菊田 神社。 年中行事 / 菊田神社 / 千葉県習志野市津田沼鎮座

菊田神社|習志野市津田沼の神社

菊田 神社

神社情報 菊田神社(きくたじんじゃ) 御祭神:大己貴大神 大国主命 ・藤原時平命 社格等:村社 例大祭:3月に近い日曜 あんば様 ・10月19日 例祭 所在地: 最寄駅:京成津田沼駅・新津田沼駅・津田沼駅 公式サイト: 御由緒 古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、平安時代の弘仁年間(西暦810年代)には神社として創建されてありました。 当時は、この境内地は小嶋であって、この嶋を中心として東西両側は岡であって、砂土堆積している入江でありました。 住民の多くは西側岡の崖下に住居を構えて生活をして居りました。 住民は嶋の上に鎮座されていたお宮、即ち久久田大明神を産土神および氏神として奉斎信仰していました。 旧九月十九日を例祭の日と定めて、年毎に祭事を執行していました。 また、住民は氏子区内並びに周辺(近郷)の人と縁を結びますと、これがまことに夫婦円満の家が多く子供達もみんな丈夫に成長し、長命の人も多く、それ故に住民はこの久久田大明神を特に縁結びの神、厄難除の神、安産の神として崇敬し、商売繁盛の神(後年この地に商人が出来て、この宮に祈願したところ何れも商売が繁盛した)としても崇敬しました。 治承四年、藤原師経、藤原師長卿の一部郎党当国に左遷のおり、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦へ来ました。 海上が少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところ、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しました。 一同はここに船を漕ぎ来たりてこの嶋に上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。 即ち久久田大明神のお宮で、師経、師長卿は無事に此処まで安着の出来たことはこの御祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、このお宮を崇め奉りてこの地を安住の地と定めることとし、同時に祖先の第六十代醍醐天皇の御代延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り、住民と共に奉斎崇敬しました。 後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座の地)に移住したと伝えられています。 その後星移り年変わりて入江も浅瀬となり、この嶋の土と東西の岡の土を採取し浅瀬に盛土して水田を拡げて氏神の社名に相応しく永く久しく栄える国として耕作するようになりました。 またこの境内地が船の形をしているのは、師経一族郎党が着船したのを記念とするために浅瀬を盛土するときにこの形を造ったと伝えられています。 オリジナルの御朱印帳を用意。 当社の境内にある狛犬をデザインしたきらびやかな御朱印帳。 色は緑色(筆者が頂いたもの)・ピンク色・紺色の3種類と大判の御朱印帳も用意。 御朱印帳限定御朱印を最初のページに頂ける。 最初のページの右側には旅先安全守護の御札が貼られている。 歴史考察 習志野の守護神・旧久々田村の鎮守 千葉県習志野市津田沼に鎮座する神社。 旧社格は村社、習志野の守護神とされる。 津田沼の中核を担った旧久々田村の鎮守。 古くは久久田大明神と称され、江戸時代中期に菊田大明神へ改称。 現在は出雲の神・大己貴大神(大国主命)を祀る。 国土安穏・五穀豊穣・厄難除け・縁結び・安産・商売繁昌の神として信仰を集めている。 「下総三山の七年祭り」に参加する一社で、役割は叔父。 また、3月15日に近い日曜には「あんば様」と呼ばれる民間信仰行事が行われる事で知られる。 平安時代に創建・久久田大明神と称される 社伝によると、弘仁年間(810年-824年)に創建と伝わる。 古くは「久久田大明神(くぐただいみょうじん)」と称され崇敬を集めた。 津田沼の地名由来 中核となった谷津村、久々田村、鷺沼村の3ヶ村から1文字ずつ取って命名。 谷「津」、久々「田」、鷺「沼」で、明治に誕生した造語が由来となっている。 明治二十六年(1893)、拝殿や玉垣を再造営。 この時の拝殿が改修されつつ現存。 明治三十六年(1903)、町制を施行し、津田沼町が成立。 明治三十六年(1903)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。 (より) 当社の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔も変わらない。 津田沼町の地名、そして津田沼の元になった旧村である久々田の地名も見える。 中核であった3村の中心に位置していた当社は、津田沼の鎮守としても崇敬を集めていく。 大正元年(1912)、町内の大山祇神社・八坂神社・金刀比羅神社・稲荷神社・水神社・雷神社を合祀。 習志野の地名由来 習志野という地名自体は、明治六年(1873)に小金牧の大和田原の地で、明治天皇御覧の下、陸軍大将・西郷隆盛の指揮による陸軍による演習が行われ、明治天皇によってその地を「習志野原」と改称された事に由来する。 演習の際、陸軍少将・篠原国幹の目覚しい指揮に感銘した天皇の「篠原に習え」という言葉が元になり「習志野」となったと云う説が知られる。 その後、陸軍の習志野演習場が誕生し、戦時中は津田沼町も含む広い地域が軍都として発展、戦後に市が成立する際に習志野市の名が採用される事となった。 昭和五十三年(1978)、千葉県神社庁より顕彰規範神社に指定。 現在も社頭に記念碑が残る。 その後も境内整備が進み現在に至る。 境内案内 東日本大震災で再建された鳥居 最寄り駅の京成津田沼駅から徒歩数分、津田沼駅などからも徒歩圏内。 綺麗に整備された境内で、社頭の右手には駐車場も整備。 鳥居は平成二十三年(2011)の東日本大震災で倒壊し、再建されたもの。 東日本大震災で倒壊する前の旧鳥居は安政五年(1858)と古いものであった。 現在もその一部が境内に残されている。 鳥居を潜ると真っ直ぐ伸びた参道。 綺麗に整備された参道で管理が行き届いている。 にっこり笑う通称アイーン狛犬 参道途中に一対の狛犬。 当社のシンボルでもある狛犬。 どちらもにっこりと笑っているように見える。 そのユニークな表情は「アイーン」をしているように見え、最近では「アイーン狛犬」とも。 SNSだけでなく『ヒルナンデス!』などTVでも取り上げられるように人気が高い。 前足上げで、本当にアイーンをしているようにも見えて、何ともユニーク。 奉納年は不詳ながら江戸流れの造りから江戸時代後期あたりだろうか。 当社のシンボルの狛犬 後述するが、当社の御朱印帳はこの狛犬がデザインされた御朱印帳となっている。 他にも狛犬御朱印も用意していたりと、まさに当社のシンボル的な狛犬。 更に参道や境内社にも多くの狛犬が置かれていて、それぞれ造りも違うため、狛犬好きから人気の高い境内。 そのすぐ先に一対の狛犬。 こちらは岡崎現代型で新しいもの。 個性的なアイーン狛犬の後に馴染みのある姿。 さらに先に進むと獅子山。 明治二十八年(1895)に奉納された獅子山。 躍動感のある造り。 そのすぐ奥、右手に手水舎。 龍の吐水口から水が出て、身を清める事ができる。 彫刻が施された江戸から明治にかけての社殿 社殿は江戸から明治にかけてものが改修されつつ現存。 拝殿は明治二十六年(1893)に造営されたもの。 鳳凰や龍など細かい彫刻が施されている。 木鼻には獅子。 前足に牡丹を掴み咥えているようにも見える。 本殿は弘化三年(1846)に改造営されたもの。 昭和四十八年(1973)に屋根を銅板瓦葺に改修。 こちらも獅子など彫刻が施されている。 境内社・境内社にも小さな狛犬が多数 鳥居を潜って参道すぐ右手に境内社の琴平神社。 大正元年(1912)に町内の6社が合祀されているが、その中に金刀比羅神社も存在。 地域で信仰を集めていたこんぴらさんが遷されたものであろうか。 江戸尾立ちの小さな狛犬。 奉納年は不詳であるが、江戸時代のものであるのはほぼ間違いない。 参道の左手に境内社が2社。 子安神社。 大杉神社は当社に今も続く「あんば様」の民間信仰行事に因むもの。 (詳しくは後述) その隣に古い小祠。 お稲荷様や神狐像。 更に参道右手に御嶽大神の碑。 木曽御嶽信仰の碑であろう。 その前にも小さな狛犬が一対。 小さいながらも存在感のある狛犬。 その奥に由緒不明な小祠。 この小祠の前にも一対の狛犬。 とても小さな狛犬で一見すると可愛らしいが、阿のほうは損傷が激しく、こちらも江戸時代のものであろう。 参道の右手には小さな御神池。 当社境内の池の水源は「」と伝わっている。 境内に隣接する菊田水鳥公園 当社の境内には隣接する菊田水鳥公園。 もともと当社の境内であった一画。 現在は習志野市公園緑地課による菊田水鳥公園として整備。 水鳥の池では、様々な野鳥をバードウォッチングできると云う。 当社への参拝と共に楽しみたい。 月替りの限定御朱印・見開き狛犬御朱印 御朱印は社務所にて。 丁寧に対応して下さる。 あんば様 毎年3月15日に近い日曜日に行われる民間信仰行事。 明治の初め頃、久々田・谷津・藤崎・鷺沼の村々で天然痘が流行。 当時の久々田村では行商が行われていて、海産物を茨城方面まで売り歩き、帰りに農産物を持ち帰る商いが行われており、茨城県稲敷郡桜川村阿波「大杉神社」(あんば様と称される)のお札が江戸時代の頃より疫病に効能があると信仰が広まっていた事から、行商人がその御札を持ち帰り、当社に納め祀ったところ、天然痘が治ったと伝わっている。 その後、「大杉神社」の分霊を祀ったのが、境内社「大杉神社」。 以後、今もなお「あんば様」のお祭りが続けられている。 当社の「あんば様」では、「あんばーおーせー大明神!悪魔を払ってよーいやせ!」と唱えながら地区内を神輿渡御。 現在では子供神輿が出る事から、春に行う子供のためのお祭りとされている。 また当社は「下総三山の七年祭り」に参加する一社としても知られる。 なお、叔父と対になる叔母の役割を担うのは「」。 共に御朱印も人気のため合わせて参拝するのもよいだろう。 所感 習志野の守護神とされる当社。 古くは久久田大明神と呼ばれ久々田村の鎮守として崇敬を集めた。 その後、久々田村などが中核となり津田沼村(津田沼町)が誕生し、さらに習志野市が成立。 現在の津田沼の住所区画がほぼ旧久々田村であり、津田沼の鎮守とも云えるだろう。 綺麗に整備されつつも、古いものも多く残されているのが魅力。 シンボルになっているアイーン狛犬の他、多くの狛犬が置かれていて、それぞれがユニーク。 また最近は御朱印にも力を入れていて、人気の高い一社になっている。 明治になって造語されて津田沼や習志野といった地域の歴史を伝える良い神社である。 神社画像 [ 鳥居 ] [ 記念碑 ] [ 旧鳥居・旧扁額 ] [ 参道 ] [ 狛犬 ] [ 参道 ] [ 獅子山 ] [ 手水舎 ] [ 拝殿 ] [ 本殿 ] [ 子安神社 ] [ 大杉神社 ] [ 小祠 ] [ 御神池 ] [ 御嶽大神 ] [ 小祠 ] [ 琴平神社 ] [ 石碑 ] [ 三峯神社 ] [ 古神札納所 ] [ 絵馬掛・御籤掛 ] [ 神輿庫 ] [ 社務所 ] [ 御神木 ] [ 案内板 ] [ 菊田水鳥公園 ] Google Maps .

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【公式】習志野の杜 ご縁結びの大原神社

菊田 神社

神社情報 菊田神社(きくたじんじゃ) 御祭神:大己貴大神 大国主命 ・藤原時平命 社格等:村社 例大祭:3月に近い日曜 あんば様 ・10月19日 例祭 所在地: 最寄駅:京成津田沼駅・新津田沼駅・津田沼駅 公式サイト: 御由緒 古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、平安時代の弘仁年間(西暦810年代)には神社として創建されてありました。 当時は、この境内地は小嶋であって、この嶋を中心として東西両側は岡であって、砂土堆積している入江でありました。 住民の多くは西側岡の崖下に住居を構えて生活をして居りました。 住民は嶋の上に鎮座されていたお宮、即ち久久田大明神を産土神および氏神として奉斎信仰していました。 旧九月十九日を例祭の日と定めて、年毎に祭事を執行していました。 また、住民は氏子区内並びに周辺(近郷)の人と縁を結びますと、これがまことに夫婦円満の家が多く子供達もみんな丈夫に成長し、長命の人も多く、それ故に住民はこの久久田大明神を特に縁結びの神、厄難除の神、安産の神として崇敬し、商売繁盛の神(後年この地に商人が出来て、この宮に祈願したところ何れも商売が繁盛した)としても崇敬しました。 治承四年、藤原師経、藤原師長卿の一部郎党当国に左遷のおり、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦へ来ました。 海上が少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところ、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しました。 一同はここに船を漕ぎ来たりてこの嶋に上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。 即ち久久田大明神のお宮で、師経、師長卿は無事に此処まで安着の出来たことはこの御祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、このお宮を崇め奉りてこの地を安住の地と定めることとし、同時に祖先の第六十代醍醐天皇の御代延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り、住民と共に奉斎崇敬しました。 後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座の地)に移住したと伝えられています。 その後星移り年変わりて入江も浅瀬となり、この嶋の土と東西の岡の土を採取し浅瀬に盛土して水田を拡げて氏神の社名に相応しく永く久しく栄える国として耕作するようになりました。 またこの境内地が船の形をしているのは、師経一族郎党が着船したのを記念とするために浅瀬を盛土するときにこの形を造ったと伝えられています。 オリジナルの御朱印帳を用意。 当社の境内にある狛犬をデザインしたきらびやかな御朱印帳。 色は緑色(筆者が頂いたもの)・ピンク色・紺色の3種類と大判の御朱印帳も用意。 御朱印帳限定御朱印を最初のページに頂ける。 最初のページの右側には旅先安全守護の御札が貼られている。 歴史考察 習志野の守護神・旧久々田村の鎮守 千葉県習志野市津田沼に鎮座する神社。 旧社格は村社、習志野の守護神とされる。 津田沼の中核を担った旧久々田村の鎮守。 古くは久久田大明神と称され、江戸時代中期に菊田大明神へ改称。 現在は出雲の神・大己貴大神(大国主命)を祀る。 国土安穏・五穀豊穣・厄難除け・縁結び・安産・商売繁昌の神として信仰を集めている。 「下総三山の七年祭り」に参加する一社で、役割は叔父。 また、3月15日に近い日曜には「あんば様」と呼ばれる民間信仰行事が行われる事で知られる。 平安時代に創建・久久田大明神と称される 社伝によると、弘仁年間(810年-824年)に創建と伝わる。 古くは「久久田大明神(くぐただいみょうじん)」と称され崇敬を集めた。 津田沼の地名由来 中核となった谷津村、久々田村、鷺沼村の3ヶ村から1文字ずつ取って命名。 谷「津」、久々「田」、鷺「沼」で、明治に誕生した造語が由来となっている。 明治二十六年(1893)、拝殿や玉垣を再造営。 この時の拝殿が改修されつつ現存。 明治三十六年(1903)、町制を施行し、津田沼町が成立。 明治三十六年(1903)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。 (より) 当社の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔も変わらない。 津田沼町の地名、そして津田沼の元になった旧村である久々田の地名も見える。 中核であった3村の中心に位置していた当社は、津田沼の鎮守としても崇敬を集めていく。 大正元年(1912)、町内の大山祇神社・八坂神社・金刀比羅神社・稲荷神社・水神社・雷神社を合祀。 習志野の地名由来 習志野という地名自体は、明治六年(1873)に小金牧の大和田原の地で、明治天皇御覧の下、陸軍大将・西郷隆盛の指揮による陸軍による演習が行われ、明治天皇によってその地を「習志野原」と改称された事に由来する。 演習の際、陸軍少将・篠原国幹の目覚しい指揮に感銘した天皇の「篠原に習え」という言葉が元になり「習志野」となったと云う説が知られる。 その後、陸軍の習志野演習場が誕生し、戦時中は津田沼町も含む広い地域が軍都として発展、戦後に市が成立する際に習志野市の名が採用される事となった。 昭和五十三年(1978)、千葉県神社庁より顕彰規範神社に指定。 現在も社頭に記念碑が残る。 その後も境内整備が進み現在に至る。 境内案内 東日本大震災で再建された鳥居 最寄り駅の京成津田沼駅から徒歩数分、津田沼駅などからも徒歩圏内。 綺麗に整備された境内で、社頭の右手には駐車場も整備。 鳥居は平成二十三年(2011)の東日本大震災で倒壊し、再建されたもの。 東日本大震災で倒壊する前の旧鳥居は安政五年(1858)と古いものであった。 現在もその一部が境内に残されている。 鳥居を潜ると真っ直ぐ伸びた参道。 綺麗に整備された参道で管理が行き届いている。 にっこり笑う通称アイーン狛犬 参道途中に一対の狛犬。 当社のシンボルでもある狛犬。 どちらもにっこりと笑っているように見える。 そのユニークな表情は「アイーン」をしているように見え、最近では「アイーン狛犬」とも。 SNSだけでなく『ヒルナンデス!』などTVでも取り上げられるように人気が高い。 前足上げで、本当にアイーンをしているようにも見えて、何ともユニーク。 奉納年は不詳ながら江戸流れの造りから江戸時代後期あたりだろうか。 当社のシンボルの狛犬 後述するが、当社の御朱印帳はこの狛犬がデザインされた御朱印帳となっている。 他にも狛犬御朱印も用意していたりと、まさに当社のシンボル的な狛犬。 更に参道や境内社にも多くの狛犬が置かれていて、それぞれ造りも違うため、狛犬好きから人気の高い境内。 そのすぐ先に一対の狛犬。 こちらは岡崎現代型で新しいもの。 個性的なアイーン狛犬の後に馴染みのある姿。 さらに先に進むと獅子山。 明治二十八年(1895)に奉納された獅子山。 躍動感のある造り。 そのすぐ奥、右手に手水舎。 龍の吐水口から水が出て、身を清める事ができる。 彫刻が施された江戸から明治にかけての社殿 社殿は江戸から明治にかけてものが改修されつつ現存。 拝殿は明治二十六年(1893)に造営されたもの。 鳳凰や龍など細かい彫刻が施されている。 木鼻には獅子。 前足に牡丹を掴み咥えているようにも見える。 本殿は弘化三年(1846)に改造営されたもの。 昭和四十八年(1973)に屋根を銅板瓦葺に改修。 こちらも獅子など彫刻が施されている。 境内社・境内社にも小さな狛犬が多数 鳥居を潜って参道すぐ右手に境内社の琴平神社。 大正元年(1912)に町内の6社が合祀されているが、その中に金刀比羅神社も存在。 地域で信仰を集めていたこんぴらさんが遷されたものであろうか。 江戸尾立ちの小さな狛犬。 奉納年は不詳であるが、江戸時代のものであるのはほぼ間違いない。 参道の左手に境内社が2社。 子安神社。 大杉神社は当社に今も続く「あんば様」の民間信仰行事に因むもの。 (詳しくは後述) その隣に古い小祠。 お稲荷様や神狐像。 更に参道右手に御嶽大神の碑。 木曽御嶽信仰の碑であろう。 その前にも小さな狛犬が一対。 小さいながらも存在感のある狛犬。 その奥に由緒不明な小祠。 この小祠の前にも一対の狛犬。 とても小さな狛犬で一見すると可愛らしいが、阿のほうは損傷が激しく、こちらも江戸時代のものであろう。 参道の右手には小さな御神池。 当社境内の池の水源は「」と伝わっている。 境内に隣接する菊田水鳥公園 当社の境内には隣接する菊田水鳥公園。 もともと当社の境内であった一画。 現在は習志野市公園緑地課による菊田水鳥公園として整備。 水鳥の池では、様々な野鳥をバードウォッチングできると云う。 当社への参拝と共に楽しみたい。 月替りの限定御朱印・見開き狛犬御朱印 御朱印は社務所にて。 丁寧に対応して下さる。 あんば様 毎年3月15日に近い日曜日に行われる民間信仰行事。 明治の初め頃、久々田・谷津・藤崎・鷺沼の村々で天然痘が流行。 当時の久々田村では行商が行われていて、海産物を茨城方面まで売り歩き、帰りに農産物を持ち帰る商いが行われており、茨城県稲敷郡桜川村阿波「大杉神社」(あんば様と称される)のお札が江戸時代の頃より疫病に効能があると信仰が広まっていた事から、行商人がその御札を持ち帰り、当社に納め祀ったところ、天然痘が治ったと伝わっている。 その後、「大杉神社」の分霊を祀ったのが、境内社「大杉神社」。 以後、今もなお「あんば様」のお祭りが続けられている。 当社の「あんば様」では、「あんばーおーせー大明神!悪魔を払ってよーいやせ!」と唱えながら地区内を神輿渡御。 現在では子供神輿が出る事から、春に行う子供のためのお祭りとされている。 また当社は「下総三山の七年祭り」に参加する一社としても知られる。 なお、叔父と対になる叔母の役割を担うのは「」。 共に御朱印も人気のため合わせて参拝するのもよいだろう。 所感 習志野の守護神とされる当社。 古くは久久田大明神と呼ばれ久々田村の鎮守として崇敬を集めた。 その後、久々田村などが中核となり津田沼村(津田沼町)が誕生し、さらに習志野市が成立。 現在の津田沼の住所区画がほぼ旧久々田村であり、津田沼の鎮守とも云えるだろう。 綺麗に整備されつつも、古いものも多く残されているのが魅力。 シンボルになっているアイーン狛犬の他、多くの狛犬が置かれていて、それぞれがユニーク。 また最近は御朱印にも力を入れていて、人気の高い一社になっている。 明治になって造語されて津田沼や習志野といった地域の歴史を伝える良い神社である。 神社画像 [ 鳥居 ] [ 記念碑 ] [ 旧鳥居・旧扁額 ] [ 参道 ] [ 狛犬 ] [ 参道 ] [ 獅子山 ] [ 手水舎 ] [ 拝殿 ] [ 本殿 ] [ 子安神社 ] [ 大杉神社 ] [ 小祠 ] [ 御神池 ] [ 御嶽大神 ] [ 小祠 ] [ 琴平神社 ] [ 石碑 ] [ 三峯神社 ] [ 古神札納所 ] [ 絵馬掛・御籤掛 ] [ 神輿庫 ] [ 社務所 ] [ 御神木 ] [ 案内板 ] [ 菊田水鳥公園 ] Google Maps .

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女性に人気の「かわいいお守り」はコレ!菊田神社・習志野市

菊田 神社

菊田神社 菊田神社 習志野市津田沼3-2-5 平成22年7月4日 東経140度1分49. 8秒、北緯35度40分52. 53秒に鎮座。 【神社情報・1948さんより】 京成津田沼駅より約350mの所にあります。 参道右側には3社あり、それぞれに狛犬が居ます。 参道の狛犬3組と合わせ6組の狛犬が見ることができます。 この神社は、 参加神社の一社で有り、菊田水鳥公園の隣に鎮座しております。 御祭神 大国主命(大己貴命)・藤原時平命(境内由緒より)・伊弉諾命・大山祗命・保食尊・水速女命 御由緒 古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、弘仁年間(810年代)よりの御社として祭祀されていました。 治承年間 1177-1181年 に藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦にと来ましたところ、海上少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところが、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しましたので、一同はここに船を漕ぎ来たりてこの嶋に着船上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。 即ち久久田大明神のお宮で、師経卿、師長卿は無事に此処まで安着出来たことはこの祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、この御社を崇め奉りてこの地を安住の所と定めることとし、同時に祖先の人皇60代醍醐天皇の御宇延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り住民と共に奉賽崇敬しました。 後に師経の一族はこの三山の里(現在の二宮神社の鎮座の地)に移住したと伝えられています。 宝暦年間桃園天皇の御代に社名を菊田大明神と改名。 区内各町に鎮座させられていた八坂神社、金毘羅神社、水神社、稲荷社、雷神社の御祭神を合祀。 境内由緒より抜粋。 管理人の一言。 藤原時平と言えば、かの罪無き、菅原道真公を大宰府に左遷させた為、一族が道真公の怨霊に祟られた筈ですが、何とこの地で神として祀られていたのです。 今でもこの神社の氏子は、道真を祀る天神様に詣でることが無いそうだが、本当なのでしょうか。 又、「治承年間 1177-1181年 に藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り・・・」は史実では無い。 近い人物として、加賀目代であった藤原師経がいる。 平家物語に登場する師経は以下のように書かれています。 国司師高が弟近藤判官師経を加賀の目代に補せらる。 目代下著のはじめ、国府の辺に鵜川といふ山寺あり。 寺僧どもが折節湯をわかいてあびけるを、乱入しおひあげ、我が身あび、雑人どもおろし、馬洗ひなどしけり。 寺僧怒りをなして、「昔よりこの所は、国方の者の入部することなし。 すみやかに先例にまかせて、入部の押妨をとどめよ」とぞ申しける。 「先々の目代は不覚でこそいやしまれたれ。 当目代は、すべてその儀あるまじ。 ただ法にまかせよ」といふほどこそありけれ、寺僧どもは国方の者を追出せんとす。 国方の者どもは、ついでをもつて乱入せんとす。 うちあひ、張り合ひしけるほどに、目代師経が秘蔵したりける馬の足をぞ打ち折りける。 その後は互に弓箭兵仗を帯して、射あひ、切りあひ、数刻戦ふ。 目代かなはじとや思ひけん、夜に入りてひきしりぞく。 その後当国の在庁ども一千余人もよほし集めて、鵜川におし寄せて坊舎一宇も残さずみな焼き払ふ。 鵜川といふは、白山の末寺なり。 平家物語巻第一より。 要するに、延暦寺の別院であった白山の末寺、鵜川涌泉寺でもめ事を起こし、挙げ句の果てに焼き払ってしまった、藤原師経に最初は白山が怒り、次いで延暦寺が怒り、最後には日吉神社の神輿を担いで強訴する、といった大騒ぎとなってしまいます。 山門の大衆、国司加賀守師高を流罪に処せられ、目代近藤判官師経を禁獄せらるべきよし、奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、日吉の祭礼をうちとどめ、安元三年四月十三日の辰の一点に、十禅寺権現、客人、八王子、三社の神輿を飾り奉つて、陣頭へ振り奉る。 下がり松、きれ堤、賀茂の河原、ただす、梅ただ、柳原、東北院の辺に、しら大衆、神人、宮仕、専当みちみちて、いくらといふ数を知らず。 神輿一条を西へ入らせ給ふに、御神宝天に輝いて、日月地に落ち給ふかと驚かる。 平家物語巻第一より。 「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが御心にかなはぬもの」と後白河法皇が嘆いたのは有名だが、宗教的権威を振りかざし、横暴を極めた延暦寺を相手にしたのが師経の運の尽きであったようです。 安元三年 1177 年四月二十日、宣旨が発せられ、加賀守藤原師高は官位を全て剥奪されて尾張国に流罪、弟の目代師経は備前国に流罪となったようです。 しかし、何故この地に流罪になった訳でもない、師高が由緒書に登場するのかは不明。 藤原北家の荘園があり、関係者がいたのでしょうか。 更に解らないのは、御祭神を藤原時平命としている事です。 道真公怨霊の祟りで若くして死んだ時平を祀らなくても良いような気がするのですが。 ・・・・・清涼殿落雷事件等の後、朝廷は道真の罪を赦すと共に贈位を行い、子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返されています。 名誉は回復され、左遷は誤りであったと朝廷は認めた訳です。 その左遷の張本人たる時平を、おおっぴらに祀れたのだろうか。 朝廷により北野の地に、道真を祀る社殿が造営され、後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言われるように、道真を祀るほうが自然な気がします。 社号標 浅間大神と石祠 神社入口 参道 面白いが素人っぽく素朴な狛犬。 天保9年 1838 建立 岡崎型狛犬 昭和59年 1984 2月吉日建立 拝殿前の獅子山。 拝殿 向拝下の彫刻等 神紋。 菊に田。 本殿・水鳥公園 琴平神社 琴平神社を護る江戸尾立 (年代不明) 御嶽大神 御嶽大神を護る狛犬 (年代不明) 不明の末社 阿が無惨に剥落していますが、吽は健在で中々の出来映えの狛犬です。 天保14年 1843 12月吉日建立 古峯神社 三峰神社 稲荷神社 右=大杉神社・他不明 子安神社 石碑 手水舎 神輿庫 宮神輿 白虎 裏参道 神社裏JR総武線.

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