中村 哲 家族。 中村哲さん家族ら あすにも現地へ 学友の九大学長「同じように志す人出てくる」 |【西日本新聞ニュース】

中村哲

中村 哲 家族

概要 [ ] 出身のを専門とするである。 の現地代表やピース・ジャパン・メディカル・サービスの総院長として、やで医療活動に従事してきた。 アフガニスタンでは高く評価されており、同国から国家勲章や議会下院表彰などが授与されており、さらに同国のが贈られている。 からもなどが授与されている。 また、母校であるでは、にて特別主幹教授に就任した。 、アフガニスタンのにて、に銃撃され死去した。 死去に伴い、や内閣総理大臣感謝状などが授与された。 経歴 [ ] 出生から大学卒業まで [ ] 御笠町(現在の堅粕)生まれ。 2年後、母の実家(玉井家)がある同県(現在の)に移り 、6歳から大学卒業まで古賀町(現在の)で暮らした。 古賀市立古賀西小学校 、 、 を経て、1973年にを卒業した。 医師免許取得後 [ ] 、の勲章伝達式にて。 (左)と 国内病院勤務ののち、、(JOCS)から 派遣されて北西辺境州の州都に赴任。 以来、20年以上にわたってを中心とする医療活動に従事する。 とが趣味で、1978年には7000m峰登山隊に帯同医師として参加した。 パキスタン・地域で長く活動してきたが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難になったとして、以後はアフガニスタンに現地拠点を移して活動を続ける意思を示している。 2003年にを受賞した。 2004年にはに招かれ、当時であった、の、・(当時)へアフガニスタンの現況報告を行った。 同年、第14回イーハトーブ賞受賞。 2008年にはで、参考人としてアフガニスタン情勢を語っている。 また、「」にも、天皇・皇后が関心を持つ分野に縁のある代表者の一人として紹介され出席している。 2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できるとして、のをモデルにして建設していた 、 ()から ()砂漠まで総延長25kmを超える用水路が完成し、約10万人の農民が暮らしていける基盤を作る。 2013年、第24回大賞、第61回を受賞した。 2016年、現地の住民が自分で用水路を作れるように、学校を準備中。 住民の要望により(イスラム教の礼拝堂)や(イスラム教の教育施設)を建設。 2018年、アフガニスタンの国家勲章を受章した。 2019年10月7日、アフガニスタンでの長年の活動が認められ、同国のを授与された。 銃撃事件・没後 [ ] 2019年12月4日、アフガニスタンの東部の州都において、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した。 負傷後、現地の病院に搬送された際には意識があったが、さらなる治療の為ににあるのへ搬送される途中で死亡した。 なお、中村と共に車に同乗していた5名(運転手や警備員など)もこの銃撃により死亡した。 中村が襲撃されたこの事件に対しては報道官が声明を発表し、組織の関与を否定。 一方でのは「テロ事件である」とする声明を発した。 12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われたのち、遺体は空路で日本に搬送された。 追悼式典では大統領のアシュラフ・ガニー自らが棺を担いだ。 告別式は12月11日に福岡市中央区の斎場で営まれた。 親交のあった夫妻や夫妻などからも弔意が寄せられ、駐日アフガニスタン大使、九州大学長らが弔辞を読んだ。 中村と同様にアフガニスタンへの医療支援を目的とするNPO法人を率いていた医師は、の取材に応じて、生前の中村について「互いの活動を励まし合い、相談し合う関係」であったと述べ、「寡黙で男らしく、優しい九州男児を絵に描いたような人だった」と中村の人柄を述懐して冥福を祈った。 はの規定に基づきで捜査を進めており、の結果、死因はによるとみられると発表した。 同年12月23日、政府は中村へのの追贈と内閣総理大臣感謝状の授与を決定。 27日に行われた授与式で授与式で内閣総理大臣・安倍晋三は遺族と面会し、「(中村さんは)アフガニスタン国民や難民のための医療活動、かんがい事業などで輝かしい業績を上げ、国際人道支援に多大な貢献をした」と生前の功績を称えた。 授与式の後に遺族は取材に応じ、「本当は無念で残念だが、みなさまの支援で継続してアフガニスタンで緑の大地が広がっていくことを願っている」「ぺシャワール会はこれからも継続していく。 父も何より願っていることで、家族もそれが願いです」と語った。 授与式には駐日アフガニスタン大使のや、の村上優会長らも立ち会った。 追悼の声 [ ] モヘブ・ラフマン・スピンガーからに贈られた弔花 中村の死去を受けて、政界からは以下のような発言がなされた。 ・:「中村先生は、医師として医療分野において、また、灌漑事業等において、アフガンで大変な貢献をしてこられました。 なかなか危険で厳しい地域にあって、本当に、本当に命懸けで様々な業績を挙げられ、アフガンの人々からも大変な感謝を受けていたというふうに、我々も知っておりますが。 しかし、今回このような形で、お亡くなりになられたことは本当にショックですし、心から御冥福をお祈りしたいと思います。 ・:「中村医師を含む方々が犠牲となったことは痛恨の極みだ。 今回の卑劣なテロは許されるものではなく、わが国は断固として非難し、今後とも日本人の安全確保のために全力を尽くしていくとともに、アフガニスタンの平和と発展のために引き続き貢献していきたい」• ・:「中村さんの大きな功績を改めて振り返り、敬意を表し、ご冥福をお祈り申し上げたい。 国際社会では厳しい現実が存在し、日本人が命をかけて頑張っている。 今後、中東への自衛隊派遣の問題など、国際社会との関わりを政治の立場から真剣に考えていかないといけない」• ・:「誠に無念で、ご家族の心中を思うと大変胸が痛む。 何の罪もない尊い生命を奪う卑劣で残忍なテロを断じて許すことはできない。 政府は、真相究明を徹底的に行い、このようなテロが二度と起きないよう、最善の努力を尽くすべきだ」• 外交・安全保障調査会長・:「国会で参考人として証言し、でも貴重な意見をいただいた。 『何をしてはいけないか。 殺してはいけない、戦争に関わってはいけない』という直接いただいたことばを思い起こし、世界の平和と日本国民の安全のためにどのような行動をとるべきか、常に考えなければならない。 われわれがきちんと役割を果たすことをお誓いし、心からご冥福をお祈りしたい」• ・:「私も中村さんに会って話を聞いたことがあるが、アフガニスタンの貧しい人たちを助けるために支援してきた方で、銃撃で命を奪われたことは許しがたい。 アフガニスタンの復興と安定を作り出すため、中村さんの志はこれからも消えることなく、多くの人が共有し、努力していくべきだ」• ・:「憲法9条に基づく国際貢献とは何かということを身をもって体現された方だ。 自衛隊の海外派遣の動きがあった際には、『非軍事の国際貢献が危険にさらされる』として、必ず反対していたのが大変心に残っている。 中村さんを失ったことは、世界にとって損失だ。 心から哀悼の意を表したい」 人物 [ ]• 西南学院中学校在学中に香住ヶ丘バプテスト教会(福岡市、当時は香椎伝道所)でF・M・ホートン宣教師よりを受けた。 当時の香住ヶ丘教会はまだバプテスマが行われたことがなく、教会にとって中村は最初期の生え抜き教会員だったという。 自身はである。 同時に現地の人々の信仰や価値観の在り方を尊重して活動を続けていた。 福岡高等学校時代の同期にがいる。 また内科医で九州大学第23代学長・は大学で同級だった。 アフガニスタンでの活動について、「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。 体で感じた想いですよ。 武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。 それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条ですよ。 それを、現地の人たちも分かってくれているんです。 だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。 むしろ、守ってくれているんです。 9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。 それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。 」と語り、の堅持を主張した。 またに対しても「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。 敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。 単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。 憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」とも語っている。 家族・親族 [ ]• 小説家のは母方の伯父である(妹が中村の母)。 父方の親族は、のでほぼ全滅している。 父の中村勉は、生まれ。 として働いていたところ、その英才をに認められてとしてに入学し、を経て、再び若松に戻り、火野葦平と交流を深めていた。 同時に運動にも力を入れ、指導的立場にいた。 しかし、での反戦・労働運動などを理由にに違反で逮捕され、懲役2年、猶予5年の判決を受けた。 玉井組の下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のなどを生業にしていた。 外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいたが映画『』のモデルとなった。 記者で同社北九州本社代表を務め、現在はプロサッカーチーム:代表取締役社長の職に在る玉井行人は従兄弟に当たる。 長女の秋子がやはりペシャワール会事務局で、2020年1月から活動している。 受賞歴 [ ]• 1988年(昭和63年)外務大臣賞(外務省)• 1992年(平成 04年)毎日国際交流賞()• 1993年(平成 05年)西日本文化賞()• 1996年(平成 08年)厚生大臣賞()• 1996年(平成 08年)読売医療功労賞()• 1998年(平成10年)朝日社会福祉賞()• 2000年(平成12年)アジア太平洋賞特別賞(毎日新聞・アジア調査会)• 2001年(平成13年)第7回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞(『医者井戸を掘る』)• 2002年(平成14年)日本ジャーナリスト会議賞(日本ジャーナリスト会議)• 2002年(平成14年)若月賞(長野県 )• 2003年(平成15年)大同生命地域研究特別賞(大同生命保険株式会社)• 2003年(平成15年)「平和と国際理解部門」• 2004年(平成16年)アカデミア賞 国際部門(全国日本学士会)• 2004年(平成16年)イーハトーブ賞()• 2008年(平成20年)第3回モンベル・チャレンジ・アワード受賞(モンベルクラブ・ファンド)• 2009年(平成21年)農業農村工学会賞(旧農業土木学会)• 2010年(平成22年)アフガニスタン国会下院 表彰• 2013年(平成25年)大賞• 2013年(平成25年)第61回• 2016年(平成28年)秋の叙勲・受章• 2017年(平成29年)第8回KYOTO地球環境の殿堂入り• 2018年(平成30年)アフガニスタン国家勲章• 2018年(平成30年)土木学会賞技術賞• 2019年(令和元年)アフガニスタン名誉市民権、(没後追贈) 、内閣総理大臣感謝状• 2020年(令和 02年)福岡県県民栄誉賞• 2020年(令和 02年)大牟田市市民栄誉賞• 2020年(令和 02年)福岡市名誉市民• 2020年(令和 02年)古賀市名誉市民 著書 [ ]• 『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』石風社 1989年• 『ペシャワールからの報告 現地医療現場で考える』河合ブックレット 1990年• 『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房 ちくまプリマーブックス 1993年 のち文庫 2012年に一旦絶版、2019年急逝に伴い緊急復刊• 『ダラエ・ヌールへの道 アフガン難民とともに』石風社 1993年• 『医は国境を越えて』石風社 1999年• 『医者よ、信念はいらないまず命を救え! アフガニスタンで「井戸を掘る」医者中村哲』羊土社 2003年• 『辺境で診る辺境から見る』石風社 2003年• 『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』聞き手 岩波書店 2010年 出演 [ ]• 「武器ではなく命の水を」(2016年9月10日、) 中村哲を題材とした作品 [ ]• 「アフガニスタンで起こったこと 〜不屈の医師 中村哲物語〜」前、後編 『』2003年24号、25号 関連項目 [ ]• : で同様の海外支援活動を行っている医師。 医学部の後輩に当たる。 : で拉致・殺害された職員。 : 活動に共感した発見者が名づけた小惑星。 2020年6月3日発表。 脚注 [ ] []• 日本語. 時事ドットコム. 2019年12月13日閲覧。 Ghazi, Zabihullah; Mashal, Mujib; Abed, Fahim 2019年12月4日. The New York Times. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月12日. 2019年12月17日閲覧。 九州大学• 九州大学• 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 2019-10-10. 2019年12月4日閲覧。 2019年12月5日. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月4日. 2019年12月7日閲覧。 NHK NEWS WEB. 2019年12月5日. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月5日. 2019年12月7日閲覧。 産経ニュース. 2019年12月6日. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月5日. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月25日 「」• 日本経済新聞社・日経BP社. NIKKEI STYLE. 2019年5月30日閲覧。 西日本新聞• アサヒ・コム. 朝日新聞社. 2019-12-04. 2019年12月4日閲覧。 NHKNEWSWEB. 2019年12月4日時点のよりアーカイブ。 2019年12月4日閲覧。 産経ニュース. 産業経済新聞社. 2019-12-04. 2019年12月4日閲覧。 Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. 2019-12-04. 2019年12月4日閲覧。 デジタル毎日. 毎日新聞社. 2019-12-04. 2019年12月4日閲覧。 テレ朝NEWS. テレビ朝日. 2019-12-05. 2019年12月5日時点のよりアーカイブ。 2019年12月5日閲覧。 AFPBB 2019年12月8日. 2020年4月10日閲覧。 毎日新聞 2019年12月11日. 2020年4月10日閲覧。 西日本新聞2019年12月11日• 朝日新聞2019年12月11日• NHKNEWSWEB. 2019年12月23日. 2019年12月23日時点のよりアーカイブ。 2019年12月23日閲覧。 毎日新聞 2019年12月27日. 2019年12月27日閲覧。 朝日新聞デジタル 2019年12月27日. 2019年12月27日閲覧。 西日本新聞ニュース 2019年12月27日. 2019年12月27日閲覧。 INC, SANKEI DIGITAL 2019年12月27日. 産経ニュース. 2019年12月27日閲覧。 首相官邸. 2019年12月4日. 2019年12月16日閲覧。 NHKNEWSWEB. 2019年12月5日. 2019年12月16日時点のよりアーカイブ。 2019年12月5日閲覧。 2019年12月6日. 2019年12月23日閲覧。 クリスチャンプレス. 2019年12月11日閲覧。 NHK NEWS WEB. 2019年12月6日. 2019年12月7日閲覧。 堺弘毅『隠された光:わが郷土の民主平和の先達たち』福岡県本部、2009年4月。 2019年12月5日閲覧。 『官報』165号、令和2年1月8日• ペシャワール会 外部リンク [ ]• 中村哲が現地代表となり、パキスタンとアフガニスタンで医療、水源確保(灌漑用井戸掘削・水路建設)、農業支援の活動を行っている。 西日本新聞社•

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中村哲医師の経歴と功績について!家族は?名言も紹介!

中村 哲 家族

こんにちは、KAORUです。 大変胸の痛むニュースが流れてきました。 アフガニスタンで貧困層への医療活動に従事してきた日本人医師の中村哲氏が何者かに銃撃され死亡しました。 中村哲医師は「ペシャワール会」の現地代表として灌漑事業などにも携わり、アフガン政府からも「最大の英雄」と評されるほどの方でした。 日本人として、そして人間として大変立派な方が、なぜこのような最期を遂げなければならなかったのでしょうか。 本当に心が痛む現実です。 恥ずかしながら私はこのニュースで中村哲医師のことを知りました。 中村哲医師のような素晴らしい方のことを少しでも多くの方々に知っていただきたく、記事を書かせていただきます。 ということで今回は『 中村哲医師の家族や経歴と生い立ち数々の功績・勲章や名言も』題しまして、中村哲医師の家族や経歴と生い立ち数々の功績・勲章や名言についてお届けしていきたいと思います。 それでは本題に入らせていただきます。 Contents• 中村哲医師の家族や経歴と生い立ちと数々の功績 【中村哲さんに聞く】「憲法9条が僕らを守ってくれてる。 政府側もタリバンも我々には手を出さない。 むしろ、守ってくれている」 — 海外の反応アンテナ 相互フォロー pDpzEAjyctlrsgy 中村哲(なかむら てつ)氏は1946年9月15日生まれ。 享年73歳でした。 福岡県福岡市出身で九州大学医学部を卒業後は国内病院に勤務しました。 中村哲氏は若い頃から「日本の医療過疎地域のために医療に従事する」という使命感を持っていたそうですが、「パキスタンやアフガニスタンの無医地域への診療」を実現することになります。 国内病院勤務ののち、中村氏は1984年にパキスタン北西辺境州のペシャワールに赴任します。 以来20年以上をハンセン病を中心とする医療活動に従事しました。 パキスタンでの活動がパキスタン政府の圧力により困難になったのち、1989年からはアフガニスタンに拠点を移し活動を続けてこられました。 また、2000年からはアフガニスタンで飲料水、灌漑用井戸事業を始め、2003年からは農村復興のための大掛かりな水路事業に携わるなど、医療以外の分野でもアフガニスタンの発展を進めてきました。 中村哲氏が灌漑用井戸事業に携わるようになったのは、2000年に発生した干ばつがきっかけでした。 大干ばつのたあめ、感染症が蔓延。 乳幼児らが多く犠牲となりました。 その惨状を目の当たりにし、井戸を掘る事業に携わるようになったといいます。 「 実際、病気のほとんどが十分な食料と清潔な飲料水さえあれば、防げるものだったから」 というのが灌漑用井戸事業に携わるようになった理由であると中村氏が著書で語っています。 さらにこの事業により200万人もの雇用を生み出すことになりました。 産業の少ないアフガニスタンの地で、若者が傭兵にならざるを得なかった現状に雇用を生み出したことは大変大きな出来事です。 アフガン政府は中村哲氏を「最大の英雄」「最も勇敢な男」とし勲章を授与しました。 中村哲氏のご家族については詳しい情報はあまり見られなかったのですが、結婚して奥さんとお子さんが5人いらっしゃるそうです。 年齢からするとお孫さんがいてもおかしくない年齢ですが、そのあたりはわかっていません。 中村哲医師の勲章や名言 中村哲医師はこれまでに数々の受賞歴がありました。 以下はウィキペディアからの引用です。 中村哲氏の著書 「天、共に在り」より 「平等や権利を主張することは悪いことではない。 しかし、それ以前に存在する『人としての倫理』の』普遍性を信ずる。 そこには善悪を超える神聖な何かがある。 」 「人間にとって本当に必要なものは、そう多くはない。 少なくとも私は『カネさえあれば何でも出来て幸せになる』という迷信、『武力さえあれば身が守られる』という妄信から自由である。 何が真実で何が不要なのか、何が人として最低限共有できるものなのか、目を凝らして見つめ、健全な感性と自然との関係を回復することである」 中村哲氏の著書 「人は愛するに足り、真心は信ずるに足るーアフガンとの約束」より 「人として最後まで守るべきものは何か、尊ぶべきものは何か、示唆するところを汲んでいただければ幸いである。 」 以下は、 ペシャワーアフガニスタン市民証を授与されたときの中村氏のコメントです。 「日本の良心的支援とアフガン職員、地域の指導者による協力の成果。 これで文字通り現地に溶け込んだ活動になる。 私たちの試みでより大きな規模で国土が回復されることを希望する」 まとめ ということで今回は『 中村哲医師の家族や経歴と生い立ち数々の功績・勲章や名言も』題しまして、中村哲医師の家族や経歴と生い立ち数々の功績・勲章や名言についてお届けしてまいりました。 このような立派な方のことを、お亡くなりになってから知ることになったことは本当に残念です。 中村哲氏の著書を読ませていただき、少しでもその考えや精神を学ばせていただきたいと思いました。 中村哲医師のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 最後までお読みいただきありがとうございました。

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中村哲 (医師)

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全文は以下の通り。 私は故人の長男で健と申します。 最初に申し上げたいのは、父を守るために亡くなられたアフガニスタンの運転手の方・警備の方そして残されたご家族・ご親族の方々への追悼の想いです。 申し訳ない気持ちでいっぱいです。 悔やんでも悔やみきれません。 父ももし今この場にいたらきっとそのように思っているはずです。 家族を代表し心よりお悔やみを申し上げます。 私たち家族は今回の訃報に大きなショックと深い悲しみに苛まれました。 しかし、多くの方々がともに悲しんで下さり、私たち家族へ多くの激励の言葉をかけて下さっています。 本当に救われています。

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