新宿 三 丁目。 【閉店】とんかつ三太 (とんかつ・さんた)

【閉店】とんかつ三太 (とんかつ・さんた)

新宿 三 丁目

概観 [ ] 面積105,238. 5 m 2。 (平成27年)現在のは1213人(男691、女522)、890世帯となっている。 戸建住宅はごくわずかに残るのみとなっているものの、が多く一定の住民がいる。 建設後年数が経過したが多く立ち並ぶ界隈となっているが、低層階が店舗やオフィス・上層階が住居という形式のの建設やオフィスビルの新築・建て替えも進んでおり、人口は単身者を中心に微増傾向にある。 としての通称は 二丁目、 ニチョなど。 新宿区の行政区域では四谷特別出張所所管区域の西地域(新宿一丁目・二丁目・四丁目・五丁目)である。 現在の新宿二丁目の区域は(48年)及び(53年)の施行により成立したものであり、それ以前は現在のの東端の一部や新宿五丁目の南側の一部を含み、現・新宿二丁目の東側の一部を含まない区域であった。 以下の記述ではこれを「旧新宿二丁目」とする。 地理 [ ] 北は、南はに挟まれた町である。 靖国通り沿いと沿いはオフィスビルや店舗・マンションなどが立ち並ぶ一般的な街であるが、靖国通りと新宿通りを結ぶ新宿二丁目仲通り(かつては六間通り・広小路とも称した)や、御苑大通り(旧称「栄通り」)から方面に伸び仲通りと直交する不動通り、さつき通り、花園通り(柳通りとも称する)周辺に向けのやなどが集中し、の、の周辺とともにとして知られている()。 かつては戦後新宿二丁目において最も早く建てられたビルというホテル「ラシントンパレス」(羅府会館・羅府飯店)が新宿通り沿いにあった。 最上階に回転展望レストランを備えるなど特徴ある外観の建物であり、新宿二丁目のランドマークとなっていた。 ホテル廃業後は「」が入居するなど引き続き新宿二丁目を象徴する建物となっていたが、に土地が売却されビルの解体が決まり、に取り壊された。 に()が置かれたことを起源とし、が存在する。 宿場開設以来のの完全施行まで一部の区域はとして栄えた()。 現在の区画や道路は概ね戦後(昭和25年)のにより整備され、同年「栄通り」(現在の御苑大通り)が部分開通している。 周辺の丁目と同様、南側から北側へ緩やかに低くなっている地形である。 歴史 [ ] 江戸時代 [ ] 内藤新宿の復元模型。 手前の道の分岐が新宿追分。 写真奥が四谷大木戸。 開幕により、はからまでの主要街道として整備されたが、第一の宿場はであり、その間旅人は難儀をしたという。 そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、(2年)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋ができ、これをと呼ぶようになった。 「宿」とはいっても、正規の「」ではなく、甲州街道や成木街道(現・)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、そのように呼び習わすこととなったという。 現在の「」という地名の元となった内藤新宿は、前述の内藤宿を含む辺り(現在の新宿一丁目、二丁目、三丁目界隈)に、阿部川町の名主高松喜兵衛他5人が幕府に願い出て許可され誕生した。 町丁は内藤新宿上町・中町(仲町)・下町に分かれており、現在の新宿二丁目や太宗寺門前近辺は中町(仲町)であった。 内藤新宿は風紀上の理由により(3年)に一度取り潰しとなったが、55年後の(9年)に、五代目名主高松喜六の請願運動により再興した。 内藤新宿はの一つであり、木賃宿や平が軒を並べて賑わっていたが、飯盛旅籠(と呼ばれるを置く旅籠)も多く、明和9年の記録では、は内藤新宿に150人の飯盛女を置くことと、旅籠屋52軒の営業の許可を出している。 明治以降 [ ] (2年)、の上町・仲町・下町をそれぞれ内藤新宿一丁目・二丁目・三丁目とし、また周辺の四谷太宗寺門前(永住町)は内藤新宿北町となった。 また(新宿通り)に面していない北側は二丁目裏・北町裏(北裏町)と称された。 (明治22年)5月1日、施行により、内藤新宿一丁目、内藤新宿二丁目、内藤新宿三丁目、内藤新宿北町、内藤新宿番衆町、内藤新宿北裏町、内藤新宿南町および内藤新宿添地町が合併し、が発足。 南豊島郡内藤新宿町大字内藤新宿二丁目・及び大字内藤新宿二丁目字二丁目裏が後の旧新宿二丁目に当たる。 (明治29年)4月1日、とが合併しとなった。 (明治36年)12月29日には(後の新宿線)が開通し、「新宿二丁目」電停が開業した。 (大正9年)、内藤新宿町はに編入され、大字内藤新宿二丁目及び大字内藤新宿二丁目字二丁目裏は大字内藤新宿北町・大字内藤新宿北裏町と統合され、「内藤」の冠称を外し、東京市四谷区新宿二丁目となった。 ここにおいて初めて「 新宿二丁目」という地名が誕生した。 は幼少時、内藤新宿の門前名主塩原昌之助の養子となって内藤新宿北町裏に住み、その後太宗寺南側の内藤新宿仲町(内藤新宿二丁目)の「伊豆橋」で生活していた。 漱石の自伝とされる『』には、子供時代の漱石が太宗寺の銅造地蔵菩薩坐像に登って遊んでいたことを示す描写や、(新宿通り)を「馬の通る往来」等と記している部分がある。 内藤新宿は以後も色街としての性格は変わらなかった。 前述の漱石は幼少時に内藤新宿の妓楼で生活しており、また付近に住んでいたは回想集『東京の三十年』の中で、新宿通りを大宗寺の筋向うから入って(まだ暗渠化されていない)沿いを歩くと月に何回かある性病検査日にがぞろぞろやって来るのに会った、という描写を残している。 (6年)に「貸座敷渡世規則」が施行され、遊女屋はに座敷を貸す形での営業が認められることとなったため、それまでの飯盛旅篭は「貸座敷」と呼ばれるようになり、新宿一丁目辺りから新宿三丁目の追分交差点付近まで、53軒の貸座敷が軒を連ねていた。 (10年)頃までは「張り見世」といい、娼妓が遊客の「お見立て」を待っていたというが、これは後にに禁止され、代わりに写真を置くようになった(写真見世)。 (大正7年)、警視庁の命令により、貸座敷は旧新宿二丁目の北西部の一角に移転することとなる。 元来この場所には牧場があったため「牛屋ヶ原」と呼ばれていた。 この牧場はの実父新原敏三が(明治21年)から(大正2年)まで経営していたところである。 遊廓移転 - 売春防止法施行 [ ] 移転作業は(大正10年)頃に一旦完了するが、移転したは火事で焼失してしまう。 (大正12年)に再建され、「新宿遊郭」と呼ばれるようになった。 1923年(大正12年)のにより、や等の遊廓はほとんど焼けてしまい、被害を受けなかった新宿遊廓は全盛期を迎える。 東京の人口が西に拡大したことによる新宿駅近辺の繁栄、折からの近代化による層の増加とあいまって、新宿遊廓はインテリ層やサラリーマンを対象とした「モダン遊廓」として大いに受けた。 この頃「二丁目」といえば新宿遊廓を指したのである。 しかし新宿遊廓は、(20年)戦災により焼失してしまった。 終戦後の(昭和21年)、による公娼廃止指令により公娼制度が廃止された。 しかし、いわゆる地帯として生き残り、風俗営業法の許可を受け、特殊飲食店()として売春業は存続することとなった。 赤線地帯は道路整備等の関係で「新宿遊廓」時代の範囲より狭くなり、現在の新宿二丁目北西部の約100メートル四方の場所に所在し、約100軒のカフェーが営業していた(その南側には風俗営業法の許可を受けていないモグリの店もあり、これはと呼ばれた)。 客層はサラリーマンや学生等が多かったという。 この時代の二丁目は、の「」やの「」などの舞台になっている。 (昭和33年)、の完全施行(1957年は部分施行)により、「赤線(旧遊廓)の街」としての旧新宿二丁目は幕を閉じることとなり 、後半〜前半には旅館や飲食店、ヌードスタジオ、(。 現在も数軒営業中)などが点在する地域になった。 その後旅館のほとんどはなどにその姿を変え、旧新宿二丁目西端(現新宿三丁目東端)エリアは「要町」と呼ばれる 、「要通り」や「末広通り」などを有する都内屈指の飲み屋街となった。 (昭和48年)1月1日に施行により御苑大通りを新たな丁目の境界とし、「要町」エリアは新宿三丁目に編入される一方、新宿一丁目の西側の一部が新宿二丁目となった。 (昭和48年)1月1日に靖国通り北側のエリアが番衆町と合わせて新宿五丁目となり、現在の新宿二丁目の範囲が成立した。 1960年代以降 [ ] 現在の二丁目は世界屈指の()へと変貌を遂げた。 作家の伏見憲明によると、ハッテン場が界隈に多く、1960年代にゲイバーが集まりだしたのがきっかけとされる。 なぜハッテン場が増えたのかは「よくわからない」としている。 2008年にはのが開通し、周辺はミニバブルが起きた。 一般向けの飲食店も増え、商業・オフィスエリアとしても注目を集めている。 史跡 [ ] 現在でも、宿場時代や遊郭時代の史跡を見ることができる。 遊郭時代からある店舗建物は既に無いが、遊郭時代からあったという細い路地が残る。 赤線時代の店舗建物もまでに相当数が解体・改築され、その後も相次いで撤去されたり建て替えられたりしているものの、なお数棟が残っており、赤線時代の面影を窺わせる。 (9番2号) 信州ゆかりの寺。 鉄筋コンクリート建ての独特の外観を持つ本堂がある。 境内には大王像や、「しょうづかのばあさん」と呼ばれ妓楼の商売神として信仰された像、「」の3番目として作られた銅造坐像がある。 閻魔堂は戦火を免れ、妓楼の屋号が多数刻まれている玉垣も残っている。 かつては現在より広い敷地を有したが、戦後の区画整理に伴い縮小、墓地などが移された。 また境内北側は昭和25年(1950年)3月、都市計画公園として新宿区に移管され、新宿区立新宿公園となっている。 (15番18号) 内藤新宿の遊女の投げ込み寺であった。 境内にある「子供合埋碑」(遊女の共葬墓地)、した遊女と客や宿場内で不慮の死を遂げた者を供養する「旭地蔵」にその当時の面影を窺うことができる。 江戸時代中期の・の墓があり、新宿区指定史跡となっている。 (15番20号) (2年)頃、江戸庶民の間で「綿のおばば」として流行した像がある。 咳止めに霊験があるとされた。 三社稲荷神社(16番2号) 新宿遊郭が移転した(大正10年)頃、大変火事が多かったためを祀るようになったといわれる。 赤線時代に神社として祠が建てられ、玉垣下の道路に面した敷石に建築費奉納者として「はるな」「銀河」「やよい」「寶泉」「ヱクボ」等「新宿カフェー協同組合」(新宿カフェー喫茶協同組合)加盟100店舗以上のの屋号が赤字で刻まれていた。 売春防止法施行後はこれらのカフェーは廃業(後述)して二丁目を去り、新宿カフェー協同組合も解散。 のとして神社だけが残っていたが、(平成17年)1月に花園神社の境内威徳稲荷神社((昭和3年)創祀。 陽物を祀っているとして一部に知られる)に合祀された。 旧祠は取り壊され、跡地は隣接していた「リパーク」の敷地と合わせ、(平成20年)2月に新たにコインパーキングを併設したが建てられた。 ゲイバーなどが入居している。 諸施設 [ ] 域内には無く、全域が新宿区立花園小学校(新宿1丁目22番1号)・新宿区立四谷中学校(1丁目12番)のとなっている。 はの管轄区域であり、二丁目内唯一のとして四谷警察署御苑大通(19番9号先。 新宿5丁目東交差点)がある。 ・自治協力団体は四谷地区町会連合会所属の新宿二丁目町会であり、新宿二丁目町会会館・事務所(新二会館)(10番10号) がある。 新宿区立新宿公園(9番) - 元は太宗寺の境内の一部で水が湧いており、池があった。 戦後の区画整理により太宗寺の境内が縮小された際、池が埋め立てられ、3月、都市計画公園として区に移管された。 施設の老朽化や植物が生い茂るなどして景観が悪くなり、風紀上の問題や地域の安全にかかわる事件などもあったため、に閉鎖。 同年改修工事が行われ、公衆トイレやベンチを更新、遊具も設置された。 に再開園している。 かつては24時間全く出入り自由の公園であったが、善良なる風紀の維持と良好な生活環境の保全、また治安上の観点から、再開園に合わせて周囲に柵と出入口が造られ、以後公園は夜間閉鎖されるようになっている。 公園になった後も池跡から水が湧き出ており、水景施設が造られている。 公園の片隅に「区政功労者諸霊之碑」がある。 「新宿二丁目公園」と呼ばれている例があるが誤り。 新宿二(11番2号)- CM「郵便局の年賀状印刷」『わがままな人』篇(11月放送、出演)ロケ地。 交通 [ ] 最寄駅は(、、。 C7・C8(BYGS(ビッグス)新宿ビル内)出口)、または新宿一丁目の東京メトロ丸ノ内線。 バスは(品97系統)「新宿三丁目」バス停13番乗り場(品川車庫前行き、休日のみ)(11番7号先)、B系統(新宿御苑ルート循環)「新宿二丁目仲通り」バス停(3番先)がある。 新宿二丁目バス停は二丁目ではなく一丁目の新宿御苑前駅前にある。 新宿二丁目に最初に開業したは(「新宿二丁目」電停)である。 後に(都電)新宿線(11・12・13系統)となったが、(昭和45年)3月27日に廃止となっている。 LGBTタウン、ゲイ・タウン [ ] 概要 [ ] 新宿二丁目はとしても知られている。 からに抜ける、およそ240m弱の「仲通り(なかどおり)」がメインストリートである。 この通りを中心になどが約450店 ほど軒を連ね、ゲイグッズを扱うショップ、同性同士で利用可能なホテルなどが集まっている(詳細は)。 ただ実際は、や5丁目などその周辺にもゲイバーなどのゲイスポットが点在しており、ゲイタウンの範囲は「二丁目を中心としたエリア」ということになる。 2008年のの開設をきっかけに、二丁目エリアが商業・オフィスエリアとして脚光を浴び、ゲイタウンの存続を危ぶむ声も上がり始めている()。 またや女性の客が増え、二丁目が化した傾向もある。 歓楽街としての特徴 [ ] 男性同性愛者は、()、(心が女性的。 心の女性度が極度に強いとに近くなる)、(女装トランスジェンダー、女装はするが身体は男性のままでいたい人)と実際はタイプが分かれており、二丁目において数の上で主流はゲイである。 (MtF)は今は女性とされ男性同性愛に含まない。 メディアでよく取り上げられる女装やニューハーフ系の店はとても少なく、女装者コミュニティは新宿二丁目とは別に存在する。 「」も参照 新宿は、かつての・の風俗取り締まりで活気を失った時期があったが、新宿二丁目は活気を維持している。 また同性愛者の歓楽街であることから、異性愛女性にとっても安心して遊べる場所でもある。 しかしゲイ男性からは異性愛女性客は必ずしも大歓迎されているわけではない、という意見もある。 だが、ゲイは飽くまで男性が好きなのであって、異性愛女性に下心を持たれるのは迷惑でもあるのだ。 ゲイバーに来る異性愛者に対しては「女連れサラリーマンがキャバクラ感覚で騒いだり、馴れ馴れしく絡んできてウザい」「男にまともに相手にされなさそうなイタい女が、泥酔して我がもの顔でのさばっていてムカつく」といった反感も持つ同性愛者も少なくない。 二丁目の各店舗間では、普段はお互いに友好的ではない面があるが、質の悪い客が悪さをするや連絡網で一帯に伝わり、協力体制を敷いて皆で駆逐する侠気の伝統があり、「二丁目を守る」事に於いては皆で団結を惜しまない。 しかし昭和から平成に変わった頃を境に、店主(ママ・マスター)の世代交代が徐々に進み、若年層の店主が増え始めた。 街を守る意識はどの店にも共通しており、国内外の著名人も多数お忍びで訪れるが、それらの情報は秘匿にするマナーも有する街である。 各店舗・テナントは又貸し以上が多く、敷金礼金が不要なケースが多いがその代わり家賃そのものが高いシステムが多い。 (平成12年)から、渋谷のパレードの協賛行事として新宿二丁目振興会を中心に企画された、ゲイ・レズビアンのためのイベント「レインボー祭」が毎年開催されている。 ゲイ・タウンの歴史 [ ] ゲイ・タウンの始まり [ ] 戦後初期の東京では新宿は未開の地であり、ゲイバーの多くは、、エリアを筆頭に各繁華街に数軒ずつが点在していた程度といわれ、現在のような巨大なゲイ・タウンはどの町にも見られなかった。 また「同性愛と同性心中の研究」(1985年. 小峰研究所. ・共著)によると戦前の一時期に「」に男娼がたむろしていたことが知られており 、戦後直後からにかけては、二丁目より上野の方が男娼や同性愛者の街として風俗雑誌などに取り上げられていた。 ゲイ・タウンとしての新宿二丁目の歴史は半ばから始まると言われる。 当時はゲイに対する視も強くはっきりとした資料は存在しないが、1958年(昭和33年)の売春防止法完全施行で、空家となった元赤線の店などを利用してが営業を始めた。 戦後初のゲイバー「やなぎ」 [ ] 戦後初のゲイバーは1945年(昭和20年)、の参道に開店した島田正雄(通称:お島さん)が経営する「」といわれ、比較的女装バーの色合いが強い店であった。 美輪明宏は戦後初期の状況について「そのころゲイバー(という言葉さえなかった)と言えば、『ブランスヰック』、神田(の前は日本橋)『シレー』、上野『市蝶』、新宿『夜曲』くらいのもので、その後に新宿に『イプセン』(1951年)がやっとできた時代だった」といっている。 新宿初のゲイバー「夜曲」、二丁目初「イプセン」 [ ] 新宿初のゲイバーは、(丸山明宏)によると、新宿角筈の「夜曲」(角筈1丁目,二幸《現》裏) であり 、二丁目初は1951年(昭和26年)、要町界隈(現三丁目)にできた「イプセン」 といわれる。 イプセンは当初は喫茶店であったが、口コミでゲイバー化していき、1953年(昭和28年)にで「男色居酒屋」として取り上げられてから知る人が増えた。 1954年には、前田光安が銀座に開いていた「蘭屋」 が近くの新宿二丁目千鳥街に引っ越し、翌1955年には要町界隈に2度目の引っ越しをする。 要町の辺りはこの2店のほか「ラ・カーヴ」、「ロートレック」、外国人客が多かった「SHIRE(シレ)」 などのゲイバーとともに新宿ゲイ・タウンの礎となる街を形成する。 ちなみに夜曲では1962年(昭和37年)9月6日に経営者が店のボーイに殺される「新宿ゲイ・バー殺人事件」が起きて新聞でも大きく報じられ、大新聞がゲイという人たちがいることを最初に知らせた事件と言われた。 また1950年代は、(現歌舞伎町一丁目)の「花園街」界隈、にごく近い「千鳥街」(現二丁目1-5番地辺り)という通りも、一般の飲み屋に混ざってゲイバーがいくらか集まる飲み屋街を形成していた。 千鳥街は所在地は二丁目だったものの、現在の二丁目ゲイタウンから外れた南西に位置し、と新宿御苑の間の御苑大通りになった場所にあった(《》の近く)。 そこは蘭屋の最初の移転先であり、「バル」、「ビザン」など他の店や、要町界隈とともに新宿ゲイタウンの中核となっていった。 千鳥街には更に「ジミー」「ジュリアン」「黒い瞳」などの女装バーができ 、歌舞伎町には「ユーカリ」(歌舞伎町)、「アドニス」 (現・歌舞伎町区役所通り)、「明治」などがあった。 このように新宿に初期にゲイバーが集まった場所は、旧二丁目西端(現三丁目東端)の「要町」界隈、歌舞伎町の「花園街」界隈(三光町、区役所通りなど含む)、御苑近くの「千鳥街」だった。 この頃のゲイバーの分類は現在と幾分異なっており、女装バーの占める割合が高かったとされる。 男性同士が出会いを求めて集うバーは後年になって急激に増えたが、お客がボーイを指名して売春行為が可能であったり、店内でお客同士による性行為が出来るなど、いわば性に直結したスタイルの営業もしている店が多かったといわれる。 一方で戦後初期は、やなぎ、ブランスウィック、夜曲、イプセン、蘭屋などがあった中で、多くの店は男装時代の丸山明宏に代表される非女装の中性的な美少年を雇ったという。 1945年から1964年頃はゲイバーのマスターも客も、そこがそういう場所であることは暗黙に了解し合っていても、自分が同性愛者であると敢えて名乗らなかったという。 客が店を出る時もボーイが先に表に出て、人がいないかを確認して出ていたりした。 ちなみに今の二丁目で現在も続くクラブでは1966年開店の「NEW SAZAE」が最も古いといわれる。 売春防止法以降: 要町・千鳥街から現二丁目へ [ ] (昭和33年)の完全施行で赤線が廃止されるが、空き家となった現在の二丁目の地所を買い取り、積極的に進出を行ったのが前述の蘭屋を経営する前田である。 前田は不動通り近辺を中心に不動産を買い、そこに進出を図る。 このとき出身の前田が一族を呼び寄せ、沖縄・料理を中心とした飲食業を展開したことが二丁目に多く存在する沖縄・奄美料理店の所以であるといわれる。 以後、不動通りの北側エリア(靖国通り側)にもゲイバー出店が相次ぐ。 少し後れ、千鳥街もで立退きを迫られ、現在の仲通りに面した雑居ビル「新千鳥街」に1960年代後半頃に移転する。 このように現在のエリアの新宿二丁目が産声を上げたのは、1960年代半ば以降であるとされる。 1970年代 - 1980年代: ゲイ雑誌と二丁目 [ ] (昭和46年)にとしては日本で7番目以降(商業ゲイ雑誌としては初)の「」創刊後、「」(廃刊)、「」(廃刊)、「」(廃刊)、「(サムソン)」等が続いたが、いずれの雑誌にも多かれ少なかれゲイバーの広告が掲載されていた。 1980年代頃からは、雑誌ページの三分の一程度が広告ページになり、ゲイバー・風俗店・ビデオメーカーの広告で埋め尽くされていた。 その為、雑誌の本編の内容が広告主であるゲイバーや風俗店に「行きましょう」と促すものが増え、差し詰め「広告クライアントの啓蒙雑誌」の様相を呈し始めた。 この頃からゲイの間で「二丁目」「二チョ」といえば、ゲイ・タウンとしての新宿二丁目を指すようになった。 また、一部の芸能人が飲みに訪れることから、一般の週刊誌等にも多く取り上げられるようになった。 バブルに向かっていた1980年代でも、二丁目は表面的には暗い街で、堂々と歩けるような雰囲気はなく、店の中は込んでいても路上にゲイがたむろしていることはほとんどなかった。 この頃、「ヌードスタジオ」という当時特有の風俗店も何軒かあり、ゲイ向けの「男性ヌードショー」も開かれていた。 1970年代 - 1980年代中頃: ゲイディスコ [ ] 1966年にはクラブ「NEW SAZAE」は既に開店しているが、当初からディスコスペースがあったのかは未検証である。 同店には後にゲイ・ディスコのミュージシャンや、「」のも来店した。 また、70年代後半にはドナ・サマー、ヴィレッジ・ピープル、シルベスター、グロリア・ゲイナーらが、ゲイの間で人気だった。 1976年、新宿五丁目の沿いの瀟洒な白いビル、Qフラットに美輪明宏が「クラブ巴里」を出店(厳密にはゲイバーではない)、同年5月には同じビルに(後述)編集長による「談話室 祭」が開店した。 このQフラットビル地下には「ブラックボックス」という当時としては最も進んだ異色のゲイがあり、ゲイや外国人モデル、パンク風スタイルの若者らが集まった。 通常のディスコと異なり入場料は男性のほうが安かった。 この頃「ツバキハウス」(伊勢丹裏,ノンケ中心)も人気で、常連は2つの店を往き来した。 また二丁目には「MAKO」や「ブギーボーイ」、雑誌などでよく取り上げられていた「フルハウス」もあった。 「MAKO」 現BYGSビル東向かい は1970年代後半頃にできた小さいビルの3階にあった店で、入って左がレジとカウンター右がフロアーで、その境は高さの異なる円柱で仕切られ、奥にソファーがありフロアの壁面には鏡が貼られていた。 若いゲイがこれほど多く集まった店は当時はなく、満員電車並に混み合い店内に入れない客は階段や路上に溢れだした。 また世界的ゲイマップマガジン「」に先に触れた「SHIRE」、「リージェント」 (現東京三協信用金庫)などと共に載っていたこともあり、外国人客も多かった。 「MAKO」は1980年に隣のビルに移って「MAKO2」となり、元の場所はゲイバーになったが、移転先の「MAKO2」は盛況だったものの1985年5月、突然閉店した。 二丁目のゲイディスコの運命は、皮肉なことに異性愛女性客が増えると客のメインとなるゲイの男性客が離れ、必ず潰れていった。 その頃の新宿二丁目のゲイディスコを知る手がかりとして、比留間久夫が1984年頃に書き始めた小説「 YES・YES・YES〜夜の街をさまよう少年たちの甘く、残酷な、愛の冒険〜」には、「文化祭の模擬店のようなチャチな照明と安っぽい装飾でこしらえられた店で…平日の夜中だというのにたくさんの若い男の子がいた…ここは発展場というところなんだろう」と記されている。 みたいな小太りのおっさんが踊り狂ってるわ、トシちゃんみたいな美少年が踊り狂ってるわ、みたいな外人がボーっとしてるわ、に似た歯の抜けた店員らしき男がハイキックバリバリで踊り狂ってるわ、背の高いマッチョの店員が踊り狂ってるわ、外人のモデルっぽい男女がチチクリ合ってるわ、サラリーマンみたいのが寝てるわ、僕は酔っ払ってビックリしてるわ、で正しくタイやヒラメがヒラヒラしているような感じだった。 バブル期以降 1 : ゲイブーム [ ] 詳細は「」を参照 1988年、フジテレビ系「笑っていいとも」で始まり、その後一年続いた人気コーナー、「Mr. タモキンの輪」 が火を点けたニューハーフブームがまず起こり、1990年頃からはメディアで「ゲイブーム」が起きた。 の新宿2丁目を舞台にした小説『YES・YES・YES』(1989年)がを受賞した。 それに続き文藝春秋の雑誌「」が、1991年2月号で「ゲイ・ルネッサンス'91」というゲイの大特集を組んだのを筆頭に、「ゲイの聖地・新宿2丁目ヌーベルバーグ体験ルポ」(91年4月24日号)、「仕事ができる女はゲイが好き」(91年5月16日号)、「ゲイに恋する女たち」(91年7月12日号)など多くの雑誌がそれに続いた。 その他の文学や映画、ドラマでもゲイに関する作品は多く登場し、その中でもの全国放送で、主役にゲイを登場させ、大胆な同性愛シーンで衝撃を与えた日本テレビ系『』(1993年)は、放送時間帯には 新宿二丁目の人影がまばらになったといわれた。 また「同窓会」に出てくるゲイバー「スプラッシュ」の店名はに実在したゲイバーから取られ、セットは二丁目に実在した「ZIP」(現ANNEX)がモデルだった。 1994年にはニューミュージックの歌手が、バディの創刊号(1994年)を脇に抱え、仲通り交差点の「薔薇の文庫センター」「ベルジュルネ」(後に「レインボーワールド」に統合,現在閉店)の前で写真に収まったことは有名。 バブル期以降 2 : ゲイナイト [ ] 詳細は「」を参照 またのようなゲイディスコはそれまでもあったが、1989年に日本初の一般向けクラブでの「」が開かれた。 のクラブカルチャーを吸収して持ち込んだもので 、1989年の5月13日に裏の「ミロス・ガレージ」(現『クラブワイヤー』)で記念すべき第一回目が行われ、以後は毎週土曜日に開催された。 1991年には1000人規模の大箱、「GOLD」でゲイナイトが始まり、二丁目から芝浦直行のバスが出るほどだった。 GOLDではやのショーも始まった。 GOLDの他にも西麻布「イエロー」、芝浦「オー・バー」、スポーツジム系野郎ノリを生み出した「ラジオシティ」、「CODE」や「LIQUIDROOM」など二丁目界隈を超えて広がりをみせた。 二丁目にも伝説的なゲイナイト向け常設クラブ「Delight」が94年にオープンし(1997年閉店) 、Arty Farty、ZIPなど、その他のゲイバーでもゲイナイトは頻繁に開かれるようになった。 ゲイナイトはそれまで比較的少人数だったゲイの集まりを、一気に数百〜千人単位の規模に押し上げた。 1990年代:室内の出会いの場の隆盛 [ ] 戦後直後から1960年代頃までの東京では、出会いの場といえば野外や映画館の暗がりが中心で、「男娼の森」といわれたや、、日活名画座(現在、新宿丸井) 、最寄りの権田原などが有名だった。 1950年代は東京は出会いの旅館の黎明期で、1970年代にかけてその数を増やしたとされ、新宿は歌舞伎町に大番(旧の北側)ができたが、旅館の多くはに集中していた。 その中には新宿ビジネスイン、新宿ビジネスクラブ、旅荘法師、のホテル・キャンパスがあり、にも料亭を改造した「たま井」が遅くとも60年代には開店していた。 古めかしい旅館や大型施設を経て、1980年代はができ始める。 だが当時の二丁目はゲイバーやディスコが中心で、クルージングスペースといえば仲通りと新宿通り交差点の「」(ラシントンパレスに1981年開店)があったくらいで、少し離れた歌舞伎町「ダムアダム(damAdam)」(から路地一つ挟んだ北)、新宿三丁目「かぶきサウナ」、四谷三丁目「バスストップ」(旧春樹)を含めても多くはなかった [ ]。 ラシントンパレスがホテルだった頃、そこにやが定宿して二丁目のゲイバーに繰り出していたというエピソードがある。 の1990年前後頃から雑居ビルやマンションの一室に開いた(ビデボー)や簡易クルージングスペースなど、新しいスタイルの店が激増する。 客層が比較的若いのが特徴で、二丁目では「AmsTrip」(90年頃開店、着衣系)、「バナナプラント」(脱衣系)、「ブラックボックス」(着衣系)、「バックドロップ」(着衣系)、「パラゴン」 93年6月開店、脱衣系 、テレビ電話を導入した「DuO(デュゥオ)」(新宿一丁目、94年頃開店、着衣系)などができた。 また始まった年は未検証だが、などの映画館では映画上映とは別にゲイ向けヌードショーが開かれていた。 その後も類似の店は出来ては消え、大久保、代々木、渋谷など周辺地域に店舗を構える業者もあったが、頃から「AmsTrip」、「バナナプラント」、「ブラックボックス」等二丁目の店舗は相次いで閉店。 「パラゴン」は1月に閉店し、建物が取り壊され有料駐車場になっている。 「スカイジム」もラシントンパレス解体に伴いに閉店している。 一方2月には太宗寺の墓地跡地に24会館新宿が開業しているほか、「バックドロップ」等存続している店舗もある。 また1970年代くらいまでの二丁目はバースタイルの店が主流だったが、1980年代初頭頃からプレジデント(1990年閉店)、センチュリーやハピネス 、マリンボーイ など、個室型の店が増えていった。 百合の小道(レスビアンバー) [ ] が集まる「の小道」」又はL字カーブを描いていることから「L通り」(Lロード)と呼ばれる一角がある。 靖国通り側から仲通りを入り左側にあるごく狭い路地で、太宗寺の北側(現在の新宿区立新宿公園)にあった池を源流とする小河川(正式名称なし)のである。 暗渠自体は靖国通りを越え新宿5丁目方面に向かい、の暗渠と合流。 蟹川の暗渠は大久保・などを経てまで続いている。 新宿5丁目付近の旧町名「番衆町」からかつては「番衆町川」とも通称された。 仲通り側からL字カーブを進むと、仲通りの新千鳥街前向かいから成覚寺・正受院墓地方面に進み、東京電力東京支店脇、新宿区立新宿公園前に抜ける通称「レインボー通り」(「墓場通り」(墓場裏通り)とも称する。 この通りも一部暗渠)と合流する。 「百合の小道」(L通り)にはかつては数軒程度しかなかったが、比較的近年からはこの通りを中心に30軒程度あると言われている。 レスビアンバーの歴史 [ ] 1963年8月1日号の『』「東京同性愛地帯のインテリ女性たち」や、1966年11月23日号の『』「深く、静かに流行する"レスビアン"」、1967年9月25日号『平凡パンチ』「レズビアン・バーに潜入」などにはビアンバーについての記述がある。 インターネット時代へ [ ] 現在では、ゲイバーなど約450店を始め、ゲイを対象としたショップなどが立ち並んでいる。 ゲイ・イエローページ「Gclick」(2013年1月)によると、2丁目エリアにあるゲイバーは274、ゲイ系店舗トータルでは402店となっている(一覧。 そのほか非店舗系のゲイ企業とビアンバーがある。 ちなみに西新宿はゲイ系店舗が18、歌舞伎町は14、北新宿・大久保は13、代々木(新宿駅南口)は9店立地している(内訳 )。 ゲイバーの多くは入り口のドアに「会員制」等のプレートを貼り女性客の入店を断っているが、(者)の男女客も入店可能な「観光バー」と呼ばれる店などもある。 一方、異性愛者向けの店舗やオフィス、そして異性愛女性の客が増え、ゲイタウンとしての特色は薄れてきている。 その背景には、ノンケ客や異性愛女性客が増えたことによる二丁目の観光地化を嫌い、ゲイが二丁目を離れ二丁目以外に出向くようになったことがある。 その他、折からの不況などにより 、わざわざ二丁目に出向く必要性が薄れてきたことなどがあると考えられる。 2000年以降 [ ] 2008年にのが開設したことで、二丁目界隈が商業・オフィスエリアとして注目を浴び始めた。 その結果ミニバブルが発生して地価は上昇し、ゲイ・レズビアンバーの入る不動産賃料も上がっている。 高層オフィスや異性愛者向けの店舗も激増しており、以降の不況や二丁目に来る同性愛者が減っていることも相まって、資本力が小さなゲイ・レズビアンバーには、経営不振から閉店する店が続出している。 経営が苦しくなったゲイバーや客が減ったゲイクラブ・イベントは、異性愛者にも店を開放して難を凌ごうとする。 だが、そのことでクローゼットの同性愛者は益々店に行きにくくなり、同性愛者の街の特色をも薄れてしまうスパイラルに陥っている。 異性愛女性の客が増えることは結果として、二丁目しか出会いの場がない性的少数者から貴重な居場所や権利を奪うことにもなっていて、ゲイ男性が異性愛女性から性的に言い寄られるケースも招いている。 なお、ではゲイバーへの女性客の入店を的に制限することが認められた。 理由は女性客がゲイ男性をヘテロにしようとし、不安におとしいれるからというものだった。 2代目編集長のは「消える新宿二丁目-異端文化の花園の命脈を断つのは誰だ? 」(彩流社)で、「ゲイの街二丁目は、今や風前の灯」にあるとして、その危機を追っている。 ちなみに、ゲイタウンの衰退は世界的な傾向にあり、ロンドンのゲイタウンも2丁目と同じ問題に直面している(「衰退するロンドンのゲイバー 寛容さ増す社会、不動産高騰も逆風に」(AFP) )。 脚注 [ ]• (pdfファイル)2015年 新宿区• ただし売春防止法完全施行後も少しの間は潜りで客引きが続いた。 「末広通り」「要通り」界隈の飲食街を「要町」と呼ぶことがあるが(東京新聞平成15年12月23日「わが街わが友9 新宿要町」、さぶ1985年5月号エレクト広告「要町カバリエ」)、正式な地名ではない。 現代ビジネス 2019年8月11日. 2020年2月22日閲覧。 「ゲイの聖地・新宿二丁目ヌーベルバーグ体験ルポ」(91年4月24日号)。 産経新聞7月3日配信「新宿二丁目最大のゲイバーグループ摘発」• 新宿二丁目 402• ゲイバー 274• 西新宿 18• 歌舞伎町 17• 北新宿・大久保 14• 代々木 9• 新宿地区トータル 460 (「Gclick」2013年1月27日)より。 同性愛者を中心とした性的少数者の人口は2012年の電通総研の調査で約5. 2%(推定600万人)とされるが、性同一性障害(GID)は推定4. 6万人(北海道文教大などのグループの調査)と少ない。 女装者コミュニティは1960年代の後半ぐらいから形成されたとされ、新宿2丁目には少なく、その隣の(JR新宿駅寄り)の要町(周辺)、、にある(2010年10月17日「3331 Arts Chiyoda」で開催されたシンポジウム「ジェンダー・セクシュアリティの媒介」での三橋順子の発言より)。 朝日ジャーナル「ゲイに恋する女たち」(1991年7月12日号)には、「二丁目に何を求めてくるのか?」という質問に、客の女性らが「店長がお目当てなのよ。 薔薇族2代目編集長「薔薇の木にどんな花咲く?第4回」。 「同性愛の一類型(男娼)について:戦前の一時期上野公園に屯した男娼群の観察を通して」『同性愛と同性心中』(1985年 小峰研究所 小峰茂之・南孝夫)• 上野を男娼や同性愛の街として取り上げた戦後の文献一覧 「飢餓と淪落の生態 上野に拾う職業諸相」『旬刊ニュース』32号(1947年1月1日,角達也、男娼について) 「上野の人々」『実話新聞』(1947年10月28日 - 男娼について) 「狩り込み探訪記:男娼も居る上野の夜」『桃色ライフ』(1949年4月25日,関本喜仲) 「上野の森:夜の生態男と女」『探訪読物』(1949年6月1日,牧竜介,男娼について) 「作家と男娼と強盗」『週刊読売』1953年8月2日(男娼・上野・三島由紀夫について) 「上野駅で街娼手入れ」『読売新聞』(1956年8月24日,男娼について) 「男娼に気をつけろ」『風俗奇譚』(1960年1月) 「上野の森の昼も夜も 禁じられた犯罪・情事のメッカ」『週刊サンケイ』(1960年11月21日) 「上野ホモ・ガイド完全レポート:『ホモ生活 上野の24時間』『上野を裸にしてみる・直撃座談会』など」『アドニスボーイNO. 8』(1973年,アドニス通信社) 「上野の森で」『性生活報告』(1990年11月,HM生,男娼の森・男娼について)など。 この記事には「このころゲイバーは(中略)新宿の『夜曲』くらいのもので、その後に新宿に『イプセン』、新橋に『やなぎ』がやっとできた時代だった」と書かれている。 しかし実際は「やなぎ」は1945年開店である。 西大久保は現在の歌舞伎町二丁目、東大久保は5丁目の一部などで大久保は夜曲のあった場所ではない。 夜曲のオープン年は不明だが、1956年には既にあり、場所は二幸裏にあった寄席の隣だった(Badi1997年4月号ゲイの考古学)。 デイリー新潮 2019年6月28日. 2020年2月22日閲覧。 Badi1998年3月号伏見憲明のゲイ考古学「ゲイバー編4」 [ ]• 『Badi』1997年4月号「伏見憲明のゲイ考古学 X氏の回想」P146「1956年に夜曲に行き、その後当時有名だった浅草玉辰に行った…その頃のゲイバーはボーイを置いていて今でいう売専のような所が多かった」。 伏見憲明「QJr対談『二丁目の過去・現在・未来』」(2007年10月19日) [ ]• ブラックボックス:男性ワンドリンク500円、女性1000円。 [ ]• 別冊宝島124「SEXというお仕事〜ボクが売春夫になった理由〜」 [ ]• メイゴグ「コイトゥス再考 20越えがたきジェンダーという背理」()• パフ・スクール「のんけ女性に消費されたゲイ、検証・90年代ゲイブーム」• 1994年2月マルコポーロ「普段着のゲイ〜ゲイの楽園新宿二丁目ボクたちの愉しみ方〜」 [ ]• 「よくわかるゲイ・ライフハンドブック」(宝島books)• 1989年《平成元年》薔薇族200号「自殺した友よ いま一緒に乾杯しよう」(美輪明宏)「発展場も少なく、日比谷公園か、日活名画座(現在、新宿丸井が建っている場所にあった)くらいである」。 『フーコーとクイア理論』 (岩波書店,2004年)。 [ ]• 1985年の「さぶ」に「薔薇族映画やショーに出ませんか?」というENKの広告が載っている。 [ ]• 「オトコノコのためのボーイフレンド:ゲイ・ハンドブック 〜ゲイ産業〜」(1986年発行少年社・発売雪淫社)に「マッサージはここ3、4年次々と誕生したが、まだ東京、大阪のみ」とある• 2012年11月20日放送TBS系「有吉ジャポン」より。 』(彩流社、2009年)• 竜超「薔薇の木にどんな花咲く?」第4回(2013年7月25日)• 『大竹まことの金曜オトナイト』「新宿2丁目に異変が!? ゲイコネクション最前線!収録現場にテレビドガッチが潜入(2013年6月26日)。 テレビ出演ランキング エンターテイメントニュース「新宿2丁目に異変が!? ゲイコネクション最前線! BSジャパン『大竹まことの金曜オトナイト』収録現場にテレビドガッチが潜入」(6月26日)• "Australian gay bar wins right to ban 'predatory females' ". Nothing To Do With Arbroath. JUNE 11, 2011. 2009年2月13日伊藤文学のひとりごと「『消える新宿二丁目』〜竜超君の本は街とゲイそのものの未来を予言する本だ!」• 「衰退するロンドンのゲイバー 寛容さ増す社会、不動産高騰も逆風に」AFP 2015年8月21日• 参考文献 [ ]• 新宿区総務部総務課編『新宿区史 区成立五〇周年記念』第1巻・第2巻・資料編 1998年 新宿区総務部総務課• 』 1999年 メディアファクトリー ダ・ヴィンチブックス• 三島由紀夫『決定版三島由紀夫全集』第38巻「書簡」 2004年 新潮社• 『荷風!』Vol,1「特集・大人の新宿」 2004年 日本文芸社(にちぶんmook) 以下雑誌• 別冊宝島159『ゲイの贈り物』 1992年 JICC出版局(宝島社)• ゲイの遊び方・楽しみ方,教えてあげる!! 』 1993年 JICC出版局(宝島社)• 別冊宝島EX『ゲイの学園天国! 国語・算数・理科・社会、ゲイにはゲイのやり方がある! 』 1994年 宝島社• 別冊宝島992『ウラ東京観光2004』 2004年 宝島社• 『どんファンによるどん底五十年の歩み』 2005年 竹書房 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 新宿区.

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新宿三丁目駅

新宿 三 丁目

停靠路線 [ ] 此站有東京地下鐵的和、都營地下鐵的停靠,是轉乘站。 丸之線線的是 M 09、副都心線是 F 13、新宿線是 S 02。 历史 [ ]• 1961年(36年)2月8日:丸之內線站區開業。 1980年(昭和55年)3月16日:新宿線站區開業,成為。 2004年(平成16年)4月1日:營團地下鐵民營化,丸之內線站區由東京地下鐵接手經營。 2008年(平成20年)6月14日:副都心線站區開業。 2010年(平成21年)5月21日:新宿地下行人通道全面開通。 E10號出入口啟用。 車站結構 [ ] 丸之內線新宿三丁目站與都營新宿線新宿三丁目站有一段距離。 經由新宿站、、可通往。 丸之內線上的地下通道「 ( 日语 : )」連接範圍廣泛,可步行至。 從該地下道可經由 ( 日语 : )前往,接著經由新宿站與前往。 藉由副都心線車站對向的南北地下道,可前往新宿站南口、。 丸之內線與副都心線、丸之內線與新宿線剪票口層有電梯與斜坡連通,各自剪票口層與月台之間也設有電梯。 電梯的地面出入口共有5處。 新宿線車站與其他兩線距離較遠。 丸之內線與新宿線的定期乘車券須在本站轉乘。 新宿線新宿站由於是管轄站,兩線無法進行轉乘。 東京地下鐵 [ ] 丸之內線月台東端與副都心線月台北端有連絡通道連結,可站內轉乘。 但由於尖峰時刻通道擁擠,2012年3月17日起開放普通乘車券、回數券、、付費區外轉乘。 與其他付費區外轉乘站相同,定期券及一日乘車券以外的轉乘時間限定為30分,普通乘車券與回數券需使用橘色的轉乘專用驗票閘門。 在與東急東橫線相互直通運轉後,由於副都心線乘客增加,為紓緩轉乘通道的人潮,2012年至2013年2月增設電扶梯與專用剪票口、售票處,與丸之內線新宿御苑前方剪票口搬遷。 2013年3月4日起,早晨尖峰時刻限定單向轉乘,丸之內線無法藉由通道轉乘副都心線。 丸之內線 [ ] 為1面2線。 站體位於下方,東端在新宿三丁目交差點附近。 剪票口位於地下1層,月台在地下2層。 過去伊勢丹側樓梯在月台東端,後為了挪出副都心線的連絡通道空間,在2006年8月13日起往新宿方向移動約30公尺。 剪票口也隨之移動。 2013年3月如上段所述再次搬遷。 廁所在地下1樓付費區外東端(副都心線、都營新宿線連絡階梯附近),附設多功能廁所。 新宿側設有。 副都心線 [ ] 島式月台1面2線地下車站。 站體位於下方新宿三丁目交差點至新宿四丁目交差點附近。 由於車站建在既有的丸之內線與都營新宿線之間,構造複雜,花費7年才完工。 與及相同,大廳層與部分月台層採取挑高設計。 側設有拖上線,、方向全日皆有以本站為起訖點的班次。 副都心線開業時的班表設定早晨有本站始發往澀谷、平日早晨尖峰時刻有澀谷至本站的回送列車,在2013年3月16日與東橫線、港未來線相互直通運轉後,本站始發、終停的列車大幅增加。 平日日間 、周六日早晨~傍晚 每小時有兩班以本站為起訖站的班次。 廁所位於地下2樓北側付費區內,附設多功能廁所。 副都心線自開業起,幾乎全日皆有警備員及站員執勤。 2017年3月25日起開始營運的付費座席指定列車「」在周末假日駛入副都心線,並停靠本站。 月台配置 [ ] 月台 路線 目的地 備註 丸之內線月台(地下2樓) 1 丸之內線 、、方向 2 、、方向 副都心線月台(地下3樓) 3 副都心線 、、、方向 澀谷站直通 、橫濱站直通 4 池袋、、、方向 和光市站直通 (至森林公園站)或 直通 (經 至飯能站) (來源:)• 副都心線月台挑高(2008年6月14日) 東京都交通局 [ ] 月台位於地下3樓、改札口位於地下1樓,為1面2線島式月台地下車站。 由於月台位於曲線區段,視線不佳,長時間有鐵路人員常駐。 改札口只有1處。 車站(所在地、新宿三丁目3-2)大部分位於新宿三丁目,月台西端與部份出入口(C7與C8)位於。 都營新宿三丁目站有地下連絡通路連接地下鐵新宿站。 可由地下通路步往JR新宿站、都廳方向而不用走出地面。 6:00~23:00 2007年12月更新標示系統,採用與東京地下鐵風格相近的設計。 廁所位於付費區內。 本站由都廳前站務管理所市谷站務區管轄。 車站業務委託給 ( 日语 : )。 月台配置 [ ] 月台 路線 目的地 備註 1 新宿線 新宿、、方向 新宿站直通 京王線 (新宿~笹塚站間為 京王新線) 2 、、、方向• 都營新宿線上行線月台(2018年3月12日攝) 使用情況 [ ]• 東京地下鐵 - 2017年度1日平均上下車人次為 163,044人。 東京地下鐵全部130個車站當中次於名列18位。 在2008年副都心線開業、2013年與東急東橫線相互直通運轉後,使用人數大幅增加。 含東京地下鐵線內轉乘人次,2017年度各路線1日平均上下車人次如下。 丸之內線 - 171,534人 - 同線內次於池袋站、新宿站、東京站、赤坂見附站、大手町站排名第6位。 副都心線 - 208,884人 - 同線內僅次於渋谷站、小竹向原站位居第3位。 都營地下鐵 - 2017年度1日平均上下車人次為 73,148人(上車人次:35,916人,下車人次:37,232人)。 新宿線全部21個車站當中次於排名第8位。 各年度1日平均上下車人次 [ ] 各年度1日平均 上下車人次如下表。 另可參照與。 本站與「 ( 日语 : )」連通的丸之內線新宿站之間有許多出入口,因此兩站出入口統一以下列規則設定出口編號(D為出入口)。 本條目記載兩站中間的 ( 日语 : )地下街(B10出口附近、廣告右下管理編號"M09〈新宿三〉"至"M08〈新宿〉")至新宿三丁目站側(東側)。 A [ ] 連結兩站的地下通道(Metro Promenade)南側• A1:三菱丸江大樓、、• A2、A3:(A3關閉中)• A4:丸井、喜多大樓• A5: ( 日语 : )(舊新宿三越)• A6:(關閉中)• A7: B [ ] 連結兩站的地下通道(Metro Promenade)北側• B1:往都營地下鐵的樓梯• B2:、電影街、 ( 日语 : )(演藝場)• B3: 新宿本店、• B4:伊勢丹新宿本店• B5:新宿通支店、伊勢丹新宿本店、新宿三• B6:• B7:大樓、 ( 日语 : )• B8:• B9:• B10: ( 日语 : )、• B11:、 C [ ] 都營新宿線開業時設置• C1:JTB、京王新宿三丁目大樓、 ( 日语 : )(新宿丸井別館、新宿WALD 9)、 ( 日语 : )• C2:三和東洋大樓• C3:東新宿大樓、瑞穗銀行• C4:京王新宿三丁目第二大樓• C5:、• C6:新宿區役所、• C7: ( 日语 : )御苑大通交番、Park City伊勢丹、、 ( 日语 : )本店、新宿支店、 ( 日语 : )• C8:、BYGS(ビッグス)新宿大樓、花園通、株式會社東京支店、新宿二郵便局 E [ ] 副都心線開業時設置。 與御苑大通交差點~新宿三丁目交差點~新宿四丁目交差點~之間的南北通道,長約800公尺。 將來預定連通新宿SUBNADE。 E1:、新宿區役所第二分廳舍、新宿明治通郵便局• E2:新宿區役所、花園神社、新宿丸井男士館、伊勢丹男士館• E3: ( 日语 : )新宿店、新宿三丁目店• E4:RAINBOW VILLAGE(レインボービレッジビル)• E5: ( 日语 : )、 ( 日语 : )、新宿御苑(新宿門)• E6:新四curumu大樓• E7:Rei Flat新宿(レイフラット新宿)、da Vinci新宿(ダヴィンチ新宿)• E8:JR新宿站(新南口)、• E9:()、明治通、 ( 日语 : )( ( 日语 : ))• E10:JR新宿站東南口廣場 E10出入口是2010年5月21日新宿地下步道(甲州街道地下)全面啟用時新設。 副都心線開業當初僅啟用至現在的E9出入口,當時沒有出口編號,僅稱為「新宿地下步道出口」。 E6出入口因長期施工,晚至2012年3月1日才開放使用。 巴士路線 [ ] 新宿三丁目 [ ]• C4出口附近(平日、周六)、C8出口附近(假日)• 〈品97〉 經四谷三丁目、、往高輪口• C1出口附近(平日、周六 丸井ONE附近)、C5出口附近(假日)• 明治通B3出口附近(伊勢丹東側)• 〈池86〉 經、新宿Cosmic Center(新宿コズミックセンター)、學習院下往東口• 〈早77〉 經東新宿站、新宿Cosmic Center往早稻田• 明治通B3出口對向(米兵附近)• 〈池86〉 經往東口 新宿追分 [ ] 都營巴士• B5出口附近(伊勢丹、docomo shop南側)• A4出口附近(丸井本館附近)• 靖國通伊勢丹新館對向(新宿五丁目交差點西北側)• 〈白61〉 經、、、、、、往 ( 日语 : )、• 〈宿74〉 經 ( 日语 : )前往前• 〈宿75〉 經拔辯天往東京女子醫大前、經東京女子醫大前、、往 ( 日语 : )• 靖國通伊勢丹新館、 ( 日语 : )(無印良品)前• 〈白61、宿74、宿75、早77、品97〉 經往新宿站西口(經歌舞伎町) 新宿三丁目、RAINBOW VILLAGE前 [ ]• 〈新宿WE巴士〉 往新宿站西口(經新宿站南口、都廳本廳舍) 附記 [ ]• 丸之內線本站~新宿站間營業距離僅0. 3公里,是東京地下鐵最短的區間。 都營新宿線本站~新宿站間營業距離為0. 8公里。 以新宿三丁目站為題材的小說有《丸之內線七十秒之壁》( 丸ノ內線七十秒の壁)(蘇部健一)。 戰前本站附近設有 新宿追分站,因戰爭電力不足無法跨越國鐵線跨線橋而移至現在新宿站所在地。 舊本社大樓就在該站附近。 丸之內線與副都心線的連絡通道非常短,最短僅50公尺左右。 通道有支撐荻窪方向線路的梁柱。 丸之內線與副都心線除本站外,也在池袋站接續,但由於丸之內線是經的迂迴路線,副都心線接近直線,因此副都心線所需時間較短。 另外搭乘丸之內線來往池袋站~本站間,在使用普通乘車券與回數券(含時差回數券、周末回數券) 時,運費以最短路徑的副都心線計算(至池袋站為170日圓,IC卡165日圓)。 相鄰車站 [ ] 東京地下鐵 丸之內線 (M 08)- 新宿三丁目(M 09)-(M 10) 副都心線• PDF - 東京メトロ、2013年2月7日• クローズアップ現代(2013年4月10日放送分)、2015年5月8日閲覧。 的,存档日期2017年1月13日,. 西武鉄道株式会社 2017年1月10日• 同樣情形的有等。 東京地下鐵採用金額式,非JR集團、私鐵等採用的區間式(部分金額式)。 ,新宿三丁目~池袋間距離5. 3公里 來源 [ ] 地下鐵1日平均使用人數.

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