 ( は )ねるなんて不人情な事が出来るものか。 当人がもとの通りでいいと云うのに延岡 下 ( くんだ )りまで落ちさせるとは一体どう云う 了見 ( りょうけん )だろう。 太宰権帥 ( だざいごんのそつ )でさえ 博多 ( はかた )近辺で落ちついたものだ。 河合又五郎 ( かあいまたごろう )だって 相良 ( さがら )でとまってるじゃないか。 とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。 小倉 ( こくら )の 袴 ( はかま )をつけてまた出掛けた。 大きな玄関へ 突 ( つ )っ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。 おれの顔を見てまた来たかという 眼付 ( めつき )をした。 用があれば二度だって三度だって来る。 よる夜なかだって 叩 ( たた )き 起 ( おこ )さないとは限らない。 教頭の所へご 機嫌伺 ( きげんうかが )いにくるようなおれと 見損 ( みそくな )ってるか。 これでも月給が入らないから返しに 来 ( きた )んだ。 すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったら 奥 ( おく )へ引き込んだ。 足元を見ると、 畳付 ( たたみつ )きの薄っぺらな、のめりの 駒下駄 ( こまげた )がある。 奥でもう 万歳 ( ばんざい )ですよと云う声が 聞 ( きこ )える。 お客とは野だだなと気がついた。 野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を 穿 ( は )くものはない。 しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。 ちょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。 野だ公と 一杯 ( いっぱい )飲んでると見える。 「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」 赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を 眺 ( なが )めたが、とっさの場合返事をしかねて 茫然 ( ぼうぜん )としている。 増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを 不審 ( ふしん )に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、 呆 ( あき )れ返ったのか、または 双方合併 ( そうほうがっぺい )したのか、妙な口をして突っ立ったままである。 「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」 「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」 「そうじゃないんです、ここに居たいんです。 元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」 「君は古賀君から、そう聞いたのですか」 「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」 「じゃ誰からお聞きです」 「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ 母 ( か )さんから聞いたのを今日僕に話したのです」 「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」 「まあそうです」 「それは失礼ながら少し違うでしょう。 あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して 差支 ( さしつか )えないでしょうか」 おれはちょっと困った。 文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。 妙な所へこだわって、ねちねち 押 ( お )し寄せてくる。 おれはよく 親父 ( おやじ )から貴様はそそっかしくて 駄目 ( だめ )だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。 婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢って 詳 ( くわ )しい事情は聞いてみなかったのだ。 だからこう文学士流に 斬 ( き )り付けられると、ちょっと受け留めにくい。 正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の 中 ( うち )で申し渡してしまった。 下宿の婆さんもけちん 坊 ( ぼう )の欲張り屋に相違ないが、嘘は 吐 ( つ )かない女だ、赤シャツのように裏表はない。 おれは仕方がないから、こう答えた。 今君がわざわざお 出 ( いで )になったのは増俸を受けるには 忍 ( しの )びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」 「解しかねるかも知れませんがね。 とにかく断わりますよ」 「そんなに 否 ( いや )なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに 豹変 ( ひょうへん )しちゃ、将来君の信用にかかわる」 「かかわっても構わないです」 「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。 よしんば今一歩 譲 ( ゆず )って、下宿の主人が……」 「主人じゃない、婆さんです」 「どちらでもよろしい。 下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を 削 ( けず )って得たものではないでしょう。 古賀君は延岡へ行かれる。 その代りがくる。 その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。 その 剰余 ( じょうよ )を君に 廻 ( ま )わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。 古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。 新任者は最初からの 約束 ( やくそく )で安くくる。 それで君が上がられれば、これほど 都合 ( つごう )のいい事はないと思うですがね。 いやなら 否 ( いや )でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」 おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう 巧妙 ( こうみょう )な弁舌を 揮 ( ふる )えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと 恐 ( おそ )れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。 ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。 途中 ( とちゅう )で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど 厭 ( いや )になっている。 だから先がどれほどうまく論理的に弁論を 逞 ( たくまし )くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。 議論のいい人が善人とはきまらない。 遣り込められる方が悪人とは限らない。 表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで 惚 ( ほ )れさせる訳には行かない。 金や 威力 ( いりょく )や 理屈 ( りくつ )で人間の心が買える者なら、高利貸でも 巡査 ( じゅんさ )でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。 中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。 人間は好き嫌いで働くものだ。 論法で働くものじゃない。 「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。 考えたって同じ事です。 さようなら」と云いすてて門を出た。 頭の上には天の川が一筋かかっている。 声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。 "沪江网"高度重视知识产权保护。 当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

次の

夏目漱石 坊っちゃん

おい はぎの そうい

親譲 ( おやゆず )りの 無鉄砲 ( むてっぽう )で小供の時から損ばかりしている。 小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど 腰 ( こし )を 抜 ( ぬ )かした事がある。 なぜそんな 無闇 ( むやみ )をしたと聞く人があるかも知れぬ。 別段深い理由でもない。 新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が 冗談 ( じょうだん )に、いくら 威張 ( いば )っても、そこから飛び降りる事は出来まい。 弱虫やーい。 と 囃 ( はや )したからである。 小使 ( こづかい )に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな 眼 ( め )をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす 奴 ( やつ )があるかと 云 ( い )ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。 親類のものから西洋製のナイフを 貰 ( もら )って 奇麗 ( きれい )な 刃 ( は )を日に 翳 ( かざ )して、 友達 ( ともだち )に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。 切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。 そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の 甲 ( こう )をはすに切り 込 ( こ )んだ。 幸 ( さいわい )ナイフが小さいのと、親指の骨が 堅 ( かた )かったので、今だに親指は手に付いている。 しかし 創痕 ( きずあと )は死ぬまで消えぬ。 庭を東へ二十歩に行き 尽 ( つく )すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、 真中 ( まんなか )に 栗 ( くり )の木が一本立っている。 これは命より大事な栗だ。 実の熟する時分は起き抜けに 背戸 ( せど )を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。 菜園の西側が 山城屋 ( やましろや )という質屋の庭続きで、この質屋に 勘太郎 ( かんたろう )という十三四の 倅 ( せがれ )が居た。 勘太郎は無論弱虫である。 弱虫の 癖 ( くせ )に四つ目垣を乗りこえて、栗を 盗 ( ぬす )みにくる。 ある日の夕方 折戸 ( おりど )の 蔭 ( かげ )に 隠 ( かく )れて、とうとう勘太郎を 捕 ( つら )まえてやった。 その時勘太郎は 逃 ( に )げ 路 ( みち )を失って、 一生懸命 ( いっしょうけんめい )に飛びかかってきた。 向 ( むこ )うは二つばかり年上である。 弱虫だが力は強い。 鉢 ( はち )の開いた頭を、こっちの胸へ 宛 ( あ )ててぐいぐい 押 ( お )した 拍子 ( ひょうし )に、勘太郎の頭がすべって、おれの 袷 ( あわせ )の 袖 ( そで )の中にはいった。 邪魔 ( じゃま )になって手が使えぬから、無暗に手を 振 ( ふ )ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら 靡 ( なび )いた。 しまいに苦しがって袖の中から、おれの二の 腕 ( うで )へ食い付いた。 痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、 足搦 ( あしがら )をかけて向うへ 倒 ( たお )してやった。 山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。 勘太郎は四つ目垣を半分 崩 ( くず )して、自分の領分へ 真逆様 ( まっさかさま )に落ちて、ぐうと云った。 勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。 その晩母が山城屋に 詫 ( わ )びに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。 この外いたずらは大分やった。 大工の 兼公 ( かねこう )と 肴屋 ( さかなや )の 角 ( かく )をつれて、 茂作 ( もさく )の 人参畠 ( にんじんばたけ )をあらした事がある。 人参の芽が 出揃 ( でそろ )わぬ 処 ( ところ )へ 藁 ( わら )が一面に 敷 ( し )いてあったから、その上で三人が半日 相撲 ( すもう )をとりつづけに取ったら、人参がみんな 踏 ( ふ )みつぶされてしまった。 古川 ( ふるかわ )の持っている 田圃 ( たんぼ )の 井戸 ( いど )を 埋 ( う )めて 尻 ( しり )を持ち込まれた事もある。 太い 孟宗 ( もうそう )の節を抜いて、深く埋めた中から水が 湧 ( わ )き出て、そこいらの 稲 ( いね )にみずがかかる 仕掛 ( しかけ )であった。 その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や 棒 ( ぼう )ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ 挿 ( さ )し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食っていたら、古川が 真赤 ( まっか )になって 怒鳴 ( どな )り込んで来た。 たしか 罰金 ( ばっきん )を出して済んだようである。 おやじはちっともおれを 可愛 ( かわい )がってくれなかった。 母は兄ばかり 贔屓 ( ひいき )にしていた。 この兄はやに色が白くって、 芝居 ( しばい )の 真似 ( まね )をして 女形 ( おんながた )になるのが好きだった。 おれを見る度にこいつはどうせ 碌 ( ろく )なものにはならないと、おやじが云った。 乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。 なるほど碌なものにはならない。 ご覧の通りの始末である。 行く先が案じられたのも無理はない。 ただ 懲役 ( ちょうえき )に行かないで生きているばかりである。 母が病気で死ぬ 二三日 ( にさんち )前台所で宙返りをしてへっついの角で 肋骨 ( あばらぼね )を 撲 ( う )って大いに痛かった。 母が大層 怒 ( おこ )って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ 泊 ( とま )りに行っていた。 するととうとう死んだと云う 報知 ( しらせ )が来た。 そう早く死ぬとは思わなかった。 そんな大病なら、もう少し 大人 ( おとな )しくすればよかったと思って帰って来た。 そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。 口惜 ( くや )しかったから、兄の横っ面を張って大変 叱 ( しか )られた。 母が死んでからは、おやじと兄と三人で 暮 ( くら )していた。 おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は 駄目 ( だめ )だ駄目だと口癖のように云っていた。 何が駄目なんだか今に分らない。 妙 ( みょう )なおやじがあったもんだ。 兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。 元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。 十日に 一遍 ( いっぺん )ぐらいの割で 喧嘩 ( けんか )をしていた。 ある時 将棋 ( しょうぎ )をさしたら 卑怯 ( ひきょう )な 待駒 ( まちごま )をして、人が困ると 嬉 ( うれ )しそうに冷やかした。 あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を 眉間 ( みけん )へ 擲 ( たた )きつけてやった。 眉間が割れて少々血が出た。 兄がおやじに 言付 ( いつ )けた。 おやじがおれを 勘当 ( かんどう )すると言い出した。 その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている 清 ( きよ )という下女が、泣きながらおやじに 詫 ( あや )まって、ようやくおやじの 怒 ( いか )りが解けた。 それにもかかわらずあまりおやじを 怖 ( こわ )いとは思わなかった。 かえってこの清と云う下女に気の毒であった。 この下女はもと 由緒 ( ゆいしょ )のあるものだったそうだが、 瓦解 ( がかい )のときに 零落 ( れいらく )して、つい 奉公 ( ほうこう )までするようになったのだと聞いている。 だから 婆 ( ばあ )さんである。 この婆さんがどういう 因縁 ( いんえん )か、おれを非常に可愛がってくれた。 不思議なものである。 おれは 到底 ( とうてい )人に好かれる 性 ( たち )でないとあきらめていたから、他人から木の 端 ( はし )のように取り 扱 ( あつか )われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを 不審 ( ふしん )に考えた。 清は時々台所で人の居ない時に「あなたは 真 ( ま )っ 直 ( すぐ )でよいご気性だ」と 賞 ( ほ )める事が時々あった。 しかしおれには清の云う意味が分からなかった。 好 ( い )い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。 清がこんな事を云う度におれはお世辞は 嫌 ( きら )いだと答えるのが常であった。 すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を 眺 ( なが )めている。 自分の力でおれを製造して 誇 ( ほこ )ってるように見える。 少々気味がわるかった。 母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。 時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。 つまらない、 廃 ( よ )せばいいのにと思った。 気の毒だと思った。 それでも清は可愛がる。 折々は自分の 小遣 ( こづか )いで 金鍔 ( きんつば )や 紅梅焼 ( こうばいやき )を買ってくれる。 寒い夜などはひそかに 蕎麦粉 ( そばこ )を仕入れておいて、いつの間にか 寝 ( ね )ている 枕元 ( まくらもと )へ蕎麦湯を持って来てくれる。 時には 鍋焼饂飩 ( なべやきうどん )さえ買ってくれた。 ただ食い物ばかりではない。 靴足袋 ( くつたび )ももらった。 鉛筆 ( えんぴつ )も貰った、帳面も貰った。 これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。 何も貸せと云った訳ではない。 向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。 おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。 実は大変嬉しかった。 その三円を 蝦蟇口 ( がまぐち )へ入れて、 懐 ( ふところ )へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと 後架 ( こうか )の中へ 落 ( おと )してしまった。 仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を 捜 ( さが )して来て、取って上げますと云った。 しばらくすると 井戸端 ( いどばた )でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の 紐 ( ひも )を引き 懸 ( か )けたのを水で洗っていた。 それから口をあけて 壱円札 ( いちえんさつ )を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。 清は火鉢で 乾 ( かわ )かして、これでいいでしょうと出した。 ちょっとかいでみて 臭 ( くさ )いやと云ったら、それじゃお出しなさい、取り 換 ( か )えて来て上げますからと、どこでどう 胡魔化 ( ごまか )したか札の代りに銀貨を三円持って来た。 この三円は何に使ったか忘れてしまった。 今に返すよと云ったぎり、返さない。 今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。 清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。 おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。 兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から 菓子 ( かし )や色鉛筆を貰いたくはない。 なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには 遣 ( や )らないのかと清に聞く事がある。 すると清は 澄 ( すま )したものでお 兄様 ( あにいさま )はお 父様 ( とうさま )が買ってお上げなさるから構いませんと云う。 これは不公平である。 おやじは 頑固 ( がんこ )だけれども、そんな 依怙贔負 ( えこひいき )はせぬ男だ。 しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。 全く愛に 溺 ( おぼ )れていたに 違 ( ちが )いない。 元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。 単にこればかりではない。 贔負目は恐ろしいものだ。 清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。 その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。 こんな婆さんに 逢 ( あ )っては 叶 ( かな )わない。 自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。 おれはその時から別段何になると云う 了見 ( りょうけん )もなかった。 しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。 今から考えると 馬鹿馬鹿 ( ばかばか )しい。 ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。 ところが清にも別段の考えもなかったようだ。 ただ 手車 ( てぐるま )へ乗って、立派な 玄関 ( げんかん )のある家をこしらえるに 相違 ( そうい )ないと云った。 それから清はおれがうちでも持って独立したら、 一所 ( いっしょ )になる気でいた。 どうか置いて下さいと何遍も 繰 ( く )り返して頼んだ。 おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。 ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、 麹町 ( こうじまち )ですか 麻布 ( あざぶ )ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで 並 ( なら )べていた。 その時は家なんか欲しくも何ともなかった。 西洋館も 日本建 ( にほんだて )も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。 すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。 清は何と云っても賞めてくれる。 母が死んでから五六年の間はこの状態で暮していた。 おやじには叱られる。 兄とは喧嘩をする。 清には菓子を貰う、時々賞められる。 別に望みもない。 これでたくさんだと思っていた。 ほかの小供も 一概 ( いちがい )にこんなものだろうと思っていた。 ただ清が何かにつけて、あなたはお 可哀想 ( かわいそう )だ、 不仕合 ( ふしあわせ )だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。 その外に苦になる事は少しもなかった。 ただおやじが小遣いをくれないには閉口した。 母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。 その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。 六月に兄は商業学校を卒業した。 兄は何とか会社の九州の支店に口があって 行 ( ゆ )かなければならん。 おれは東京でまだ学問をしなければならない。 兄は家を売って財産を片付けて任地へ 出立 ( しゅったつ )すると云い出した。 おれはどうでもするがよかろうと返事をした。 どうせ兄の 厄介 ( やっかい )になる気はない。 世話をしてくれるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云い出すに 極 ( きま )っている。 なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。 牛乳配達をしても食ってられると 覚悟 ( かくご )をした。 兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の 瓦落多 ( がらくた )を 二束三文 ( にそくさんもん )に売った。 家屋敷 ( いえやしき )はある人の 周旋 ( しゅうせん )である金満家に譲った。 この方は大分金になったようだが、 詳 ( くわ )しい事は一向知らぬ。 おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の 小川町 ( おがわまち )へ下宿していた。 清は十何年居たうちが人手に 渡 ( わた )るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。 あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。 もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。 婆さんは 何 ( なんに )も知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。 兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。 兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州 下 ( くんだ )りまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のおれは 四畳半 ( よじょうはん )の安下宿に 籠 ( こも )って、それすらもいざとなれば直ちに引き 払 ( はら )わねばならぬ始末だ。 どうする事も出来ん。 清に聞いてみた。 どこかへ奉公でもする気かねと云ったらあなたがおうちを持って、 奥 ( おく )さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、 甥 ( おい )の厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。 この甥は裁判所の書記でまず今日には 差支 ( さしつか )えなく暮していたから、今までも清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、清はたとい下女奉公はしても年来住み 馴 ( な )れた 家 ( うち )の方がいいと云って応じなかった。 しかし今の場合知らぬ屋敷へ 奉公易 ( ほうこうが )えをして入らぬ 気兼 ( きがね )を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。 それにしても早くうちを持ての、 妻 ( さい )を貰えの、来て世話をするのと云う。 親身 ( しんみ )の甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。 九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出してこれを資本にして 商買 ( しょうばい )をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも 随意 ( ずいい )に使うがいい、その代りあとは構わないと云った。 兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ 淡泊 ( たんばく )な処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。 兄はそれから五十円出してこれをついでに清に渡してくれと云ったから、異議なく引き受けた。 二日立って新橋の 停車場 ( ていしゃば )で分れたぎり兄にはその後一遍も逢わない。 おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。 商買をしたって 面倒 ( めんど )くさくって 旨 ( うま )く出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。 よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。 資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。 六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。 三年間一生懸命にやれば何か出来る。 それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は 生来 ( しょうらい )どれもこれも好きでない。 ことに語学とか文学とか云うものは 真平 ( まっぴら )ご 免 ( めん )だ。 新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。 どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り 掛 ( かか )ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。 今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から 起 ( おこ )った失策だ。 三年間まあ 人並 ( ひとなみ )に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から 勘定 ( かんじょう )する方が便利であった。 しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。 自分でも 可笑 ( おか )しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。 月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。 おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、 田舎 ( いなか )へ行く考えも何もなかった。 もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと 即席 ( そくせき )に返事をした。 これも親譲りの無鉄砲が 祟 ( たた )ったのである。 引き受けた以上は 赴任 ( ふにん )せねばならぬ。 この三年間は四畳半に 蟄居 ( ちっきょ )して小言はただの一度も聞いた事がない。 喧嘩もせずに済んだ。 おれの生涯のうちでは 比較的 ( ひかくてき ) 呑気 ( のんき )な時節であった。 しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。 生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に 鎌倉 ( かまくら )へ遠足した時ばかりである。 今度は鎌倉どころではない。 大変な遠くへ行かねばならぬ。 地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。 どうせ碌な所ではあるまい。 どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。 分らんでも困らない。 心配にはならぬ。 ただ行くばかりである。 もっとも少々面倒臭い。 家を 畳 ( たた )んでからも清の所へは折々行った。 清の甥というのは存外結構な人である。 おれが 行 ( ゆ )くたびに、 居 ( お )りさえすれば、何くれと 款待 ( もて )なしてくれた。 清はおれを前へ置いて、いろいろおれの 自慢 ( じまん )を甥に聞かせた。 今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと 吹聴 ( ふいちょう )した事もある。 独りで 極 ( き )めて 一人 ( ひとり )で 喋舌 ( しゃべ )るから、こっちは 困 ( こ )まって顔を赤くした。 それも一度や二度ではない。 折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。 甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。 ただ清は 昔風 ( むかしふう )の女だから、自分とおれの関係を 封建 ( ほうけん )時代の 主従 ( しゅじゅう )のように考えていた。 自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと 合点 ( がてん )したものらしい。 甥こそいい 面 ( つら )の皮だ。 いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を 尋 ( たず )ねたら、北向きの三畳に 風邪 ( かぜ )を引いて寝ていた。 おれの来たのを見て起き直るが早いか、 坊 ( ぼ )っちゃんいつ 家 ( うち )をお持ちなさいますと聞いた。 卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。 そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。 おれは単簡に当分うちは持たない。 田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した 容子 ( ようす )で、 胡麻塩 ( ごましお )の 鬢 ( びん )の乱れをしきりに 撫 ( な )でた。 あまり気の毒だから「 行 ( ゆ )く事は行くがじき帰る。 来年の夏休みにはきっと帰る」と 慰 ( なぐさ )めてやった。 それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「 越後 ( えちご )の 笹飴 ( ささあめ )が食べたい」と云った。 越後の笹飴なんて聞いた事もない。 第一方角が違う。 「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。 「西の方だよ」と云うと「 箱根 ( はこね )のさきですか手前ですか」と問う。 随分持てあました。 出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。 来る 途中 ( とちゅう )小間物屋で買って来た 歯磨 ( はみがき )と 楊子 ( ようじ )と 手拭 ( てぬぐい )をズックの 革鞄 ( かばん )に入れてくれた。 そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。 車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。 随分ご 機嫌 ( きげん )よう」と小さな声で云った。 目に 涙 ( なみだ )が 一杯 ( いっぱい )たまっている。 おれは泣かなかった。 しかしもう少しで泣くところであった。 汽車がよっぽど動き出してから、もう 大丈夫 ( だいしょうぶ )だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。 何だか大変小さく見えた。 ぶうと 云 ( い )って汽船がとまると、 艀 ( はしけ )が岸を 離 ( はな )れて、 漕 ( こ )ぎ寄せて来た。 船頭は 真 ( ま )っ 裸 ( ぱだか )に赤ふんどしをしめている。 野蛮 ( やばん )な所だ。 もっともこの熱さでは着物はきられまい。 日が強いので水がやに光る。 見つめていても 眼 ( め )がくらむ。 事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。 見るところでは 大森 ( おおもり )ぐらいな漁村だ。 人を 馬鹿 ( ばか )にしていらあ、こんな所に 我慢 ( がまん )が出来るものかと思ったが仕方がない。 威勢 ( いせい )よく一番に飛び込んだ。 続 ( つ )づいて五六人は乗ったろう。 外に大きな 箱 ( はこ )を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ 戻 ( もど )して来た。 陸 ( おか )へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、 磯 ( いそ )に立っていた鼻たれ 小僧 ( こぞう )をつらまえて中学校はどこだと聞いた。 小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。 気の利かぬ 田舎 ( いなか )ものだ。 猫 ( ねこ )の額ほどな町内の 癖 ( くせ )に、中学校のありかも知らぬ 奴 ( やつ )があるものか。 ところへ 妙 ( みょう )な 筒 ( つつ )っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云うから、 尾 ( つ )いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。 やな女が声を 揃 ( そろ )えてお上がりなさいと云うので、上がるのがいやになった。 門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。 おれは、筒っぽうを着た男から、おれの 革鞄 ( かばん )を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。 宿屋のものは変な顔をしていた。 停車場はすぐ知れた。 切符 ( きっぷ )も訳なく買った。 乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。 ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。 道理で切符が安いと思った。 たった三銭である。 それから車を 傭 ( やと )って、中学校へ来たら、もう放課後で 誰 ( だれ )も居ない。 宿直はちょっと 用達 ( ようたし )に出たと 小使 ( こづかい )が教えた。 随分 ( ずいぶん )気楽な宿直がいるものだ。 校長でも 尋 ( たず )ねようかと思ったが、 草臥 ( くたび )れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。 車夫は威勢よく 山城屋 ( やましろや )と云ううちへ横付けにした。 山城屋とは質屋の 勘太郎 ( かんたろう )の屋号と同じだからちょっと面白く思った。 何だか二階の 楷子段 ( はしごだん )の下の暗い部屋へ案内した。 熱くって居られやしない。 こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな 塞 ( ふさ )がっておりますからと云いながら革鞄を 抛 ( ほう )り出したまま出て行った。 仕方がないから部屋の中へはいって 汗 ( あせ )をかいて 我慢 ( がまん )していた。 やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。 帰りがけに 覗 ( のぞ )いてみると 涼 ( すず )しそうな部屋がたくさん空いている。 失敬な奴だ。 嘘 ( うそ )をつきゃあがった。 それから下女が 膳 ( ぜん )を持って来た。 部屋は 熱 ( あ )つかったが、飯は下宿のよりも大分 旨 ( うま )かった。 給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。 すると東京はよい所でございましょうと云ったから 当 ( あた )り前だと答えてやった。 膳を下げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が 聞 ( きこ )えた。 くだらないから、すぐ 寝 ( ね )たが、なかなか寝られない。 熱いばかりではない。 騒々 ( そうぞう )しい。 下宿の五倍ぐらいやかましい。 うとうとしたら 清 ( きよ )の 夢 ( ゆめ )を見た。 清が 越後 ( えちご )の 笹飴 ( ささあめ )を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。 笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬でございますと 云 ( い )って旨そうに食っている。 おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。 下女が雨戸を明けている。 相変らず空の底が 突 ( つ )き 抜 ( ぬ )けたような天気だ。 道中 ( どうちゅう )をしたら茶代をやるものだと聞いていた。 茶代をやらないと 粗末 ( そまつ )に取り扱われると聞いていた。 こんな、 狭 ( せま )くて暗い部屋へ 押 ( お )し込めるのも茶代をやらないせいだろう。 見すぼらしい 服装 ( なり )をして、ズックの革鞄と 毛繻子 ( けじゅす )の 蝙蝠傘 ( こうもり )を提げてるからだろう。 田舎者の癖に人を 見括 ( みくび )ったな。 一番茶代をやって 驚 ( おどろ )かしてやろう。 おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど 懐 ( ふところ )に入れて東京を出て来たのだ。 汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。 みんなやったってこれからは月給を 貰 ( もら )うんだから構わない。 田舎者はしみったれだから五円もやれば 驚 ( おど )ろいて眼を 廻 ( まわ )すに 極 ( きま )っている。 どうするか見ろと 済 ( すま )して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。 盆 ( ぼん )を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。 失敬な奴だ。 顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。 これでもこの下女の 面 ( つら )よりよっぽど上等だ。 飯を済ましてからにしようと思っていたが、 癪 ( しゃく )に 障 ( さわ )ったから、 中途 ( ちゅうと )で五円 札 ( さつ )を一 枚 ( まい )出して、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。 それから飯を済ましてすぐ学校へ 出懸 ( でか )けた。 靴 ( くつ )は 磨 ( みが )いてなかった。 学校は 昨日 ( きのう )車で乗りつけたから、 大概 ( たいがい )の見当は分っている。 四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た。 門から 玄関 ( げんかん )までは 御影石 ( みかげいし )で 敷 ( し )きつめてある。 きのうこの敷石の上を車でがらがらと通った時は、 無暗 ( むやみ )に 仰山 ( ぎょうさん )な音がするので少し弱った。 途中から 小倉 ( こくら )の制服を着た生徒にたくさん 逢 ( あ )ったが、みんなこの門をはいって行く。 中にはおれより背が高くって強そうなのが居る。 あんな奴を教えるのかと思ったら何だか気味が 悪 ( わ )るくなった。 名刺 ( めいし )を出したら校長室へ通した。 校長は 薄髯 ( うすひげ )のある、色の黒い、目の大きな 狸 ( たぬき )のような男である。 やにもったいぶっていた。 まあ精出して勉強してくれと云って、 恭 ( うやうや )しく大きな印の 捺 ( おさ )った、辞令を 渡 ( わた )した。 この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ抛り 込 ( こ )んでしまった。 校長は今に職員に 紹介 ( しょうかい )してやるから、一々その人にこの辞令を見せるんだと云って聞かした。 余計な手数だ。 そんな 面倒 ( めんどう )な事をするよりこの辞令を三日間職員室へ張り付ける方がましだ。 教員が 控所 ( ひかえじょ )へ 揃 ( そろ )うには一時間目の 喇叭 ( らっぱ )が鳴らなくてはならぬ。 大分時間がある。 校長は時計を出して見て、 追々 ( おいおい )ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を 呑 ( の )み込んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。 おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。 校長の云うようにはとても出来ない。 おれみたような 無鉄砲 ( むてっぽう )なものをつらまえて、生徒の 模範 ( もはん )になれの、一校の 師表 ( しひょう )と 仰 ( あお )がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を 及 ( およ )ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。 そんなえらい人が月給四十円で 遥々 ( はるばる )こんな田舎へくるもんか。 人間は大概似たもんだ。 腹が立てば 喧嘩 ( けんか )の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。 そんなむずかしい役なら 雇 ( やと )う前にこれこれだと話すがいい。 おれは 嘘 ( うそ )をつくのが 嫌 ( きら )いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで 断 ( こと )わって帰っちまおうと思った。 宿屋へ五円やったから 財布 ( さいふ )の中には九円なにがししかない。 九円じゃ東京までは帰れない。 茶代なんかやらなければよかった。 惜 ( お )しい事をした。 しかし九円だって、どうかならない事はない。 旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、 到底 ( とうてい )あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。 やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。 そのくらいよく知ってるなら、始めから 威嚇 ( おどさ )さなければいいのに。 そう、こうする内に喇叭が鳴った。 教場の方が急にがやがやする。 もう教員も控所へ揃いましたろうと云うから、校長に尾いて教員控所へはいった。 広い細長い部屋の周囲に机を 並 ( なら )べてみんな 腰 ( こし )をかけている。 おれがはいったのを見て、みんな申し合せたようにおれの顔を見た。 見世物じゃあるまいし。 それから申し付けられた通り 一人一人 ( ひとりびとり )の前へ行って辞令を出して 挨拶 ( あいさつ )をした。 大概 ( たいがい )は 椅子 ( いす )を離れて腰をかがめるばかりであったが、念の入ったのは差し出した辞令を受け取って一応拝見をしてそれを 恭 ( うやうや )しく 返却 ( へんきゃく )した。 まるで宮芝居の 真似 ( まね )だ。 十五人目に 体操 ( たいそう )の教師へと廻って来た時には、同じ事を何返もやるので少々じれったくなった。 向 ( むこ )うは一度で済む。 こっちは同じ 所作 ( しょさ )を十五返繰り返している。 少しはひとの 了見 ( りょうけん )も察してみるがいい。 挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。 これは文学士だそうだ。 文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。 妙 ( みょう )に女のような優しい声を出す人だった。 もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの 襯衣 ( しゃつ )を着ている。 いくらか 薄 ( うす )い地には 相違 ( そうい )なくっても暑いには極ってる。 文学士だけにご苦労千万な 服装 ( なり )をしたもんだ。 しかもそれが赤シャツだから人を 馬鹿 ( ばか )にしている。 あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。 妙な病気があった者だ。 当人の説明では赤は 身体 ( からだ )に薬になるから、衛生のためにわざわざ 誂 ( あつ )らえるんだそうだが、入らざる心配だ。 そんならついでに着物も 袴 ( はかま )も赤にすればいい。 それから英語の教師に 古賀 ( こが )とか云う大変顔色の 悪 ( わ )るい男が居た。 大概顔の 蒼 ( あお )い人は 瘠 ( や )せてるもんだがこの男は蒼くふくれている。 昔 ( むかし )小学校へ行く時分、 浅井 ( あさい )の 民 ( たみ )さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。 浅井は 百姓 ( ひゃくしょう )だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの 唐茄子 ( とうなす )ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。 それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った 酬 ( むく )いだと思う。 この英語の教師もうらなりばかり食ってるに 違 ( ちが )いない。 もっともうらなりとは何の事か今もって知らない。 清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。 大方清も知らないんだろう。 それからおれと同じ数学の教師に 堀田 ( ほった )というのが居た。 これは 逞 ( たくま )しい 毬栗坊主 ( いがぐりぼうず )で、 叡山 ( えいざん )の 悪僧 ( あくそう )と云うべき 面構 ( つらがまえ )である。 人が 叮寧 ( ていねい )に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに 来給 ( きたま )えアハハハと云った。 何がアハハハだ。 そんな 礼儀 ( れいぎ )を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。 おれはこの時からこの坊主に 山嵐 ( やまあらし )という 渾名 ( あだな )をつけてやった。 漢学の先生はさすがに 堅 ( かた )いものだ。 画学の教師は全く芸人風だ。 べらべらした 透綾 ( すきや )の羽織を着て、 扇子 ( せんす )をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え? 東京? そりゃ 嬉 ( うれ )しい、お仲間が出来て…… 私 ( わたし )もこれで 江戸 ( えど )っ子ですと云った。 こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。 そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。 しかし際限がないからやめる。 挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業上の事は数学の主任と打ち合せをしておいて、 明後日 ( あさって )から課業を始めてくれと云った。 数学の主任は誰かと聞いてみたら例の山嵐であった。 忌々 ( いまいま )しい、こいつの下に働くのかおやおやと失望した。 山嵐は「おい君どこに 宿 ( とま )ってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する」と云い残して 白墨 ( はくぼく )を持って教場へ出て行った。 主任の癖に向うから来て相談するなんて不見識な男だ。 しかし呼び付けるよりは感心だ。 それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。 県庁も見た。 古い前世紀の建築である。 兵営も見た。 麻布 ( あざぶ )の 聯隊 ( れんたい )より立派でない。 大通りも見た。 神楽坂 ( かぐらざか )を半分に狭くしたぐらいな 道幅 ( みちはば )で 町並 ( まちなみ )はあれより落ちる。 二十五万石の城下だって高の知れたものだ。 こんな所に住んでご城下だなどと 威張 ( いば )ってる人間は 可哀想 ( かわいそう )なものだと考えながらくると、いつしか山城屋の前に出た。 広いようでも狭いものだ。 これで 大抵 ( たいてい )は 見尽 ( みつく )したのだろう。 帰って飯でも食おうと門口をはいった。 帳場に 坐 ( すわ )っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰り……と板の間へ頭をつけた。 靴 ( くつ )を 脱 ( ぬ )いで上がると、お 座敷 ( ざしき )があきましたからと下女が二階へ案内をした。 十五 畳 ( じょう )の表二階で大きな 床 ( とこ )の 間 ( ま )がついている。 おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。 この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで 浴衣 ( ゆかた )一枚になって座敷の 真中 ( まんなか )へ大の字に寝てみた。 いい心持ちである。 昼飯を食ってから早速清へ手紙をかいてやった。 おれは文章がまずい上に字を知らないから手紙を書くのが 大嫌 ( だいきら )いだ。 またやる所もない。 しかし清は心配しているだろう。 難船して死にやしないかなどと思っちゃ困るから、 奮発 ( ふんぱつ )して長いのを書いてやった。 その文句はこうである。 「きのう着いた。 つまらん所だ。 十五畳の座敷に寝ている。 宿屋へ茶代を五円やった。 かみさんが頭を板の間へすりつけた。 夕べは寝られなかった。 清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。 来年の夏は帰る。 今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。 校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。 今にいろいろな事を書いてやる。 さようなら」 手紙をかいてしまったら、いい心持ちになって 眠気 ( ねむけ )がさしたから、最前のように座敷の真中へのびのびと大の字に寝た。 今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。 この部屋かいと大きな声がするので目が覚めたら、山嵐がはいって来た。 最前は失敬、君の受持ちは……と人が起き上がるや否や談判を開かれたので大いに 狼狽 ( ろうばい )した。 受持ちを聞いてみると別段むずかしい事もなさそうだから承知した。 このくらいの事なら、明後日は 愚 ( おろか )、 明日 ( あした )から始めろと云ったって驚ろかない。 授業上の打ち合せが済んだら、君はいつまでこんな宿屋に居るつもりでもあるまい、 僕 ( ぼく )がいい下宿を 周旋 ( しゅうせん )してやるから移りたまえ。 外のものでは承知しないが僕が話せばすぐ出来る。 早い方がいいから、今日見て、あす移って、あさってから学校へ行けば極りがいいと一人で呑み込んでいる。 なるほど十五畳敷にいつまで居る訳にも行くまい。 月給をみんな 宿料 ( しゅくりょう )に 払 ( はら )っても追っつかないかもしれぬ。 五円の茶代を 奮発 ( ふんぱつ )してすぐ移るのはちと残念だが、どうせ移る者なら、早く引き 越 ( こ )して落ち付く方が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に 頼 ( たの )む事にした。 すると山嵐はともかくもいっしょに来てみろと云うから、行った。 町はずれの岡の中腹にある家で至極 閑静 ( かんせい )だ。 主人は 骨董 ( こっとう )を売買するいか銀と云う男で、 女房 ( にょうぼう )は 亭主 ( ていしゅ )よりも四つばかり 年嵩 ( としかさ )の女だ。 中学校に居た時ウィッチと云う言葉を習った事があるがこの女房はまさにウィッチに似ている。 ウィッチだって人の女房だから構わない。 とうとう明日から引き移る事にした。 帰りに山嵐は 通町 ( とおりちょう )で氷水を一 杯 ( ぱい ) 奢 ( おご )った。 学校で逢った時はやに 横風 ( おうふう )な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、わるい男でもなさそうだ。 ただおれと同じようにせっかちで 肝癪持 ( かんしゃくもち )らしい。 あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。 いよいよ学校へ出た。 初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。 講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。 生徒はやかましい。 時々 図抜 ( ずぬ )けた大きな声で先生と 云 ( い )う。 先生には 応 ( こた )えた。 今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは 雲泥 ( うんでい )の差だ。 何だか足の裏がむずむずする。 おれは 卑怯 ( ひきょう )な人間ではない。 臆病 ( おくびょう )な男でもないが、 惜 ( お )しい事に 胆力 ( たんりょく )が欠けている。 先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で 午砲 ( どん )を聞いたような気がする。 最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。 しかし別段困った質問も 掛 ( か )けられずに済んだ。 控所 ( ひかえじょ )へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。 うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。 二時間目に 白墨 ( はくぼく )を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り 込 ( こ )むような気がした。 教場へ出ると今度の組は前より大きな 奴 ( やつ )ばかりである。 おれは 江戸 ( えど )っ子で 華奢 ( きゃしゃ )に小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても 押 ( お )しが利かない。 喧嘩 ( けんか )なら 相撲取 ( すもうとり )とでもやってみせるが、こんな 大僧 ( おおぞう )を四十人も前へ 並 ( なら )べて、ただ一 枚 ( まい )の舌をたたいて 恐縮 ( きょうしゅく )させる手際はない。 しかしこんな 田舎者 ( いなかもの )に弱身を見せると 癖 ( くせ )になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。 最初のうちは、生徒も 烟 ( けむ )に 捲 ( ま )かれてぼんやりしていたから、それ見ろとますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の 真中 ( まんなか )に居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。 そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる 遣 ( や )って、おくれんかな、もし」と云った。 おくれんかな、 もしは 生温 ( なまぬ )るい言葉だ。 早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから 君等 ( きみら )の言葉は使えない、 分 ( わか )らなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。 この調子で二時間目は思ったより、うまく行った。 ただ帰りがけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と出来そうもない 幾何 ( きか )の問題を持って 逼 ( せま )ったには 冷汗 ( ひやあせ )を流した。 仕方がないから何だか分らない、この次教えてやると急いで引き 揚 ( あ )げたら、生徒がわあと 囃 ( はや )した。 その中に出来ん出来んと云う声が 聞 ( きこ )える。 箆棒 ( べらぼう )め、先生だって、出来ないのは当り前だ。 出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。 そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。 今度はどうだとまた山嵐が聞いた。 うんと云ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生徒は分らずやだなと云ってやった。 山嵐は 妙 ( みょう )な顔をしていた。 三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。 最初の日に出た級は、いずれも少々ずつ失敗した。 教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。 授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつ 然 ( ねん )として待ってなくてはならん。 三時になると、受持級の生徒が自分の教室を 掃除 ( そうじ )して 報知 ( しらせ )にくるから検分をするんだそうだ。 それから、 出席簿 ( しゅっせきぼ )を一応調べてようやくお 暇 ( ひま )が出る。 いくら月給で買われた 身体 ( からだ )だって、あいた時間まで学校へ 縛 ( しば )りつけて机と 睨 ( にら )めっくらをさせるなんて法があるものか。 しかしほかの連中はみんな 大人 ( おとな )しくご規則通りやってるから新参のおればかり、だだを 捏 ( こ )ねるのもよろしくないと思って 我慢 ( がまん )していた。 帰りがけに、君何でもかんでも三時 過 ( すぎ )まで学校にいさせるのは 愚 ( おろか )だぜと山嵐に訴えたら、山嵐はそうさアハハハと笑ったが、あとから 真面目 ( まじめ )になって、君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ。 云うなら 僕 ( ぼく )だけに話せ、 随分 ( ずいぶん )妙な人も居るからなと忠告がましい事を云った。 四つ角で分れたから 詳 ( くわ )しい事は聞くひまがなかった。 それからうちへ帰ってくると、宿の 亭主 ( ていしゅ )がお茶を入れましょうと云ってやって来る。 お茶を入れると云うからご 馳走 ( ちそう )をするのかと思うと、おれの茶を 遠慮 ( えんりょ )なく入れて自分が飲むのだ。 この様子では 留守中 ( るすちゅう )も勝手にお茶を入れましょうを 一人 ( ひとり )で 履行 ( りこう )しているかも知れない。 亭主が云うには手前は 書画骨董 ( しょがこっとう )がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるようになりました。 あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。 ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、飛んでもない 勧誘 ( かんゆう )をやる。 二年前ある人の 使 ( つかい )に 帝国 ( ていこく )ホテルへ行った時は 錠前 ( じょうまえ )直しと 間違 ( まちが )えられた事がある。 ケットを 被 ( かぶ )って、 鎌倉 ( かまくら )の大仏を見物した時は車屋から親方と云われた。 その外 今日 ( こんにち )まで 見損 ( みそくな )われた事は随分あるが、まだおれをつらまえて大分ご風流でいらっしゃると云ったものはない。 大抵 ( たいてい )はなりや様子でも分る。 風流人なんていうものは、 画 ( え )を見ても、 頭巾 ( ずきん )を 被 ( かぶ )るか 短冊 ( たんざく )を持ってるものだ。 このおれを風流人だなどと真面目に云うのはただの 曲者 ( くせもの )じゃない。 おれはそんな 呑気 ( のんき )な 隠居 ( いんきょ )のやるような事は 嫌 ( きら )いだと云ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いったんこの道にはいるとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な 手付 ( てつき )をして飲んでいる。 実はゆうべ茶を買ってくれと 頼 ( たの )んでおいたのだが、こんな苦い 濃 ( こ )い茶はいやだ。 一 杯 ( ぱい )飲むと胃に答えるような気がする。 今度からもっと苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼって飲んだ。 人の茶だと思って 無暗 ( むやみ )に飲む 奴 ( やつ )だ。 主人が引き下がってから、明日の 下読 ( したよみ )をしてすぐ 寝 ( ね )てしまった。 それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人がお茶を入れましょうと出てくる。 一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も 大概 ( たいがい )は分った。 ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は自分の評判がいいだろうか、 悪 ( わ )るいだろうか非常に気に 掛 ( か )かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。 教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと 奇麗 ( きれい )に消えてしまう。 おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。 教場のしくじりが生徒にどんな 影響 ( えいきょう )を 与 ( あた )えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を 呈 ( てい )するかまるで 無頓着 ( むとんじゃく )であった。 おれは前に云う通りあまり度胸の 据 ( すわ )った男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。 この学校がいけなければすぐどっかへ 行 ( ゆ )く 覚悟 ( かくご )でいたから、 狸 ( たぬき )も赤シャツも、ちっとも 恐 ( おそろ )しくはなかった。 まして教場の 小僧 ( こぞう )共なんかには 愛嬌 ( あいきょう )もお世辞も使う気になれなかった。 学校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。 亭主が茶を飲みに来るだけなら我慢もするが、いろいろな者を持ってくる。 始めに持って来たのは何でも印材で、 十 ( とお )ばかり 並 ( なら )べておいて、みんなで三円なら安い物だお買いなさいと云う。 田舎巡 ( いなかまわ )りのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは入らないと云ったら、今度は 華山 ( かざん )とか何とか云う男の花鳥の 掛物 ( かけもの )をもって来た。 自分で 床 ( とこ )の 間 ( ま )へかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、そうかなと 好加減 ( いいかげん )に 挨拶 ( あいさつ )をすると、華山には 二人 ( ふたり )ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この 幅 ( ふく )はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。 お買いなさいと 催促 ( さいそく )をする。 金がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか 頑固 ( がんこ )だ。 金があつても買わないんだと、その時は追っ 払 ( ぱら )っちまった。 その次には 鬼瓦 ( おにがわら )ぐらいな 大硯 ( おおすずり )を担ぎ込んだ。 これは 端渓 ( たんけい )です、端渓ですと二 遍 ( へん )も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。 端渓には上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この 眼 ( がん )をご覧なさい。 眼が三つあるのは 珍 ( めず )らしい。 溌墨 ( はつぼく )の具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を 突 ( つ )きつける。 いくらだと聞くと、持主が 支那 ( しな )から持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと云う。 この男は 馬鹿 ( ばか )に 相違 ( そうい )ない。 学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう 骨董責 ( こっとうぜめ )に 逢 ( あ )ってはとても長く続きそうにない。 そのうち学校もいやになった。 ある日の晩 大町 ( おおまち )と云う所を散歩していたら郵便局の 隣 ( とな )りに 蕎麦 ( そば )とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。 おれは蕎麦が大好きである。 東京に 居 ( お )った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の 香 ( にお )いをかぐと、どうしても 暖簾 ( のれん )がくぐりたくなった。 今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。 ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。 見ると看板ほどでもない。 東京と 断 ( こと )わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、 滅法 ( めっぽう )きたない。 畳 ( たたみ )は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。 壁 ( かべ )は 煤 ( すす )で 真黒 ( まっくろ )だ。 天井 ( てんじょう )はランプの 油烟 ( ゆえん )で 燻 ( くす )ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。 ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。 何でも古いうちを買って 二三日 ( にさんち )前から開業したに 違 ( ちが )いなかろう。 ねだん付の第一号に 天麩羅 ( てんぷら )とある。 おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。 するとこの時まで 隅 ( すみ )の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた 連中 ( れんじゅう )が、ひとしくおれの方を見た。 部屋 ( へや )が暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。 先方で 挨拶 ( あいさつ )をしたから、おれも挨拶をした。 その晩は 久 ( ひさ )し 振 ( ぶり )に蕎麦を食ったので、 旨 ( うま )かったから天麩羅を四杯 平 ( たいら )げた。 翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。 おれの顔を見てみんなわあと笑った。 おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ 可笑 ( おか )しいかと聞いた。 すると生徒の 一人 ( ひとり )が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。 四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。 十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。 但 ( ただ )し笑うべからず。 と黒板にかいてある。 さっきは別に腹も立たなかったが今度は 癪 ( しゃく )に 障 ( さわ )った。 冗談 ( じょうだん )も度を過ごせばいたずらだ。 焼餅 ( やきもち )の 黒焦 ( くろこげ )のようなもので 誰 ( だれ )も 賞 ( ほ )め手はない。 田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで 押 ( お )して行っても構わないと云う 了見 ( りょうけん )だろう。 一時間あるくと見物する町もないような 狭 ( せま )い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を 日露 ( にちろ )戦争のように 触 ( ふ )れちらかすんだろう。 憐 ( あわ )れな 奴等 ( やつら )だ。 小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、 植木鉢 ( うえきばち )の 楓 ( かえで )みたような 小人 ( しょうじん )が出来るんだ。 無邪気 ( むじゃき )ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃなんだ。 小供の 癖 ( くせ )に 乙 ( おつ )に毒気を持ってる。 おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、 卑怯 ( ひきょう )な冗談だ。 君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて 怒 ( おこ )るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。 やな奴だ。 わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。 余計な減らず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始めてしまった。 それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。 どうも始末に終えない。 あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って来てやった。 生徒は休みになって喜んだそうだ。 こうなると学校より骨董の方がまだましだ。 天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに 肝癪 ( かんしゃく )に障らなくなった。 学校へ出てみると、生徒も出ている。 何だか訳が分らない。 それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に 住田 ( すみた )と云う所へ行って 団子 ( だんご )を食った。 この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に 遊廓 ( ゆうかく )がある。 おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。 今度は生徒にも逢わなかったから、 誰 ( だれ )も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二 皿 ( さら )七銭と書いてある。 実際おれは二皿食って七銭 払 ( はら )った。 どうも 厄介 ( やっかい )な奴等だ。 二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。 あきれ返った奴等だ。 団子がそれで済んだと思ったら今度は 赤手拭 ( あかてぬぐい )と云うのが評判になった。 何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。 おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に 極 ( き )めている。 ほかの所は何を見ても東京の足元にも 及 ( およ )ばないが温泉だけは立派なものだ。 せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた 出掛 ( でかけ )る。 ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。 この手拭が湯に 染 ( そま )った上へ、赤い 縞 ( しま )が流れ出したのでちょっと見ると 紅色 ( べにいろ )に見える。 おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。 それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。 どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。 まだある。 温泉は三階の新築で上等は 浴衣 ( ゆかた )をかして、流しをつけて八銭で済む。 その上に女が 天目 ( てんもく )へ茶を 載 ( の )せて出す。 おれはいつでも上等へはいった。 すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは 贅沢 ( ぜいたく )だと云い出した。 余計なお世話だ。 まだある。 湯壺 ( ゆつぼ )は 花崗石 ( みかげいし )を 畳 ( たた )み上げて、十五 畳敷 ( じょうじき )ぐらいの広さに仕切ってある。 大抵 ( たいてい )は十三四人 漬 ( つか )ってるがたまには誰も居ない事がある。 深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか 愉快 ( ゆかい )だ。 おれは人の居ないのを 見済 ( みすま )しては十五畳の湯壺を泳ぎ 巡 ( まわ )って喜んでいた。 ところがある日三階から 威勢 ( いせい )よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を 覗 ( のぞ )いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて 貼 ( は )りつけてある。 湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この 貼札 ( はりふだ )はおれのために特別に新調したのかも知れない。 おれはそれから泳ぐのは断念した。 泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには 驚 ( おど )ろいた。 何だか生徒全体がおれ一人を 探偵 ( たんてい )しているように思われた。 くさくさした。 生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。 それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。 学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。 但 ( ただ )し 狸 ( たぬき )と赤シャツは例外である。 何でこの両人が当然の義務を 免 ( まぬ )かれるのかと聞いてみたら、 奏任待遇 ( そうにんたいぐう )だからと云う。 面白くもない。 月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を 逃 ( の )がれるなんて不公平があるものか。 勝手な規則をこしらえて、それが 当 ( あた )り 前 ( まえ )だというような顔をしている。 よくまああんなにずうずうしく出来るものだ。 これについては大分不平であるが、 山嵐 ( やまあらし )の説によると、いくら 一人 ( ひとり )で不平を 並 ( なら )べたって通るものじゃないそうだ。 一人だって 二人 ( ふたり )だって正しい事なら通りそうなものだ。 山嵐は might is right という英語を引いて 説諭 ( せつゆ )を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だそうだ。 強者の権利ぐらいなら 昔 ( むかし )から知っている。 今さら山嵐から講釈をきかなくってもいい。 強者の権利と宿直とは別問題だ。 狸や赤シャツが強者だなんて、 誰 ( だれ )が承知するものか。 議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に 廻 ( まわ )って来た。 一体 疳性 ( かんしょう )だから 夜具 ( やぐ ) 蒲団 ( ふとん )などは自分のものへ楽に寝ないと寝たような心持ちがしない。 小供の時から、友達のうちへ 泊 ( とま )った事はほとんどないくらいだ。 友達のうちでさえ 厭 ( いや )なら学校の宿直はなおさら厭だ。 厭だけれども、これが四十円のうちへ 籠 ( こも )っているなら仕方がない。 我慢 ( がまん )して勤めてやろう。 教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは 随分 ( ずいぶん )間が 抜 ( ぬ )けたものだ。 宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。 ちょっとはいってみたが、西日をまともに受けて、苦しくって居たたまれない。 田舎 ( いなか )だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。 生徒の 賄 ( まかない )を取りよせて晩飯を済ましたが、まずいには 恐 ( おそ )れ 入 ( い )った。 よくあんなものを食って、あれだけに暴れられたもんだ。 それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうんだから 豪傑 ( ごうけつ )に 違 ( ちが )いない。 飯は食ったが、まだ日が 暮 ( く )れないから 寝 ( ね )る訳に行かない。 ちょっと温泉に行きたくなった。 宿直をして、外へ出るのはいい事だか、 悪 ( わ )るい事だかしらないが、こうつくねんとして 重禁錮 ( じゅうきんこ )同様な 憂目 ( うきめ )に 逢 ( あ )うのは我慢の出来るもんじゃない。 始めて学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょっと 用達 ( ようたし )に出たと 小使 ( こづかい )が答えたのを 妙 ( みょう )だと思ったが、自分に番が 廻 ( まわ )ってみると思い当る。 出る方が正しいのだ。 おれは小使にちょっと出てくると云ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと 出掛 ( でか )けた。 赤手拭 ( あかてぬぐい )は宿へ忘れて来たのが残念だが今日は先方で借りるとしよう。 それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく 日暮方 ( ひぐれがた )になったから、汽車へ乗って 古町 ( こまち )の 停車場 ( ていしゃば )まで来て下りた。 学校まではこれから四丁だ。 訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。 狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。 すたすた急ぎ足にやってきたが、 擦 ( す )れ 違 ( ちが )った時おれの顔を見たから、ちょっと 挨拶 ( あいさつ )をした。 すると狸はあなたは今日は宿直では なかったですかねえと 真面目 ( まじめ )くさって聞いた。 なかったですかねえもないもんだ。 二時間前おれに向って今夜は始めての宿直ですね。 ご苦労さま。 と礼を云ったじゃないか。 校長なんかになるといやに曲りくねった言葉を使うもんだ。 おれは腹が立ったから、ええ宿直です。 宿直ですから、これから帰って泊る事はたしかに泊りますと云い捨てて済ましてあるき出した。 竪町 ( たてまち )の四つ角までくると今度は 山嵐 ( やまあらし )に出っ 喰 ( く )わした。 どうも 狭 ( せま )い所だ。 出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。 「おい君は宿直じゃないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答えたら、「宿直が 無暗 ( むやみ )に出てあるくなんて、 不都合 ( ふつごう )じゃないか」と云った。 「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と 威張 ( いば )ってみせた。 「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと 面倒 ( めんどう )だぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。 暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、面倒 臭 ( くさ )いから、さっさと学校へ帰って来た。 それから日はすぐくれる。 くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも 飽 ( あ )きたから、寝られないまでも 床 ( とこ )へはいろうと思って、寝巻に 着換 ( きが )えて、 蚊帳 ( かや )を 捲 ( ま )くって、赤い 毛布 ( けっと )を 跳 ( は )ねのけて、とんと 尻持 ( しりもち )を 突 ( つ )いて、 仰向 ( あおむ )けになった。 おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの 癖 ( くせ )だ。 わるい癖だと云って 小川町 ( おがわまち )の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち 込 ( こ )んだ事がある。 法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、 愚 ( ぐ )な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。 下宿の建築が 粗末 ( そまつ )なんだ。 掛 ( か )ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと 凹 ( へこ )ましてやった。 この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと 倒 ( たお )れても構わない。 なるべく 勢 ( いきおい )よく倒れないと寝たような心持ちがしない。 ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。 ざらざらして 蚤 ( のみ )のようでもないからこいつあと 驚 ( おど )ろいて、足を二三度 毛布 ( けっと )の中で 振 ( ふ )ってみた。 早速 ( さっそく )起き 上 ( あが )って、 毛布 ( けっと )をぱっと後ろへ 抛 ( ほう )ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。 正体の知れない時は多少気味が 悪 ( わ )るかったが、バッタと相場が 極 ( き )まってみたら急に腹が立った。 バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり 括 ( くく )り 枕 ( まくら )を取って、二三度 擲 ( たた )きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく 抛 ( な )げつける割に 利目 ( ききめ )がない。 仕方がないから、また布団の上へ 坐 ( すわ )って、 煤掃 ( すすはき )の時に 蓙 ( ござ )を丸めて 畳 ( たたみ )を 叩 ( たた )くように、そこら近辺を無暗にたたいた。 バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの 肩 ( かた )だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。 顔へ付いた 奴 ( やつ )は枕で叩く訳に行かないから、手で 攫 ( つか )んで、一生懸命に擲きつける。 忌々 ( いまいま )しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。 バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。 死にもどうもしない。 ようやくの事に三十分ばかりでバッタは 退治 ( たいじ )た。 箒 ( ほうき )を持って来てバッタの 死骸 ( しがい )を掃き出した。 小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に 飼 ( か )っとく奴がどこの国にある。 間抜 ( まぬけ )め。 と 叱 ( しか )ったら、私は存じませんと弁解をした。 存じませんで済むかと箒を 椽側 ( えんがわ )へ 抛 ( ほう )り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。 すると六人出て来た。 六人だろうが十人だろうが構うものか。 寝巻のまま 腕 ( うで )まくりをして談判を始めた。 「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」 「バッタた何ぞな」と 真先 ( まっさき )の一人がいった。 やに落ち付いていやがる。 この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。 「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、 生憎 ( あいにく )掃き出してしまって一 匹 ( ぴき )も居ない。 また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう 掃溜 ( はきだめ )へ 棄 ( す )ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。 「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いで 馳 ( か )け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり 載 ( の )せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。 あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。 小使まで 馬鹿 ( ばか )だ。 おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを 遣 ( や )り 込 ( こ )めた。 「 篦棒 ( べらぼう )め、イナゴもバッタも同じもんだ。 第一先生を 捕 ( つら )まえて なもした何だ。 菜飯 ( なめし )は 田楽 ( でんがく )の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。 いつまで行っても なもしを使う奴だ。 「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。 おれがいつ、バッタを入れてくれと 頼 ( たの )んだ」 「誰も入れやせんがな」 「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」 「イナゴは 温 ( ぬく )い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」 「馬鹿あ云え。 自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんでしないがいい。 証拠 ( しょうこ )さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。 おれだって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。 しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような 卑怯 ( ひきょう )な事はただの一度もなかった。 したものはしたので、しないものはしないに 極 ( きま )ってる。 おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。 嘘を 吐 ( つ )いて 罰 ( ばつ )を 逃 ( に )げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。 いたずらと罰はつきもんだ。 罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。 いたずらだけで罰はご 免蒙 ( めんこうむ )るなんて 下劣 ( げれつ )な根性がどこの国に 流行 ( はや )ると思ってるんだ。 金は借りるが、返す事はご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に 相違 ( そうい )ない。 全体中学校へ何しにはいってるんだ。 学校へはいって、嘘を吐いて、 胡魔化 ( ごまか )して、 陰 ( かげ )でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと 癇違 ( かんちが )いをしていやがる。 話せない 雑兵 ( ぞうひょう )だ。 おれはこんな 腐 ( くさ )った 了見 ( りょうけん )の奴等と談判するのは 胸糞 ( むなくそ )が 悪 ( わ )るいから、「そんなに云われなきゃ、聞かなくっていい。 中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ」と云って六人を 逐 ( お )っ 放 ( ぱな )してやった。 おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも 遥 ( はる )かに上品なつもりだ。 六人は 悠々 ( ゆうゆう )と引き 揚 ( あ )げた。 上部 ( うわべ )だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。 実は落ち付いているだけなお悪るい。 おれには 到底 ( とうてい )これほどの度胸はない。 それからまた床へはいって横になったら、さっきの 騒動 ( そうどう )で蚊帳の中はぶんぶん 唸 ( うな )っている。 手燭 ( てしょく )をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、 釣手 ( つりて )をはずして、長く 畳 ( たた )んでおいて部屋の中で 横竪 ( よこたて )十文字に 振 ( ふる )ったら、 環 ( かん )が飛んで手の 甲 ( こう )をいやというほど 撲 ( ぶ )った。 三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝られない。 時計を見ると十時半だ。 考えてみると厄介な所へ来たもんだ。 一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。 よく先生が品切れにならない。 よっぽど 辛防 ( しんぼう )強い 朴念仁 ( ぼくねんじん )がなるんだろう。 おれには到底やり切れない。 それを思うと 清 ( きよ )なんてのは見上げたものだ。 教育もない身分もない 婆 ( ばあ )さんだが、人間としてはすこぶる 尊 ( たっ )とい。 今まではあんなに世話になって別段 難有 ( ありがた )いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。 越後 ( えちご )の 笹飴 ( ささあめ )が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は 充分 ( じゅうぶん )ある。 清はおれの事を欲がなくって、 真直 ( まっすぐ )な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。 何だか清に逢いたくなった。 清の事を考えながら、のつそつしていると、 突然 ( とつぜん )おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと 拍子 ( ひょうし )を取って床板を踏みならす音がした。 すると足音に比例した大きな 鬨 ( とき )の声が 起 ( おこ )った。 おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。 飛び起きる 途端 ( とたん )に、ははあさっきの 意趣返 ( いしゅがえ )しに生徒があばれるのだなと気がついた。 手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。 わるい事は、手前達に 覚 ( おぼえ )があるだろう。 本来なら寝てから 後悔 ( こうかい )してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。 たとい、あやまらないまでも恐れ入って、 静粛 ( せいしゅく )に寝ているべきだ。 それを何だこの 騒 ( さわ )ぎは。 寄宿舎を建てて 豚 ( ぶた )でも飼っておきあしまいし。 気狂 ( きちが )いじみた 真似 ( まね )も 大抵 ( たいてい )にするがいい。 どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、 楷子段 ( はしごだん )を 三股半 ( みまたはん )に二階まで 躍 ( おど )り上がった。 すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。 これは妙だ。 ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と 分 ( わか )らないが、 人気 ( ひとけ )のあるとないとは様子でも知れる。 長く東から西へ 貫 ( つらぬ )いた 廊下 ( ろうか )には 鼠 ( ねずみ )一 匹 ( ぴき )も 隠 ( かく )れていない。 廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。 どうも変だ、おれは小供の時から、よく 夢 ( ゆめ )を見る癖があって、 夢中 ( むちゅう )に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。 十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な 勢 ( いきおい )で 尋 ( たず )ねたくらいだ。 その時は三日ばかりうち 中 ( じゅう )の笑い草になって大いに弱った。 ことによると今のも夢かも知れない。 しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の 真中 ( まんなか )で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって 響 ( ひび )いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が 床板 ( ゆかいた )を踏み鳴らした。 それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。 静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ 馳 ( か )けだした。 おれの通る 路 ( みち )は暗い、ただはずれに見える月あかりが 目標 ( めじるし )だ。 おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、 堅 ( かた )い大きなものに 向脛 ( むこうずね )をぶつけて、 あ痛いが頭へひびく間に、身体はすとんと前へ 抛 ( ほう )り出された。 こん 畜生 ( ちきしょう )と起き上がってみたが、馳けられない。 気はせくが、足だけは云う事を利かない。 じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、 森 ( しん )としている。 いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。 まるで豚だ。 こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を 極 ( き )めて 寝室 ( しんしつ )の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。 錠 ( じょう )をかけてあるのか、机か何か積んで立て 懸 ( か )けてあるのか、 押 ( お )しても、押しても決して開かない。 今度は向う合せの北側の 室 ( へや )を試みた。 開かない事はやっぱり同然である。 おれが戸を開けて中に居る奴を引っ 捕 ( つ )らまえてやろうと、 焦慮 ( いらっ )てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。 この 野郎 ( やろう )申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。 正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に 智慧 ( ちえ )が足りない。 こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。 わからないけれども、決して負けるつもりはない。 このままに済ましてはおれの顔にかかわる。 江戸 ( えど )っ子は 意気地 ( いくじ )がないと云われるのは残念だ。 宿直をして 鼻垂 ( はなった )れ 小僧 ( こぞう )にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。 これでも元は 旗本 ( はたもと )だ。 旗本の元は 清和源氏 ( せいわげんじ )で、 多田 ( ただ )の 満仲 ( まんじゅう )の 後裔 ( こうえい )だ。 こんな 土百姓 ( どびゃくしょう )とは生まれからして違うんだ。 ただ智慧のないところが惜しいだけだ。 どうしていいか分らないのが困るだけだ。 困ったって負けるものか。 正直だから、どうしていいか分らないんだ。 世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。 今夜中に勝てなければ、あした勝つ。 あした勝てなければ、あさって勝つ。 あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。 おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。 蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。 さっき、ぶつけた向脛を 撫 ( な )でてみると、何だかぬらぬらする。 血が出るんだろう。 血なんか出たければ勝手に出るがいい。 そのうち最前からの 疲 ( つか )れが出て、ついうとうと寝てしまった。 何だか騒がしいので、 眼 ( め )が覚めた時はえっ 糞 ( くそ )しまったと飛び上がった。 おれの 坐 ( すわ )ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。 おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を 引 ( ひ )っ 攫 ( つか )んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと 仰向 ( あおむけ )に倒れた。 ざまを見ろ。 残る一人がちょっと 狼狽 ( ろうばい )したところを、飛びかかって、肩を 抑 ( おさ )えて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。 さあおれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく 尾 ( つ )いて来た。 夜 ( よ )はとうにあけている。 おれが宿直部屋へ連れてきた奴を 詰問 ( きつもん )し始めると、豚は、 打 ( ぶ )っても擲いても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。 そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。 見るとみんな 眠 ( ねむ )そうに 瞼 ( まぶた )をはらしている。 けちな奴等だ。 一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と云われるか。 面でも洗って議論に来いと云ってやったが、誰も面を洗いに行かない。 おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり 押問答 ( おしもんどう )をしていると、ひょっくり狸がやって来た。 あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。 これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。 それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。 校長はひと通りおれの説明を聞いた。 生徒の 言草 ( いいぐさ )もちょっと聞いた。 追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。 早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと云って寄宿生をみんな 放免 ( ほうめん )した。 手温 ( てぬ )るい事だ。 おれなら 即席 ( そくせき )に寄宿生をことごとく退校してしまう。 こんな 悠長 ( ゆうちょう )な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。 その上おれに向って、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に 及 ( およ )ばんと云うから、おれはこう答えた。 「いえ、ちっとも心配じゃありません。 こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。 授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、 頂戴 ( ちょうだい )した月給を学校の方へ 割戻 ( わりもど )します」校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。 なるほど何だか少々重たい気がする。 その上べた一面 痒 ( かゆ )い。 蚊がよっぽと 刺 ( さ )したに相違ない。 おれは顔中ぼりぼり 掻 ( か )きながら、顔はいくら 膨 ( は )れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し 支 ( つか )えませんと答えた。 校長は笑いながら、大分元気ですねと 賞 ( ほ )めた。 実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。 君 釣 ( つ )りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。 赤シャツは気味の 悪 ( わ )るいように優しい声を出す男である。 まるで男だか女だか 分 ( わか )りゃしない。 男なら男らしい声を出すもんだ。 ことに大学卒業生じゃないか。 物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。 おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。 あんまりないが、子供の時、 小梅 ( こうめ )の 釣堀 ( つりぼり )で 鮒 ( ふな )を三 匹 ( びき )釣った事がある。 それから 神楽坂 ( かぐらざか )の 毘沙門 ( びしゃもん )の 縁日 ( えんにち )で八寸ばかりの 鯉 ( こい )を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても 惜 ( お )しいと 云 ( い )ったら、赤シャツは 顋 ( あご )を前の方へ 突 ( つ )き出してホホホホと笑った。 何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。 「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。 お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。 だれがご伝授をうけるものか。 一体釣や 猟 ( りょう )をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。 不人情でなくって、 殺生 ( せっしょう )をして喜ぶ訳がない。 魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に 極 ( き )まってる。 釣や猟をしなくっちゃ 活計 ( かっけい )がたたないなら格別だが、何不足なく 暮 ( くら )している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて 贅沢 ( ぜいたく )な話だ。 こう思ったが 向 ( むこ )うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ 叶 ( かな )わないと思って、だまってた。 すると先生このおれを降参させたと 疳違 ( かんちが )いして、早速伝授しましょう。 おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。 吉川 ( よしかわ )君と 二人 ( ふたり )ぎりじゃ、 淋 ( さむ )しいから、来たまえとしきりに勧める。 吉川君というのは画学の教師で例の野だいこの事だ。 この野だは、どういう 了見 ( りょうけん )だか、赤シャツのうちへ朝夕 出入 ( でいり )して、どこへでも 随行 ( ずいこう )して 行 ( ゆ )く。 まるで 同輩 ( どうはい )じゃない。 主従 ( しゅうじゅう )みたようだ。 赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに 極 ( きま )っているんだから、今さら 驚 ( おど )ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで 無愛想 ( ぶあいそ )のおれへ口を 掛 ( か )けたんだろう。 大方 高慢 ( こうまん )ちきな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで 誘 ( さそ )ったに違いない。 そんな事で見せびらかされるおれじゃない。 鮪 ( まぐろ )の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。 おれだって人間だ、いくら 下手 ( へた )だって糸さえ 卸 ( おろ )しゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、 嫌 ( きら )いだから行かないんじゃないと 邪推 ( じゃすい )するに 相違 ( そうい )ない。 おれはこう考えたから、行きましょうと答えた。 それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、 支度 ( したく )を整えて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて 浜 ( はま )へ行った。 船頭は 一人 ( ひとり )で、 船 ( ふね )は細長い東京辺では見た事もない 恰好 ( かっこう )である。 さっきから船中 見渡 ( みわた )すが 釣竿 ( つりざお )が一本も見えない。 釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、 沖釣 ( おきづり )には竿は用いません、糸だけでげすと顋を 撫 ( な )でて 黒人 ( くろうと )じみた事を云った。 こう 遣 ( や )り 込 ( こ )められるくらいならだまっていればよかった。 船頭はゆっくりゆっくり 漕 ( こ )いでいるが熟練は 恐 ( おそろ )しいもので、 見返 ( みか )えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。 高柏寺 ( こうはくじ )の五重の 塔 ( とう )が森の上へ 抜 ( ぬ )け出して針のように 尖 ( とん )がってる。 向側 ( むこうがわ )を見ると 青嶋 ( あおしま )が浮いている。 これは人の住まない島だそうだ。 よく見ると石と 松 ( まつ )ばかりだ。 なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。 赤シャツは、しきりに 眺望 ( ちょうぼう )していい景色だと云ってる。 野だは絶景でげすと云ってる。 絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。 ひろびろとした海の上で、潮風に 吹 ( ふ )かれるのは薬だと思った。 いやに腹が減る。 「あの松を見たまえ、幹が 真直 ( まっすぐ )で、上が 傘 ( かさ )のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。 どうもあの曲り具合ったらありませんね。 ターナーそっくりですよ」と心得顔である。 ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから 黙 ( だま )っていた。 舟は島を右に見てぐるりと 廻 ( まわ )った。 波は全くない。 これで海だとは受け取りにくいほど 平 ( たいら )だ。 赤シャツのお 陰 ( かげ )ではなはだ 愉快 ( ゆかい )だ。 出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。 つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。 おれは黙ってた。 すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な 発議 ( ほつぎ )をした。 赤シャツはそいつは面白い、 吾々 ( われわれ )はこれからそう云おうと賛成した。 この吾々のうちにおれもはいってるなら 迷惑 ( めいわく )だ。 おれには青嶋でたくさんだ。 あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。 いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。 なに誰も居ないから 大丈夫 ( だいじょうぶ )ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。 おれは何だかやな心持ちがした。 マドンナだろうが、 小旦那 ( こだんな )だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。 下品な仕草だ。 これで当人は 私 ( わたし )も 江戸 ( えど )っ子でげすなどと云ってる。 マドンナと云うのは何でも赤シャツの 馴染 ( なじみ )の芸者の 渾名 ( あだな )か何かに違いないと思った。 なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして 眺 ( なが )めていれば世話はない。 それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。 ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、 錨 ( いかり )を卸した。 幾尋 ( いくひろ )あるかねと赤シャツが聞くと、 六尋 ( むひろ )ぐらいだと云う。 六尋ぐらいじゃ 鯛 ( たい )はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。 大将鯛を釣る気と見える、 豪胆 ( ごうたん )なものだ。 野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。 それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を 繰 ( く )り出して投げ入れる。 何だか先に 錘 ( おもり )のような 鉛 ( なまり )がぶら下がってるだけだ。 浮 ( うき )がない。 浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。 おれには 到底 ( とうてい )出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。 糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは 素人 ( しろうと )ですよ。 こうしてね、糸が 水底 ( みずそこ )へついた時分に、 船縁 ( ふなべり )の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。 いい 気味 ( きび )だ。 教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ 逃 ( に )げられちゃ、今日は油断ができませんよ。 しかし逃げられても何ですね。 浮と 睨 ( にら )めくらをしている連中よりはましですね。 ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは 妙 ( みよう )な事ばかり 喋舌 ( しゃべ )る。 よっぽど 撲 ( なぐ )りつけてやろうかと思った。 おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。 広い所だ。 鰹 ( かつお )の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を 抛 ( ほう )り込んでいい加減に指の先であやつっていた。 しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。 おれは考えた。 こいつは魚に相違ない。 生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。 しめた、釣れたとぐいぐい 手繰 ( たぐ )り寄せた。 おや釣れましたかね、後世 恐 ( おそ )るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に 浸 ( つ )いておらん。 船縁から 覗 ( のぞ )いてみたら、金魚のような 縞 ( しま )のある魚が糸にくっついて、右左へ 漾 ( ただよ )いながら、手に応じて浮き上がってくる。 面白い。 水際から上げるとき、ぽちゃりと 跳 ( は )ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。 ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。 捕 ( つら )まえた手はぬるぬるする。 大いに気味がわるい。 面倒だから糸を 振 ( ふ )って 胴 ( どう )の 間 ( ま )へ 擲 ( たた )きつけたら、すぐ死んでしまった。 赤シャツと野だは驚ろいて見ている。 おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。 まだ 腥臭 ( なまぐさ )い。 もう 懲 ( こ )り 懲 ( ご )りだ。 何が釣れたって魚は 握 ( にぎ )りたくない。 魚も握られたくなかろう。 そうそう糸を捲いてしまった。 一番槍 ( いちばんやり )はお 手柄 ( てがら )だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと 露西亜 ( ロシア )の文学者みたような名だねと赤シャツが 洒落 ( しゃれ )た。 そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。 ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が 芝 ( しば )の写真師で、米のなる木が命の親だろう。 一体この赤シャツはわるい 癖 ( くせ )だ。 誰 ( だれ )を 捕 ( つら )まえても片仮名の 唐人 ( とうじん )の名を並べたがる。 人にはそれぞれ専門があったものだ。 おれのような数学の教師にゴルキだか 車力 ( しゃりき )だか見当がつくものか、少しは 遠慮 ( えんりょ )するがいい。 云 ( い )うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。 赤シャツは時々帝国文学とかいう 真赤 ( まっか )な雑誌を学校へ持って来て 難有 ( ありがた )そうに読んでいる。 山嵐 ( やまあらし )に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。 帝国文学も罪な雑誌だ。 それから赤シャツと野だは 一生懸命 ( いっしょうけんめい )に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに 二人 ( ふたり )で十五六上げた。 可笑 ( おか )しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。 鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。 今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話している。 あなたの 手腕 ( しゅわん )でゴルキなんですから、 私 ( わたし )なんぞがゴルキなのは仕方がありません。 当り前ですなと野だが答えている。 船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。

次の