生きている不思議。 もう君なしでは生きられない!ミトコンドリアと細胞の不思議な関係

今、生きている不思議

生きている不思議

以前、岡山の笠岡にあるカブトガニ博物館を訪れたことがある。 これほど奇妙な生き物はいないと驚いたものだった。 本書はカブトガニの生態を詳述したもので、環境の変化に極端に弱い理由などにも触れられており、満足できた。 カブトガニは4億年も昔から生きている古代生物であり、日本では瀬戸内~北九州にかけてわずかに分布している。 しかし近年の海洋開発・汚染によって数が激減し、絶滅が危惧されている。 というのも、カブトガニは海浜の特殊な環境に高度に適応した生物なのである。 それが数億年のもの間ほとんど姿を変えずに生き延びられた理由なのだが、裏を返せば、環境の変化に弱いということにもなる。 そのあたりの仕組みを様々な角度から教えてくれるのが本書である。 しかし日本では絶滅に瀕しているカブトガニも、アメリカ東海岸には多数が残っているという。 このあたりの違いは一体なぜなのだろうか。

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「生きた化石」とも呼ばれる不思議な生物「オウムガイ」とは?

生きている不思議

生きた化石とは 生きた化石は英語でliving fossilといい、ダーウィンが「種の起源」の中で使用したことで世間に広まりました。 古代に生きていた生物は化石として断片的に発見されます。 形状が化石とほとんど変わらず、しかも今でも生きている生物が「生きた化石」なのです。 学術的には「 遺存種(いぞんしゅ)」といいます。 生きた化石は重要な手がかり 化石というと石や砂に埋まったキレイなパーツを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。 化石は過去を知るためにとても重要な資料ですが、断片的なものが多くそこから分かる生物の姿は完璧ではありません。 そのため、生きた化石のように大昔から姿を変えず、さらに生きている生き物は過去を知る上でとても重要な手がかりになるのです。 身近にもいる生きた化石たち 生きた化石にはどんなものがいるのでしょうか。 代表的なシーラカンスから、身近にいる意外な生物までご紹介します。 シーラカンス 生きた化石の代表ともいえる、3億5000万年前と同じ姿で生きている魚です。 絶滅したと考えられていたため、発見されたときには大ニュースとなりました。 シーラカンスの仲間はかつて世界中に分布していたと考えられていますが、現存する2種類はどちらも深海に生息しています。 このことから 深海のほぼ変化しない環境が、シーラカンスが生き残れた理由の一つだと考えられています。 スポンサードリンク オオサンショウウオ 国の特別天然記念物にもなっている、両生類の中でも最大の生き物です。 河川の上流に生息し、3000万年前から姿を変えていないと言われています。 カエルと同じように子どもの頃はエラ呼吸、成体になると肺呼吸へと変化します。 カモノハシ 6500万年前、哺乳類の出現と同時に発生したと考えられています。 カモのようなくちばし、ビーバーのような尻尾、カワウソのような胴体を持ち、哺乳類なのに卵を産むという不思議な生き物です。 カモノハシはオーストラリア東部に分布しており、天敵が少なかったため現在まで生き残ることができたと考えられています。 ゾウ 動物園で会うことができるゾウも生きた化石といえます。 その祖先であるゾウ科の生物は6000万年前から生息し、250万年前に今の姿になったと考えられています。 イチョウ 生きた化石は動物だけでなく、植物にも多く存在します。 実を食べると美味しく、美しく紅葉するイチョウは最も古い樹木の一つです。 約2億年前には世界中に分布していました。 イチョウは裸子植物のため精子を作りますが、出土した化石からこの事実は分かりませんでした。 生きたイチョウを研究してはじめて判明したことなのです。 まとめ 生きた化石は大昔を知るためにとても重要な役割を持っているのです。 シーラカンスのように、既に絶滅してしまったと思われていた生き物が今も地球のどこかで生きているかもしれません。 そう考えるとロマンがありますね。 スポンサードリンク.

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生きている不思議なアロマ

生きている不思議

>同じように思われる方います? 有名人で言えば、バートランド・ラッセルさんとかでしょうかね。 例えば、「世界五分前仮説」とか。 この説からすると、貴方の言う「結局分かることといえば、「今、何故かここにいる」ということだけで、あとのことは何も分からなくなる。 」という事すら、否定できます。 貴方が、「今、何故かここにいる」を理解していると「思い込んでいる」理由は、記憶の連続性によるものですが、その記憶そのものが5分前に何か偉大なモノが、プログラミングのように作り上げたものであると言う事を100%否定する事は誰にも出来ません(この説を鵜呑みにすれば) 「生きている不思議」だって、皆常識として当たり前に理解していると「思い込んでいる」だけで、真実は誰も分らない。 ま、その辺の類の話は、考えれば考えるほど、ドつぼにはまる気分になります。 なので、程ほどに。 でもそう言う発想や考え方に、触れるのは面白いですね。 生きているということを理解する究極の方法は、死んでみることです。 そうすれば一発でわかります。 論より証拠、どんな説明も不要ですし、頭の中でこねまわした理屈も圧倒的な事実の前では無力です。 さらに言うなら、実際に死なずとも、死んでみようとするだけで、この命題の答は得ることができます。 「死んでみる方法」 は人それぞれでしょうが、例えばリスカで行きたいなら、今晩にでも手首を切ってみればよろしい。 当然血が出るでしょうが、それ以前に 「痛い」 はずです。 それが即ち生きているということです。 さらに切る以前に、怖くて切れないかもしれない。 手が震え、冷や汗が噴き出る。 本能的な死への恐怖。 この 「怖い」 という感情が、生きているということです。 もしそうならず、サクッと切ってサックリ死ねたよというなら大したものですが、まず間違いなく、そんなことはできないでしょう。 ありきたりの説明ではつまらないでしょう。 そこで、私なりの見解を書かせていただきます。 生きているとは、自ら臭いものを作り出す活動を継続している状態です。 およそ生き物というものは、臭いを持っています。 その大半は、ヒトにとっては不快な悪臭です。 そうなんです。 生きるということは、自ら臭くなることなんです。 その臭いは、体表面に露出せず、体内に封じ込められていることもあります。 最近、体臭を気にしてデオドラント製品を頻繁に使ったり、シャワーを頻繁に浴びる、体臭の原因になり易い食べ物を避けるといった行動に出る人が非常に増えています。 こうした人々は、とことん体臭を無くしたいようです。 どうすれば体臭を完全に消せるのか真剣に悩んでいる人もいるそうです。 しかし、そんなことは全くナンセンスです。 なぜなら、とことん臭いのない体を追求していくと、最後は死、もしくは無生物に行き着くからです。 アンドロイドになるしかありません。 つまり、生きている以上、臭うのです。 少なくとも体内には臭い部分を抱えているのです。 臭いを自ら作れなくなることは死を意味するのです。 ペットも同じです。 犬も猫も便や尿を出します。 鶏の糞も臭いです。 爬虫類も哺乳類に比べれば量は少ないですが、糞をします。 魚介類は海や川に垂れ流しています。 臭くないペットなんてありえません。 無臭を突き詰めたいなら、アイボなどのペット型ロボットか、たまごっちなどで我慢するしかありません。 ヒトが死ねば、自らの活動によって新たな臭いを作ることはしなくなりますが、微生物の餌となって微生物の活動に伴って新たに腐敗臭の原因物質が作られるようになるのです。 植物は無臭のものもある? いいえ、少なくとも内部は臭いの素に満ちています。 このように、生きているとは、自ら臭くなることなのです。 自ら臭くなれなくなった時、それは死を意味します。 私たちの体が有臭いの有機物でできている以上、これは当たり前のことなのです。 完全に無臭になりたければ、どうぞ無機物になってください。 火葬されるのが一番手っ取り早く、完璧です。 さもなければ、経験と記憶と感情パターンを移植した無生物のロボットになるしかないですね。 哲学書や自然科学の本などにおいて、これまで、この問題について明確に答えているものを見たことすらありません。 「今の状態が生きている」の「生きている」は、生物学的な意味ではないよね。 途中で、こういう意味のすり替えをしてはいけない。 そして、「生きている」の意味は、「(質問謝さんが考える、目指すべき)理想的な生き方をしているか?」くらいの意味でしょう。 ですから、まずこの《理想》を提示してもらわないと、判断できない。 質問者さんの《人となり》を知らないので、何を理想とすべきか、答えることもできません。 そして、この《理想》は、質問者自身が見出すものです。 お金儲けでもいいですし、家族のためでもいいでしょう。 趣味だっていいのではないでしょうか。 そして、「この何故」という目的は質問者自身が自身に与えればいいんです。 「どうしてここにいる」でしたら、自分がこの状況に至る経緯を知ればいい。 それで、この問題に答えることができます。 この回答への補足 回答ありがとうございます。 質問が下手ですみません。 仰るように「生きる」とか、「死ぬ」とかって、便宜的なものでしかないよね?って話です。 実はそんなものどこにもないんじゃないかとすら思います。 結局、生きているという状態は、意味もなく何ものでもないじゃないかと思うのです。 ただ、それであるって感じで…むしろ他に確かなものなど無く、それだけしかない。 おかしな話ですよね。 何だか、狐につままれたような奇妙な感覚になります。 その奇妙な感覚の世界では、世間で言われている人生という名のものは、実は始まってすらいないのではないのかとか思うんです。 だからと言って、死にたいとかそんな話ではないのですが、同じように思われる方がいらしたら、ホッとできそうで…。 「ビッグバン以後の自然界の法則の展開による、揺らぎとしての誤差を含めた決定論的な、時間軸の進行に伴って複雑化していく枝分かれ」と「その先に生じた精神というものが必然的に内包する偶然性」が複雑に絡まった先に世の中の現状があります。 それは非決定論的世界ではあるのだけれども、結果としては必然という感覚の世界です。 決定性と偶然性が絡まった先の一つの存在が一人の人間です。 人間が生きているということは代謝をキープできているということで、脳が損なわれて精神活動の主体をキープできなくなると、脳死ということになるのではないかと思います。 そして人間らしく生きるということは人間の個性を活かして生きるということなのではないでしょうか。 「脳死は人の死である」ように、生きるというのは認識する事 である。 その証拠に、その存在(超弦)も感受も量子性に還元され、 さらに量子は、その時・空軸の虚数関係による等距離点に おける0の面(界面原点)=光量子の描く軌跡(ライトコーン) として得られている事に通ずる。 これが私の過去回答によく出てくる; 「全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に 詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。

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