ミシェル 横田。 フランスの伝説的俳優、ミシェル・ピッコリさん死去 94歳

ミシェル・レリス

ミシェル 横田

働かないでも生きていけるちょっとした財産持ちのコラン。 ある日美しいクロエという娘と恋に落ちて、幸せに結婚するが、彼女は胸に睡蓮が寄生する病気にかかり、どんどん没落していって…というのがあらすじ。 鰻が水道管に住んでいたり、音楽に合わせたカクテルができるマシンが出てきたり、体温で武器を育てたり、心臓抜きが出てきたり、話に不思議なことが混じっている。 1947年にフランスの作家によって書かれた小説で、最近の日本では直訳タイトルの『日々の泡』として出版されているらしい。 先日読んだ『注文の多い注文書(本99)』の中に『うたかたの日々』の胸に睡蓮が寄生する話が出てきた。 1980年生まれの私は中学生の頃、美少女の吉川ひなのちゃんが活躍していた雑誌『CUTiE』で、岡崎京子の連載を読んでいた。 心臓抜きなど不思議なものが漫画に描かれていたが、全然意味がわからなかった。 何がしたいのかもわからなかった。 あれから20年、外国文学は基本的に消化できない私が図書館で本を借り読んでみた。 アマゾンで漫画も買った。 調べたら映画も何本かあって、うち1つは常軌を逸したミュージックビデオをとるミシェル・ゴンドリーによるものだったので、原作・漫画・映画と違うジャンルのものを見比べて見た。 原作小説は、特に私はグッとこなかった。 お、フランスっぽい軽妙なオシャレさとみょうちくりんなテイストの恋人たちの本だな、みたいな。 解説が荒俣宏さんだったのでときめいたくらい。 でもこれで漫画が何を拾っていたのか理解できた。 この頃の岡崎京子は絵が上手になっていて、とてつもなくオシャレ。 取り上げたいことはたくさんあるけれど、一つだけ。 写真にコランとクロエが出会うシーンを載せてみましたが、コランの汚れなき坊ちゃんっぷりとクロエの圧倒的な美しさ、そして時が止まった感が見事に現れていると思うんですよ!(そんな綺麗なクロエが表紙のようにボロッボロになる…)今見ても全てがオシャレなんだ、センスが素晴らしいけど、それはただ見た目がすごいというだけでなくて、深くすごいんだよ!語彙が乏しいから表現できないけど。 映画は原作の耽美さというより、みょうちくりんなところをいかに映像で表現するか、ということにフォーカスが当たっているように思う。 クロエは『アメリ』のオドレイ・トトゥが演じているのだが、彼女は胸に蓮とか寄生されそうな病弱枠ではなく、不思議ちゃん枠ではなかろうか。 出会った頃の有頂天な感じから没落して色がなくなっていく変化は映像ならではの表現。 作中に、踊っている人たちの間に不思議な磁力?を発生させる特別なダンスが出てくるのだが、ミシェル・ゴンドリーならではじゃないのかなあ、とてもユニークなダンスだった。 多感な時期に読んだこともあって、私はやっぱり漫画の『うたかたの日々』が圧倒的にすごいと思うし、好き。 原作あっての派生作品ではあるけれど、漫画を20年前に読んでいなかったら原作を読むことはなかっただろう。 かつて、いろんな漫画や音楽、文化に触れておいて本当によかったと最近つくづく思う。 今後の宝物を増やすために、また日々好きなものを追い、味わい続けるのだ。 漫画254 うたかたの日々 岡崎京子 1994-1995 本102 うたかたの日々 ボリス・ヴィアン 1947 映画15 うたかたの日々 ムード・インディゴ~うたかたの日々~ ミシェル・ゴンドリー 2005.

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ミシェル 横田

ミシェル・レリス(1984年) 誕生 ジュリアン・ミシェル・レリス 1901-04-20 、 死没 1990-09-30 (89歳没) 、 () 墓地 職業 、者、、 言語 教育 (民族学) 最終学歴 文学活動 、 () 代表作 『幻のアフリカ』 『成熟の年齢』 『ゲームの規則』(全4巻) 主な受賞歴 () ()受賞拒否 ミシェル・レリス( Michel Leiris、 - )はの、者、、。 の運動に参加し、『』に言語遊戯を駆使した「語彙集(私の註釈をおし込んで)」などを発表するが、5年ほどで脱退。 らが創刊した『 ()』誌の編集事務局を務め、バタイユ、とともに「 ()」を結成。 民族学者が率いる ()に参加し、『幻のアフリカ』を発表。 中に対独作家による地下出版に参加。 戦後、らとともに『』誌を創刊。 代表作の『幻のアフリカ』、自伝的小説『成熟の年齢』と『ゲームの規則』(全4巻)はとして刊行された。 生涯 [ ] 背景 [ ] 1901年4月20日、ジュリアン・ミシェル・レリスとしての教養ある家庭に生まれる。 名門校 ()を退学後、1918年にを取得し、1920年にに入学。 を専攻したが、に心酔し、の作品に惹かれるなど、次第に、、への関心を深めていった。 前衛芸術 [ ] 転機となったのは、1921年の詩人・のとの出会いであった。 ジャコブに直接詩作を学ぶと同時に 、彼を介して家と知り合ったからである。 その一人が、生涯にわたって親交を深めることになる画家である。 処女作『シミュラークル(模擬)』は、レリスの詩とマッソンのによる詩画集(1925年刊行)である。 ミロらが住んでいたパリ15区ブロメ通り45番地にある銘板 マッソンは当時、の ()に住んでいた。 「ブロメ通りグループ」として知られる前衛画家・作家が住んでいた場所であり、 ()がと共同でアトリエを構え、マッソンのところには ()、、 ()、 ()、、らの画家や作家が訪れていた。 彼らの活動を支援していたのが、「ピカソの画商」として知られ、特にやの画家を支持した出身の・美術評論家 ()であり 、さらに彼を介して、、小説家 ()、そしてカーンワイラーの娘ルイーズ・ゴドンに出会った(1926年に結婚)。 シュルレアリスム [ ] 1924年には、さらにジョルジュ・バタイユ、、 ()などに出会い、が率いるシュルレアリスムの運動に参加し、同年末に創刊された文芸誌『シュルレアリスム革命』に言語遊戯を駆使した「語彙集(私の註釈をおし込んで)」(邦訳『獣道』所収)やの記述などを寄稿した。 1925年7月2日に、シュルレアリストらが先達と仰ぐ詩人を招いて祝宴を催したこと、しかもこの会が大混乱に終わったことは、シュルレアリスムを語る上で重要な出来事だが、このときレリスは、女性作家 ()の(当時の世相を反映した)愛国的な発言に対して、「フランス打倒、(大統領の)万歳」と叫んで窓から飛び降りたこともまた、一つの逸話として残っている。 この発言は、リーフ共和国に対するフランスの()、侵攻に対するものであった。 というのは、この侵攻を受けて、作家を中心とする平和・反戦運動「クラルテ」 とその機関誌『クラルテ』に寄稿していたレリスを含むシュルレアリストらがリーフ戦争反対声明に共同署名し、同日付での機関紙『』紙に掲載していたからである。 レリスが『クラルテ』誌に寄稿したのは1925年から26年にかけてであり、1927年にはブルトン、、、ら他のシュルレアリストと同様に共産党に入党したが、レリスは早くも数か月後には離党している。 1927年にはブルトンと仲違いし、教員資格を取得しての高等学校で教鞭を執っていたランブールに会うためにを訪れ 、帰途、、を旅行した。 バタイユ -『ドキュマン』誌 [ ] 『ドキュマン』誌第1号(1929年) 一方、すでに1924年頃からの講義を受講し始め、1929年には、人類学者の、、 ()がパリ大学で開設した ()でモースに師事した。 レリスがシュルレアリスムの運動から脱退したのも1929年であり、また、同じ年の4月からバタイユとトロカデロ民族学博物館(現)の副館長 ()を中心に編集された『ドキュマン』誌の編集事務局を務めた。 『ドキュマン』誌は、美術、民族誌学の学術雑誌であり、民族学者マルセル・グリオールも編集に関わっていた。 『ドキュマン』誌は翌1930年の第15号をもって終刊となったが、バタイユにとってもレリスにとっても後の著作につながる重要な活動の場であり 、レリス同様にシュルレアリスムを離れた作家や詩人が参加していた。 実際、バタイユが1930年にブルトンへの反論として出版した小冊子『 ()』には20人の元シュルレアリストが参加し、このうちレリス、ランブール、デスノス、ジャック・バロン、 ()は『ドキュマン』誌の寄稿者であった。 これは、1924年のの葬儀の際にブルトン、アラゴン、エリュアール、らが、アナトール・フランスというフランス文学の権威を葬り去り、乗り越えようとするシュルレアリスムの象徴的な行為として出版した『死骸』のであり、同じ『死骸』というタイトルの小冊子に、『シュルレアリスム革命』誌に掲載されたブルトンの写真に茨の冠をした写真(作)を掲載し、その下にシュルレアリスムのをもじって「自動預言者」と書かれ、表題「死骸」の下には、1924年の『死骸』においてアナトール・フランスに対して書かれた「死んだ後まで、この男の死骸を残しておくことはない」という言葉がブルトンに対する言葉としてそのまま書き写されている。 この小冊子にバタイユは「去勢されたライオン」と題する記事を掲載し、シュルレアリスムを「去勢された思想」として批判したのである。 精神分析から自己探求・自伝へ [ ] 一方、『ドキュマン』誌に寄稿していた1929年から1930年にかけて、レリスはバタイユに勧められて、 ()による治療を受け始めた。 ボレルは1920年代にバタイユ、レリスら多くの作家の精神療法医であったが 、レリスにとっては治療というよりであり、この経験から、ボレルに対して告白したように、内心の苦しみや記憶、生活の諸相を書いて行こうという考えが生まれた。 これは自伝的小説『成熟の年齢』において語られていることであり、本書は1939年刊行だが、書き始めたのは1930年のことである。 治療(告白)のきっかけとなったの貞女と娼婦の裸体画、そのに関する記事は、同年に書かれ、『成熟の年齢』に収められることになり、初版の表紙に掲載されたのも、この2対の裸婦像である。 こうした自己探求はこの後生涯にわたって書き継がれる『ゲームの規則』においてさらに深まって行く(後述)。 アフリカ横断民族学調査 [ ] ダカール=ジブチ調査団(1931年)前列左から ()、ジョルジュ・アンリ・リヴィエール、マルセル・グリオール。 リヴィエールとグリオールの間に顔が見えるのがレリス。 上述のように、民族学者マルセル・グリオールは『ドキュマン』誌の編集に関わっていたが、レリスが彼と直接知り合ったのはリヴィエールを介してである。 「民族学を学ぶ文学者」として紹介されたレリスは、グリオールが率いるダカール=ジブチ調査団に秘書兼文書係として参加することになった。 これは、1931年から西端のから東端のまで横断しながら民族学の調査を行い、トロカデロ民族学博物館のためのオブジェや資料を収集することが目的であった。 一団は5月に港を出港してダカールに向かい、10月から11月にかけて ()(現)のの秘密言語について、さらに翌1932年の7月から11月にかけて(現)の ()信仰、特に現象について調査を行った。 これらの調査は、『サンガのドゴン族の秘密言語』(1948年刊行)、『ゴンダルのエチオピア人における憑依とその演劇的諸相』(『』誌1938年7月号掲載の後、1958年刊行。 邦訳『日常生活の中の聖なるもの(ミシェル・レリスの作品4)』所収)に結実することになる。 『サンガのドゴン族の秘密言語』は、レリスの学位論文であり、で民族学の学位を取得するために、を専門とするで指導教官の () に提出されたが、書き直しを命じられて再提出し、1938年に受理された (なお、これ以前の1935年から37年にかけて文学の(民族学、社会学および専門)を受け、の資格を取得している )。 ドゴン族の秘密言語とは、「ドゴンのによって伝承されている聖なる言葉」であり、との交流や儀式、の伝承にのみ用いられる特殊な言語であって、日常言語とは異なる。 数はわずか300語程度だが、それだけに一つの言葉に込められる意味が深く、レリスはこれを「真の詩」と見なしている。 一方、エチオピアのであるザールは、患者(主に女性)に憑依したザールの精霊を、音楽や供犠によってなだめる儀式を中心とし、この儀式を執り行うのも女性、特に黒人女性である。 レリスが惹かれたのは、表題が示すとおり、憑依現象そのものの美的・演劇的側面であった。 『幻のアフリカ』 [ ] サンガ(現マリ共和国) 1933年2月にアフリカでの調査を終えて帰国。 美術雑誌『 ()』や文芸誌『新フランス評論』に寄稿し、また、元共産党員で歴史学者・評論家の ()が創設した「 ()」の会員として、彼が主宰する『社会批評』誌にも寄稿した。 『社会批評』誌は『ドキュマン』誌の終刊後にバタイユが批評活動を継続していた雑誌であり、レリスは以後、再びバタイユと活動を共にすることになる。 翌1934年にトロカデロ民族学博物館のサブサハラ・アフリカ部門担当となり、1937年にこの後身としてポール・リヴェによって設立された人類博物館でも引き続き1948年まで担当した(なお、ポール・リヴェを会長として1934年に結成されたにも参加している)。 1934年はまた、アフリカでの調査に基づく『幻のアフリカ』を発表した年でもある。 本書は民族誌とはいえ、必ずしも学術的なものではなく、レリスの個人的な意見、さらには夢の記述や性的な告白すら含む破格的なものであった。 なお、『幻のアフリカ』は処分を受けることになるが 、これは1941年10月の占領下でのことであり 、ドイツ軍による言論・思想の弾圧により、1940年9月28日に出版社労働組合と占領当局との間で検閲協定が締結された 後のことである。 聖なるものの社会学 [ ] 1937年11月にバタイユ、ロジェ・カイヨワとともに、「聖なるものの社会学」のための研究機関「社会学研究会」を立ち上げた。 バタイユの秘密結社「アセファル」(およびその機関誌『 ()』)にはレリスもカイヨワも参加しなかったが、この2つの組織に共通するのはの思想である。 レリスの「日常生活の中の聖なるもの」は、1938年1月8日に開催された社会学研究会の例会で発表されたものであり、日常生活の細部まですべて聖なるものに関わっているドゴン社会について論じた、『ゲームの規則』(全4巻)の発端となる重要な論考である。 また、バタイユの愛人でレリスの親友でもあった ()(通称ロール)は1938年に35歳で早世したとき、多くの未発表原稿を残しており、このうち、レリスとバタイユが最初に刊行したのが『聖なるもの』と題する遺稿集であった。 第二次大戦 - 対独レジスタンス [ ] の言葉を掲げた人類博物館の正面 - 対独レジスタンス「 ()」の拠点でもあった。 だが、1939年、第二次大戦勃発により、社会学研究会が解散になり、レリスは化学者として動員され、()の部隊に配属された。 翌40年には復員したが、妻の実家カーンワイラー家はドイツ軍非占領地域( ())の南西部へ疎開し、友人らもまた、その多くがから経由でし始めていた。 ミロは(スペイン)へ逃れた。 アフリカ黒人彫刻を専門とするユダヤ系ドイツ人の美術評論家・作家で『ドキュマン』誌の主な寄稿者の一人であった ()は、で共和派として戦った経験があるために亡命できずに、ナチスから逃れるために自殺した。 パリに残っていたのは(対独協力者以外は)主に対独レジスタンスの作家であり、1942年にジャン=ポール・サルトルに出会った。 サルトルとは戦後1945年に『レ・タン・モデルヌ』誌を創刊することになる。 当初の編集委員は2人のほか、、、、 ()、であった。 戦時中は、ジャン・ポーランが共産党のレジスタンス・グループ「 ()」に属する () CNE の代表 ()とともに創刊した地下出版の『(フランス文学)』に寄稿し 、全国作家委員会にも加盟した。 戦中・戦後にかけての研究活動・社会活動 [ ] 1943年1月にサブサハラ・アフリカの専門家として CNRS の研究員に任命され、1945年におよび(現)で民族学の調査を行った。 戦後も引き続き、で調査を行い、での儀式に参加。 で詩人に出会い、以後、親交を深めることになった。 また、民族学者に出会ったのもこの頃である。 レヴィ=ストロースとレリスは、1951年にからの依頼で、反人種差別運動の一環として刊行される小冊子シリーズ「近代科学を前にした人種問題」の執筆を引き受け、レヴィ=ストロースは『人種と歴史』 、レリスは『人種と文明』をそれぞれ発表した。 このほか、、者らがそれぞれの立場から執筆している。 翌1952年にはアンティル諸島で2度目の調査を行うほか、12月には、によってで開催された世界諸国民平和大会にサルトル、 ()らとともに参加した。 1955年10月に仏中友好協会の代表団の一員として、が率いる国家として成立して間もないを訪れた。 に期待を寄せていたレリスには特に重要な旅であり 、5週間にわたる滞在中に毎日書き続けた日記は『中国日記』として1994年に没後出版された。 1960年9月、「における不服従の権利に関する宣言」と題する「 ()(宣言)」に署名。 これは、哲学者がアルジェリア独立運動を支援し、フランス軍隊からの脱走兵を援助するために作った地下組織「ジャンソン・グループ」の裁判の際に、これを支持する知識人121人が行った活動であり、サルトル、ボーヴォワール、ブルトン、のほか、歴史学者の、哲学者の、作家の、、、映画界から、、なども参加した。 国立科学研究所の研究主任として、1962年に(コートジボワール)で開催されたアフリカの宗教に関する会議、1966年にダカールで開催された黒人芸術に関する、1967年に()で開催された文化会議などに参加。 キューバではに会う機会を得た。 また、1964年に日本でピカソ展が開催されたときには、5月から6月にかけて来日した。 『ゲームの規則』ほか [ ] 1948年に代表作『ゲームの規則』第1巻の『抹消』、1955年に第2巻の『軍装』が刊行された。 この後、1966年に第3巻の『縫糸』、晩年の1976年に最後の第4巻『囁音』、没後の2003年にプレイヤード叢書として全4巻が刊行される。 この一連の自伝的小説は、上述の『成熟の年齢』執筆の経緯におけるように、レリス独自の告白による自己探求であり、これは最晩年の小説『角笛と叫び』に至るまで継続されることになるが 、第3巻執筆中の1957年5月に、レリスは剤を飲んでを図った。 未遂に終わったが、第3巻『縫糸』にはこの事件について、さらにはこの事件を通して夢や記憶を「縫糸」で縫合しようとする試みが描かれることになる。 また、友人のが描いた52枚の挿絵()による『無名の生ける灰』(1961年刊行)も、この事件に言及した作品である。 マーグ財団出版社により1967年から1972年まで刊行された詩誌『 ()(はかなさ)』に寄稿。 編集委員は、 ()、、 ()、主な寄稿者はアルトー、バタイユ、、、らであった。 レリスは若い頃からマッソン、ピカソ、ジャコメッティのほか多くの画家と親しく、美術評論家としても知られるが、美術関連の著書を発表したのは晩年のことであり、特に深い関心を寄せていたのは、この3人の画家・彫刻家ほか、、特に1966年に出会ったであった。 邦訳は『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』、『デュシャン ミロ マッソン ラム』として刊行されているが、これらは、著書や論文、雑誌の記事を編纂したものである。 1952年に『抹消(ゲームの規則 I)』および『軍装(ゲームの規則 II)』で ()を受賞したが、もともと栄誉を受けることを好まなかったレリスは、1980年、によって授与される ()を拒否した。 レリスと義父カーンワイラーが収集した200点以上の作品(約90点の、30点の、85点のや、約30点の民族学収集品)が国に寄贈され、1984年から85年にかけてで展覧会が行われた。 1990年9月30日、 ()にて89歳で死去。 に眠る。 没後、約1,000頁の日記が出版された。 著書 [ ]• 『シミュラークル(模擬)』- ミシェル・レリスの詩とアンドレ・マッソンの石版画による詩画集(未訳)• 『基本方位』- ジョルジュ・ランブールに捧げるシュルレアリスムの著書(未訳)• 『 幻のアフリカ』、田中淳一、高橋達明共訳、、1995年、、2010年• Tauromachies. 『闘牛技』(邦題『闘牛鑑』所収。 次項参照)• Miroir de la tauromachie, G. 『 闘牛鑑』須藤哲生訳、、1971、再版 2007年• 『 成熟の年齢』訳、現代思潮社、1969年• Haut Mal, Gallimard, 1943(詩集)• 『 癲癇(ミシェル・レリスの作品1)』(詩集)訳、、1970年• Aurora, Gallimard, 1946(小説)• 『 オーロラ(ミシェル・レリスの作品2)』(小説)宮原庸太郎訳、思潮社、1970年• Biffures. 『 抹消 ゲームの規則 I』岡谷公二訳、、2017年• Place, 1992• 『サンガのドゴン族の秘密言語』(未訳)• Race et Civilisation, UNESCO, 1951(小冊子)• 『人種と文明』- ユネスコ「近代科学を前にした人種問題」シリーズの小冊子(未訳)• Fourbis. 『 軍装 ゲームの規則 II』岡谷公二訳、平凡社、2017年• 『マルティニックおよびグアドループにおける文明の接触』(未訳)• 『ゴンダルのエチオピア人における憑依とその演劇的諸相』『 日常生活の中の聖なるもの(ミシェル・レリスの作品4)』(評論・随筆)岡谷公二訳、思潮社、1986年所収• Nuits sans nuit et quelques jours sans jour, Gallimard, 1961(夢日記)• 『 夜なき夜 昼なき昼』 細田直孝訳、、2013年• Paris, Jean Hugues, 1961(アルベルト・ジャコメッティの版画)• 『無名の生ける灰』(未訳)• Grande fuite de neige, Mercure de France, 1964(幻想的な小品)• 『大雪崩』(未訳)• Fibrilles. 『 縫糸 ゲームの規則 III』訳、平凡社、2018年• 『 獣道(ミシェル・レリスの作品3)』(評論、随筆、資料集)後藤辰男訳、思潮社、1971年• 『 黒人アフリカの美術 人類の美術9』岡谷公二訳、、1968年• 『記憶のない言葉』(未訳。 『ひび割れ』(未訳)• Massacres et autres dessins, Hermann, 1971• 『フランシス・ベーコンまたは一目瞭然の真実』(邦訳『 ピカソ ジャコメッティ ベイコン』岡谷公二編訳、人文書院、1999年参照)• 『 囁音 ゲームの規則 IV』谷昌親訳、平凡社、2018年• Michel Leiris et Jacques Dupin, Alberto Giacometti, Fondation Maeght, 1978( ()との共著)• 『アルベルト・ジャコメッティ』(未訳)• Au verso des images, Fata Morgana, 1980• 『イマージュの裏面』(未訳)• 『 オランピアの頸のリボン』 谷昌親訳、人文書院、1999年• Francis Bacon, face et profil, Poligrafa, 1983• 『言い回し、縦揺れ、または言葉が私に言うこと』(未訳)• Francis Bacon, Albin Michel, 1987• 『 フランシス・ベーコン』佐和瑛子訳、(現代美術の巨匠)1990年• 『 角笛と叫び』 千葉文夫訳、、1989年• 『ジョルジュ・バタイユについて』(未訳)• Bacon le hors-la-loi, Fourbis, 1989• 『アウトローの画家ベイコン』(邦訳『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』所収)• 『前兆の間で』(未訳)• Miroir de la tauromachie, Daniel Lelong, 1990(『闘牛鑑』- フランシス・ベーコンによる石版画を含む150部限定豪華版)• La Course de taureau, Fourbis, 1991(監督映画『闘牛』の評論のほか、闘牛に関する回想録など。 ()編)• 『ジャコメッティにとっての石』(「アルベルト・ジャコメッティのごとき芸術家にとっての石」として邦訳『獣道』所収、「アルベルト・ジャコメッティのような人物のためのいくつかの石」として邦訳『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』所収)• 『ゼブラージュ』(未訳)• Journal 1922-1989, Gallimard, 1992(ジャン・ジャマン編)• 『 ミシェル・レリス日記 (1922-1944)』千葉文夫訳、、2001年• 『 ミシェル・レリス日記 (1945-1989)』千葉文夫訳、みすず書房、2002年• Operratiques, P. L, 1992(ジャン・ジャマン編、オペラ論)• 『 オペラティック』大原宣久、三枝大修共訳、、2014年• 『台座のない天才』(邦訳『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』所収)• 『すなわち』(未訳)• 『地下逃亡』(未訳)• Journal de Chine, Gallimard, 1994(ジャン・ジャマン編)• 『中国日記』(未訳)• L'Homme sans honneur. 『アフリカ鑑』(未訳)• 『ヴィフレド・ラム』(邦訳『デュシャン ミロ マッソン ラム』参照)• 『ルーセル株式会社』(未訳)• 『驚異』(未訳)• Correspondance, 1926-1962, Claire Paulhan, 2000(ルイ・イヴェール編)• 『ミシェル・レリス宛のマックス・ジャコブの手紙』(未訳)• Ondes, suivi de Images de marque, Le Temps qu'il fait, 2002• 『電波、優れたイマージュ』(未訳)• Correspondance, 1938-1958, Claire Paulhan, 2002( ()編)• 『芸術に関する著作』(未訳)• Correspondance Michel Leiris - Jacques Baron, 1925-1973, Joseph K. , 2013(パトリス・アラン、ガブリエル・パルネ編)• 『語彙集(そこに私は注釈を押し込む)、植物のバガテル』• 『ダカール=ジブチ調査報告書』(未訳) 脚注 [ ]• mediation. centrepompidou. Centre Pompidou. 2019年12月28日閲覧。 フランス語. Jean Michel Place. 1-113. 浅沼敬子 2009年1月15日. artscape. 2019年12月28日閲覧。 Gallica. 2019年12月31日閲覧。 Gallica. 2019年12月28日閲覧。 2013年6月8日. 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ミシェル 横田

ミシェル・レリス(1984年) 誕生 ジュリアン・ミシェル・レリス 1901-04-20 、 死没 1990-09-30 (89歳没) 、 () 墓地 職業 、者、、 言語 教育 (民族学) 最終学歴 文学活動 、 () 代表作 『幻のアフリカ』 『成熟の年齢』 『ゲームの規則』(全4巻) 主な受賞歴 () ()受賞拒否 ミシェル・レリス( Michel Leiris、 - )はの、者、、。 の運動に参加し、『』に言語遊戯を駆使した「語彙集(私の註釈をおし込んで)」などを発表するが、5年ほどで脱退。 らが創刊した『 ()』誌の編集事務局を務め、バタイユ、とともに「 ()」を結成。 民族学者が率いる ()に参加し、『幻のアフリカ』を発表。 中に対独作家による地下出版に参加。 戦後、らとともに『』誌を創刊。 代表作の『幻のアフリカ』、自伝的小説『成熟の年齢』と『ゲームの規則』(全4巻)はとして刊行された。 生涯 [ ] 背景 [ ] 1901年4月20日、ジュリアン・ミシェル・レリスとしての教養ある家庭に生まれる。 名門校 ()を退学後、1918年にを取得し、1920年にに入学。 を専攻したが、に心酔し、の作品に惹かれるなど、次第に、、への関心を深めていった。 前衛芸術 [ ] 転機となったのは、1921年の詩人・のとの出会いであった。 ジャコブに直接詩作を学ぶと同時に 、彼を介して家と知り合ったからである。 その一人が、生涯にわたって親交を深めることになる画家である。 処女作『シミュラークル(模擬)』は、レリスの詩とマッソンのによる詩画集(1925年刊行)である。 ミロらが住んでいたパリ15区ブロメ通り45番地にある銘板 マッソンは当時、の ()に住んでいた。 「ブロメ通りグループ」として知られる前衛画家・作家が住んでいた場所であり、 ()がと共同でアトリエを構え、マッソンのところには ()、、 ()、 ()、、らの画家や作家が訪れていた。 彼らの活動を支援していたのが、「ピカソの画商」として知られ、特にやの画家を支持した出身の・美術評論家 ()であり 、さらに彼を介して、、小説家 ()、そしてカーンワイラーの娘ルイーズ・ゴドンに出会った(1926年に結婚)。 シュルレアリスム [ ] 1924年には、さらにジョルジュ・バタイユ、、 ()などに出会い、が率いるシュルレアリスムの運動に参加し、同年末に創刊された文芸誌『シュルレアリスム革命』に言語遊戯を駆使した「語彙集(私の註釈をおし込んで)」(邦訳『獣道』所収)やの記述などを寄稿した。 1925年7月2日に、シュルレアリストらが先達と仰ぐ詩人を招いて祝宴を催したこと、しかもこの会が大混乱に終わったことは、シュルレアリスムを語る上で重要な出来事だが、このときレリスは、女性作家 ()の(当時の世相を反映した)愛国的な発言に対して、「フランス打倒、(大統領の)万歳」と叫んで窓から飛び降りたこともまた、一つの逸話として残っている。 この発言は、リーフ共和国に対するフランスの()、侵攻に対するものであった。 というのは、この侵攻を受けて、作家を中心とする平和・反戦運動「クラルテ」 とその機関誌『クラルテ』に寄稿していたレリスを含むシュルレアリストらがリーフ戦争反対声明に共同署名し、同日付での機関紙『』紙に掲載していたからである。 レリスが『クラルテ』誌に寄稿したのは1925年から26年にかけてであり、1927年にはブルトン、、、ら他のシュルレアリストと同様に共産党に入党したが、レリスは早くも数か月後には離党している。 1927年にはブルトンと仲違いし、教員資格を取得しての高等学校で教鞭を執っていたランブールに会うためにを訪れ 、帰途、、を旅行した。 バタイユ -『ドキュマン』誌 [ ] 『ドキュマン』誌第1号(1929年) 一方、すでに1924年頃からの講義を受講し始め、1929年には、人類学者の、、 ()がパリ大学で開設した ()でモースに師事した。 レリスがシュルレアリスムの運動から脱退したのも1929年であり、また、同じ年の4月からバタイユとトロカデロ民族学博物館(現)の副館長 ()を中心に編集された『ドキュマン』誌の編集事務局を務めた。 『ドキュマン』誌は、美術、民族誌学の学術雑誌であり、民族学者マルセル・グリオールも編集に関わっていた。 『ドキュマン』誌は翌1930年の第15号をもって終刊となったが、バタイユにとってもレリスにとっても後の著作につながる重要な活動の場であり 、レリス同様にシュルレアリスムを離れた作家や詩人が参加していた。 実際、バタイユが1930年にブルトンへの反論として出版した小冊子『 ()』には20人の元シュルレアリストが参加し、このうちレリス、ランブール、デスノス、ジャック・バロン、 ()は『ドキュマン』誌の寄稿者であった。 これは、1924年のの葬儀の際にブルトン、アラゴン、エリュアール、らが、アナトール・フランスというフランス文学の権威を葬り去り、乗り越えようとするシュルレアリスムの象徴的な行為として出版した『死骸』のであり、同じ『死骸』というタイトルの小冊子に、『シュルレアリスム革命』誌に掲載されたブルトンの写真に茨の冠をした写真(作)を掲載し、その下にシュルレアリスムのをもじって「自動預言者」と書かれ、表題「死骸」の下には、1924年の『死骸』においてアナトール・フランスに対して書かれた「死んだ後まで、この男の死骸を残しておくことはない」という言葉がブルトンに対する言葉としてそのまま書き写されている。 この小冊子にバタイユは「去勢されたライオン」と題する記事を掲載し、シュルレアリスムを「去勢された思想」として批判したのである。 精神分析から自己探求・自伝へ [ ] 一方、『ドキュマン』誌に寄稿していた1929年から1930年にかけて、レリスはバタイユに勧められて、 ()による治療を受け始めた。 ボレルは1920年代にバタイユ、レリスら多くの作家の精神療法医であったが 、レリスにとっては治療というよりであり、この経験から、ボレルに対して告白したように、内心の苦しみや記憶、生活の諸相を書いて行こうという考えが生まれた。 これは自伝的小説『成熟の年齢』において語られていることであり、本書は1939年刊行だが、書き始めたのは1930年のことである。 治療(告白)のきっかけとなったの貞女と娼婦の裸体画、そのに関する記事は、同年に書かれ、『成熟の年齢』に収められることになり、初版の表紙に掲載されたのも、この2対の裸婦像である。 こうした自己探求はこの後生涯にわたって書き継がれる『ゲームの規則』においてさらに深まって行く(後述)。 アフリカ横断民族学調査 [ ] ダカール=ジブチ調査団(1931年)前列左から ()、ジョルジュ・アンリ・リヴィエール、マルセル・グリオール。 リヴィエールとグリオールの間に顔が見えるのがレリス。 上述のように、民族学者マルセル・グリオールは『ドキュマン』誌の編集に関わっていたが、レリスが彼と直接知り合ったのはリヴィエールを介してである。 「民族学を学ぶ文学者」として紹介されたレリスは、グリオールが率いるダカール=ジブチ調査団に秘書兼文書係として参加することになった。 これは、1931年から西端のから東端のまで横断しながら民族学の調査を行い、トロカデロ民族学博物館のためのオブジェや資料を収集することが目的であった。 一団は5月に港を出港してダカールに向かい、10月から11月にかけて ()(現)のの秘密言語について、さらに翌1932年の7月から11月にかけて(現)の ()信仰、特に現象について調査を行った。 これらの調査は、『サンガのドゴン族の秘密言語』(1948年刊行)、『ゴンダルのエチオピア人における憑依とその演劇的諸相』(『』誌1938年7月号掲載の後、1958年刊行。 邦訳『日常生活の中の聖なるもの(ミシェル・レリスの作品4)』所収)に結実することになる。 『サンガのドゴン族の秘密言語』は、レリスの学位論文であり、で民族学の学位を取得するために、を専門とするで指導教官の () に提出されたが、書き直しを命じられて再提出し、1938年に受理された (なお、これ以前の1935年から37年にかけて文学の(民族学、社会学および専門)を受け、の資格を取得している )。 ドゴン族の秘密言語とは、「ドゴンのによって伝承されている聖なる言葉」であり、との交流や儀式、の伝承にのみ用いられる特殊な言語であって、日常言語とは異なる。 数はわずか300語程度だが、それだけに一つの言葉に込められる意味が深く、レリスはこれを「真の詩」と見なしている。 一方、エチオピアのであるザールは、患者(主に女性)に憑依したザールの精霊を、音楽や供犠によってなだめる儀式を中心とし、この儀式を執り行うのも女性、特に黒人女性である。 レリスが惹かれたのは、表題が示すとおり、憑依現象そのものの美的・演劇的側面であった。 『幻のアフリカ』 [ ] サンガ(現マリ共和国) 1933年2月にアフリカでの調査を終えて帰国。 美術雑誌『 ()』や文芸誌『新フランス評論』に寄稿し、また、元共産党員で歴史学者・評論家の ()が創設した「 ()」の会員として、彼が主宰する『社会批評』誌にも寄稿した。 『社会批評』誌は『ドキュマン』誌の終刊後にバタイユが批評活動を継続していた雑誌であり、レリスは以後、再びバタイユと活動を共にすることになる。 翌1934年にトロカデロ民族学博物館のサブサハラ・アフリカ部門担当となり、1937年にこの後身としてポール・リヴェによって設立された人類博物館でも引き続き1948年まで担当した(なお、ポール・リヴェを会長として1934年に結成されたにも参加している)。 1934年はまた、アフリカでの調査に基づく『幻のアフリカ』を発表した年でもある。 本書は民族誌とはいえ、必ずしも学術的なものではなく、レリスの個人的な意見、さらには夢の記述や性的な告白すら含む破格的なものであった。 なお、『幻のアフリカ』は処分を受けることになるが 、これは1941年10月の占領下でのことであり 、ドイツ軍による言論・思想の弾圧により、1940年9月28日に出版社労働組合と占領当局との間で検閲協定が締結された 後のことである。 聖なるものの社会学 [ ] 1937年11月にバタイユ、ロジェ・カイヨワとともに、「聖なるものの社会学」のための研究機関「社会学研究会」を立ち上げた。 バタイユの秘密結社「アセファル」(およびその機関誌『 ()』)にはレリスもカイヨワも参加しなかったが、この2つの組織に共通するのはの思想である。 レリスの「日常生活の中の聖なるもの」は、1938年1月8日に開催された社会学研究会の例会で発表されたものであり、日常生活の細部まですべて聖なるものに関わっているドゴン社会について論じた、『ゲームの規則』(全4巻)の発端となる重要な論考である。 また、バタイユの愛人でレリスの親友でもあった ()(通称ロール)は1938年に35歳で早世したとき、多くの未発表原稿を残しており、このうち、レリスとバタイユが最初に刊行したのが『聖なるもの』と題する遺稿集であった。 第二次大戦 - 対独レジスタンス [ ] の言葉を掲げた人類博物館の正面 - 対独レジスタンス「 ()」の拠点でもあった。 だが、1939年、第二次大戦勃発により、社会学研究会が解散になり、レリスは化学者として動員され、()の部隊に配属された。 翌40年には復員したが、妻の実家カーンワイラー家はドイツ軍非占領地域( ())の南西部へ疎開し、友人らもまた、その多くがから経由でし始めていた。 ミロは(スペイン)へ逃れた。 アフリカ黒人彫刻を専門とするユダヤ系ドイツ人の美術評論家・作家で『ドキュマン』誌の主な寄稿者の一人であった ()は、で共和派として戦った経験があるために亡命できずに、ナチスから逃れるために自殺した。 パリに残っていたのは(対独協力者以外は)主に対独レジスタンスの作家であり、1942年にジャン=ポール・サルトルに出会った。 サルトルとは戦後1945年に『レ・タン・モデルヌ』誌を創刊することになる。 当初の編集委員は2人のほか、、、、 ()、であった。 戦時中は、ジャン・ポーランが共産党のレジスタンス・グループ「 ()」に属する () CNE の代表 ()とともに創刊した地下出版の『(フランス文学)』に寄稿し 、全国作家委員会にも加盟した。 戦中・戦後にかけての研究活動・社会活動 [ ] 1943年1月にサブサハラ・アフリカの専門家として CNRS の研究員に任命され、1945年におよび(現)で民族学の調査を行った。 戦後も引き続き、で調査を行い、での儀式に参加。 で詩人に出会い、以後、親交を深めることになった。 また、民族学者に出会ったのもこの頃である。 レヴィ=ストロースとレリスは、1951年にからの依頼で、反人種差別運動の一環として刊行される小冊子シリーズ「近代科学を前にした人種問題」の執筆を引き受け、レヴィ=ストロースは『人種と歴史』 、レリスは『人種と文明』をそれぞれ発表した。 このほか、、者らがそれぞれの立場から執筆している。 翌1952年にはアンティル諸島で2度目の調査を行うほか、12月には、によってで開催された世界諸国民平和大会にサルトル、 ()らとともに参加した。 1955年10月に仏中友好協会の代表団の一員として、が率いる国家として成立して間もないを訪れた。 に期待を寄せていたレリスには特に重要な旅であり 、5週間にわたる滞在中に毎日書き続けた日記は『中国日記』として1994年に没後出版された。 1960年9月、「における不服従の権利に関する宣言」と題する「 ()(宣言)」に署名。 これは、哲学者がアルジェリア独立運動を支援し、フランス軍隊からの脱走兵を援助するために作った地下組織「ジャンソン・グループ」の裁判の際に、これを支持する知識人121人が行った活動であり、サルトル、ボーヴォワール、ブルトン、のほか、歴史学者の、哲学者の、作家の、、、映画界から、、なども参加した。 国立科学研究所の研究主任として、1962年に(コートジボワール)で開催されたアフリカの宗教に関する会議、1966年にダカールで開催された黒人芸術に関する、1967年に()で開催された文化会議などに参加。 キューバではに会う機会を得た。 また、1964年に日本でピカソ展が開催されたときには、5月から6月にかけて来日した。 『ゲームの規則』ほか [ ] 1948年に代表作『ゲームの規則』第1巻の『抹消』、1955年に第2巻の『軍装』が刊行された。 この後、1966年に第3巻の『縫糸』、晩年の1976年に最後の第4巻『囁音』、没後の2003年にプレイヤード叢書として全4巻が刊行される。 この一連の自伝的小説は、上述の『成熟の年齢』執筆の経緯におけるように、レリス独自の告白による自己探求であり、これは最晩年の小説『角笛と叫び』に至るまで継続されることになるが 、第3巻執筆中の1957年5月に、レリスは剤を飲んでを図った。 未遂に終わったが、第3巻『縫糸』にはこの事件について、さらにはこの事件を通して夢や記憶を「縫糸」で縫合しようとする試みが描かれることになる。 また、友人のが描いた52枚の挿絵()による『無名の生ける灰』(1961年刊行)も、この事件に言及した作品である。 マーグ財団出版社により1967年から1972年まで刊行された詩誌『 ()(はかなさ)』に寄稿。 編集委員は、 ()、、 ()、主な寄稿者はアルトー、バタイユ、、、らであった。 レリスは若い頃からマッソン、ピカソ、ジャコメッティのほか多くの画家と親しく、美術評論家としても知られるが、美術関連の著書を発表したのは晩年のことであり、特に深い関心を寄せていたのは、この3人の画家・彫刻家ほか、、特に1966年に出会ったであった。 邦訳は『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』、『デュシャン ミロ マッソン ラム』として刊行されているが、これらは、著書や論文、雑誌の記事を編纂したものである。 1952年に『抹消(ゲームの規則 I)』および『軍装(ゲームの規則 II)』で ()を受賞したが、もともと栄誉を受けることを好まなかったレリスは、1980年、によって授与される ()を拒否した。 レリスと義父カーンワイラーが収集した200点以上の作品(約90点の、30点の、85点のや、約30点の民族学収集品)が国に寄贈され、1984年から85年にかけてで展覧会が行われた。 1990年9月30日、 ()にて89歳で死去。 に眠る。 没後、約1,000頁の日記が出版された。 著書 [ ]• 『シミュラークル(模擬)』- ミシェル・レリスの詩とアンドレ・マッソンの石版画による詩画集(未訳)• 『基本方位』- ジョルジュ・ランブールに捧げるシュルレアリスムの著書(未訳)• 『 幻のアフリカ』、田中淳一、高橋達明共訳、、1995年、、2010年• Tauromachies. 『闘牛技』(邦題『闘牛鑑』所収。 次項参照)• Miroir de la tauromachie, G. 『 闘牛鑑』須藤哲生訳、、1971、再版 2007年• 『 成熟の年齢』訳、現代思潮社、1969年• Haut Mal, Gallimard, 1943(詩集)• 『 癲癇(ミシェル・レリスの作品1)』(詩集)訳、、1970年• Aurora, Gallimard, 1946(小説)• 『 オーロラ(ミシェル・レリスの作品2)』(小説)宮原庸太郎訳、思潮社、1970年• Biffures. 『 抹消 ゲームの規則 I』岡谷公二訳、、2017年• Place, 1992• 『サンガのドゴン族の秘密言語』(未訳)• Race et Civilisation, UNESCO, 1951(小冊子)• 『人種と文明』- ユネスコ「近代科学を前にした人種問題」シリーズの小冊子(未訳)• Fourbis. 『 軍装 ゲームの規則 II』岡谷公二訳、平凡社、2017年• 『マルティニックおよびグアドループにおける文明の接触』(未訳)• 『ゴンダルのエチオピア人における憑依とその演劇的諸相』『 日常生活の中の聖なるもの(ミシェル・レリスの作品4)』(評論・随筆)岡谷公二訳、思潮社、1986年所収• Nuits sans nuit et quelques jours sans jour, Gallimard, 1961(夢日記)• 『 夜なき夜 昼なき昼』 細田直孝訳、、2013年• Paris, Jean Hugues, 1961(アルベルト・ジャコメッティの版画)• 『無名の生ける灰』(未訳)• Grande fuite de neige, Mercure de France, 1964(幻想的な小品)• 『大雪崩』(未訳)• Fibrilles. 『 縫糸 ゲームの規則 III』訳、平凡社、2018年• 『 獣道(ミシェル・レリスの作品3)』(評論、随筆、資料集)後藤辰男訳、思潮社、1971年• 『 黒人アフリカの美術 人類の美術9』岡谷公二訳、、1968年• 『記憶のない言葉』(未訳。 『ひび割れ』(未訳)• Massacres et autres dessins, Hermann, 1971• 『フランシス・ベーコンまたは一目瞭然の真実』(邦訳『 ピカソ ジャコメッティ ベイコン』岡谷公二編訳、人文書院、1999年参照)• 『 囁音 ゲームの規則 IV』谷昌親訳、平凡社、2018年• Michel Leiris et Jacques Dupin, Alberto Giacometti, Fondation Maeght, 1978( ()との共著)• 『アルベルト・ジャコメッティ』(未訳)• Au verso des images, Fata Morgana, 1980• 『イマージュの裏面』(未訳)• 『 オランピアの頸のリボン』 谷昌親訳、人文書院、1999年• Francis Bacon, face et profil, Poligrafa, 1983• 『言い回し、縦揺れ、または言葉が私に言うこと』(未訳)• Francis Bacon, Albin Michel, 1987• 『 フランシス・ベーコン』佐和瑛子訳、(現代美術の巨匠)1990年• 『 角笛と叫び』 千葉文夫訳、、1989年• 『ジョルジュ・バタイユについて』(未訳)• Bacon le hors-la-loi, Fourbis, 1989• 『アウトローの画家ベイコン』(邦訳『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』所収)• 『前兆の間で』(未訳)• Miroir de la tauromachie, Daniel Lelong, 1990(『闘牛鑑』- フランシス・ベーコンによる石版画を含む150部限定豪華版)• La Course de taureau, Fourbis, 1991(監督映画『闘牛』の評論のほか、闘牛に関する回想録など。 ()編)• 『ジャコメッティにとっての石』(「アルベルト・ジャコメッティのごとき芸術家にとっての石」として邦訳『獣道』所収、「アルベルト・ジャコメッティのような人物のためのいくつかの石」として邦訳『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』所収)• 『ゼブラージュ』(未訳)• Journal 1922-1989, Gallimard, 1992(ジャン・ジャマン編)• 『 ミシェル・レリス日記 (1922-1944)』千葉文夫訳、、2001年• 『 ミシェル・レリス日記 (1945-1989)』千葉文夫訳、みすず書房、2002年• Operratiques, P. L, 1992(ジャン・ジャマン編、オペラ論)• 『 オペラティック』大原宣久、三枝大修共訳、、2014年• 『台座のない天才』(邦訳『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』所収)• 『すなわち』(未訳)• 『地下逃亡』(未訳)• Journal de Chine, Gallimard, 1994(ジャン・ジャマン編)• 『中国日記』(未訳)• L'Homme sans honneur. 『アフリカ鑑』(未訳)• 『ヴィフレド・ラム』(邦訳『デュシャン ミロ マッソン ラム』参照)• 『ルーセル株式会社』(未訳)• 『驚異』(未訳)• Correspondance, 1926-1962, Claire Paulhan, 2000(ルイ・イヴェール編)• 『ミシェル・レリス宛のマックス・ジャコブの手紙』(未訳)• Ondes, suivi de Images de marque, Le Temps qu'il fait, 2002• 『電波、優れたイマージュ』(未訳)• Correspondance, 1938-1958, Claire Paulhan, 2002( ()編)• 『芸術に関する著作』(未訳)• Correspondance Michel Leiris - Jacques Baron, 1925-1973, Joseph K. , 2013(パトリス・アラン、ガブリエル・パルネ編)• 『語彙集(そこに私は注釈を押し込む)、植物のバガテル』• 『ダカール=ジブチ調査報告書』(未訳) 脚注 [ ]• mediation. centrepompidou. Centre Pompidou. 2019年12月28日閲覧。 フランス語. Jean Michel Place. 1-113. 浅沼敬子 2009年1月15日. artscape. 2019年12月28日閲覧。 Gallica. 2019年12月31日閲覧。 Gallica. 2019年12月28日閲覧。 2013年6月8日. 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