と うがい 三国志。 三国志って何?はじめての人向け

後漢〜三国時代の将軍・任官者一覧表【後漢・魏】

と うがい 三国志

人物 [ ] 経歴 [ ] 『呉書』によると、祖先がの黄子廉という人物で、その子孫は各地に散らばった。 黄蓋の一族は祖父の時代に零陵へ移住してきたという。 若い頃に父が亡くなり、貧しい生活をしていたが、常に大志を抱き、上表文の書き方や兵法の勉強に勤しんでいた。 郡の役人になった後、に推挙された。 から招聘を受けたが、孫堅が挙兵するとこれに従い、荊州南部の反乱や討伐に従軍して活躍し、別部司馬に任命された。 孫堅の死後は孫策に仕え、孫策の制覇に従った。 孫策がとの征伐報告をした時の上奏に、・・孫権・と共に黄蓋の名もある(「孫破虜討逆伝」が引く『呉録』)。 孫策が早世すると、跡を継いだ孫権にも仕えて若い主君を支えた。 黄蓋は自ら甲冑をつけ、刀剣を振るって各地の反乱を鎮圧し、城を攻略した。 統治が困難な地域には黄蓋が長官として任じられ、石城県・春穀県・尋陽県など9つの県に赴任し、にまでなった。 法令に厳格な処罰を行ないつつも、強きを抑えて弱きを助ける統治を行ったため、どの地も無事に平定された。 また、土着民族たるまでもが信服し、人々は平穏に暮らすことができた。 風貌に威厳があり、兵卒を思いやり優しく接したため、軍を率いた時に兵士達は命をふるって戦った。 建安12年()、がに進軍を開始しが始まると、黄蓋はの指揮下で従軍した。 曹操軍の艦船を焼き討ちすることを進言し、偽りの投降を用いた火攻めで曹操軍を攻め立て、曹操軍の艦船と岸辺の軍営を焼き払った。 赤壁において、黄蓋は流れ矢に当たってに落ちてしまい、救い上げられたものの、黄蓋とわからなかったために、負傷したままに放置されてしまった。 しかし、同僚の韓当が見つけ手当てさせたため、九死に一生を得たという(「周瑜伝」、「黄蓋伝注引呉書」)。 この功績で、武鋒中郎将に任命された。 武陵蛮が反乱を起こすと、黄蓋が太守に任命され鎮圧の任にあたることになった。 郡の兵士は500人程であったが、賊軍を城門に誘い込んで撃退し反乱を鎮圧した。 この時、首謀者以外の者の罪は問わなかった。 反乱を鎮めると、これまでに服していた巴・醴・由・誕の部族も誼を通じてくるようになった。 また、山越の反乱者に郡益陽県を攻められるとそれも平定し、偏将軍に昇進した。 その後、黄蓋は病に伏せりそのまま病没した。 黄蓋には決断力があり、事務を長期間滞らせることがなかったため、孫権領内の人々は彼を偲んだという。 孫権は彼の子にの爵位を授けた。 『呉書』によると、肖像画を描いて季節ごとにお祭をした人々もいたという。 没年は不明だが、死後その配下の軍勢は、同時期に亡くなったの軍と共に、が指揮をしたとあるため(「宗室伝」)、孫瑜が亡くなったの時点では、黄蓋は既に死去していたことが確認できる。 『安南志略』巻7には、出身で同姓同名の黄蓋がの太守となったが、貪欲であったため追放されたという記述がある。 三国志演義 [ ] 小説『』では「」を愛用武器とする武将として、程普・韓当・と共に孫堅軍の猛将の一人として登場する。 孫堅が玉璽をめぐりと対立すると、程普・韓当と共に袁紹軍の・と対峙している。 孫堅が劉表との戦いで戦死すると、孫策を守り戦い、黄祖を生け捕って孫堅の遺体との交換材料にする。 孫策が挙兵すると程普らと共に合流し、再びその配下となる。 赤壁の戦いにおいてら降伏派の文官が、をやり込めようとしている場に現れ、文官らを一喝し、諸葛亮を孫権の元に招いている。 後に周瑜が孫権の下に駆けつけると、程普らと共に主戦論を唱える。 開戦後、曹操の大軍を前に衆寡敵せずと見た黄蓋は、周瑜に火攻めを提案し、その実現のための奇策を実行する。 まず、偽りの投降を曹操に信用させるため、降将である・を含む諸将の前で周瑜との不和を演じ、また周瑜から棒叩きの刑を受けている。 次に、黄蓋の計画を見抜きこれに同心することを申し出たを使者とし、曹操に対し偽りの書簡を送り、先鋒となる自分が時期を計って裏切る旨を伝えさせている。 その際に孫軍に潜んでいた間者が、曹操にこれを報告したため、曹操は黄蓋の投降が偽りではなく、周瑜に対する不満によるものと信じることになる。 自らを傷つけることで敵を偽って信用させ、起死回生の策を行なったこの黄蓋の行為が、 の語源となった。 黄蓋は闞沢やと共に準備を整え、合戦が始まると投降を装って曹操軍に近づき、自軍の軍船に積んだ薪や油に火を放って、曹操軍の船団に突入させている。 の連環の計によって船同士を鎖で繋いでいた曹操軍は、忽ち炎に包まれ大打撃を被ることとなるのである。 その際、逃亡する曹操を見つけ追撃するものの、曹操軍のから矢を受け負傷し、撤退している。 最後は落水し韓当に救われている。 出典 [ ] 参考文献 [ ].

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三国志って何?はじめての人向け

と うがい 三国志

張遼 ちょうりょう、字は 文遠 ぶんえん。 前漢の武帝に仕えた 聶壱 じょういつの末裔にあたりますが、聶壱が武帝の密命を受けた 王恢 おうかいと共に、匈奴との交易を利用して騙し討ちを画策したことから、彼の一族全体が単于の恨みを買っており、復讐を避けるために「張」に改姓したと言われています。 最初に張遼の武勇を見い出したのは 丁原 ていげんで、その後は 何進 かしん、 董卓 とうたく、 呂布 りょふ、と主君に恵まれませんでしたが、最終的に 曹操 そうそうに仕えることとなります。 正史三国志を編纂した 陳寿 ちんじゅに、曹操在世時に最も功績があった将軍として挙げらた五人の筆頭とされ、唐の史館が選んだ中国史上六十四名将、 武廟六十四将 ぶびょうろくじゅうよんしょうにも選ばれています。 魏 ぎで選ばれたのは張遼と 鄧艾 とうがいだけです。 曹植 そうしょくの楽府「白馬篇」に詠われる武者の姿のモデルとも言われていたり、伝統的な中国の初学者向け教科書「 蒙求 もうぎゅう」に「泣く子も黙る」の由来となった「遼来遼来」があったり、と大変エピソードの多い、極めて人気の高い武将です。 蜀 しょくの軍神、 関羽 かんうとの交友も有名ではないでしょうか。 そんな張遼の数々のエピソードを紹介していきたいと思います。 主君に恵まれなかった前半生 張任 ちょうじんは「忠臣は二君に仕えず」と言い、決して 劉備 りゅうびに降ることはなかったように、三国志でも人気のある武将、軍師は「義理」や「忠節」を重んじる忠義の士が多いように思います。 関羽、 孔明 こうめいがその代表格ではないでしょうか。 それを言ってしまえば、張遼は丁原、何進、董卓、呂布、曹操、 曹丕 そうひ、となし崩し的に主君を変えています。 何進はほぼ一瞬のようなもので、曹操から曹丕は王位継承だから別としても、仕えた主君は多いです。 しかも丁原、董卓、呂布、は君主としての評価は悪く、魏での活躍を知って張遼を好きになった人が、後から三国志を読むと、呂布配下であったことにびっくりする人は多いのではないでしょうか。 では張遼は忠臣ではなかったのか?と問われると、決してそうではないと思います。 最初に仕える丁原に関しては、自分の才能を見い出してくれたわけですし、自分の住んでいた地域にも影響はされると思います。 その後、何進の命で河北 かほくに赴き、募兵で1000人を集めて帰還すると、既に何進は宦官に殺害されていました。 なのでそのまま丁原らを排除して実権を掌握した董卓の配下となり、その董卓が呂布に暗殺されると、呂布の配下となりました。 そして 李傕 りかく、 郭汜 かくしらが長安を攻撃すると、敗れた呂布に従って長安を出奔しています。 呂布が曹操に敗れ、処刑されると、張遼は麾下の将兵と共に曹操に降伏しました。 確かに董卓や呂布のやり方が気に入らなければ、その場を去って別の主君に仕えることはできたのかもしれません。 実際に 荀彧 じゅんいくや 郭嘉 かくかは 袁紹 えんしょうを選ばずに曹操を選んでいたりしますし。 その辺りの詳細はわかりませんが、張遼もまだ若かったですし、仕事のためですし、ある程度は仕方がなかったのではないでしょうか。 主君を変えるのもそう簡単ではなかったでしょうし、やはり一番大事なのは「生きる」ことですからね。 敵ながら親交のあった関羽 張遼と関羽に親交があることも有名ではないでしょうか。 これは演技だけではなく、正史でもきちんと描かれていることです。 むしろ張遼は演技よりも、正史の記述の方が派手、という稀有な人物です。 当初はそれぞれ劉備と呂布に仕えていた二人、関羽は敵として相対した時に、逆賊となっている張遼を諭し、張遼もそれを分かっていたため、その自身の立場に苦悩していました。 張遼は呂布と共に処刑になるところを、関羽は張遼を庇い、死罪を免れるよう曹操に頼んだとされています。 その後、曹操と劉備は対立し、関羽は 下邳 かひ城で篭城します。 曹操は大好きな関羽を殺すのではなく、自分の配下としたいと思っていました。 そこで面識のある張遼が使者として手を挙げます。 関羽を城外へ誘き出し、近隣の山へ追い詰め、下邳城にいる劉備の妻と分断した上で説得するという作戦を実行しました。 そして作戦通りに追い詰められた関羽、そこに現れた曹操軍からの使者としての張遼は、関羽を説き伏せ、降伏させるのでした。 関羽「これは文遠殿。 貴公がワシの相手か」 張遼「いや、昔のよしみを思い、話でも致そうかと思って参上致したのだ」 関羽「降参を勧めに参ったのだな」 張遼「違う。 以前、救って頂いた御恩返しに参ったのだ」 関羽は最後まで死をいとわず戦うつもりでしたが、張遼の説得に応じたのでした。 こうして張遼は以前助けてもらった恩を返すことができたのでした。 関羽はやたらと曹操にもてなされましたが、劉備が生きており居場所が分かればすぐに去ると公言していました。 そこで張遼に関羽の様子を毎度伺わせていました。 このまま曹操殿に仕える気はないか?と誘ってはいましたが、劉備が死んでいたら地下まで御供するまで、と言う関羽の忠義と決意を揺るがすことはできないと感じてしました。 そして袁紹と戦うことになった曹操。 袁紹配下の将である 顔良 がんりょうに苦戦し、 徐晃 じょこうすらも勝てませんでしたが、関羽はあっさりと倒してみせます。 また、張遼と徐晃が苦戦した 文醜 ぶんしゅうをも倒してみせました。 それで恩返しを終えたと考えた関羽は、曹操の下を去り、劉備の下へ帰参する決意をします。 挨拶に曹操の家を訪れますが、仮病で面会を断ります。 張遼の家にも訪問しましたが、同様に仮病を使われます。 張遼は曹操の命でそうしたかもしれませんが、内心は心苦しかったのではないでしょうか。 結局関羽は無断で退去し、五つの関所を突破した関羽を 夏侯惇 かこうとんが阻みますが、張遼が曹操からの許可状を届けに現れ、夏侯惇を止め、関羽を見送るのでした。 そして時は流れ、赤壁の戦いが起こります。 曹操軍は大敗し、敗走する中、劉備軍の追撃を受け、散々に打ちのめされてしまいます。 最後の伏兵として待ち受けていた関羽、曹操は昔の恩で命乞いをするのでした。 義を重んじる関羽、曹操の部下達が主君のために涙を浮かべて命乞いをするのを見て、許してしまいます。 「散れ」、そう言って曹操らを許し、逃がしたのでした。 ただ、これでは待ち伏せに成功したのに、一戦も交えずに退くこととなってしまう、と再び振り返り残りの曹操軍を見やります。 そこへ飛び出してきた一騎の馬、それが張遼でした。 関羽は故旧の情を感じずにはいられず、結局張遼をはじめ、残りの兵もみんな逃がしてしまうのでした。 おそらくそれが最後のやり取りで、その後は相見えることはなかったと思われます。 乱世であり、信じた主君が違ったため、敵同士にはなってしまいましたが、お互いに武勇や忠義を認め合い、その中で育まれた親交はとても素敵なことではないでしょうか。 張遼を語るのに決して外せない 合肥 がっぴの戦い リアル三国無双!と言われる張遼の合肥の戦いでの活躍。 この時、張遼は 李典 りてん、 楽進 がくしんと共に、南方の要衝、合肥城の守りを任されていましたが、三人の仲の悪さは超有名。 スーパースター揃いでみんな自分が一番偉いと我を出しまくっていた曹操軍の名将、名参謀を卓越した折衝能力でまとめていた調整役、 趙儼 ちょうげんが間に入って取り持たないと仕事に支障をきたす程、仲は最悪で全く協調しませんでした。 李典は特に叔父貴が当時張遼が在籍していた呂布軍に殺された経緯から、張遼を恨んでいました。 そこへ攻め込んできた10万とも言われる 孫権 そんけん軍。 曹操の指示書「張遼、李典は出撃して戦え」にも、李典は時には君命にも背く性格なので、お前となんか一緒に出撃できるかと応じませんでしたが、そこで張遼は、「お主が俺を恨むのは勝手だ、しかし今は国の存亡の時だ、私情を優先して大事を忘れていいのか?」と諭し、李典はその言葉に深く愧じ入り、共に出撃することを約束します。 そしてその10万の軍勢に対したった700~800騎程度で突入し、 陳武 ちんぶを討取り 徐盛 じょせいを負傷させます。 総大将の孫権を捕縛寸前まで追い込みますが、難を逃れ、張遼が寡兵であることを知ると逆に大軍で完全包囲します。 何重にも包囲された張遼、しかし難なく軽々と突破し、孤立した兵を包囲の中に再突入し再突破し助け、そのまま半日近く戦い続けます。 その大暴れっぷりに怖れをなしたのか、孫権は撤退を始めます、結果僅か7千の兵でそのまま合肥死守を達成。 そこに張遼は楽進らと共に追撃戦を敢行、この追撃は苛烈を極め、敵陣深くまで切り込み、最後列で指揮をとっていた孫権の喉元まで到達します。 しかし、ここで 凌統 りょうとうが死に物狂いの抵抗を行い、孫権を脱出させ、自身も生還します。 この時、河に掛かっていた橋が曹操軍によって落されていたため孫権は退路を失います。 孫権は「落ちれば孫呉は終わる」と覚悟を決め、馬を走らせ、河を飛び越えました。 これが世に言う「孫権飛騎」です。 そして「長身で胴長短足、碧眼の将がいたがあれは誰か?」と実は孫権に間近に迫っていたことを知って後から残念がったエピソードから、孫権は手痛い敗戦だけでなく、容姿の微妙なところまで伝わることとなってしまいました。 凌統の他にも 韓当 かんとう、 甘寧 かんねい、 蒋欽 しょうきん、と名だたる呉の将達を突破し、この合肥の戦いが魏と呉の国境を生んだと言われており、三国鼎立の状況を決定づける大きな要因になったことは間違いありません。 三国時代は張遼が合肥を死守したことによって完成したと言っても過言ではないでしょう。 その張遼の武勇は大きく知れ渡り、呉にあっては泣き止まない子供に「遼来遼来! 張遼が来るぞ! 」というとピタリと泣き止んだ、という逸話が生まれた程です。 泣く子も黙る、の由来ですね、日本では秋田県のなまはげがそうですね。 そんな泣いてばかりいると張遼がやってくるぞ!と言われて、恐れて泣き止む子供。 え?俺って鬼なの?どんな扱いだよ…、そんな取って食いやしねーよ、と張遼は少しばかりショックだったかも? 張遼の最期 最期は病にかかってしまいながらも孫権討伐戦に参加。 呂範 りょはんを撃破しますが、その後、病が重くなり、そのまま駐屯地で帰らぬ人になってしまいました。 演技では退却する曹丕の護衛中に 丁奉 ていほうの矢を腰に受けており、その矢傷がもとでんだことになっています。 曹丕は彼の死に涙を流したとされており、子である張虎 ちょうこが後を継いで関内侯の爵位を授かっています。 病にかかっても戦場に出て孫権軍を撃破し、戦場で亡くなった張遼。 武人にふさわしい最期なのかもしれません。 実はYouTubeなどにもあるにはあるんですが、全部の話はなくとびとびの話しかなかったり違法行為なので運営から削除されて見れなくなったりしています。

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