こみけぐも。 “コミケ雲”は発生する? 気象予報士・依田司が語る猛暑対策「コミケ雨が降る可能性も…」

コミケ雲とは?夏コミの会場に雲?なぜできるの?画像は?

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押し寄せる漢どもの熱気が雲を呼ぶ、雷を呼ぶ、嵐を呼ぶ! 「コミケ雲」 とは、 の会場でしばしば目撃される超常現象のことです。 「雲」 というのは文字通り、空に浮かぶ 「雲」(Cloud) のことですが、これがコミケを開催中の の建物の中 (天井付近) に現れます。 「晴海雲」「有明雲」 などと呼ぶこともあります。 発生のメカニズムとしては次の通りとなります。 まず大勢の同人関係者が詰め掛けたことにより、それらの人たちが大量にかく 「汗」 が膨大な水蒸気となって発散。 それがそのまま熱気で空気と一緒に上昇し、会場の天井付近で建物に設置されたエアコン (クーラー) の冷風によって冷やされ凝結、水滴化して、文字通りもくもくと雲になる状態を指します。 大空に浮かぶ実際の雲も、しめった空気が上昇し、上空で冷えてチリなどを核として水蒸気が凝結して発生しますから、まさしくコミケ会場は地球環境シミュレーター、小さな地球 (テラ) 状態、ボクらの宇宙船地球号だと云えるでしょう。 なおこうした現象全体を と呼ぶ場合もあります。 晴海時代に発生…有明でも目撃例が多数の 「コミケ雲」 最初に 「コミケ雲」 が目撃、観測されたのは で開催されていた 「晴海時代」 のコミケで、会場の中がもやっているような感じ、薄く霧がかかっているような、サウナ風呂の中のような状態になります。 発生時期としては当然に夏場が多いようですが、コミケ (男性向けエロ同人) ともなると、冬だろうが何だろうが もくもくと発生してしまうようです。 当初は、会場のキャパが小さく、また天井の低い晴海特有の現象とも云われていましたが (入道雲のようにせりあがった、雨が降った (、コミケ雨 とも)、雷鳴が轟いた (混雑する会場内で参加者の服が触れ合い静電気を帯び蓄積したとも) との伝説あり)、有明のような巨大な会場でもしばしば目撃されているようで (ビッグサイトは屋根が高いので、見上げないと分からなかったりします)、ある種の名物のような感じになっています。 メガネなどを掛けていたら、自分自身の熱気でレンズの内側が、「コミケ雲」 で外側が、それぞれ曇って真っ白になってしまったりもあります。 ちなみに実際に右上のような 「コミケ雲 発生のメカニズム」 を考えた場合、実際はエアコンの風量の関係で 「もや」 がかかるにしても、「雲の発生」 とまでは云えないだろう…ってのがわりと大方の意見ですし、面白みのある都市伝説、 話として、噂話が一人歩きしてる部分もあります。 実際に会場に訪れて、自分の目で実在するのかどうか、確かめるのが一番でしょう。 なお 、 と呼ばれる大自然の驚異も目撃されているようです…。

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1960年代に入り漫画、SFや映画などに積極的に興味を示す人々が出現、同時に表現の場としての同人誌が制作されるようになった。 1966年12月創刊の漫画雑誌「COM」は1967年3月号で読者や漫画家予備軍としての同人作家を全国的に組織化する野心的な構想を発表し、「ぐら・こん」と称した。 すなわち、同人作家のプロデビューの道筋を示したものである。 この構想は「COM」の路線転換や休刊(1973年8月号)もあり失敗に終わったが、漫画同人誌に与えた影響は大きかった。 そこで、時代の潮流として大型の同人誌即売会の開催が求められた。 そんな中で出現したのがコミックマーケットである。 コミックマーケットを立ち上げるまでに至った主なきっかけの一つは、SF大会を模して開催された「日本漫画大会」や流行の端境期に直面していた旧来の漫画や漫画評論への反発といったものだった。 また「日本漫画大会」を批判したある前回参加者が参加を拒否された事件があったことから、「迷宮」はこれを告発するとともにコミックマーケットでは批判者を排斥しない理念が形作られることになった。 そして「日本漫画大会」や「マンガフェスティバル」などではイベントの一つの同人誌即売会を独立させ、「ファンのファンによるファンのためのイベント」を目標にした。 コミックマーケットを企画・主催したのは「迷宮」だが、名目上の主催は当初から「コミックマーケット準備委員会(のちの準備会)」である。 実態として両者は表裏一体だが、将来の分離も視野に入れていた。 準備委員会の初代代表は「迷宮」同人で人脈の一番広い、原田央男に落ち着いた。 C1(第1回)のコミックマーケットは1975年12月21日、漫画批評集団「迷宮」が実質的な主催の下、東京・虎の門の日本消防会館会議室において参加サークル32(ただし委託・展示サークルがほぼ半数)、参加者約 700名で開催された。 開催前日には合宿も行われ、アニメソングが高歌放吟されたというSF大会の影響の濃いものだったらしい。 また参加サークルの半分近くを学漫(学校内クラブ活動としての漫画研究会)が占め、萩尾望都作品を中心とした少女漫画ファンクラブがそれに次いだ。 主催者によると、入場者の9割余を「中・高校生の少女まんがファンを中心とした女子」[19]が占めたという。 この時既に、「やおい」の先駆的同人誌も出されていた。 当時、同人誌といえば一般には文学同人誌を指し漫画同人誌の知名度は低かった。 そこでSFファン向け同人誌の用語として用いられた「ファンジン」がまだしもわかりやすいだろうと借用し、「まんがファンジンフェア」と名乗っていた。 しかしコミックマーケットの知名度が上がるに連れ、同人誌も漫画同人誌を指す用法が主流になって行く。 このC1以降、春・夏・冬の学校の休みに合わせて年3回のコミックマーケット開催が定着する。 なお、「迷宮」とコミックマーケットはその後分離した。 しかし、現在でも「迷宮」はサークル参加での永久スペース取得権を有している。 帳簿上コミックマーケット準備会は「迷宮」からの借金が残ったままになっており、その代償という形を取っているという。 この会場は第1回のみである。 1976年にはC2からC4の春・夏・冬コミが板橋産業連合会館で開催される。 この頃はまだ参加サークルは100に満たない状態だったが、1977年(C5)に大田区産業会館に移った頃から入場待ちの行列ができるようになっていく。 途中、四谷公会堂と東京都立産業会館・台東館を1度ずつ使用したものの結局1979年いっぱいまで同館の使用は続き同館最後の開催となったC13では参加サークル300弱、参加者約4,000人とコミックマーケットは確実に大きくなっていった。 また参加サークルにおける学漫(学校の部活動、サークルとしての漫画・同人サークル)の占める割合は低下し、オリジナルの創作系が増えていった。 また、『宇宙戦艦ヤマト』などアニメのファンサークルの参加も目立ちだした。 特に『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』のブームと非常に初期の現在で言う「おたく」が出現したことは、コミックマーケットを牽引する大きな原動力となった。 この時期を最後に「迷宮」は運営から手を引き、コミックマーケットは組織として独り立ちしたようである。 「迷宮」は1980年、創作漫画専門の同人誌即売会「まんが・ミニ・マーケット」をコミックマーケットの補完として開催した。 これはコミックマーケットの規模拡大で売り手と買い手、作者と読者、さらにはファン同士の交流が薄れ始めたため適正規模の即売会を別に設けようとしたためという。 また頒布物における二次創作物の割合が高まったため、純粋なオリジナル創作だけの場を設けるべきではないかという話もあったという。 原田は、創作漫画サークルの発展を期待していた。 そのため二次創作物が主流となり、創作漫画も既存の商業作品の二番煎じと思しき作品のサークルが多かった現状は誤算だった。 しかしコミックマーケットの理念として、もとより排斥すべきではないと考え原田はC12を最後に身を引く形で代表を辞任した。 C14から米澤嘉博が代表になった。 1981年冬のC19は、当初川崎市民プラザで開催される予定だった。 しかし、そこに主催者の内部分裂騒動が発生し「反主流派」(「クーデター派」「コミケ改革派」などと自称した)は先手を打って会場を押さえてしまった。 「反主流派」の行動の動機については、規模拡大に伴い規制強化が必要と認識したからとも既に同人界に影響力を持ち始めていたコミケットの名声に目が眩み乗っ取りを謀ったなどの諸説がある。 また声優を呼んだりアニメの上映会を開いたりできないかとする意見が当時からあったが、コミケットの趣旨にはそぐわないと却下された経緯もあったという(ただし後者は後年、企業ブースとしてコミックマーケットでも実現する)。 こうして、コミケット準備会は望まぬままに東京・晴海にあった東京国際見本市会場(通称:晴海)の使用に踏み切った。 なお分裂した「反主流派」は「新・コミックマーケット」を名乗り、後に「コミックスクウェア」と改称した。 しかしいつまで続いたのかは文献が確認出来ず不明である。 また2006年現在、現存する同人誌即売会の「コミックスクエア」とは無関係である。 「コミックスクウェア」終了後、「反主流派」の流れを汲む人物の一部は「コミックレヴォリューション」開催に加わったとも言われている。 以後、コミックマーケットの会場は6年間にわたって晴海に落ち着く。 その間、参加サークル、参加者数共に増大を続け1983年冬のC22において参加サークルは1,000を超え第1期晴海時代の最後の開催であるC30には3,900サークル、約35,000人が参加するに至る。 またこの間に1983年以降、1988年の冬コミが中止になった事から代替として1989年春に開催されたC35を除き春コミは廃止された。 この間、1985年頃から『キャプテン翼』(『C翼』と略された)が女性サークルに絶大な人気を呼び商業作品を題材に男性キャラクター同士の同性愛を表現した同人誌を制作・頒布するいわゆる「やおい」サークルが増加。 若い女性参加者を大きく増やすこととなった。 1983年よりスタッフに加わった岩田次夫は、『キャプテン翼』ブームが少女漫画再生の鍵になると見てやおいサークルを激賞。 『キャプテン翼』そのものは少年漫画であり、にもかかわらず女性がほとんどを占めたことが同人サークルの特異性である。 少年漫画(特に「週刊少年ジャンプ」作品)サークルが女性中心の傾向は現在でも変わっておらず、むしろ出版社側も利用する動きがある。 また、岩田はサークル情報などの事務管理のコンピュータ化を企画・実行し急激な作業量の膨張に対応した。 これには、参加可能なサークル数を増やすことで人材発掘・育成を進めようという意図もあったという。 岩田はスタッフの第一線を退いた後も「イワえもん」の愛称で親しまれ、同人誌評論などの活動で同人界に影響力を持ち続けた。 岩田は2004年に逝去したが、現在でもカタログや参加申込書にはイワえもんが欠かさず登場する。 TRCでの2日開催でも人員を収容しきれなくなったコミックマーケットは、翌1988年のC34より晴海に戻ることになった。 この時期に至って事務管理のコンピュータ化が確立し、第34回では倍以上の9,200サークルを参加させることができた。 この間も会場確保は困難を極めた。 1988年冬の予定だったC35開催に至ってはついに会場を確保できず、翌1989年3月に行われた。 これが、通常開催では最後の「春コミ」である。 また1989年夏のC36ではサークル数1万、参加者数は10万人の大台に乗った。 折しもC36の直前、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の被疑者として宮粼勤が逮捕された[20]。 被疑者の趣味・嗜好はマスコミにとっては打って付けと言えるほどにステレオタイプな「おたく」であり、コミックマーケットにもサークル参加予定だったことからマスコミの「おたく」バッシングの一環としてコミックマーケットにもマスコミからの取材の手が及んだ。 しかし、皮肉にもこの事件がコミックマーケットの一般への知名度を大きく高めることになった。 急激な膨張はとどまるところを知らず、ついには晴海の全館2日使用でさえ収容能力の限界を露呈する程に巨大化したコミックマーケットは1989年冬のC37より当時日本国内屈指の巨大イベント会場だった千葉県の幕張メッセへと会場を移した。 翌冬のC39には参加者25万人を数えるに至り、コミケットはこのまま幕張に落ち着くかに見えた。 しかし、次のC40開催の直前になって猥褻図画摘発問題と幕張メッセ側からの申し出により突然使用不能となってしまう。 幕張メッセ側は警備上の問題などを理由として挙げているが、事実上コミケットが幕張メッセから厄介払いを受け追い出されたと捉えている者が当時の状況を知る者には多い[21]。 後に「コミケ幕張追放事件」などと呼ばれる事になったこの出来事が、現在までのコミケットの歴史の中では最大の存続の危機と見ている者は多い。 当時この出来事を体験した参加者の多くがいまだに幕張メッセに対して極めてネガティブなイメージと強烈な不信感を抱いており、これについては現在もほとんど払拭されていない。 とはいえ、準備会としては幕張メッセへの公式な批判は避けている。 また、事件後20年以上経過し実際に追放事件を体験していない参加者が増えたことや、現在多くのアニメ・ゲーム関連の大規模イベントが幕張メッセで開催されている事もあり、幕張メッセに対してネガティブなイメージを抱く人は相対的に少なくなってきている。 なお、経済構造の変化や、ビッグサイトなど後発施設との競合による幕張メッセでの大型イベント開催の減少などといった後年の要因もあり、今後東京で夏季オリンピックの開催が決定した場合(2016年は招致に失敗)や、東京都の表現規制の変化などにより東京ビッグサイトが使用不能となった際には幕張メッセがコミケットの受け入れ先として名乗りを上げるのではないか、また施設規模的に移転可能な施設は幕張メッセのみではないかなどといった見方が存在するものの、幕張メッセ・コミケット主催者双方による公式な発表や声明などは無い。 以上のような経緯を経て、コミックマーケットは1991年夏のC40より1995年のC49まで、再び晴海(東京国際見本市会場)で開催された。 そのため、コミックマーケットは3度晴海に移転したということになる。 しかし猥雑図画に対する自主規制の強化は避けられず、この時期に見本誌チェックによる規制を導入している。 参加者の膨張はやむことを知らず、1992年夏のC42では入場待ちの長蛇の列に折からの猛暑が加わり数百人が熱中症で救護室に運ばれる騒ぎになった(いわゆる「ジェノサイドコミケ」)。 また1995年夏のC48は、開催20周年記念として初の3日間開催を行った。 この時期のコミックマーケットにおいて特筆すべきは『美少女戦士セーラームーン』の存在である。 同作品は男女両性の読者へ幅広くアピールしたため女性作家による男性向け創作が大幅に増えることとなり、この傾向は以後の『新世紀エヴァンゲリオン』のブームへと続いていった。 また、この時期には1980年代末期の『聖闘士星矢』とその成功を受けて製作された『鎧伝サムライトルーパー』などのいわゆる美少年アニメが若い女性のアニメファンの間でブームとなっていた。 これは同人界にも大きな波及を見せ、この時期に大量の同人誌が製作されコミケ内のジャンルとしても成立する程になった。 しかしその多くが「やおい」と呼ばれる男性同性愛の性描写を多かれ少なかれ含むもので少年向けアニメの二次創作物としては内容面で非常に問題があるとされた事から、それ以降のアニメ制作プロダクションやアニメ関連企業の二次創作に対する姿勢について大きな影響を与える事にもなった。 そして東京国際見本市会場の閉鎖のため、1995年冬のC49をもって晴海での定期開催を終了。 翌1996年春の「さよなら晴海!! コミケットスペシャル」をもって晴海での開催は終了した。 1996年夏のC50から、コミケは同年完成した東京ビッグサイト(有明)での開催となる。 C50の開催はビッグサイトの会場の一部で行われたが同時開催の他のイベントからの多数の苦情(主なものとしては併設イベントへの入退場阻害やそれに伴う併設イベントからの問い合わせへの不誠実な対応が多かった)が来たことから、次のC51では早くもビッグサイト全館貸し切りでの開催となった。 1997年夏のC52以降、夏コミは3日間開催が定着、参加サークルは3万を超えるまでに至っている。 冬コミについても会場の都合により1999年のC57で3日間開催を実施、以降C63・C65・C71・C73・C75と3日間開催が行われている。 C71・73・77は、大晦日を含む3日間で開催された。 有明の初期、1990年代後半は『新世紀エヴァンゲリオン』のブームがコミックマーケットを席巻した。 『美少女戦士セーラームーン』や各種対戦型格闘ゲームに続く同人誌バブルともいえるこのブームで、コミックマーケットはいっそうの活況を呈した。 一方でSFというジャンルの存在感がさらに薄れ、「萌え」を打ち出した90年代後半型オタク向けの同人誌が急激に増加した。 しかしこのことについては、マスコミを中心としてコミックマーケットへの偏見(『「コミケ」とは「萌え」すなわちエロ同人誌の即売会である』などといったもの)を助長している面あると指摘する声も一部にはある。 2000年代前半に至ると同人ソフト『月姫』や『ひぐらしのなく頃に』、『東方Project』などの登場により同人ソフトを元にした同人誌という「同人の同人」とも呼ばれる自己パロディ現象(ただし前述の作品は同人でもいわゆるオリジナル作品であり、そのパロディ等が出ることは矛盾も重複もしていない)が生じた。 これもコミックマーケットの巨大化の一つの現れといえるだろう。 また、『月姫』については製作サークルTYPE-MOONが商業メーカーへの転換に成功している。 更に、同作品を題材とした渡辺製作所(現・フランスパン)製作の対戦格闘ゲーム『MELTY BLOOD』のアーケードゲーム進出、音系同人に関してもSound Horizonや片霧烈火らがメジャーへの道を辿るなど、漫画以外の表現方法についても同人活動をプロへの登竜門とする流れが生まれつつある。 2000年代後半になると、ジャンルの超多様化(従来の同人活動の概念を逸脱する、オリジナルアクセサリーなどのサークルも出現)が発生している。 2006年冬のC71では現役の声優である堀江由衣が自らがパーソナリティを務めるラジオ番組の企画で設立したバンド・黒薔薇保存会の作品を後述する企業ブース内で販売した実績があり、日本国内のあらゆる「表現」を呑み込んで今もなお成長している。 2006年9月30日、米澤代表が重体となりC71より後任の代表は安田かほる・筆谷芳行・市川孝一の共同代表制に移行した(米澤は翌10月1日死去)。 有明移転後のコミックマーケットで特筆すべき点は、会場建物の構造上の問題からサークルスペースとしての運用が難しい西地区4階フロアをコミックマーケット準備会が企業に販売・プロモーション・市場調査のスペースとして提供する「企業ブース」の本格的導入である(C51より)。 企業ブースについては、初めて導入された晴海のC48(この時は新館2階奥半分を使用)以降、企業の参加は「コミックマーケットの提唱する「アマチュア作家たちの表現の場」という理念に反する」と参加者たちからの批判が相次いだが趣旨としてはアクセス上の問題からサークルスペース配置に適さないフロアを収入源として有効活用しながら企業を「隔離」するためであるとC48の反省会時に当時の米澤代表より説明がなされている。 やがて企業ブースの常態化に伴って当初ほど批判の声は聞かれなくなり、企業ブースで販売・配布される限定商品を目当てに来場しアマチュア作家たちの同人誌には目もくれない「企業専」と呼ばれる来場者たちも出てきている程である。 企業側でも、コミックマーケットが貸し出す企業ブースは高い販売効果が望めるプロモーションの場として注目されていると言われている。 その結果、2000年代に入ると同人サークルなどと同様に抽選によって落選する企業まで出る事例もみられるようになった。 会場利用の面でも企業ブースへの来場者が増えたことからC74より安全面を考慮し西地区4階フロアを全面的に企業ブースとして使用し屋上展示場を来場者待機場所に変更、従来まで屋上展示場を使用していたコスプレ広場をC74から北コンコースレストラン街そばの庭園に移転、C75からは庭園と1・2日目は屋外展示場、3日目は屋外展示場が駐車場として占有される代わりに企業ブース待機列が少なくなる屋上展示場を開放して併用する形となった。 さらに C76からは会議棟の国際会議場でシンポジウムやステージイベントを開催、ついに東京ビッグサイトを全面使用する体制となった。 1990年代に入ると技術革新により各種同人作品の制作が容易となったことなどから、コミックマーケット参加者は急激に増加した。 東京秋葉原・大阪日本橋を中心として日本全国に同人誌専門店などが増えインターネットなどを通じてより手軽に同人誌が入手できるようになった現在(中には、コミックマーケット開催前に同人誌専門店で販売されるケースもある)でも依然として日本全国の同人作品の制作者とファンが一堂に会する同人イベントの頂点、同人界最大の「お祭り」として存続している。 また、2005年に制作・放送された『電車男』などのドラマや秋葉原やメイド喫茶などが注目された関連で社会的に広く認知されるイベントになった。 開催日の前後にはコミックマーケットがテレビ番組などで特集されたりすることも増えている。 その一方、予備知識を持たない参加者の増加が、コミケットカタログでもしばしば指摘されるようになった。 その一方で参加者の驚異的とも言える増大によるイベント巨大化、企業との関係、さらには法令による「有害図書」規制やコスプレ表現にまつわる規制と表現(とりわけ性的表現)の自由との兼ね合いイベントにおける多大な頒布・売買行為の税務上処理、そして原著作権の主張に対する二次著作物文化のあり方問題などいくつかの課題も内包している。 ともあれコミックマーケットは開始以来、会場におけるルールを守る限り参加者の自由が最大限尊重される巨大な「表現の自由」の場としての価値を守り維持し続けてきた。 当初からの理念を踏まえた上でこれまでの蓄積を生かし、新たに投げかけられる課題やコミック・同人文化の時代的変化に対処して今後もそのあゆみを続けていくことが求められるという意見もある。 コミックマーケットは、元々はアマチュアの作家・クリエイターたちの為の同人誌即売会である。 その主旨は現在でも建前としては変わっていない。 しかしアマチュア作家がコミックマーケットへの参加を続ける中で商業誌の編集部に見出されてプロデビューを果たしたり、職業漫画家となった者が個人でコミケットに参加して執筆誌を頒布したり、さらには商業誌での活動が無いながらも大部数の同人誌の発行と完売を為し制作費の回収はもとより自身とスタッフの生活費などまで稼ぎだすすなわち同人作家を職業とする者が現れたりといった現象が規模が大きくなるに連れ一般化してきた。 また商業ベースでの活動を停止したりあるいは商業ベースでの活動の基盤を喪失した、事実上の廃業・休業の状態にある「元職業作家」とでも呼ぶべき者が同人活動のみを継続しているケースも見られる。 これらの要素によりアマチュアとプロとの境は年を追う度に曖昧なものとなって行き、この流れは商業漫画界全般にも波及している。 コミケットの初期には柴門ふみ、いしいひさいち、高橋留美子などがアマチュア作家として参加しておりアマチュアからプロへという流れが存在していた。 しかしそれ以降のあさりよしとお、高河ゆん、CLAMPなど現代のオタク文化を代表する作家たちは職業作家としてデビューしつつも同人作家としての活動も継続するようになる。 この一方でロリコンブームの際に吾妻ひでおによる同人誌が出たのを走りとして職業作家(その中には上述した様な「元職業作家」と呼ぶべき実態の人物も含まれる)が二次創作の同人作品を制作したり商業出版では様々な事情により出す事が難しいが自分が表現したい内容の同人誌を出すといういわば逆コースも見られ、プロとアマチュアの境界はコミックマーケットという場において混沌としているのが現状である。 さらに下ると、商業誌でデビューして知名度を稼ぎつつも商業誌ベースの活動の割合を少なめにしてむしろコミケットや同人ショップでの同人誌の販売に本業の比重を置く者も増えていく。 端的に言えばテレビ出演をプロモーションの場と割り切り、収入の大半をディナーショーなどで確保している一部の歌手や芸能人と似た樣なビジネスモデルである。 実際、コミケットなどの大規模同人誌即売会向けの同人誌の制作の時期には同人誌の制作を優先し商業出版の仕事を事実上受けない漫画家がいる。 また2000年代より商業誌について回る表現の制約や規制を嫌い商業作家としての活動はゲームソフトの原画や雑誌などのイラストカットやライトノベルの挿絵を描く程度で、あとはインターネットのホームページなどで活発な宣伝活動を行い同人誌やグッズの販売だけで活動費や生活費を捻出するスタイルを選ぶ者さえ現れている。 これらを指す「プロ同人作家」という言葉も存在し、これを自称する者も現れている。 一方、テレビゲームやアダルトゲームなどの他業種でまずプロとしてデビューし知名度を得た後に商業出版に転じさらにこの「プロ同人作家」へと転じた者もいるがこれらの一部については以前の業界よりも遥かに日程管理や表現の制限が厳しい商業出版の世界への順応ができず、結果としてこの形態になったという者も見られる。 「月刊コミック電撃大王」をはじめとする角川書店グループの青少年層やオタク層をターゲットとした漫画雑誌の様に同人関連の市場から漫画家を多く発掘・勧誘している雑誌ややはり同人市場で収入の大きな割合を稼いでいる漫画家が珍しくない成人向け漫画ジャンルの雑誌では、コミケットでの頒布用同人誌の準備時期に原稿提出の締切期限が設定される号において連載のページ数が減ったり休載になったりといった事態も多々見られている。 さらに読み切り作品の多い雑誌などでは作家の確保がついにできず本来ならば作品を1本入れる事も可能な誌面量を臨時の企画記事や過去の掲載作品、過去の新人賞の下位入選作品などといった本来ならば掲載予定とは考えにくい様なものでページを埋めどうにか取り繕っている状況も見られる。 読者でも同人イベントに興味を持たない層の中には、これら状況を指して「コミケ休載号」などと揶揄する向きもある。 また、休載まではいかないものの連載作品の作画品質が軒並み低下してしまう雑誌も珍しいものではない。 いずれにせよ、特定の時期に集中的に発生するだけに原因がはっきりとしている。 そのため、同人活動に興味の無い読者層から「プロの作家が素人活動の為にプロとしての仕事をなおざりにしている。 また編集部もそれを容認している」と作家のみならず編集部までもが厳しい批判を浴びる事態が起こっている。 いずれにせよ、特に「プロ同人作家」にとってはコミケットが現状と同様かそれ以上に隆盛を続けこれの波及効果によって同人界および同人関連産業全体の経済もまた活性化し続ける事がもはや作家活動や生活自体の為に事実上必要不可欠なものとなっている。

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コミックマーケットが抱える問題

こみけぐも

それはかつてコミックマーケットが晴海・東京国際見本市会場で行われていた時で、この時に観測されたコミケ雲は「晴海雲」と呼ばれています。 また、その後にコミックマーケットの会場が現在の東京ビッグサイトに移ったあと、コミックマーケット84の開催までにも「有明雲」という現象が観測されています。 コミケ雲の実際の画像は? この画像は実際起こったコミケ雲をコミックマーケットの参加者がスマホで撮影したものです。 パッと見てみると一見カメラが曇っただけのようにも見える画像ですが、よく見てみると確かに天井近くに雲のようなモヤがかかっていますね。 また、多数の参加者が実際に見たと証言しているので間違いなく発生していたようです。 この方法を使って理科の実験でもペットボトルの中に雲を作る実験教材が存在しています。 そしてさらにはとある機械を使って室内に人工的に雲を作ってそれを展示したアート作品があるのです。 それはcloud in room 2012年に制作されたアート作品で、「cloud in room」という作品があります。 これはBerndnaut Smildeさんが制作した作品で、部屋の中に雲を作り出してそれを撮影したアート作品です。 ライブなどでも使用される霧発生装置を利用し、室内の湿度や気温を調節して雲を作り出し、照明を調節して撮影したそうです。 それはオタクの情熱.

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