異世界で土地を買って農場を 作 ろう 漫画 バンク。 ロマン・ローラン Romain Rolland 豊島与志雄訳 ジャン・クリストフ JEAN

Full text of from the Guggenheim collection : from Picasso to Pollock : Solomon R. Guggenheim Museum, New York, Peggy Guggenheim collections,

異世界で土地を買って農場を 作 ろう 漫画 バンク

クリストフ 賛辞はあとから来るんだ。 キリスト教徒によりもユダヤ人に、いっそう遠慮をしなければならないという法があるものか。 彼らに俺が十分のことをしてやるとすれば、それは彼らにそれだけの値打ちがあるからだ。 俺は彼らに名誉の地位を与えてやらなければならない。 なぜなら彼らは、わが西欧の先頭に立ってそれを占めたからだ。 西欧では今光が消えかかり、彼らのある者はわが文明を滅ぼそうとしかけている。 しかし俺は彼らのうちに、われわれの思想行為の宝の一つたるべき者らがあることを、知らないではない。 この民族のうちには、まだ偉大なものがあることを、俺は知っている。 彼らの多くがもっている、献身の力、 傲慢 ( ごうまん )なる冷静、最善にたいする愛と欲求、 不撓 ( ふとう )の精力、世に隠れたる 執拗 ( しつよう )な労苦、それらをことごとく俺は知っている。 彼らのうちに一つの神があることを、俺は知っている。 それゆえに俺は、その神を否定した奴らを、堕落的な成功と卑しい幸福とのために、彼ら民衆の運動を裏切る奴らを、憎んでいるのだ。 そういう奴らを攻撃するのは、奴らに対抗して彼ら民衆の味方をすることになるのだ。 腐敗したフランス人どもを攻撃することによって、フランスを保護するのと、ちょうど同じことだ。 クリストフ そうだ、ドイツの一音楽家には、お前たちを批判する権利もなければ、お前たちを理解することもできないと、人は言うかもしれない。 たとい彼らが間違ってるとしても、彼らの思想は知るだけの価値がある。 そしてお前たちに役だつかもしれない。 身をかじってる病弊に眼を閉じないこと、民族の生命と名誉とのために戦うという感情から、圧倒されずにかえって激発されること、それが肝要だ。 ……善良なみごとな人々だ! 俺は彼らに心配をかけた。 これからもなおさら心配をかけるだろう。 彼らに許しを願っておく。 そういう人々はいかに苦しんでいることだろう! お前も考えてみるがいい。 いかにわれわれは苦しんだか! そしてまた、ますます重苦しい空気が、腐敗した芸術が、不道徳な卑しい政治が、満足の 笑 ( え )みを浮かべて虚無の 息吹 ( いぶ )きに身を任せる 柔懦 ( じゅうだ )な思想が、日に日に積もってゆくのを見て、われわれとともにいかに多くの者が苦しんだか……。 われわれはたがいに寄り添い、呼吸もできないほど苦しみながら、そういう中にじっとしていたのだ……。 ああ、 幾何 ( いくばく )の辛い年月をいっしょに過ごしてきたことだろう! わが権力者らは、彼らの下にわれわれの青春がもだえた苦悩を、夢にも知らないのだ……。 われわれは抵抗した。 われわれはみずから身を救った……。 そして、今、われわれは他人を救わないでいいだろうか。 こんどは他人が同じ苦しみのうちに陥ってるのを、手を差し出してもやらずに 放 ( ほう )っておいていいだろうか。 否、彼らの運命とわれわれの運命とは結び合わされている。 われわれの仲間はフランスにたくさんいる。 彼らは俺が声高く説くところのことを考えてくれる。 俺は彼らのために説くつもりなのだ。 やがて俺は彼らのことを口にするだろう。 無気力の状態から奮いたってついに 牢獄 ( ろうごく )の壁を 覆 ( くつがえ )すことを、この美しい 捕虜 ( ほりょ )にできさしてやりたい! 彼はおのれの力をも敵の 凡庸 ( ぼんよう )さをも知らないのだ。 ロマン・ローラン [#改丁] 一 秩序のうちの混乱。 だらしのないぞんざいな鉄道駅員。 規則に服従しながら規則に抗言する乗客。 税関吏の好奇心を満足さした後、彼はパリー行きの列車に乗った。 夜の 闇 ( やみ )は雨に 濡 ( ぬ )れた野を 覆 ( おお )うていた。 駅々の荒い燈火は、闇に埋もれてる 涯 ( はて )しない平野の寂しさを、さらに 侘 ( わ )びしくてらし出していた。 行き違う列車はますます数多くなって、その汽笛で空気をつんざき、うとうとしてる乗客の眠りを 覚 ( さ )まさした。 もうパリーに近づいていた。 到着する一時間も前から、クリストフは降りる用意をしていた。 帽子を 眼深 ( まぶか )に 被 ( かぶ )った。 パリーにはたくさんいると聞いていた盗人を気づかって、首のところまで服のボタンをかけた。 幾度も立ったりすわったりした。 網棚 ( あみだな )と腰掛とに幾度もかばんを置き代えた。 そのたびごとにいつもの無器用さから、隣席の客にぶつかってはその 機嫌 ( きげん )を損じていた。 停車場へはいりかけたとたんに、汽車は突然闇の中に止まった。 クリストフは窓ガラスに顔を押しつけて、外を見ようとしたが何も見えなかった。 彼は同乗客の方をふり向いて、話をしかけてもよさそうな、今どこだかということを尋ねてもよさそうな、眼つきを一つ捜し求めた。 しかし彼らは不機嫌な退屈そうな様子で、うとうとしているか、あるいはそういうふうを 装 ( よそお )っていた。 停車の理由を知ろうと身動きする者もいなかった。 クリストフはその不活発さに驚いた。 それらの 倣岸 ( ごうがん )冷静な人々は、彼が想像していたフランス人とは非常に違っていた。 彼は汽車の揺れるたびによろめきながら、ついにがっかりしてかばんの上に腰をおろした。 そしてこんどは自分がうとうとしていると、車室の 扉 ( とびら )が開く音に眼を覚ました……。 パリーだ!……。 隣席の人々は降りかけていた。 彼は人込みに押したり押されたりしながら、また、荷物をもとうと進み出る赤帽をしりぞけながら、出口の方へ進んでいった。 田舎 ( いなか )者のように疑い深くなっていて、自分の品を盗もうとしてる者ばかりのように考えられた。 たいせつなかばんを肩にかついで、 小言 ( こごと )をくっても平気で人込みを押し分けながら、ずんずん歩いていった。 そしてついに、パリーのねばねばした舗石路の上に出た。 彼は自分の荷物のことや、これから選定する住居のことや、馬車の混雑の中に巻き込まれたことなどに、あまり気を取られていたから、何も見ようとは考えなかった。 まず第一の仕事は、室を捜すことだった。 旅館は不足していなかった。 停車場の四方に立ち並んで、その名前がガス文字になって輝いていた。 クリストフはなるべく光の薄いのを捜した。 しかしどれも、彼の財布に適するほど下等ではなさそうだった。 ついに彼はある横丁で、一階が飲食店になってる 汚 ( きた )ない宿屋を見つけた。 文明館という名だった。 チョッキだけのでっぷりした男が、一つのテーブルでパイプを吹かしていた。 クリストフがはいって来るのを見ると、その男は駆け寄ってきた。 彼はクリストフの 下手 ( へた )な言葉が少しもわからなかった。 しかし一目見て、 頓馬 ( とんま )な世慣れないドイツ人だと判断した。 クリストフは彼に荷物を渡すのを拒んで、まるでなっていない言葉で意味を伝えようとしていた。 彼はクリストフを案内して、臭い階段を通り、中庭に面してる風通しの悪い室へ通した。 外の響きが達しない静かな室であることを自慢して、高い宿料を要求した。 クリストフは、向こうの言うことがよくわからなかったし、パリーの生活状態を知らなかったし、肩は荷物で砕けそうになっていたので、すべてを承諾した。 早く一人になりたかった。 しかし一人になるや否や、物品の汚なさにびっくりした。 そして、心に 湧 ( わ )き上がってくる悲しみにふけらないため、にちゃにちゃする 埃 ( ほこり )だらけの水に頭をひたしてから、急いで外に出かけた。 嫌 ( いや )な気持からのがれるために、何にも見も感じもすまいとつとめた。 彼は街路へ降りた。 十月の霧は濃く冷やかだった。 霧の中には、郊外の諸工場の悪臭と都会の重々しい息とが混和してる、パリーの嫌な 匂 ( にお )いがこもっていた。 十歩先はもう見えなかった。 ガス燈の光は、消えかかった 蝋燭 ( ろうそく )の火のように震えていた。 薄暗い中を群集が、ごたごたこみ合って動いていた。 馬車が行き違いぶつかり合って、堤防のように通路をふさぎ交通をせき止めていた。 馬は凍った 泥 ( どろ )の上を 滑 ( すべ )っていた。 御者のののしる声、らっぱの響き、電車の 鉦 ( かね )の音が、耳を 聾 ( ろう )するばかりの 喧騒 ( けんそう )をなしていた。 その音響、その動乱、その臭気に、クリストフはつかみ取られた。 彼はちょっと立ち止まったが、すぐに、あとから来る人々に押され、流れに運ばれていった。 ストラスブール大通りを下りながら、何にも眼にはいらず、へまに通行人へぶつかってばかりいた。 彼は朝から物を食べていなかった。 一歩ごとに 珈琲店 ( カフェー )へ出会ったが、中に立て込んでる群集を見ては、 気後 ( きおく )れがし嫌な心地になった。 彼は巡査に尋ねかけた。 しかし言葉を考え出すのにぐずぐずしていたので、巡査は終わりまで聞いてもくれずに、話の中途で肩をそびやかしながら向こうを向いた。 クリストフは機械的に歩きつづけた。 ある店先に人だかりがしていた。 彼も機械的に同じく立ち止まった。 それは写真や絵葉書の店だった。 シャツ一枚のやまたはシャツもつけない女どもの姿が出ていた。 絵入新聞には 猥褻 ( わいせつ )な冗談が並んでいた。 子どもや若い婦人らが平気でそれをながめていた。 赤毛の 痩 ( や )せた娘が、クリストフが見入っているのを見て、いろいろ申し込んできた。 彼は意味がわからなくて彼女をながめた。 彼女は愚かな微笑を見せて彼の腕を取った。 彼は 真赤 ( まっか )に憤って、彼女を振り離して遠ざかった。 酒亭 ( しゅてい )がつづいていた。 その入口には、奇怪な 道化 ( どうけ )の広告が並んでいた。 群集はますます立て込んできた。 不徳そうな顔つき、いかがわしい漫歩者、卑しい 賤民 ( せんみん )、 白粉 ( おしろい )をぬりたてた 嫌 ( いや )な匂いの女、などがあまり多いのにクリストフは驚いた。 彼はぞっとした。 疲労や無気力や恐ろしい 嫌悪 ( けんお )に、ますますしめつけられて、 眩暈 ( めまい )がしてきた。 彼は歯をくいしばって足を早めた。 セーヌ河に近づくに従って、霧はさらに濃くなってきた。 馬車は抜け出せないほど 輻輳 ( ふくそう )してきた。 一頭の馬が滑って横に倒れた。 御者はそれを立たせようとやたらに 鞭 ( むち )打った。 不幸な動物は、 革紐 ( かわひも )にしめつけられて振るいたったが、痛ましくもまた下に倒れて、死んだようにじっと横たわった。 このありふれた光景もクリストフにとっては、もうたまらなくなる最後の打撃だった。 彼は 歔欷 ( きょき )の発作に襲われた。 通行人らは、悲しみに顔をひきつらしてるこの大きな青年を、驚いてながめていった。 彼は涙が 頬 ( ほお )に流れても、 拭 ( ぬぐ )おうともせずに歩きつづけた。 人々はちょっと立ち止まって彼を見送った。 しかし彼はもう何にも見ていなかった。 涙のために眼がくらんでいた。 彼はある広場の大きな泉のそばに出た。 彼はその中に手をつけ顔を浸した。 一人の新聞売りの小僧が 嘲弄 ( ちょうろう )的ではあるが悪意はない気持で、彼の 仕業 ( しわざ )を不思議そうにながめていた。 そしてクリストフが落としてる帽子を拾ってくれた。 水の凍るような冷たさに、クリストフはまた元気を得た。 彼の気分は直った。 彼は何にも見ないようにして足を返した。 もう食べることも考えてはいなかった。 だれにも話しかけることができないほどだった。 ちょっとしたことにもまた涙が流れそうだった。 彼は疲れはてていた。 道を間違えて、やたらに歩き回り、ほんとに迷ってしまったと思ってるとたんに、宿屋の前へ出た。 彼は自分の汚ない住居へもどった。 一日食事をしなかったので、眼は燃えるようになり、心も身体も弱りきっていて、室の 隅 ( すみ )の 椅子 ( いす )にがっくりと腰をおろした。 二時間もそのままで身動きができなかった。 ついに自失の状態からむりに身をもぎ離して、床についた。 熱っぽい無感覚のうちに落ちて、幾時間も眠ったような気がしながらたえず眼を覚ました。 室は息苦しかった。 彼は足先から頭まで焼けるようだった。 恐ろしく 喉 ( のど )が 渇 ( かわ )いていた。 馬鹿 ( ばか )げた悪夢にとらえられて、眼を開いてる時でもそれにつきまとわれた。 鋭い悩みがナイフで刺されるように身にしみた。 真夜中に眼を覚まし、残忍な絶望の念に襲われて、 喚 ( わめ )きたてようとした。 その声を人に聞かれないようにと、夜具を口にいっぱい押し込んだ。 狂人になるかと思われた。 彼は寝床にすわって燈火をつけた。 ぐっしょり汗をかいていた。 彼は立ち上がって、かばんを開き、ハンカチを捜した。 手は古い 聖書 ( バイブル )にさわった。 母がシャツの間に隠しておいてくれたものである。 クリストフはこの書物をあまり読んだことがなかった。 しかしただいまそれを見出して、なんとも言えない 嬉 ( うれ )しさを感じた。 この聖書は祖父のものであり、また 曾祖父 ( そうそふ )のものでもあった。 家長たちがそれぞれ、最後の一枚の白紙へ、自分の名前と、 生涯 ( しょうがい )の重要な日付、誕生や結婚や死亡などを、書き込んでいた。 祖父は鉛筆の大きな字体で、各章を読んだり読み返したりした日付を、書き入れていた。 黄ばんだ紙片がいっぱい 插 ( はさ )んであって、それには老人の 質朴 ( しつぼく )な感想がしるされていた。 この聖書は祖父の寝台の上の方に、 棚 ( たな )に乗せられていた。 祖父は長く眠れない時しばしばそれを取って、読むというよりはむしろ話し合っていた。 それは曾祖父の友でもあったが、また同じく、祖父の終生の 伴侶 ( はんりょ )でもあった。 一家の悲喜哀楽の一世紀が、それから立ちのぼっていた。 クリストフは今この書物といっしょにいると、いくらか孤独の感が薄らいだ。 彼は最も痛ましいところを開いた。 それ人の世に在るは、絶えざる 戦闘 ( たたかい )に在るがごとくならずや。 またその日々は、 傭人 ( やといびと )の日々のごとくならずや。 …… 我 臥 ( ふ )せばすなわち言う、 何時 ( いつ )我起きいでんかと。 起きぬれば夕を待ちかねつ。 夜まで苦しき思いに満てり。 …… わが 牀 ( とこ )は我を慰め、 休息 ( やすらい )はわが 愁 ( うれ )いを和らげんと、我思いおる時に、汝は夢をもて我を驚かし、 異象 ( まぼろし )をもて我を 懼 ( おそ )れしめたまう。 …… 何時 ( いつ )まで汝我を 容 ( ゆる )したまわざるや。 息をする間だに与えたまわざるや。 我罪を犯したるか。 我汝に何をなしたるか、おお人を 護 ( まも )らせたまう者よ。 …… すべては同じきに帰す。 神は善と悪とを共に苦しめたまう。 …… よしや我彼が御手に殺さるるとも、我はなお、彼に 希 ( のぞ )みをかけざるを得ざるなり。 …… かかる無限の悲しみが不幸な者にたいしてなす恵みを、卑俗な心の人々は理解することができない。 すべて偉大なるものは善良である。 悲しみもその極度に達すれば、救済に到達する。 人の魂を 挫 ( くじ )き悩まし根柢から破壊するものは、 凡庸 ( ぼんよう )なる悲しみや喜びである。 失われた快楽に別れを告げる力もなく、あらゆる卑劣な行ないをして新たな快楽を求めんとひそかにたくらむ、利己的な浅薄な苦しみである。 クリストフは古い書物から立ちのぼる 苛辣 ( からつ )な 息吹 ( いぶ )きに、元気づけられた。 シナイの風が、 寂寞 ( せきばく )たる 曠野 ( こうや )と力強い海との風が、 瘴癘 ( しょうれい )の気を吹き払った。 クリストフの熱はとれた。 彼はずっと安らかにふたたび床について、翌日まで一息に眠った。 眼を覚ました時には、もう昼になっていた。 室の醜さがさらにはっきり眼についた。 自分の惨めさと孤独さとが感ぜられた。 しかし彼はそれらをまともにながめやった。 落胆は消えていた。 もう男らしい 憂鬱 ( ゆううつ )が残ってるのみだった。 彼はヨブの言葉をくり返した。 よしや我神の御手に殺さるるとも、 我はなお、 神に 希 ( のぞ ) みをかけざるを得ざるなり。 …… 彼は立ち上がった。 そして泰然と戦闘を開始した。 彼はすぐその朝から、 奔走 ( ほんそう )を始めようと決心した。 パリーにはただ二人の知人があるばかりだった。 二人とも同国の青年だった。 一人は旧友のオットー・ディーネルで、マイー町でラシャ商をしてる 叔父 ( おじ )の下に働いていた。 一人はシルヴァン・コーンというマインツの若いユダヤ人で、ある大書店に雇われてるはずだった。 しかし書店の所在地は不明だった。 彼は十四、五歳のころ、ディーネルとたいへん親しかった(第二巻朝参照)。 恋愛に先立つものでしかも恋愛をすでに含んでいる幼き友情を、彼はディーネルにたいしていだいていた。 ディーネルもまた彼を愛していた。 この内気で 几帳面 ( きちょうめん )な大子供は、クリストフの狂暴な独立 不羈 ( ふき )の精神に魅せられてしまって、 滑稽 ( こっけい )なやり方でそれをまねようとつとめていた。 クリストフはそれにいらだちもし得意でもあった。 そのころ彼らは、驚天動地の計画をたてていた。 その後ディーネルは、商業教育を受けるために旅行をした。 それきり二人は再会もしなかった。 しかしクリストフは、ディーネルが几帳面に交際をつづけてる土地の人々から、彼の消息を時々聞き知っていた。 シルヴァン・コーンとクリストフとの間は、まったく違った関係だった。 二人は 悪戯 ( いたずら )盛りのころから、小学校で知り合った。 子猿 ( こざる )みたいなコーンはクリストフに悪戯をしかけた。 クリストフはその 穽 ( おとしあな )にかかったのを知ると、ひどい返報をしてやった。 コーンは抵抗しなかった。 ころがされるままになって、顔を 塵 ( ちり )の中にこすりつけながら泣きまねをした。 さてクリストフは、早くに旅館から出かけた。 途中で 珈琲店 ( カフェー )に立ち寄って朝食をした。 彼はその自尊心にもかかわらず、フランス語を話す機会を少しも失うまいと心がけた。 おそらく幾年もパリーで生活しなければなるまいから、できるだけ早くその生活状態に順応して、 嫌悪 ( けんお )の情を克服しなければならなかったのである。 それで彼は、彼のめちゃな言葉を聞いて 給仕 ( ボーイ )が 嘲笑 ( ちょうしょう )的な様子をしたのを、ひどく気に病みながらも、 強 ( し )いて平気でいようとつとめた。 そして元気を失わないで、なっていない文句を重々しく組み立てて、向こうにわかるまで 執拗 ( しつよう )にくり返した。 彼はディーネルを捜し始めた。 例によって彼は、頭に一つの考えがあると、周囲のことは何一つ眼に止まらなかった。 初めて歩き回ってみると、パリーは古い乱雑な町であるという印象をしか得なかった。 彼は元来、一つの新しい力の 驕慢 ( きょうまん )が漂っているのが感ぜられる、ごく古いとともにごく若いドイツ新帝国の町々に慣れていた。 そして今パリーから、不快な驚きを得た。 普通選挙の恩恵に浴しながらも、古い 賤民 ( せんみん )的な素質を脱しきらないでいる、中世都市の遺物かと思われた。 前日からの霧は、じめじめした細雨に変わっていた、もう十時過ぎなのに、多くの店にはまだガス燈がついていた。 クリストフはヴィクトアール広場に接している街路の網目に迷い込んだ後、ようやくバンク街の店を尋ねあてた。 中にはいりながら彼は、長い薄暗い店の奥に、多くの店員に交って 大梱 ( おおこり )を並べてるディーネルの姿を、見かけたように思った。 しかし少し近眼だったので、めったに誤ることのない直覚力をそなえてはいたが、視力には自信がなかった。 迎え出た店員に名前を告げると、奥の人々の間にちょっとざわめきが起こった。 何かひそかに相談し合った後、一人の若い男がその群れから出て来て、ドイツ語で言った。 「ディーネルさんはお出かけになっています。 」 「出かけましたって? なかなか帰りませんか。 」 「ええ、たぶん。 出かけられたばかりですから。 」 クリストフはちょっと考えた。 それから言った。 「構いません。 待ちましょう。 」 店員はびっくりして、急いでつけ加えた。 「二、三時間たたなければお帰りになりますまい。 」 「なに、それくらいなんでもありません。 」とクリストフは平然と答えた。 「私はパリーでなんの用もありません。 場合によっては一日待っていても平気です。 」 若い店員はそれを冗談だと思って 茫然 ( ぼうぜん )と彼をながめた。 しかしクリストフはもうその男のことなんか考えていなかった。 往来の方に背を向けて 悠々 ( ゆうゆう )と 片隅 ( かたすみ )にすわった。 そこに腰を落ち着けてしまうつもりらしかった。 店員は店の奥にもどっていって、仲間の者らと耳打ちをした。 彼らはおかしな 狼狽 ( ろうばい )の様子で、この邪魔者を追い払う方法を講じた。 不安な数分が過ぎてから、店の 中扉 ( なかとびら )が開いた。 ディーネル氏が現われた。 大きな赤ら顔で、 頬 ( ほお )と 頤 ( あご )とに紫色の 傷痕 ( きずあと )があり、赤い口 髭 ( ひげ )を 生 ( は )やし、髪を平らになでつけて横の方で分け、金の鼻 眼鏡 ( めがね )をかけ、シャツの胸には金ボタンをつけ、太い指に指輪をはめていた。 帽子と 雨傘 ( あまがさ )とを手にしていた。 彼は何気ない様子でクリストフの方へやっていった。 クリストフは 椅子 ( いす )の上にぼんやりしていたが、驚いて飛び上がった。 彼はディーネルの両手を取り、 大仰 ( おおぎょう )な親しさで叫びだした。 店員らは忍び笑いをし、ディーネルは顔を赤らめた。 この堂々たる人物が、クリストフと昔の関係をふたたびつづけたくないと思ったのには、種々の理由があった。 彼は最初から威圧的な態度をしてクリストフを親しませないつもりだった。 しかしクリストフの眼つきを見るや否や、その面前では自分がふたたび小さな少年になったような気がした。 それが腹だたしくもあり恥ずかしくもあった。 彼は急いで口早に言った。 「私の室に来ませんか。 ……その方がよく話しができていいでしょう。 」 クリストフはそういう言葉のうちに、ディーネルの例の用心深さをまた見出した。 しかし、その室にはいって 扉 ( とびら )を注意深く 閉 ( し )め切っても、ディーネルはなかなか彼に 椅子 ( いす )をすすめようともしなかった。 彼はつっ立ったまま、へまに重々しく弁解しだした。 「たいへん愉快です……私は出かけるところでした……皆はもう私が出かけたことと思って……だが出かけなければならないんです……ちょっとしか 隙 ( ひま )がありません……さし迫った面会の約束があるので……。 」 クリストフは、店員が先刻 嘘 ( うそ )をついたことを悟り、その嘘は自分を追い払うためにディーネルとも相談されたものであることを悟った。 かっと血が頭に上った。 しかし我慢をして冷やかに言った。 「何も急がなくたっていいよ。 」 ディーネルは身体をぎくりとさした。 そういう無遠慮が 癪 ( しゃく )にさわったのだった。 「なに、急がなくってもいいって!」と彼は言った。 「用があるのに……。 」 クリストフは相手をまともにながめた。 「なあに。 」 大きな青年は眼を伏せた。 彼はクリストフにたいして自分がいかにも 卑怯 ( ひきょう )だという気がしたので、クリストフを憎んだ。 そして 不機嫌 ( ふきげん )そうにつぶやきだした。 クリストフはそれをさえぎった。 「こうなんだ、」と彼は言った、「君も知ってるだろう……。 」 (この 君というような言葉使いにディーネルは気を悪くしていた。 彼は最初の一言から、クリストフとの間に あなたという 垣根 ( かきね )をこしらえようと、いたずらに努力していた。 ) 「僕がこちらへやって来た訳を。 」 「ええ、知っている。 」とディーネルは言った。 (クリストフの逃亡とその追跡とを、彼は通信によって知っていた。 ) 「それでは、」とクリストフは言った、「僕が遊びに来たのでないことも知ってるだろう。 僕は逃げなきゃならなかったんだ。 ところが今無一物なんだ。 生活しなくちゃならないんだ。 」 ディーネルは要求を待っていた。 ) 「ああ、それは困ったな、」と彼はもったいぶって言った、「実に困った。 こちらでは生活が容易じゃない。 万事高い。 僕のところでも何かと入費が多い。 そしてあの店員全部が……。 」 クリストフは 軽蔑 ( けいべつ )の様子でそれをさえぎった。 「僕は君に金銭を求めやしないよ。 」 ディーネルは 狼狽 ( ろうばい )した。 クリストフはつづけて言った。 「景気はどうだい? 得意があるかね。 」 「ああ、ああ、悪くはない、おかげさまで……。 」とディーネルは用心深く言った。 (彼は半信半疑だった。 ) クリストフは激しい眼つきを注いで、言い進んだ。 「君はドイツの移住者をたくさん知ってるかい?」 「ああ。 」 「では、僕のことを 吹聴 ( ふいちょう )してくれたまえ。 皆音楽は好きなはずだ。 子供があるだろう。 僕は 稽古 ( けいこ )をしてやるつもりだ。 」 ディーネルは当惑の様子をした。 「何かあるのかい。 」とクリストフは言った。 「そんなことをするくらいには十分僕に音楽の心得があることを、君は疑ってでもいるのかい。 」 彼はあたかも自分の方で世話してやるかのような調子で、世話を求めてるのだった。 ディーネルは、向こうに恩を感じさせる喜びのためにしか何かをしてやりたくなかったので、もう彼のためには指一本も動かしてやるものかと思っていた。 「君はそれには十分すぎるほど音楽を心得てはいるが……ただ……。 」 「なんだい?」 「それはむずかしいよ、たいへん困難だよ、ねえ、君の境遇では。 」 「僕の境遇?」 「そうだ……つまりあの事件が、あの表 沙汰 ( ざた )が……もしあれが知れ渡ると……僕にはどうも困難だ。 いろいろ掛り合いを受けることになるかもしれない。 」 彼はクリストフの顔が怒りにゆがんでくるのを見て言いやめた。 そして急いで言い添えた。 「僕のことじゃない……僕は恐れはしない……。 ああ、僕一人だけだったら!…… 叔父 ( おじ )がいるのでね……君も知ってるとおり、この家は叔父のものなんだ。 叔父に言わなけりゃ僕には何にもできない……。 吝嗇 ( りんしょく )と見栄とが彼のうちで争っていた。 クリストフに恵んでやりたくはあったが、なるべく安価に済ましたかった。 ) 「五十フランばかりでどうだい。 」 クリストフは 真赤 ( まっか )になった。 恐ろしい様子でディーネルの方へ歩み寄った。 ディーネルは急いで 扉 ( とびら )のところまでさがり、それを開いて、人を呼ぼうとした。 しかしクリストフは、充血した顔を彼にさしつけただけで我慢した。 「豚め!」と彼は鳴り響く声で言った。 彼はディーネルを押しのけ、店員らの間を通って、外に出た。 敷居のところで、 嫌悪 ( けんお )の 唾 ( つば )をかっと吐いた。 彼は街路を 大跨 ( おおまた )に歩いていった。 怒りに酔っていた。 その酔いも雨に 覚 ( さ )まされた。 どこへ行くのか? それを彼は知らなかった。 知人は一人もなかった。 考えようと思って、ある書店の前に立ち止まった。 そして 棚 ( たな )の書物を、見るともなくながめた。 ある書物の表紙に、出版屋の名前を見てはっとした。 なぜだかみずからいぶかった。 やがて彼は、シルヴァン・コーンの雇われてる書店の名であることを思い出した。 彼は所番地を書き取った。 ……しかしそれが何になろう? もとより尋ねてなんか行くものか……。 なぜって?……友人だったあのディーネルの 奴 ( やつ )でさえ、ああいう待遇をしたところを見ると、昔さんざんいじめられて憎んでるに違いない 此奴 ( こいつ )から、何が期待されよう? 無駄 ( むだ )に屈辱を受けるばかりではないか。 彼の血潮は反発していた。 「 俺 ( おれ )は遠慮する必要はない。 くたばるまではなんでもやってみなけりゃいけない。 」 一つの声が彼のうちで言い添えた。 「そして、くたばるものか。 」 彼はふたたび所番地を確かめた。 そしてコーンのところへやって行った。 少しでも 横柄 ( おうへい )な態度に出たら、すぐにその顔を張りつけてやる決心だった。 書店はマドレーヌ町にあった。 クリストフは二階の客間に上がって、シルヴァン・コーンを尋ねた。 給仕が、「知らない」と答えた。 クリストフはびっくりして発音が悪かったのだと思い、問いをくり返した。 しかし給仕は、注意深く耳を傾けた後、家にそんな名前の者はいないと断言した。 クリストフは面くらって、 詫 ( わ )びを言い、出かけようとした。 その時廊下の奥の 扉 ( とびら )が 開 ( あ )いた。 見ると、コーンが一人の婦人を送り出していた。 ちょうど彼はディーネルから 侮蔑 ( ぶべつ )を受けたばかりのところだったので、皆が自分を馬鹿にしているのだと思いがちだった。 それで、コーンは自分が来るのを見て、いないと言えと給仕に言いつけたのだと、彼は 真先 ( まっさき )に考えた。 そんな浅はかなやり方に、堪えられなかった。 そして憤然と帰りかけた。 すると呼ばれてる声が耳にはいった。 コーンは鋭い眼つきで、遠くから彼を認めたのだった。 そして 唇 ( くちびる )に笑いをたたえ、両手を広げ、 大袈裟 ( おおげさ )な喜びをありったけ示して、駆け寄ってきた。 シルヴァン・コーンは、背の低い太った男で、アメリカ風にすっかり 髭 ( ひげ )を 剃 ( そ )り、赤すぎる顔色、黒すぎる髪、広い厚ぼったい顔つき、 脂 ( あぶら )ぎった顔だち、 皺 ( しわ )寄った 穿鑿 ( せんさく )的な小さい眼、少しゆがんだ口、重々しい意地悪げな微笑をもっていた。 華奢 ( きゃしゃ )な服装をして、身体の欠点を、高い肩や大きい 臀 ( しり )を、隠そうとつとめていた。 そういう欠点こそ、彼の自尊心をなやます唯一のものだった。 身長がもう二、三寸も伸びて身体つきがよくなることなら、後ろから 足蹴 ( あしげ )にされてもいとわなかったろう。 その他の事においては、彼は自分自身にしごく満足していた。 自分に 敵 ( かな )う者はないと思っていた。 実際すてきな男だった。 ドイツ生まれの小さなユダヤ人でありながら、のろまな太っちょでありながら、パリーの優雅な風俗の記者となり絶対批判者となっていた。 社交界のつまらない 噂種 ( うわさだね )を、複雑な巧妙をきわめた筆致で書いていた。 彼は人から冷やかされていたが、それも成功の妨げにはならなかった。 パリーでは 滑稽 ( こっけい )は身の破滅だと言う人々は、少しもパリーを知らない 輩 ( やから )である。 身の破滅どころか、かえってそのために生き上がってる者がいる。 パリーでは、滑稽によってすべてが得られる、光栄をも幸運をも得られる。 シルヴァン・コーンは、そのフランクフルト式な虚飾のために毎日かれこれ言われても、もはやそんなことは平気だった。 彼は重々しい調子と頭のてっぺんから出る声とで口をきいていた。 「やあ、これは驚いた!」と彼は快活に叫びながら、あまり狭い皮膚の中につめこまれてるかと思われる指の短いぎこちない手で、クリストフの手を取って打ち振った。 なかなかクリストフを放しそうになかった。 最も親しい友人にめぐり会ったような調子だった。 クリストフはあっけにとられて、コーンから 揶揄 ( からか )われてるのではないかと疑った。 しかしコーンは揶揄ってるのではなかった。 なおよく言えば、もし揶揄ってるのだとしてもそれはいつもの伝にすぎなかった。 コーンは少しも恨みを含んではいなかった。 恨みを含むにはあまりに利口だった。 クリストフからいじめられたことなんかは、もう久しい以前に忘れてしまっていた。 もし思い出したとしてもほとんど気にしなかったろう。 新しい重大な職業を帯びパリー風の華美な様子をしているところを、旧友に見せてやる機会を得て大喜びだった。 驚いたと言うのも嘘ではなかった。 クリストフが訪れて来ようなどとは、最も思いがけないことだった。 彼はきわめて 炯眼 ( けいがん )だったので、クリストフの訪問には一つの利害関係の目的があることを予見してはいたが、それは自分の力にささげられた敬意だという一事だけで、すでに喜んで迎えてやる気になったのである。 「国から来たのかい。 お 母 ( かあ )さんはどうだい。 」と彼は 馴 ( な )れ馴れしく尋ねた。 他の時だったらそれはクリストフの気にさわったかもしれないが、しかし他国の都にいる今では、かえってうれしい感じを与えた。 「だがいったいどうしたんだろう、」とクリストフはまだ多少疑念をいだいて尋ねた、「先刻コーンさんという人はいないという返辞だったが。 」 「コーンさんはいないよ。 」とシルヴァン・コーンは笑いながら言った。 「僕はコーンとはいわないんだ。 ハミルトンというんだ。 」 彼は言葉を切った。 「ちょっと失敬。 」と彼は言った。 彼は通りかかった一人の婦人の方へ行って、握手をして、 笑顔 ( えがお )を見せた。 それからまたもどって来た。 そして、あれは激しい肉感的な小説で有名になった 閨秀 ( けいしゅう )作家だと説明した。 その近代のサフォーは、胸に紫色の飾りをつけ、種々の模様をちらし、真白に塗りたてた快活な顔の上に、 艶 ( つや )のいい金髪を束ねていた。 フランシュ・コンテの 訛 ( なま )りがある男らしい声で、 気障 ( きざ )なことを言いたてていた。 コーンはまたクリストフに種々尋ねだした。 国の人たちのことを残らず尋ね、だれだれはどうなったかと聞き、すべての人を記憶してることを 追従 ( ついしょう )的に示していた。 クリストフはもう反感を忘れてしまっていた。 感謝を交えた懇切な態度で答え、コーンにとってはまったく無関係な 些細 ( ささい )な事柄をやたらに述べた。 コーンはそれをふたたびさえぎった。 「ちょっと失敬。 」と彼はまた言った。 そして他の婦人客へ 挨拶 ( あいさつ )に行った。 「ああそれじゃあ、」とクリストフは尋ねた、「フランスには婦人の作家ばかりなのか。 」 コーンは笑い出した。 そしてしたり顔に言った。 「フランスは女だよ、君。 君がもし成功したけりゃ、女を利用するんだね。 」 クリストフはその説明に耳を貸さないで、自分だけの話をつづけた。 コーンはそれをやめさせるために尋ねた。 「だが、いったいどうして君はこちらへ来たんだい。 」 「なるほど、」とクリストフは考えた、「この男は何にも知らないんだな。 だからこんなに親切なんだ。 知ったらがらりと変わってしまうだろう。 」 彼は 昂然 ( こうぜん )と語りだした、自分を最も難境に陥らせるかもしれない事柄を、すなわち、兵士らとの 喧嘩 ( けんか )、自分が受けた追跡、国外への逃亡などを。 コーンは腹をかかえて笑った。 「すてきだ」と彼は叫んでいた、「すてきだ! 実に愉快な話だ!」 彼は熱心にクリストフの手を握りしめた。 官憲の鼻をあかしてやったその話を、この上もなく面白がっていた。 話の主人公らを知っているだけになお面白がっていた。 その 滑稽 ( こっけい )な方面を眼に見るような気がしていた。 「ところで、」と彼はつづけて言った、「もう 午 ( ひる )過ぎだ。 つき合ってくれたまえ……いっしょに食事をしよう。 」 クリストフはありがたく承知した。 彼はこう考えていた。 「これは確かにいい人物だ。 俺の思い違いだった。 」 二人はいっしょに出かけた。 途中でクリストフは思い切って要件をもち出した。 「君にはもう僕の境遇がわかってるだろう。 僕は世に知られるまで、さしあたり仕事を、音楽教授の口でも、求めに来たんだが。 僕を推薦してくれないかね。 」 「いいとも!」とコーンは言った。 「望みどおりの人に推薦しよう。 こちらで僕はだれでも知っている。 なんでもお役にたとう。 」 彼は自分のもっている信用を示すのがうれしかった。 クリストフは感謝にくれた。 心から大きな重荷が取れた心地がした。 食卓につくと彼は、二日も前から物を食べなかったかのようにむさぼり食った。 首のまわりにナフキンを結えつけて、ナイフですぐ食べた。 コーンのハミルトンは、そのひどい食い方や 田舎 ( いなか )者めいた様子に、ごく不快を感じた。 また自慢にしてる事柄をあまり注意してもくれないことに、同じく不満を覚えた。 彼は自分の 艶福 ( えんぷく )や幸運の話をして、相手を煙に巻いてやろうとした。 しかしそれは 無駄 ( むだ )な骨折りだった。 クリストフは耳を傾けないで、無遠慮に話をさえぎった。 彼は舌がほどけてきて 馴 ( な )れ馴れしくなっていた。 謝恩の念で心がいっぱいになっていた。 そして未来の抱負を率直にうち明けながら、コーンを困らした。 ことに、テーブルの上から無理にコーンの手を取って、心こめて握りしめたので、コーンをさらにやきもきさした。 しまいには、感傷的なことを言い出して、故国にいる人々や 父なるラインのために、ドイツ流の祝杯を挙げたがったので、コーンのいらだちは極度に達した。 コーンは彼が今にも歌い出そうとするのを見てたまらなくなった。 隣席の人々は二人の方を皮肉そうにながめていた。 コーンは急な用務があるという口実を設けて立ち上がった。 クリストフはそれにすがりついた。 いつ推薦状をもらって、その家へやって行き、 稽古 ( けいこ )を始めることができるか、それを知りたがった。 「取り計らってあげよう。 今日、今晩にでも。 」とコーンは約束した。 「すぐに話をしてみよう。 安心したまえ。 」 クリストフは 執拗 ( しつよう )だった。 「いつわかるだろう?」 「 明日 ( あした )……明日……または明後日。 」 「結構だ。 明日また来よう。 」 「いやいや、」とコーンは急いで言った、「僕の方から知らせよう。 君を煩わさないように。 」 「なあに、煩すも何もあるものか。 そうだろう。 それまで僕は、パリーで何にも用はないんだ。 」 「おやおや!」とコーンは考えた。 そして大声に言い出した。 「いや、手紙を上げる方がいい。 しばらくは面会ができないかもしれない。 宿所を知らしてくれたまえ。 」 クリストフは宿所を彼に書き取らした。 「よろしい。 明日手紙を上げよう。 」 「明日?」 「明日だ。 間違いないよ。 」 彼はクリストフの握手からのがれて逃げ出した。 「あああ!」と彼は思っていた。 「たまらない奴だ。 」 彼は店に帰ると、「あのドイツ人」が尋ねて来たら留守にするんだと、給仕に言いつけた。 クリストフは 汚 ( きたな )い巣へもどった。 心動かされていた。 「親切な男だ!」と彼は思っていた。 「俺は彼にたいして悪いことをしたことがある。 だが彼は俺を恨んでもいない!」 そういう悔恨の念が重く心にかかった。 昔悪く思ったことが今いかに心苦しいか、昔ひどく当たったことを許してもらいたいと今どんなに思ってるか、コーンへ書き送ろうとした。 昔のことを思うと眼に涙が 湧 ( わ )いてきた。 しかし彼にとっては、一通の手紙を書くのは、大譜表を書くに劣らないほどの大仕事だった。 そして、宿屋のインキやペンを、それは実際ひどいものではあったが、盛んにののしり散らした後、四、五枚の紙を書きなぐり消したくり引き裂いた後、もう我慢ができなくなってすべてを 放 ( ほう )り出した。 その日の残りの時間はなかなか過ぎなかった。 しかしクリストフは、寝苦しい昨晩と午前中の奔走とにひどく疲れていたので、 椅子 ( いす )にかけたままついにうとうととした。 夕方ようやくわれに返って、すぐに寝床についた。 そして十二時間ぶっとおしにぐっすり眠った。 翌日八時ごろから、彼は約束の返事を待ち始めた。 彼はコーンの 几帳面 ( きちょうめん )さを少しも疑わなかった。 コーンが店へ出る前にこの宿へ寄るかもしれないと思って、一歩も外に踏み出さなかった。 午 ( ひる )ごろになると、室をあけないために、下の飲食店から朝食を取り寄せた。 それから、コーンが食事後にやって来るだろうと思って、ふたたび待ってみた。 室の中を歩き、腰をおろし、また歩き出し、階段を上ってくる足音が聞こえると、 扉 ( とびら )を開いてみたりした。 待ち遠しさをまぎらすためにパリーのうちを散歩してみる気も、さらに起こらなかった。 彼は寝台の上に横たわった。 思いはたえず老母の方へ向いていった。 彼は彼女にたいして、限りない愛情と見捨てた悔恨とを感じた。 しかし手紙は出さなかった。 どういう地位を見出したか知らせ得るまで待つことにした。 二人はたがいに深い愛情をいだいていたにもかかわらず、愛してることだけを単に告げるような手紙を書くことは、どちらも考えていなかったに違いない。 手紙というものは、はっきりした事柄を告げるためのものであった。 室は往来から隔たってはいたけれど、静けさのうちにはパリーのどよめきがこもっていた。 家は揺れていた。 前日と同じような一日が、また始まった。 三日目になって、クリストフは好んで 蟄居 ( ちっきょ )していたのが腹だたしく思えて、外出しようと決心した。 しかしパリーには、最初の晩以来、一種の本能的な 嫌気 ( いやけ )を覚えていた。 彼は何にも見たくなかった。 なんらの好奇心も起こらなかった。 自分の生活にあまり心を奪われていたので、他人の生活を見ても面白くなかった。 過去の記念物にも、都会の塔碑にも、心ひかれなかった。 それで彼は、一週間以内にはコーンの 許 ( もと )へ行くまいときめていたものの、外へ出るや否や非常に退屈して、まっすぐにコーンのところへ行った。 言いつけられていた給仕は、ハミルトン氏は所用のためパリーから出かけたと告げた。 クリストフにとっては一打撃だった。 彼は口ごもりながら、いつハミルトン氏は帰るのかと尋ねた。 給仕はいい加減に答えた。 「十日ばかりしましたら。 」 クリストフは 駭然 ( がいぜん )として家に帰った。 その後毎日室に閉じこもった。 仕事にかかることができなかった。 彼は切りつめた生活法を 守 ( まも )った。 ただ夕方だけ、夕食をしに階下の飲食店へ降りて行った。 そこでは「プロシャ人」とか「 漬菜 ( シュークルート )」とかいう名前で、早くも客の間に知れ渡ってしまった。 それも 漠然 ( ばくぜん )と名前を知ってるだけだった。 十年も前に死んでる人さえあった。 彼はそういう人々に、面会を求めた。 綴字 ( つづりじ )はめちゃくちゃだったし、文体はドイツで習慣となってる、長たらしい語位転換と儀式張った形式とで飾られていた。 彼は書簡を「フランスのアカデミー院」へ贈った。 一週間後に、クリストフはまた書店へ出かけた。 このたびは偶然に助けられた。 入口で彼は、出かけようとするシルヴァン・コーンにぶっつかった。 コーンはつかまったのを見て顔を渋めた。 しかしクリストフはうれしさのあまり、その渋面に気づかなかった。 彼は例のうるさい調子で、コーンの両手を取り、 々 ( きき )として尋ねた。 「旅に行ってたそうだね。 面白かったかい。 」 コーンはうなずいたが、しかしその顔は和らいでいなかった。 クリストフは言いつづけた。 「僕が来たのは……わかってるだろう……。 話はどうだった?……え、どういうふうだい。 僕のことを言ってくれたろうね。 返事はどうだった。 」 コーンはますます顔を渋めた。 クリストフは様子ありげなその態度に驚いた。 まるで別人のようだった。 「君のことは話してみたよ。 」とコーンは言った。 「だがまだ結果はわからない。 隙 ( ひま )がなかったんだ。 君に会った時から実に忙しかった。 用事がたくさん頭につかえているんだ。 どうして片付けていいかわからないほどだ。 まったくやりきれない。 病気にでもなりそうだ。 」 「気分がすぐれないのかい。 」とクリストフは気づかわしい調子で尋ねた。 コーンは 嘲 ( あざけ )り気味の一 瞥 ( べつ )を注いで答えた。 「まったくいけない。 この数日へんてこだ。 非常に苦しい気持がする。 」 「そりゃたいへんだ!」とクリストフは彼の腕を取りながら言った。 「ほんとに用心したまえ。 身体を休めなけりゃいけないね。 僕まで余計な心配をかけて、実に済まない。 そう言ってくれりゃよかったのに。 ほんとにどんな気持だい?」 彼が悪い口実をもあまり 真面目 ( まじめ )に取ってるので、コーンは愉快なおかしさがこみ上げてくるのをつとめて押し隠しながらも、相手の 滑稽 ( こっけい )な 純朴 ( じゅんぼく )さに気が折れてしまった。 そのうえコーンはまた、自分一身のことをクリストフが心配してくれるのを、感動せずにはいられなかった。 彼は世話をしてやりたい気持になった。 「ちょっと思いついたことがあるんだがね。 」と彼は言った。 「 稽古 ( けいこ )の口があるまで、楽譜出版の方の仕事をしないかね。 」 クリストフは即座に承知した。 「いいことがある。 」とコーンは言った。 「ある大きな楽譜出版屋の重立った一人で、ダニエル・ヘヒトという男と、僕は懇意にしてる。 それに紹介しよう。 何か仕事があるだろう。 僕は君の知るとおり、その方面のことは何にもわからない。 しかしあの男はほんとうの音楽家だ。 君なら訳なく話がまとまるだろう。 」 二人は翌日の会合を約した。 コーンはクリストフに恩をきせて追っ払ったので、悪い気持はしなかった。 翌日、クリストフはコーンの店へ誘いに来た。 彼はコーンの勧めによって、ヘヒトへ見せるために自分の作曲を少しもって来た。 二人はヘヒトを、オペラ座近くの楽譜店に見出した。 二人がはいって来るのを見ても、ヘヒトは 傲然 ( ごうぜん )と構えていた。 コーンの握手へは冷やかに指先を二本差し出し、クリストフの儀式張った 挨拶 ( あいさつ )へは答えもしなかった。 そしてコーンの求めによって、二人を従えて隣りの室へはいった。 二人にすわれとも言わなかった。 火のない暖炉にもたれて壁を見つめたままつっ立っていた。 ダニエル・ヘヒトは、四十年配の背の高い冷静な男で、きちんと服装を整え、いちじるしくフェーニキア人の特長を有し、 怜悧 ( れいり )で不愉快な様子、渋めた顔つき、黒い毛、アッシリアの王様みたいな長い角張った 頤髯 ( あごひげ )をもっていた。 ほとんど真正面に人を見ず、冷やかなぶしつけな話し方をして、 挨拶 ( あいさつ )までが侮辱の言のように響いた。 でもその 横柄 ( おうへい )さはむしろ外面的のものだった。 もちろんそれは、彼の性格のうちにある 軽蔑 ( けいべつ )的なものと相応じてはいたが、しかしなおいっそう、彼のうちの自動的な虚飾的なものから来るのであった。 こういう種類のユダヤ人は珍しくない。 そして世間では彼らのことをあまりよく言わない。 彼らのひどい剛直さは、身体と魂との不治の 頓馬 ( とんま )さ加減に由来することが多いけれども、世間ではそれを 傲慢 ( ごうまん )の 故 ( ゆえ )だとしている。 シルヴァン・コーンは、 気障 ( きざ )な 饒舌 ( じょうぜつ )の調子で 大袈裟 ( おおげさ )にほめたてながら、世話をしようというクリストフを紹介し始めた。 クリストフは冷やかな待遇に度を失って、帽子と原稿とを手にしながら身を揺っていた。 コーンの言葉が終わると、それまでクリストフの存在を気にもかけないでいたようなヘヒトは、 軽蔑 ( けいべつ )的にクリストフの方へ顔を向け、しかもその顔をながめもしないで言った。 「クラフト……クリストフ・クラフト……私はそんな名前をまだ聞いたことがない。 」 クリストフは胸のまん中を 拳固 ( げんこ )でなぐられたようにその言葉を聞いた。 顔が赤くなってきた。 彼は憤然と答えた。 「やがてあなたの耳へもはいるようになるでしょう。 」 ヘヒトは 眉根 ( まゆね )一つ動かさなかった。 あたかもクリストフがそこにいないかのように、泰然と言いつづけた。 「クラフト……いや、私は知らない。 」 自分に知られていないのはくだらない証拠だと考える者が、世にあるが、彼もそういう人物だった。 彼はドイツ語でつづけて言った。 「そしてあなたはライン生まれですね。 ……音楽に関係する者があちらに多いのには、実に驚くほどです。 自分は音楽家だと思っていない者は、一人もないと言ってもいい。 」 彼は冗談を言うつもりであって、悪口を言うつもりではなかった。 しかしクリストフは曲解した。 彼は答え返そうとした。 しかしコーンが先に口を出した。 「ですけれど、」と彼はヘヒトへ言った、「私だけは音楽を少しも知らないことを、認めていただきたいものですね。 」 「それはあなたの名誉ですよ。 」とヘヒトは答えた。 「音楽家でないことをあなたが喜ばれるなら、」とクリストフは冷やかに言った、「残念ですが私はもう用はありません。 」 ヘヒトはやはり横を向きながら、同じ無関心な調子で言った。 「あなたは音楽を書いたことがあるそうですね。 何を書きましたか。 もとより 歌曲 ( リード )でしょう?」 「 歌曲 ( リード )と、二つの 交響曲 ( シンフォニー )と、交響詩や、四重奏曲や、ピアノの組曲や、舞台音楽などです。 」とクリストフはむきになって言った。 「ドイツではたくさん書くものですね。 」とヘヒトは 軽蔑 ( けいべつ )的なていねいさで言った。 この新来の男が、そんなにたくさんの作品を書いていて、しかも自分ダニエル・ヘヒトがそれを知らないだけに、彼はなおいっそう疑念をいだいていた。 「とにかく、」と彼は言った、「あなたに仕事を頼んでもいいです、友人のハミルトンさんの推薦があるので。 ただいまちょうど 青年叢書という 叢書 ( そうしょ )物を作っています。 たやすいピアノの曲を出すのです。 で、シューマンの 謝肉祭を簡単にして、四手や六手や八手に直すことを、あなたにしてもらえましょうか。 」 クリストフは飛び上がった。 「そんなことをさせるんですか、僕に、僕に!……」 その率直な「僕に」という言葉に、コーンは面白がった。 しかしヘヒトは気分を害した様子をした。 「あなたの驚く訳が私にはわからない。 」と彼は言った。 「そうたやすい仕事ではないですよ。 やさしすぎるように思われるなら、なお結構です。 今にわかることです。 あなたはりっぱな音楽家だと自分で言ってるし、私もそう信ずべきですが、しかし、要するに私はあなたを知りません。 」 彼は心の中でこう思っていた。 「こんな元気な奴の口ぶりでは、まるでヨハネス・ブラームスよりりっぱなものが書けるとでもいうようだ。 コーンは笑いながらそれを引き止めた。 「待ちたまえ、まあ待ちたまえ!」と彼は言った。 そしてヘヒトの方へ向いた。 「あなたに判断してもらうために、ちょうど作品を少しもって来てるんです。 」 「そう、」とヘヒトは迷惑そうに言った、「では拝見しましょうか。 」 クリストフは一言も言わないで、原稿を差し出した。 ヘヒトはぞんざいに眼を注いだ。 」 彼は無関心を装いながらも、深い注意を払って読んでいった。 彼はりっぱな音楽家で、自分の職業に明るかった。 がもとよりそれ以上には出ていなかった。 彼は初めの小節を少し読むや否や、相手の真価をすっかり感じた。 そして 軽蔑 ( けいべつ )的な様子で楽譜をめくりながら、口をつぐんでしまった。 楽譜の示してる才能にひどく心を打たれた。 しかし元来の無愛想さのために、またクリストフのやり方に自尊心を害されていたために、それを少しも示さなかった。 彼は一つの音符をも見落とさないで、黙って終わりまで読んだ。 「なるほど、」と彼は保護者的な調子でついに言った、「かなりよく書けている。 」 激しい非難の方がクリストフにはもっと 癪 ( しゃく )にさわらなかったかもしれない。 「そんなことを言ってもらう必要はありません。 」と彼は 激昂 ( げっこう )して言った。 「それでも、」とヘヒトは言った、「この曲を見せる以上は、私の考えを聞くためではないですか。 」 「いやちっとも。 」 「そんなら、」とヘヒトはむっとして言った、「あなたが何を求めに来たのか私にはわからない。 」 「僕は仕事を求めに来たので、他のことは求めません。 」 「先刻言った仕事以外には、当分やっていただきたいこともありません。 あの仕事にしても、たしかにお頼みするかどうかわからない。 お頼みするかもしれないと言っただけです。 」 「他に方法はないのですか、僕のような音楽家を使うのに。 」 「あなたのような音楽家ですって?」とヘヒトは侮辱的な皮肉の調子で言った。 「少なくともあなたに劣らないほどのりっぱな音楽家で、そういう仕事を体面にかかわると思わなかった人がいくらもあります。 いちいち名を 指 ( さ )してもいいですが、今パリーで名を知られてるある人たちは、かえってそれを私に感謝していました。 」 「それは彼らが卑劣だからだ。 」とクリストフは叫び出した。 まともに顔を見なかったり口先だけで物を言ったりするやり方で、僕をへこませるとでも思ってるんですか。 はいって来た時だって、僕の 挨拶 ( あいさつ )に答えもしないで……。 僕に向かってそんな態度をして、あなたはいったいなんです? 音楽家とでも言うんですか。 何か書いたことでもありますか。 ……そして、作曲を生命としてる僕に向かって、作曲の仕方を教えようとでもいうんですか。 ……そして、僕の音楽を読んだあとに、小娘どもを踊らせるために、大音楽家の作品を去勢してくだらないものになすこと以外には、何も頼むような仕事はないというんですか。 ……パリーの者はあなたから甘んじて教えを受けるほど卑劣なら、そういうパリー人を相手になさるがいい。 僕は、そんなことをするよりくたばってしまう方がまだましです。 」 激烈な調子を押えることができなかったのである。 ヘヒトは冷然として言った。 「それはあなたの勝手です。 」 クリストフは 扉 ( とびら )をがたりといわして出て行った。 ヘヒトは肩をそびやかした。 そして、笑ってるシルヴァン・コーンに言った。 「皆と同じように、また頼みに来るようになりますよ。 」 彼は心中ではクリストフをかっていた。 かなり 聡明 ( そうめい )だったから、作品の価値ばかりではなく、また人間の価値を感ずることができるのだった。 クリストフの攻撃的な憤りのもとに、彼は一つの力を見て取っていた。 しかし自尊心の反発があった。 いかなることがあっても自分の方が誤ってるとは承認したくなかった。 クリストフの真価を認めてやりたいという公平な心はもっていたが、少なくとも向こうから頭を下げて来ない以上は、認めてやることができなかった。 彼はクリストフがまたやって来るのを待った。 彼は悲しい悲観思想と人生の経験とによって、困窮のためには人の意志もかならずや卑しくなるということを、よく知っていた。 クリストフは宿に帰った。 憤りは落胆に代わっていた。 万事終わった気がしていた。 当てにしていたわずかな支持も、こわれてしまったのである。 ただにヘヒトばかりではなく、紹介の労を取ってくれたコーンとも、永遠の敵となったのだと疑わなかった。 敵都における絶対の孤独だった。 ディーネルとコーンとのほかには、一人の知人もなかった。 ドイツで 交誼 ( こうぎ )を結んだ美しい女優のコリーヌは、パリーにいなかった。 彼女はまだ他国巡業中で、アメリカに行っていて、こんどは独立でやっていた。 有名になっていたのである。 新聞には彼女の旅の 華々 ( はなばな )しい記事が出ていた。 また彼は、思いがけなくも職を失わせた結果になってる、あの若い家庭教師のフランス婦人については、長い間考えることに 苛責 ( かしゃく )の種となったので、パリーへ行ったら捜し出そうと、幾度みずから誓ったかわからなかった(第四巻反抗参照)。 しかし今パリーへ来てみると、たった一つのことを忘れてるのに気がついた。 それは彼女の姓だった。 どうしても思い出せなかった。 ただアントアネットという名だけしか覚えていなかった。 それにまた、もし思い出すことがあろうとも、こんなにたくさんの人が集まってる中で、一人の若い家庭教師たる彼女をどうして見出せよう! 彼はできるだけ早く、 糊口 ( ここう )の道を立てなければならなかった。 もう五フランしか残っていなかった。 彼は主人へ、でっぷりした飲食店の主人へ、この付近にピアノの 稽古 ( けいこ )を受けそうな人はいないだろうかと、 嫌々 ( いやいや )ながらも思い切って尋ねてみた。 主人は日に一度しか食事をせずにドイツ語を話してるこの宿泊人を、前からあまり尊敬してはいなかったが、一音楽家にすぎないことを知ると、そのわずかな敬意をも失ってしまった。 音楽を 閑人 ( ひまじん )の 業 ( わざ )だと考える古めかしいフランス人だったのである。 彼は馬鹿にしてかかった。 「ピアノですって……。 あなたはピアノをたたくんですか。 結構なことですな。 ……だが、すき好んでそんな商売をやるたあ、どうも不思議ですね。 私にゃどんな音楽を聞いても雨が降るようにしか思えないんですが……。 あとで私にも教えてもらいますかな。 どう思う、君たちは?」と彼は酒を飲んでる労働者らの方へ向いて叫んだ。 彼らは騒々しく笑った。 「きれいな商売だ。 」と一人が言った。 「 汚 ( きたな )かねえよ。 それに、女どもの気に入るからな。 」 クリストフにはまだフランス語がそうよくはわからなかった。 悪口はなおさらだった。 彼はなんと言おうかと考えた。 怒 ( おこ )っていいものかどうかわからなかった。 おかみさんは彼を気の毒に思った。 「まあ、フィリップ、冗談にしてるんだね。 」と彼女は亭主へ言った。 「でもたぶん、だれかあるでしょうよ。 」 「だれだい?」と亭主が尋ねた。 「グラッセの娘さん。 ピアノを買ってもらったっていうじゃないの。 」 「ああ、あの見栄坊どもか。 なるほど。 」 クリストフは肉屋の娘のことだと教えられた。 両親は彼女をりっぱな令嬢に育てたがっていた。 たとい近所の評判になるためばかりにでも、娘が 稽古 ( けいこ )を受けることを承知しそうだった。 宿屋のおかみさんがあっせんしてやろうと約束した。 翌日彼女は、肉屋のおかみさんが会いたがってるとクリストフに知らした。 彼は出かけて行った。 ちょうどおかみさんは、獣の 死骸 ( しがい )のまん中に帳場にすわっていた。 顔 艶 ( つや )のよい 愛嬌 ( あいきょう )笑いのある美しい女で、彼がやって来た訳を知ると、 大風 ( おおふう )な様子をした。 すぐに彼女は報酬の高を尋ねだして、ピアノは気持のよいものではあるが必要なものではないから、たくさん払うわけにはゆかないと急いでつけ加えた。 一時間に一フラン出そうときり出した。 そのあとで彼女は、半信半疑の様子で、音楽をよく心得ているのかとクリストフに尋ねた。 心得てるばかりでなく自分で作りもすると彼が答えると、彼女は安心したらしく、前よりも愛想よくなった。 自分で作るということが彼女の自尊心を喜ばした。 娘が作曲家から 稽古 ( けいこ )を受けてるという 噂 ( うわさ )を、彼女は近所に広めるつもりだった。 翌日クリストフは、肉屋の娘といっしょにピアノについた。 それはギターのような音がする、出物で買った恐ろしい楽器だった。 娘の指は太くて短く、 鍵 ( キー )の上にまごついてばかりいた。 彼女は音と音との区別もできなかった。 退屈でたまらなかった。 初めから彼の眼の前で 欠伸 ( あくび )をやり始めた。 そのうえ彼は、母親の監視や説明を受け、音楽および音楽数育に関する彼女の意見を聞かされた。 すると彼はもう、非常に 惨 ( みじ )めな気持になり、惨めな恥さらしの気持になって、腹をたてるだけの力もなかった。 彼はまた失望落胆に陥った。 ある晩などは食事することもできなかった。 数週間のうちにここまで落ちて来た以上は、今後どこまで落ちてゆくことであろう。 ヘヒトの申し出に反抗したのもなんの役にたったか。 現在甘受してる仕事の方が、さらに堕落したものではなかったか。 ある晩、彼は自分の室で涙にくれた。 絶望的に寝台の前にひざまずいて祈った。 だれに祈ったのか? だれに祈り得たのか? 彼は神を信じていなかった。 神が存在しないことを信じていた。 ……しかし、祈らざるを得なかった。 自己に祈らざるを得なかった。 かつて祈ることのないものは、凡人のみである。 強い魂にも時々その聖殿に隠れる必要があることを、彼らは知らないのである。 クリストフは一日の屈辱からのがれると、心の鳴り渡る沈黙のうちに、自分の永久存在の現前を感じた。 惨めなる生活の波は、彼の下に立ち騒いでも、両者の間には共通なものが何かあったか? 破壊を事とするこの世のあらゆる悩みは、その 巌 ( いわお )にたいして砕け散ったではないか。 クリストフは、あたかも身内に海があるように、動脈の高鳴るのを聞き、一つの声がくり返し言うのを聞いた。 「永遠だ…… 俺 ( おれ )は……俺は。 」 彼はその声をよく知っていた。 記憶の及ぶ限り昔から、彼はいつもその声を聞いてたのである。 ただ時々忘れることがあった。 往々幾月もの間、その力強い単調な 律動 ( リズム )を、意識しないことがあった。 しかし彼は、その声がいつも存在していて、暗夜に怒号する大洋のように、決して響きやまぬことを知っていた。 その音楽のうちに浸ることに、静安と精力とを見出してはくみ取るのだった。 そして慰安を得て 起 ( た )ち上がった。 否、いかほどつらい生活をしていても、少しも恥ずべきではなかった。 顔を赤らめずに自分のパンを食し得るのだった。 かかる代価をもって彼にパンを買わしてる人々こそ、顔を赤らむべきであった。 忍耐だ! やがて時期が来るだろう……。 しかし翌日になると、また忍耐がなくなり始めるのだった。 彼はできるだけ我慢をしてはいたが、ついにある日、馬鹿でおまけに横着なその 女郎 ( めろう )にたいして、 稽古 ( けいこ )中に 癇癪 ( かんしゃく )を破裂さした。 彼女は彼の言葉つきをあざけったり、小意地悪くも彼の言うところと反対のことばかりをしたのである。 クリストフが怒鳴りつけるのにたいして、この馬鹿娘は、金を払ってる男から尊敬されないのを憤りまた恐れて、 喚 ( わめ )きたてて答えた。 打たれたのだと叫んだ。 亭主 ( ていしゅ )の方もやって来て、プロシャの 乞食 ( こじき )めに娘に手を触れさせるものかと言い切った。 クリストフは 憤怒 ( ふんぬ )のあまり 蒼 ( あお )くなり、恥ずかしくなり、亭主や女房や娘を、締め殺すかもしれない気がして、 驟雨 ( しゅうう )を構わず逃げ出した。 宿の者らは、彼が 狼狽 ( ろうばい )してもどって来るのを見ると、すぐ事情をうち明けさした。 隣人一家にたいして好意をもたなかった彼らは、その話を面白がった。 しかし晩になると、ドイツ人の方こそ娘をなぐるような畜生だという 噂 ( うわさ )が、その 界隈 ( かいわい )にくり返し伝えられた。 クリストフは方々の楽譜店に新しい交渉を試みた。 しかしなんの 甲斐 ( かい )もなかった。 彼はフランス人を冷淡な人間だと思った。 そして彼らの乱雑な行動に驚かされた。 傲慢 ( ごうまん )専断な官僚気風に支配された無政府的社会、そういう印象を彼は受けた。 ある晩彼は、奔走の無結果にがっかりして大通りをさまよってると、向こうから来るシルヴァン・コーンの姿を認めた。 仲 違 ( たが )いをしたことと信じていたので、彼は眼をそらして、向こうの知らないうちに通り過ぎようとした。 しかしコーンの方で呼びかけた。 「あの日からどうしてたんだ?」と彼は笑いながら尋ねた。 「君のところへ行こうと思ったが、宿所を忘れたものだからね……。 君、僕は見違えていたよ。 君は実にえらい男だ。 」 クリストフはびっくりしまた多少 極 ( き )まり悪くもなって、相手の顔をながめた。 「僕に 怒 ( おこ )ってはいないのかい。 」 「君に怒るって? 何を 言 ( い )ってるんだ!」 彼は怒るどころか、クリストフがヘヒトをやりこめた仕方を、たいへん愉快がっていた。 おかげで面白い目に会ったのだった。 ヘヒトとクリストフとどちらが道理だか、そんなことは問題でなかった。 彼は自分に与えてくれる面白みの程度によって、人の顔を見てるのだった。 そして、きわめて面白い興味の種を、クリストフのうちに見て取って、それを利用したがっていた。 「会いに来てくれるとよかったんだ。 」と彼はつづけて言った。 「僕は待っていたんだ。 ところで今晩は、どうしてるんだい? 飯を食いに行こう。 もう放さないよ。 ちょうど仲間が集まることになってる。 何人かの芸術家だけで、半月に一度の会合なんだ。 こういう連中も知っておく必要がある。 来たまえ。 僕が紹介してやろう。 」 クリストフは服装がひどいからと断わったが 駄目 ( だめ )だった。 シルヴァン・コーンは彼を引っ張っていった。 二人は大通りのある料理店にはいって、二階へ上がった。 そこには三十人ばかりの青年らが集まっていた。 二十歳から三十歳ばかりの連中で、盛んに議論をしていた。 コーンはクリストフを、ドイツから来た脱獄者だと紹介した。 彼らはクリストフになんらの注意も向けず、熱心な議論を中止しもしなかった。 コーンも来る早々から、その議論に加わりだした。 クリストフはそういうりっぱな連中に 気後 ( きおく )れがして、口をつぐんだまま、懸命に耳を澄ました。 いくら耳を澄ましても、ようやく聞き取り得るのは、「芸術の威厳」とか「著作者の権利」とかいう言葉に交ってる、「トラスト」、「 壟断 ( ろうだん )」、「代価の低廉」、「収入額」などという言葉ばかりだった。 がついに、商業上の問題であることに気づいた。 ある営利組合に属してるらしい幾人かの作家が、事業の独占を争って反対の一組合が設けられるという計画にたいして、憤慨してるのであった。 数名の仲間が、全然敵方へ移った方が利益だと見て裏切ってしまったので、彼らは激怒の絶頂に達しているのであった。 頭をたたき割りかねないような調子で話していた、「……堕落……裏切り……汚辱……売節……」などと。 また他の者らは、現在の作家を攻撃してはいなかった。 印税なしの出版で市場をふさいでる故人を攻撃していた。 ミュッセの作品は近ごろ無版権となったので、あまりに売れすぎるらしかった。 それで、過去の傑作を廉価に 頒布 ( はんぷ )するのは、現存作家の商売品にたいする不公平な競争であって、それに対抗するために、過去の傑作には重税を課するという有効な政府の保護を、彼らは要求していた。 彼らは両方とも議論をやめて、昨晩の興行で某々の作品が得た収入額に耳を傾けだした。 その批評家は正直者であった。 一度約束をするとそれを忠実に果たした。 そういう話の間々に彼らは、たいそうな言葉を口にしていた。 「詩」のことを話したり、「 芸術のための芸術 ( ラール・プール・ラール )」の話をしていた。 騒がしい収入問題の中ではそれが、「 金銭のための芸術 ( ラール・プール・ラルジャン )」と響いていた。 クリストフは、フランス文学の中に新しくはいってきたこの周旋人的な風習に、不快の念を覚えた。 彼は少しも金銭問題がわからなかったので、議論を傾聴するのをやめてしまった。 そしてヴィクトル・ユーゴーの名前が聞こえたので、クリストフは耳をそばだてた。 それは、ユーゴーがその夫人から欺かれたかどうかの問題だった。 彼らは長々と、サント・ブーヴとユーゴー夫人との恋愛を論じ合った。 そのあとで彼らは、ジョルジュ・サンドの多くの情夫やその価値の比較を語りだした。 それは当時の文学批評界の大問題だった。 偉大な人々の家宅探索をし、その 戸棚 ( とだな )を検査し、引き出しの底を探り、 箪笥 ( たんす )をぶちまけた後、批評界はその寝所をまでのぞき込んだ。 国王とモンテスパン夫人との寝台の下に 腹匐 ( はらば )いになったローザン氏の姿勢は、ちょうど批評界が歴史と真実とを 崇 ( たっと )んで取ってる姿勢と同じだった。 この真実の探求においては、彼らは疲れを知らなかった。 彼らは過去の芸術にたいすると同じく、現在の芸術にたいしてもそれを試みていた。 そして正確さにたいする同じ熱情をもって、最も顕著な現代人の私生活を分析した。 普通だれからも知られないようなごく細かな情景にまで、彼らは不思議なほど通じていた。 あたかもその当事者らが率先して、真実にたいする奉仕の念から、正確な消息を世間に提供してるかと思われるほどだった。 クリストフはますます当惑して、隣席の人々と他のことを話そうと試みた。 しかしだれも相手にしてくれなかった。 それでも初めは、ドイツに関する 漠然 ( ばくぜん )たる問いをかけてくれた。 ハウプトマン、ズーデルマン、リーベルマン、ストラウス(それもダヴィドかヨハンかリヒャールトかわからない)、などという幾人かの偉人の名前を、彼らはようやく耳にしてるくらいのもので、そういう人たちのことをも、おかしな取り違えをしはすまいかと恐れて、用心深く話してゆくのであった。 それにまた、彼らがクリストフに尋ねかけるのも、ただ一片の 挨拶 ( あいさつ )からで、好奇心からではなかった。 彼らは少しも好奇心をもっていなかった。 彼の答えにもろくろく注意を払わなかった。 そしてすぐに、他の連中が夢中になってるパリーの問題の方へ、急いで加わっていった。 クリストフはおずおずと、音楽談を試みようとした。 がそれらの文学者中には、一人も音楽のわかる者はいなかった。 内心彼らは、音楽を下級な芸術だと見なしていた。 しかし数年来音楽が成功の度を増してゆくので、ひそかに不快の念をいだいていた。 そして音楽が流行になってるというので、それに興味をもっているらしく 装 ( よそお )っていた。 ことにある新しい 歌劇 ( オペラ )のことを盛んに口にしていた。 その歌劇こそ音楽の初めであり、あるいは少なくも、音楽に一新紀元を画するものであるとまで、唱えかねまじき様子だった。 彼らの無知と軽薄とはそういう考えによく調和して、彼らはもう他のことを知る必要を感じなかった。 その歌劇の作者は、クリストフが初めて名前を聞いたパリー人だったが、ある人々の説によれば、以前に存在しているすべてのものを一新し、あらゆる作を改新し、音楽を改造したのであった。 クリストフは驚いて飛び上がった。 彼は何よりも天才を信じたがってはいた。 しかしながら、一挙に過去を 覆 ( くつがえ )すそういう天才があろうか。 ……馬鹿な! それは 猪 ( いのしし )武者だ。 どうしてそんなことができるものか。 人々は説明に当惑し、またクリストフから 執拗 ( しつよう )に尋ねられるので、仲間じゅうでの音楽家であり音楽の大批評家であるテオフィル・グージャールへうち任せた。 グージャールはすぐに七度音程と九度音程とについて話しだした。 クリストフはその点で彼を追求した。 グージャールの音楽の知識は、スガナレルのラテン語の知識程度だった……。 )カブリキアス、アルキ・チュラム、カタラミュス、シンギュラリテル……ボニュス、ボナ、ボニュム……。 ところがグージャールは、「ラテン語を知っている」男を相手にしていることを見て取って、用心深く美学の 荊棘 ( けいきょく )地に立てこもった。 その攻略不可能な避難所から、問題外のベートーヴェンやワグナーや古典芸術を射撃し始めた。 (フランスでは、ある芸術家をほめる場合には、かならず他派の者すべてを血祭りにするのである。 )過去の因襲を 蹂躙 ( じゅうりん )して新芸術が君臨するのを、彼は宣言した。 パリー音楽のクリストファー・コロンブスによって発見された音楽の言葉のことを、彼は語った。 それは古典の言葉を死語となして、それを全然廃滅させるものであった。 クリストフはその革命的天才にたいする意見を差し控え、作品を見てから何か言うつもりではあったが、人々が音楽全体をささげつくしてるその音楽上のバール神にたいして、疑惑を感ぜざるを得なかった。 また楽匠らにたいするかかる言を聞くと、不快な気がした。 つい先ごろドイツにおいて彼自身、他の多くの楽匠らのことを 云々 ( うんぬん )したのは、もう忘れてしまっていた。 あちらでは芸術上の革命者をもって任じていた彼であり、批判の大胆さと血気に 逸 ( はや )った率直さとで他人の気を害した彼でありながら、フランスで一言発しようとすると、保守的になってるのをみずから感じた。 彼は論争しようとした。 しかも理論を提出はするがそれを証明しようとはしない教養ある人間としてではなく、正確な事実を探求しそれで人を押えつけようとする職業家として、論議するの悪趣味をもっていた。 彼は専門的な説明にはいることをも恐れなかった。 論じながら彼の声は、この選良たちの耳には聞き苦しいほど調子高くなっていった。 彼の議論とそれを支持する熱烈さとが、ともに彼らには 滑稽 ( こっけい )に思われた。 批評家グージャールは、一言の警句を吐いて、その途方もない議論を片付けようとあせった。 クリストフは、自分の言うところを相手が少しも知っていないのに気づいて、 呆然 ( ぼうぜん )としてしまった。 それから、この 衒学 ( げんがく )的な 陳腐 ( ちんぷ )なドイツ人にたいして、人々は一つの意見をたててしまった。 だれも彼の音楽を知らないくせに、くだらない音楽に違いないと判断してしまった。 けれども、ただちに 滑稽 ( こっけい )な点をつかむ 嘲笑 ( ちょうしょう )的な眼をもってる、それら三十人ばかりの青年らの注意は、この奇怪な人物の方へ向けられていた。 彼は手先の大きな 痩 ( や )せ腕を、拙劣に乱暴に振り動かし、金切声で叫びながら、激越な眼つきで見回すのだった。 シルヴァン・コーンは、友人らに茶番を見せてるつもりだった。 話はまったく文学から離れて、婦人の方へ向いていった。 実を言えば、それは同じ問題の両面であった。 なぜなら、彼らの文学中ではほとんど婦人だけが問題だったし、婦人の中ではほとんど文学だけが問題だった。 それほど婦人らは、文学上の事柄や人に関係深かった。 パリーの社交界に名を知られている一人のりっぱな夫人が、自分の情人をしかと引き止めておくために娘と結婚さしたという 噂 ( うわさ )に、彼らの話は落ちていった。 クリストフは 椅子 ( いす )の上でいらだちながら、 渋面 ( じゅうめん )をしていた。 コーンはその様子に気づいた。 そして隣りの者を 肱 ( ひじ )でつつきながら、あのドイツ人が話にやきもきしているところを見ると、きっとその婦人を知りたくてたまらながってるに違いないと、注意してやった。 クリストフは 真赤 ( まっか )になって口ごもっていたが、ついに憤然として、そういう女こそ 鞭 ( むち )打つべきだと言った。 人々はどっと笑い出してその提議を迎えた。 するとシルヴァン・コーンはやさしい声で、花や……何……何……をもってしても、婦人にさわるべきではないと抗議した。 (彼はパリーにおいて、愛の騎士であった。 人々はやかましく異議をもち出した。 クリストフは言った、彼らの 任侠 ( にんきょう )は偽善であって、婦人を最も尊敬しているらしい口をきく者こそ、最も婦人を尊敬しないのが常であると。 そして彼はその破廉恥な話を憤慨した。 人々はそれに反対して、この話には少しも破廉恥な点はなく、自然な点ばかりだと言った。 そしてこの話の女主人公も、ただ優美な婦人であるばかりでなく、卓越した 女性であるということに、皆の意見は一致した。 ドイツ人は叫びたてた。 それなら女性とはどういうものだと思っているのかと、シルヴァン・コーンは 狡猾 ( こうかつ )に尋ねた。 クリストフは 罠 ( わな )を張られているのを感じた。 しかし彼は奮激と確信とに駆られて、それにすっかり引っかかった。 彼はそれらの 嘲弄 ( ちょうろう )的なパリー人に向かって、自分の恋愛観を説明しだした。 しかし適当な言葉が見つからずぐずぐずその言葉を捜し求め、記憶をたどってはほんとうらしからぬ表現をばかりあさり、とんでもないことを言い出しては 聴 ( き )き手を愉快がらせ、しかもこの上なく 真面目 ( まじめ )くさって、笑われてもさらに平気で、泰然と言いつづけた。 いくら彼でも、厚かましく嘲笑されてることに気づかないではなかったが、それを気にかけなかったのである。 ついに彼は、ある文句にはまり込んで、それから脱することができず、テーブルを 拳固 ( げんこ )で一撃し、そして口をつぐんだ。 人々は彼をさらに議論の中へ引き込もうとした。 しかし彼は 眉 ( まゆ )をしかめて、恥ずかしげないらだった様子で、テーブルの上に両肱をつき、もう誘いに乗らなかった。 食ったり飲んだりすること以外には、食事の終わるまで、もはや歯の根をゆるめなかった。 葡萄 ( ぶどう )酒にろくろく口をつけようともしないそれらのフランス人に引き代え、彼はやたらに痛飲した。 隣りの男は意地悪く彼を励まして、たえず杯を満たしてくれたが、彼は何の考えもなくそれを飲み干していた。 彼はかかる暴飲暴食には慣れなかったけれども、ことにそれは数週間の節食の後ではあったけれども、よくもち堪えることができて、人々が望んでるような 滑稽 ( こっけい )な様子は見せなかった。

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ロマン・ローラン Romain Rolland 豊島与志雄訳 ジャン・クリストフ JEAN

異世界で土地を買って農場を 作 ろう 漫画 バンク

クリストフ 賛辞はあとから来るんだ。 キリスト教徒によりもユダヤ人に、いっそう遠慮をしなければならないという法があるものか。 彼らに俺が十分のことをしてやるとすれば、それは彼らにそれだけの値打ちがあるからだ。 俺は彼らに名誉の地位を与えてやらなければならない。 なぜなら彼らは、わが西欧の先頭に立ってそれを占めたからだ。 西欧では今光が消えかかり、彼らのある者はわが文明を滅ぼそうとしかけている。 しかし俺は彼らのうちに、われわれの思想行為の宝の一つたるべき者らがあることを、知らないではない。 この民族のうちには、まだ偉大なものがあることを、俺は知っている。 彼らの多くがもっている、献身の力、 傲慢 ( ごうまん )なる冷静、最善にたいする愛と欲求、 不撓 ( ふとう )の精力、世に隠れたる 執拗 ( しつよう )な労苦、それらをことごとく俺は知っている。 彼らのうちに一つの神があることを、俺は知っている。 それゆえに俺は、その神を否定した奴らを、堕落的な成功と卑しい幸福とのために、彼ら民衆の運動を裏切る奴らを、憎んでいるのだ。 そういう奴らを攻撃するのは、奴らに対抗して彼ら民衆の味方をすることになるのだ。 腐敗したフランス人どもを攻撃することによって、フランスを保護するのと、ちょうど同じことだ。 クリストフ そうだ、ドイツの一音楽家には、お前たちを批判する権利もなければ、お前たちを理解することもできないと、人は言うかもしれない。 たとい彼らが間違ってるとしても、彼らの思想は知るだけの価値がある。 そしてお前たちに役だつかもしれない。 身をかじってる病弊に眼を閉じないこと、民族の生命と名誉とのために戦うという感情から、圧倒されずにかえって激発されること、それが肝要だ。 ……善良なみごとな人々だ! 俺は彼らに心配をかけた。 これからもなおさら心配をかけるだろう。 彼らに許しを願っておく。 そういう人々はいかに苦しんでいることだろう! お前も考えてみるがいい。 いかにわれわれは苦しんだか! そしてまた、ますます重苦しい空気が、腐敗した芸術が、不道徳な卑しい政治が、満足の 笑 ( え )みを浮かべて虚無の 息吹 ( いぶ )きに身を任せる 柔懦 ( じゅうだ )な思想が、日に日に積もってゆくのを見て、われわれとともにいかに多くの者が苦しんだか……。 われわれはたがいに寄り添い、呼吸もできないほど苦しみながら、そういう中にじっとしていたのだ……。 ああ、 幾何 ( いくばく )の辛い年月をいっしょに過ごしてきたことだろう! わが権力者らは、彼らの下にわれわれの青春がもだえた苦悩を、夢にも知らないのだ……。 われわれは抵抗した。 われわれはみずから身を救った……。 そして、今、われわれは他人を救わないでいいだろうか。 こんどは他人が同じ苦しみのうちに陥ってるのを、手を差し出してもやらずに 放 ( ほう )っておいていいだろうか。 否、彼らの運命とわれわれの運命とは結び合わされている。 われわれの仲間はフランスにたくさんいる。 彼らは俺が声高く説くところのことを考えてくれる。 俺は彼らのために説くつもりなのだ。 やがて俺は彼らのことを口にするだろう。 無気力の状態から奮いたってついに 牢獄 ( ろうごく )の壁を 覆 ( くつがえ )すことを、この美しい 捕虜 ( ほりょ )にできさしてやりたい! 彼はおのれの力をも敵の 凡庸 ( ぼんよう )さをも知らないのだ。 ロマン・ローラン [#改丁] 一 秩序のうちの混乱。 だらしのないぞんざいな鉄道駅員。 規則に服従しながら規則に抗言する乗客。 税関吏の好奇心を満足さした後、彼はパリー行きの列車に乗った。 夜の 闇 ( やみ )は雨に 濡 ( ぬ )れた野を 覆 ( おお )うていた。 駅々の荒い燈火は、闇に埋もれてる 涯 ( はて )しない平野の寂しさを、さらに 侘 ( わ )びしくてらし出していた。 行き違う列車はますます数多くなって、その汽笛で空気をつんざき、うとうとしてる乗客の眠りを 覚 ( さ )まさした。 もうパリーに近づいていた。 到着する一時間も前から、クリストフは降りる用意をしていた。 帽子を 眼深 ( まぶか )に 被 ( かぶ )った。 パリーにはたくさんいると聞いていた盗人を気づかって、首のところまで服のボタンをかけた。 幾度も立ったりすわったりした。 網棚 ( あみだな )と腰掛とに幾度もかばんを置き代えた。 そのたびごとにいつもの無器用さから、隣席の客にぶつかってはその 機嫌 ( きげん )を損じていた。 停車場へはいりかけたとたんに、汽車は突然闇の中に止まった。 クリストフは窓ガラスに顔を押しつけて、外を見ようとしたが何も見えなかった。 彼は同乗客の方をふり向いて、話をしかけてもよさそうな、今どこだかということを尋ねてもよさそうな、眼つきを一つ捜し求めた。 しかし彼らは不機嫌な退屈そうな様子で、うとうとしているか、あるいはそういうふうを 装 ( よそお )っていた。 停車の理由を知ろうと身動きする者もいなかった。 クリストフはその不活発さに驚いた。 それらの 倣岸 ( ごうがん )冷静な人々は、彼が想像していたフランス人とは非常に違っていた。 彼は汽車の揺れるたびによろめきながら、ついにがっかりしてかばんの上に腰をおろした。 そしてこんどは自分がうとうとしていると、車室の 扉 ( とびら )が開く音に眼を覚ました……。 パリーだ!……。 隣席の人々は降りかけていた。 彼は人込みに押したり押されたりしながら、また、荷物をもとうと進み出る赤帽をしりぞけながら、出口の方へ進んでいった。 田舎 ( いなか )者のように疑い深くなっていて、自分の品を盗もうとしてる者ばかりのように考えられた。 たいせつなかばんを肩にかついで、 小言 ( こごと )をくっても平気で人込みを押し分けながら、ずんずん歩いていった。 そしてついに、パリーのねばねばした舗石路の上に出た。 彼は自分の荷物のことや、これから選定する住居のことや、馬車の混雑の中に巻き込まれたことなどに、あまり気を取られていたから、何も見ようとは考えなかった。 まず第一の仕事は、室を捜すことだった。 旅館は不足していなかった。 停車場の四方に立ち並んで、その名前がガス文字になって輝いていた。 クリストフはなるべく光の薄いのを捜した。 しかしどれも、彼の財布に適するほど下等ではなさそうだった。 ついに彼はある横丁で、一階が飲食店になってる 汚 ( きた )ない宿屋を見つけた。 文明館という名だった。 チョッキだけのでっぷりした男が、一つのテーブルでパイプを吹かしていた。 クリストフがはいって来るのを見ると、その男は駆け寄ってきた。 彼はクリストフの 下手 ( へた )な言葉が少しもわからなかった。 しかし一目見て、 頓馬 ( とんま )な世慣れないドイツ人だと判断した。 クリストフは彼に荷物を渡すのを拒んで、まるでなっていない言葉で意味を伝えようとしていた。 彼はクリストフを案内して、臭い階段を通り、中庭に面してる風通しの悪い室へ通した。 外の響きが達しない静かな室であることを自慢して、高い宿料を要求した。 クリストフは、向こうの言うことがよくわからなかったし、パリーの生活状態を知らなかったし、肩は荷物で砕けそうになっていたので、すべてを承諾した。 早く一人になりたかった。 しかし一人になるや否や、物品の汚なさにびっくりした。 そして、心に 湧 ( わ )き上がってくる悲しみにふけらないため、にちゃにちゃする 埃 ( ほこり )だらけの水に頭をひたしてから、急いで外に出かけた。 嫌 ( いや )な気持からのがれるために、何にも見も感じもすまいとつとめた。 彼は街路へ降りた。 十月の霧は濃く冷やかだった。 霧の中には、郊外の諸工場の悪臭と都会の重々しい息とが混和してる、パリーの嫌な 匂 ( にお )いがこもっていた。 十歩先はもう見えなかった。 ガス燈の光は、消えかかった 蝋燭 ( ろうそく )の火のように震えていた。 薄暗い中を群集が、ごたごたこみ合って動いていた。 馬車が行き違いぶつかり合って、堤防のように通路をふさぎ交通をせき止めていた。 馬は凍った 泥 ( どろ )の上を 滑 ( すべ )っていた。 御者のののしる声、らっぱの響き、電車の 鉦 ( かね )の音が、耳を 聾 ( ろう )するばかりの 喧騒 ( けんそう )をなしていた。 その音響、その動乱、その臭気に、クリストフはつかみ取られた。 彼はちょっと立ち止まったが、すぐに、あとから来る人々に押され、流れに運ばれていった。 ストラスブール大通りを下りながら、何にも眼にはいらず、へまに通行人へぶつかってばかりいた。 彼は朝から物を食べていなかった。 一歩ごとに 珈琲店 ( カフェー )へ出会ったが、中に立て込んでる群集を見ては、 気後 ( きおく )れがし嫌な心地になった。 彼は巡査に尋ねかけた。 しかし言葉を考え出すのにぐずぐずしていたので、巡査は終わりまで聞いてもくれずに、話の中途で肩をそびやかしながら向こうを向いた。 クリストフは機械的に歩きつづけた。 ある店先に人だかりがしていた。 彼も機械的に同じく立ち止まった。 それは写真や絵葉書の店だった。 シャツ一枚のやまたはシャツもつけない女どもの姿が出ていた。 絵入新聞には 猥褻 ( わいせつ )な冗談が並んでいた。 子どもや若い婦人らが平気でそれをながめていた。 赤毛の 痩 ( や )せた娘が、クリストフが見入っているのを見て、いろいろ申し込んできた。 彼は意味がわからなくて彼女をながめた。 彼女は愚かな微笑を見せて彼の腕を取った。 彼は 真赤 ( まっか )に憤って、彼女を振り離して遠ざかった。 酒亭 ( しゅてい )がつづいていた。 その入口には、奇怪な 道化 ( どうけ )の広告が並んでいた。 群集はますます立て込んできた。 不徳そうな顔つき、いかがわしい漫歩者、卑しい 賤民 ( せんみん )、 白粉 ( おしろい )をぬりたてた 嫌 ( いや )な匂いの女、などがあまり多いのにクリストフは驚いた。 彼はぞっとした。 疲労や無気力や恐ろしい 嫌悪 ( けんお )に、ますますしめつけられて、 眩暈 ( めまい )がしてきた。 彼は歯をくいしばって足を早めた。 セーヌ河に近づくに従って、霧はさらに濃くなってきた。 馬車は抜け出せないほど 輻輳 ( ふくそう )してきた。 一頭の馬が滑って横に倒れた。 御者はそれを立たせようとやたらに 鞭 ( むち )打った。 不幸な動物は、 革紐 ( かわひも )にしめつけられて振るいたったが、痛ましくもまた下に倒れて、死んだようにじっと横たわった。 このありふれた光景もクリストフにとっては、もうたまらなくなる最後の打撃だった。 彼は 歔欷 ( きょき )の発作に襲われた。 通行人らは、悲しみに顔をひきつらしてるこの大きな青年を、驚いてながめていった。 彼は涙が 頬 ( ほお )に流れても、 拭 ( ぬぐ )おうともせずに歩きつづけた。 人々はちょっと立ち止まって彼を見送った。 しかし彼はもう何にも見ていなかった。 涙のために眼がくらんでいた。 彼はある広場の大きな泉のそばに出た。 彼はその中に手をつけ顔を浸した。 一人の新聞売りの小僧が 嘲弄 ( ちょうろう )的ではあるが悪意はない気持で、彼の 仕業 ( しわざ )を不思議そうにながめていた。 そしてクリストフが落としてる帽子を拾ってくれた。 水の凍るような冷たさに、クリストフはまた元気を得た。 彼の気分は直った。 彼は何にも見ないようにして足を返した。 もう食べることも考えてはいなかった。 だれにも話しかけることができないほどだった。 ちょっとしたことにもまた涙が流れそうだった。 彼は疲れはてていた。 道を間違えて、やたらに歩き回り、ほんとに迷ってしまったと思ってるとたんに、宿屋の前へ出た。 彼は自分の汚ない住居へもどった。 一日食事をしなかったので、眼は燃えるようになり、心も身体も弱りきっていて、室の 隅 ( すみ )の 椅子 ( いす )にがっくりと腰をおろした。 二時間もそのままで身動きができなかった。 ついに自失の状態からむりに身をもぎ離して、床についた。 熱っぽい無感覚のうちに落ちて、幾時間も眠ったような気がしながらたえず眼を覚ました。 室は息苦しかった。 彼は足先から頭まで焼けるようだった。 恐ろしく 喉 ( のど )が 渇 ( かわ )いていた。 馬鹿 ( ばか )げた悪夢にとらえられて、眼を開いてる時でもそれにつきまとわれた。 鋭い悩みがナイフで刺されるように身にしみた。 真夜中に眼を覚まし、残忍な絶望の念に襲われて、 喚 ( わめ )きたてようとした。 その声を人に聞かれないようにと、夜具を口にいっぱい押し込んだ。 狂人になるかと思われた。 彼は寝床にすわって燈火をつけた。 ぐっしょり汗をかいていた。 彼は立ち上がって、かばんを開き、ハンカチを捜した。 手は古い 聖書 ( バイブル )にさわった。 母がシャツの間に隠しておいてくれたものである。 クリストフはこの書物をあまり読んだことがなかった。 しかしただいまそれを見出して、なんとも言えない 嬉 ( うれ )しさを感じた。 この聖書は祖父のものであり、また 曾祖父 ( そうそふ )のものでもあった。 家長たちがそれぞれ、最後の一枚の白紙へ、自分の名前と、 生涯 ( しょうがい )の重要な日付、誕生や結婚や死亡などを、書き込んでいた。 祖父は鉛筆の大きな字体で、各章を読んだり読み返したりした日付を、書き入れていた。 黄ばんだ紙片がいっぱい 插 ( はさ )んであって、それには老人の 質朴 ( しつぼく )な感想がしるされていた。 この聖書は祖父の寝台の上の方に、 棚 ( たな )に乗せられていた。 祖父は長く眠れない時しばしばそれを取って、読むというよりはむしろ話し合っていた。 それは曾祖父の友でもあったが、また同じく、祖父の終生の 伴侶 ( はんりょ )でもあった。 一家の悲喜哀楽の一世紀が、それから立ちのぼっていた。 クリストフは今この書物といっしょにいると、いくらか孤独の感が薄らいだ。 彼は最も痛ましいところを開いた。 それ人の世に在るは、絶えざる 戦闘 ( たたかい )に在るがごとくならずや。 またその日々は、 傭人 ( やといびと )の日々のごとくならずや。 …… 我 臥 ( ふ )せばすなわち言う、 何時 ( いつ )我起きいでんかと。 起きぬれば夕を待ちかねつ。 夜まで苦しき思いに満てり。 …… わが 牀 ( とこ )は我を慰め、 休息 ( やすらい )はわが 愁 ( うれ )いを和らげんと、我思いおる時に、汝は夢をもて我を驚かし、 異象 ( まぼろし )をもて我を 懼 ( おそ )れしめたまう。 …… 何時 ( いつ )まで汝我を 容 ( ゆる )したまわざるや。 息をする間だに与えたまわざるや。 我罪を犯したるか。 我汝に何をなしたるか、おお人を 護 ( まも )らせたまう者よ。 …… すべては同じきに帰す。 神は善と悪とを共に苦しめたまう。 …… よしや我彼が御手に殺さるるとも、我はなお、彼に 希 ( のぞ )みをかけざるを得ざるなり。 …… かかる無限の悲しみが不幸な者にたいしてなす恵みを、卑俗な心の人々は理解することができない。 すべて偉大なるものは善良である。 悲しみもその極度に達すれば、救済に到達する。 人の魂を 挫 ( くじ )き悩まし根柢から破壊するものは、 凡庸 ( ぼんよう )なる悲しみや喜びである。 失われた快楽に別れを告げる力もなく、あらゆる卑劣な行ないをして新たな快楽を求めんとひそかにたくらむ、利己的な浅薄な苦しみである。 クリストフは古い書物から立ちのぼる 苛辣 ( からつ )な 息吹 ( いぶ )きに、元気づけられた。 シナイの風が、 寂寞 ( せきばく )たる 曠野 ( こうや )と力強い海との風が、 瘴癘 ( しょうれい )の気を吹き払った。 クリストフの熱はとれた。 彼はずっと安らかにふたたび床について、翌日まで一息に眠った。 眼を覚ました時には、もう昼になっていた。 室の醜さがさらにはっきり眼についた。 自分の惨めさと孤独さとが感ぜられた。 しかし彼はそれらをまともにながめやった。 落胆は消えていた。 もう男らしい 憂鬱 ( ゆううつ )が残ってるのみだった。 彼はヨブの言葉をくり返した。 よしや我神の御手に殺さるるとも、 我はなお、 神に 希 ( のぞ ) みをかけざるを得ざるなり。 …… 彼は立ち上がった。 そして泰然と戦闘を開始した。 彼はすぐその朝から、 奔走 ( ほんそう )を始めようと決心した。 パリーにはただ二人の知人があるばかりだった。 二人とも同国の青年だった。 一人は旧友のオットー・ディーネルで、マイー町でラシャ商をしてる 叔父 ( おじ )の下に働いていた。 一人はシルヴァン・コーンというマインツの若いユダヤ人で、ある大書店に雇われてるはずだった。 しかし書店の所在地は不明だった。 彼は十四、五歳のころ、ディーネルとたいへん親しかった(第二巻朝参照)。 恋愛に先立つものでしかも恋愛をすでに含んでいる幼き友情を、彼はディーネルにたいしていだいていた。 ディーネルもまた彼を愛していた。 この内気で 几帳面 ( きちょうめん )な大子供は、クリストフの狂暴な独立 不羈 ( ふき )の精神に魅せられてしまって、 滑稽 ( こっけい )なやり方でそれをまねようとつとめていた。 クリストフはそれにいらだちもし得意でもあった。 そのころ彼らは、驚天動地の計画をたてていた。 その後ディーネルは、商業教育を受けるために旅行をした。 それきり二人は再会もしなかった。 しかしクリストフは、ディーネルが几帳面に交際をつづけてる土地の人々から、彼の消息を時々聞き知っていた。 シルヴァン・コーンとクリストフとの間は、まったく違った関係だった。 二人は 悪戯 ( いたずら )盛りのころから、小学校で知り合った。 子猿 ( こざる )みたいなコーンはクリストフに悪戯をしかけた。 クリストフはその 穽 ( おとしあな )にかかったのを知ると、ひどい返報をしてやった。 コーンは抵抗しなかった。 ころがされるままになって、顔を 塵 ( ちり )の中にこすりつけながら泣きまねをした。 さてクリストフは、早くに旅館から出かけた。 途中で 珈琲店 ( カフェー )に立ち寄って朝食をした。 彼はその自尊心にもかかわらず、フランス語を話す機会を少しも失うまいと心がけた。 おそらく幾年もパリーで生活しなければなるまいから、できるだけ早くその生活状態に順応して、 嫌悪 ( けんお )の情を克服しなければならなかったのである。 それで彼は、彼のめちゃな言葉を聞いて 給仕 ( ボーイ )が 嘲笑 ( ちょうしょう )的な様子をしたのを、ひどく気に病みながらも、 強 ( し )いて平気でいようとつとめた。 そして元気を失わないで、なっていない文句を重々しく組み立てて、向こうにわかるまで 執拗 ( しつよう )にくり返した。 彼はディーネルを捜し始めた。 例によって彼は、頭に一つの考えがあると、周囲のことは何一つ眼に止まらなかった。 初めて歩き回ってみると、パリーは古い乱雑な町であるという印象をしか得なかった。 彼は元来、一つの新しい力の 驕慢 ( きょうまん )が漂っているのが感ぜられる、ごく古いとともにごく若いドイツ新帝国の町々に慣れていた。 そして今パリーから、不快な驚きを得た。 普通選挙の恩恵に浴しながらも、古い 賤民 ( せんみん )的な素質を脱しきらないでいる、中世都市の遺物かと思われた。 前日からの霧は、じめじめした細雨に変わっていた、もう十時過ぎなのに、多くの店にはまだガス燈がついていた。 クリストフはヴィクトアール広場に接している街路の網目に迷い込んだ後、ようやくバンク街の店を尋ねあてた。 中にはいりながら彼は、長い薄暗い店の奥に、多くの店員に交って 大梱 ( おおこり )を並べてるディーネルの姿を、見かけたように思った。 しかし少し近眼だったので、めったに誤ることのない直覚力をそなえてはいたが、視力には自信がなかった。 迎え出た店員に名前を告げると、奥の人々の間にちょっとざわめきが起こった。 何かひそかに相談し合った後、一人の若い男がその群れから出て来て、ドイツ語で言った。 「ディーネルさんはお出かけになっています。 」 「出かけましたって? なかなか帰りませんか。 」 「ええ、たぶん。 出かけられたばかりですから。 」 クリストフはちょっと考えた。 それから言った。 「構いません。 待ちましょう。 」 店員はびっくりして、急いでつけ加えた。 「二、三時間たたなければお帰りになりますまい。 」 「なに、それくらいなんでもありません。 」とクリストフは平然と答えた。 「私はパリーでなんの用もありません。 場合によっては一日待っていても平気です。 」 若い店員はそれを冗談だと思って 茫然 ( ぼうぜん )と彼をながめた。 しかしクリストフはもうその男のことなんか考えていなかった。 往来の方に背を向けて 悠々 ( ゆうゆう )と 片隅 ( かたすみ )にすわった。 そこに腰を落ち着けてしまうつもりらしかった。 店員は店の奥にもどっていって、仲間の者らと耳打ちをした。 彼らはおかしな 狼狽 ( ろうばい )の様子で、この邪魔者を追い払う方法を講じた。 不安な数分が過ぎてから、店の 中扉 ( なかとびら )が開いた。 ディーネル氏が現われた。 大きな赤ら顔で、 頬 ( ほお )と 頤 ( あご )とに紫色の 傷痕 ( きずあと )があり、赤い口 髭 ( ひげ )を 生 ( は )やし、髪を平らになでつけて横の方で分け、金の鼻 眼鏡 ( めがね )をかけ、シャツの胸には金ボタンをつけ、太い指に指輪をはめていた。 帽子と 雨傘 ( あまがさ )とを手にしていた。 彼は何気ない様子でクリストフの方へやっていった。 クリストフは 椅子 ( いす )の上にぼんやりしていたが、驚いて飛び上がった。 彼はディーネルの両手を取り、 大仰 ( おおぎょう )な親しさで叫びだした。 店員らは忍び笑いをし、ディーネルは顔を赤らめた。 この堂々たる人物が、クリストフと昔の関係をふたたびつづけたくないと思ったのには、種々の理由があった。 彼は最初から威圧的な態度をしてクリストフを親しませないつもりだった。 しかしクリストフの眼つきを見るや否や、その面前では自分がふたたび小さな少年になったような気がした。 それが腹だたしくもあり恥ずかしくもあった。 彼は急いで口早に言った。 「私の室に来ませんか。 ……その方がよく話しができていいでしょう。 」 クリストフはそういう言葉のうちに、ディーネルの例の用心深さをまた見出した。 しかし、その室にはいって 扉 ( とびら )を注意深く 閉 ( し )め切っても、ディーネルはなかなか彼に 椅子 ( いす )をすすめようともしなかった。 彼はつっ立ったまま、へまに重々しく弁解しだした。 「たいへん愉快です……私は出かけるところでした……皆はもう私が出かけたことと思って……だが出かけなければならないんです……ちょっとしか 隙 ( ひま )がありません……さし迫った面会の約束があるので……。 」 クリストフは、店員が先刻 嘘 ( うそ )をついたことを悟り、その嘘は自分を追い払うためにディーネルとも相談されたものであることを悟った。 かっと血が頭に上った。 しかし我慢をして冷やかに言った。 「何も急がなくたっていいよ。 」 ディーネルは身体をぎくりとさした。 そういう無遠慮が 癪 ( しゃく )にさわったのだった。 「なに、急がなくってもいいって!」と彼は言った。 「用があるのに……。 」 クリストフは相手をまともにながめた。 「なあに。 」 大きな青年は眼を伏せた。 彼はクリストフにたいして自分がいかにも 卑怯 ( ひきょう )だという気がしたので、クリストフを憎んだ。 そして 不機嫌 ( ふきげん )そうにつぶやきだした。 クリストフはそれをさえぎった。 「こうなんだ、」と彼は言った、「君も知ってるだろう……。 」 (この 君というような言葉使いにディーネルは気を悪くしていた。 彼は最初の一言から、クリストフとの間に あなたという 垣根 ( かきね )をこしらえようと、いたずらに努力していた。 ) 「僕がこちらへやって来た訳を。 」 「ええ、知っている。 」とディーネルは言った。 (クリストフの逃亡とその追跡とを、彼は通信によって知っていた。 ) 「それでは、」とクリストフは言った、「僕が遊びに来たのでないことも知ってるだろう。 僕は逃げなきゃならなかったんだ。 ところが今無一物なんだ。 生活しなくちゃならないんだ。 」 ディーネルは要求を待っていた。 ) 「ああ、それは困ったな、」と彼はもったいぶって言った、「実に困った。 こちらでは生活が容易じゃない。 万事高い。 僕のところでも何かと入費が多い。 そしてあの店員全部が……。 」 クリストフは 軽蔑 ( けいべつ )の様子でそれをさえぎった。 「僕は君に金銭を求めやしないよ。 」 ディーネルは 狼狽 ( ろうばい )した。 クリストフはつづけて言った。 「景気はどうだい? 得意があるかね。 」 「ああ、ああ、悪くはない、おかげさまで……。 」とディーネルは用心深く言った。 (彼は半信半疑だった。 ) クリストフは激しい眼つきを注いで、言い進んだ。 「君はドイツの移住者をたくさん知ってるかい?」 「ああ。 」 「では、僕のことを 吹聴 ( ふいちょう )してくれたまえ。 皆音楽は好きなはずだ。 子供があるだろう。 僕は 稽古 ( けいこ )をしてやるつもりだ。 」 ディーネルは当惑の様子をした。 「何かあるのかい。 」とクリストフは言った。 「そんなことをするくらいには十分僕に音楽の心得があることを、君は疑ってでもいるのかい。 」 彼はあたかも自分の方で世話してやるかのような調子で、世話を求めてるのだった。 ディーネルは、向こうに恩を感じさせる喜びのためにしか何かをしてやりたくなかったので、もう彼のためには指一本も動かしてやるものかと思っていた。 「君はそれには十分すぎるほど音楽を心得てはいるが……ただ……。 」 「なんだい?」 「それはむずかしいよ、たいへん困難だよ、ねえ、君の境遇では。 」 「僕の境遇?」 「そうだ……つまりあの事件が、あの表 沙汰 ( ざた )が……もしあれが知れ渡ると……僕にはどうも困難だ。 いろいろ掛り合いを受けることになるかもしれない。 」 彼はクリストフの顔が怒りにゆがんでくるのを見て言いやめた。 そして急いで言い添えた。 「僕のことじゃない……僕は恐れはしない……。 ああ、僕一人だけだったら!…… 叔父 ( おじ )がいるのでね……君も知ってるとおり、この家は叔父のものなんだ。 叔父に言わなけりゃ僕には何にもできない……。 吝嗇 ( りんしょく )と見栄とが彼のうちで争っていた。 クリストフに恵んでやりたくはあったが、なるべく安価に済ましたかった。 ) 「五十フランばかりでどうだい。 」 クリストフは 真赤 ( まっか )になった。 恐ろしい様子でディーネルの方へ歩み寄った。 ディーネルは急いで 扉 ( とびら )のところまでさがり、それを開いて、人を呼ぼうとした。 しかしクリストフは、充血した顔を彼にさしつけただけで我慢した。 「豚め!」と彼は鳴り響く声で言った。 彼はディーネルを押しのけ、店員らの間を通って、外に出た。 敷居のところで、 嫌悪 ( けんお )の 唾 ( つば )をかっと吐いた。 彼は街路を 大跨 ( おおまた )に歩いていった。 怒りに酔っていた。 その酔いも雨に 覚 ( さ )まされた。 どこへ行くのか? それを彼は知らなかった。 知人は一人もなかった。 考えようと思って、ある書店の前に立ち止まった。 そして 棚 ( たな )の書物を、見るともなくながめた。 ある書物の表紙に、出版屋の名前を見てはっとした。 なぜだかみずからいぶかった。 やがて彼は、シルヴァン・コーンの雇われてる書店の名であることを思い出した。 彼は所番地を書き取った。 ……しかしそれが何になろう? もとより尋ねてなんか行くものか……。 なぜって?……友人だったあのディーネルの 奴 ( やつ )でさえ、ああいう待遇をしたところを見ると、昔さんざんいじめられて憎んでるに違いない 此奴 ( こいつ )から、何が期待されよう? 無駄 ( むだ )に屈辱を受けるばかりではないか。 彼の血潮は反発していた。 「 俺 ( おれ )は遠慮する必要はない。 くたばるまではなんでもやってみなけりゃいけない。 」 一つの声が彼のうちで言い添えた。 「そして、くたばるものか。 」 彼はふたたび所番地を確かめた。 そしてコーンのところへやって行った。 少しでも 横柄 ( おうへい )な態度に出たら、すぐにその顔を張りつけてやる決心だった。 書店はマドレーヌ町にあった。 クリストフは二階の客間に上がって、シルヴァン・コーンを尋ねた。 給仕が、「知らない」と答えた。 クリストフはびっくりして発音が悪かったのだと思い、問いをくり返した。 しかし給仕は、注意深く耳を傾けた後、家にそんな名前の者はいないと断言した。 クリストフは面くらって、 詫 ( わ )びを言い、出かけようとした。 その時廊下の奥の 扉 ( とびら )が 開 ( あ )いた。 見ると、コーンが一人の婦人を送り出していた。 ちょうど彼はディーネルから 侮蔑 ( ぶべつ )を受けたばかりのところだったので、皆が自分を馬鹿にしているのだと思いがちだった。 それで、コーンは自分が来るのを見て、いないと言えと給仕に言いつけたのだと、彼は 真先 ( まっさき )に考えた。 そんな浅はかなやり方に、堪えられなかった。 そして憤然と帰りかけた。 すると呼ばれてる声が耳にはいった。 コーンは鋭い眼つきで、遠くから彼を認めたのだった。 そして 唇 ( くちびる )に笑いをたたえ、両手を広げ、 大袈裟 ( おおげさ )な喜びをありったけ示して、駆け寄ってきた。 シルヴァン・コーンは、背の低い太った男で、アメリカ風にすっかり 髭 ( ひげ )を 剃 ( そ )り、赤すぎる顔色、黒すぎる髪、広い厚ぼったい顔つき、 脂 ( あぶら )ぎった顔だち、 皺 ( しわ )寄った 穿鑿 ( せんさく )的な小さい眼、少しゆがんだ口、重々しい意地悪げな微笑をもっていた。 華奢 ( きゃしゃ )な服装をして、身体の欠点を、高い肩や大きい 臀 ( しり )を、隠そうとつとめていた。 そういう欠点こそ、彼の自尊心をなやます唯一のものだった。 身長がもう二、三寸も伸びて身体つきがよくなることなら、後ろから 足蹴 ( あしげ )にされてもいとわなかったろう。 その他の事においては、彼は自分自身にしごく満足していた。 自分に 敵 ( かな )う者はないと思っていた。 実際すてきな男だった。 ドイツ生まれの小さなユダヤ人でありながら、のろまな太っちょでありながら、パリーの優雅な風俗の記者となり絶対批判者となっていた。 社交界のつまらない 噂種 ( うわさだね )を、複雑な巧妙をきわめた筆致で書いていた。 彼は人から冷やかされていたが、それも成功の妨げにはならなかった。 パリーでは 滑稽 ( こっけい )は身の破滅だと言う人々は、少しもパリーを知らない 輩 ( やから )である。 身の破滅どころか、かえってそのために生き上がってる者がいる。 パリーでは、滑稽によってすべてが得られる、光栄をも幸運をも得られる。 シルヴァン・コーンは、そのフランクフルト式な虚飾のために毎日かれこれ言われても、もはやそんなことは平気だった。 彼は重々しい調子と頭のてっぺんから出る声とで口をきいていた。 「やあ、これは驚いた!」と彼は快活に叫びながら、あまり狭い皮膚の中につめこまれてるかと思われる指の短いぎこちない手で、クリストフの手を取って打ち振った。 なかなかクリストフを放しそうになかった。 最も親しい友人にめぐり会ったような調子だった。 クリストフはあっけにとられて、コーンから 揶揄 ( からか )われてるのではないかと疑った。 しかしコーンは揶揄ってるのではなかった。 なおよく言えば、もし揶揄ってるのだとしてもそれはいつもの伝にすぎなかった。 コーンは少しも恨みを含んではいなかった。 恨みを含むにはあまりに利口だった。 クリストフからいじめられたことなんかは、もう久しい以前に忘れてしまっていた。 もし思い出したとしてもほとんど気にしなかったろう。 新しい重大な職業を帯びパリー風の華美な様子をしているところを、旧友に見せてやる機会を得て大喜びだった。 驚いたと言うのも嘘ではなかった。 クリストフが訪れて来ようなどとは、最も思いがけないことだった。 彼はきわめて 炯眼 ( けいがん )だったので、クリストフの訪問には一つの利害関係の目的があることを予見してはいたが、それは自分の力にささげられた敬意だという一事だけで、すでに喜んで迎えてやる気になったのである。 「国から来たのかい。 お 母 ( かあ )さんはどうだい。 」と彼は 馴 ( な )れ馴れしく尋ねた。 他の時だったらそれはクリストフの気にさわったかもしれないが、しかし他国の都にいる今では、かえってうれしい感じを与えた。 「だがいったいどうしたんだろう、」とクリストフはまだ多少疑念をいだいて尋ねた、「先刻コーンさんという人はいないという返辞だったが。 」 「コーンさんはいないよ。 」とシルヴァン・コーンは笑いながら言った。 「僕はコーンとはいわないんだ。 ハミルトンというんだ。 」 彼は言葉を切った。 「ちょっと失敬。 」と彼は言った。 彼は通りかかった一人の婦人の方へ行って、握手をして、 笑顔 ( えがお )を見せた。 それからまたもどって来た。 そして、あれは激しい肉感的な小説で有名になった 閨秀 ( けいしゅう )作家だと説明した。 その近代のサフォーは、胸に紫色の飾りをつけ、種々の模様をちらし、真白に塗りたてた快活な顔の上に、 艶 ( つや )のいい金髪を束ねていた。 フランシュ・コンテの 訛 ( なま )りがある男らしい声で、 気障 ( きざ )なことを言いたてていた。 コーンはまたクリストフに種々尋ねだした。 国の人たちのことを残らず尋ね、だれだれはどうなったかと聞き、すべての人を記憶してることを 追従 ( ついしょう )的に示していた。 クリストフはもう反感を忘れてしまっていた。 感謝を交えた懇切な態度で答え、コーンにとってはまったく無関係な 些細 ( ささい )な事柄をやたらに述べた。 コーンはそれをふたたびさえぎった。 「ちょっと失敬。 」と彼はまた言った。 そして他の婦人客へ 挨拶 ( あいさつ )に行った。 「ああそれじゃあ、」とクリストフは尋ねた、「フランスには婦人の作家ばかりなのか。 」 コーンは笑い出した。 そしてしたり顔に言った。 「フランスは女だよ、君。 君がもし成功したけりゃ、女を利用するんだね。 」 クリストフはその説明に耳を貸さないで、自分だけの話をつづけた。 コーンはそれをやめさせるために尋ねた。 「だが、いったいどうして君はこちらへ来たんだい。 」 「なるほど、」とクリストフは考えた、「この男は何にも知らないんだな。 だからこんなに親切なんだ。 知ったらがらりと変わってしまうだろう。 」 彼は 昂然 ( こうぜん )と語りだした、自分を最も難境に陥らせるかもしれない事柄を、すなわち、兵士らとの 喧嘩 ( けんか )、自分が受けた追跡、国外への逃亡などを。 コーンは腹をかかえて笑った。 「すてきだ」と彼は叫んでいた、「すてきだ! 実に愉快な話だ!」 彼は熱心にクリストフの手を握りしめた。 官憲の鼻をあかしてやったその話を、この上もなく面白がっていた。 話の主人公らを知っているだけになお面白がっていた。 その 滑稽 ( こっけい )な方面を眼に見るような気がしていた。 「ところで、」と彼はつづけて言った、「もう 午 ( ひる )過ぎだ。 つき合ってくれたまえ……いっしょに食事をしよう。 」 クリストフはありがたく承知した。 彼はこう考えていた。 「これは確かにいい人物だ。 俺の思い違いだった。 」 二人はいっしょに出かけた。 途中でクリストフは思い切って要件をもち出した。 「君にはもう僕の境遇がわかってるだろう。 僕は世に知られるまで、さしあたり仕事を、音楽教授の口でも、求めに来たんだが。 僕を推薦してくれないかね。 」 「いいとも!」とコーンは言った。 「望みどおりの人に推薦しよう。 こちらで僕はだれでも知っている。 なんでもお役にたとう。 」 彼は自分のもっている信用を示すのがうれしかった。 クリストフは感謝にくれた。 心から大きな重荷が取れた心地がした。 食卓につくと彼は、二日も前から物を食べなかったかのようにむさぼり食った。 首のまわりにナフキンを結えつけて、ナイフですぐ食べた。 コーンのハミルトンは、そのひどい食い方や 田舎 ( いなか )者めいた様子に、ごく不快を感じた。 また自慢にしてる事柄をあまり注意してもくれないことに、同じく不満を覚えた。 彼は自分の 艶福 ( えんぷく )や幸運の話をして、相手を煙に巻いてやろうとした。 しかしそれは 無駄 ( むだ )な骨折りだった。 クリストフは耳を傾けないで、無遠慮に話をさえぎった。 彼は舌がほどけてきて 馴 ( な )れ馴れしくなっていた。 謝恩の念で心がいっぱいになっていた。 そして未来の抱負を率直にうち明けながら、コーンを困らした。 ことに、テーブルの上から無理にコーンの手を取って、心こめて握りしめたので、コーンをさらにやきもきさした。 しまいには、感傷的なことを言い出して、故国にいる人々や 父なるラインのために、ドイツ流の祝杯を挙げたがったので、コーンのいらだちは極度に達した。 コーンは彼が今にも歌い出そうとするのを見てたまらなくなった。 隣席の人々は二人の方を皮肉そうにながめていた。 コーンは急な用務があるという口実を設けて立ち上がった。 クリストフはそれにすがりついた。 いつ推薦状をもらって、その家へやって行き、 稽古 ( けいこ )を始めることができるか、それを知りたがった。 「取り計らってあげよう。 今日、今晩にでも。 」とコーンは約束した。 「すぐに話をしてみよう。 安心したまえ。 」 クリストフは 執拗 ( しつよう )だった。 「いつわかるだろう?」 「 明日 ( あした )……明日……または明後日。 」 「結構だ。 明日また来よう。 」 「いやいや、」とコーンは急いで言った、「僕の方から知らせよう。 君を煩わさないように。 」 「なあに、煩すも何もあるものか。 そうだろう。 それまで僕は、パリーで何にも用はないんだ。 」 「おやおや!」とコーンは考えた。 そして大声に言い出した。 「いや、手紙を上げる方がいい。 しばらくは面会ができないかもしれない。 宿所を知らしてくれたまえ。 」 クリストフは宿所を彼に書き取らした。 「よろしい。 明日手紙を上げよう。 」 「明日?」 「明日だ。 間違いないよ。 」 彼はクリストフの握手からのがれて逃げ出した。 「あああ!」と彼は思っていた。 「たまらない奴だ。 」 彼は店に帰ると、「あのドイツ人」が尋ねて来たら留守にするんだと、給仕に言いつけた。 クリストフは 汚 ( きたな )い巣へもどった。 心動かされていた。 「親切な男だ!」と彼は思っていた。 「俺は彼にたいして悪いことをしたことがある。 だが彼は俺を恨んでもいない!」 そういう悔恨の念が重く心にかかった。 昔悪く思ったことが今いかに心苦しいか、昔ひどく当たったことを許してもらいたいと今どんなに思ってるか、コーンへ書き送ろうとした。 昔のことを思うと眼に涙が 湧 ( わ )いてきた。 しかし彼にとっては、一通の手紙を書くのは、大譜表を書くに劣らないほどの大仕事だった。 そして、宿屋のインキやペンを、それは実際ひどいものではあったが、盛んにののしり散らした後、四、五枚の紙を書きなぐり消したくり引き裂いた後、もう我慢ができなくなってすべてを 放 ( ほう )り出した。 その日の残りの時間はなかなか過ぎなかった。 しかしクリストフは、寝苦しい昨晩と午前中の奔走とにひどく疲れていたので、 椅子 ( いす )にかけたままついにうとうととした。 夕方ようやくわれに返って、すぐに寝床についた。 そして十二時間ぶっとおしにぐっすり眠った。 翌日八時ごろから、彼は約束の返事を待ち始めた。 彼はコーンの 几帳面 ( きちょうめん )さを少しも疑わなかった。 コーンが店へ出る前にこの宿へ寄るかもしれないと思って、一歩も外に踏み出さなかった。 午 ( ひる )ごろになると、室をあけないために、下の飲食店から朝食を取り寄せた。 それから、コーンが食事後にやって来るだろうと思って、ふたたび待ってみた。 室の中を歩き、腰をおろし、また歩き出し、階段を上ってくる足音が聞こえると、 扉 ( とびら )を開いてみたりした。 待ち遠しさをまぎらすためにパリーのうちを散歩してみる気も、さらに起こらなかった。 彼は寝台の上に横たわった。 思いはたえず老母の方へ向いていった。 彼は彼女にたいして、限りない愛情と見捨てた悔恨とを感じた。 しかし手紙は出さなかった。 どういう地位を見出したか知らせ得るまで待つことにした。 二人はたがいに深い愛情をいだいていたにもかかわらず、愛してることだけを単に告げるような手紙を書くことは、どちらも考えていなかったに違いない。 手紙というものは、はっきりした事柄を告げるためのものであった。 室は往来から隔たってはいたけれど、静けさのうちにはパリーのどよめきがこもっていた。 家は揺れていた。 前日と同じような一日が、また始まった。 三日目になって、クリストフは好んで 蟄居 ( ちっきょ )していたのが腹だたしく思えて、外出しようと決心した。 しかしパリーには、最初の晩以来、一種の本能的な 嫌気 ( いやけ )を覚えていた。 彼は何にも見たくなかった。 なんらの好奇心も起こらなかった。 自分の生活にあまり心を奪われていたので、他人の生活を見ても面白くなかった。 過去の記念物にも、都会の塔碑にも、心ひかれなかった。 それで彼は、一週間以内にはコーンの 許 ( もと )へ行くまいときめていたものの、外へ出るや否や非常に退屈して、まっすぐにコーンのところへ行った。 言いつけられていた給仕は、ハミルトン氏は所用のためパリーから出かけたと告げた。 クリストフにとっては一打撃だった。 彼は口ごもりながら、いつハミルトン氏は帰るのかと尋ねた。 給仕はいい加減に答えた。 「十日ばかりしましたら。 」 クリストフは 駭然 ( がいぜん )として家に帰った。 その後毎日室に閉じこもった。 仕事にかかることができなかった。 彼は切りつめた生活法を 守 ( まも )った。 ただ夕方だけ、夕食をしに階下の飲食店へ降りて行った。 そこでは「プロシャ人」とか「 漬菜 ( シュークルート )」とかいう名前で、早くも客の間に知れ渡ってしまった。 それも 漠然 ( ばくぜん )と名前を知ってるだけだった。 十年も前に死んでる人さえあった。 彼はそういう人々に、面会を求めた。 綴字 ( つづりじ )はめちゃくちゃだったし、文体はドイツで習慣となってる、長たらしい語位転換と儀式張った形式とで飾られていた。 彼は書簡を「フランスのアカデミー院」へ贈った。 一週間後に、クリストフはまた書店へ出かけた。 このたびは偶然に助けられた。 入口で彼は、出かけようとするシルヴァン・コーンにぶっつかった。 コーンはつかまったのを見て顔を渋めた。 しかしクリストフはうれしさのあまり、その渋面に気づかなかった。 彼は例のうるさい調子で、コーンの両手を取り、 々 ( きき )として尋ねた。 「旅に行ってたそうだね。 面白かったかい。 」 コーンはうなずいたが、しかしその顔は和らいでいなかった。 クリストフは言いつづけた。 「僕が来たのは……わかってるだろう……。 話はどうだった?……え、どういうふうだい。 僕のことを言ってくれたろうね。 返事はどうだった。 」 コーンはますます顔を渋めた。 クリストフは様子ありげなその態度に驚いた。 まるで別人のようだった。 「君のことは話してみたよ。 」とコーンは言った。 「だがまだ結果はわからない。 隙 ( ひま )がなかったんだ。 君に会った時から実に忙しかった。 用事がたくさん頭につかえているんだ。 どうして片付けていいかわからないほどだ。 まったくやりきれない。 病気にでもなりそうだ。 」 「気分がすぐれないのかい。 」とクリストフは気づかわしい調子で尋ねた。 コーンは 嘲 ( あざけ )り気味の一 瞥 ( べつ )を注いで答えた。 「まったくいけない。 この数日へんてこだ。 非常に苦しい気持がする。 」 「そりゃたいへんだ!」とクリストフは彼の腕を取りながら言った。 「ほんとに用心したまえ。 身体を休めなけりゃいけないね。 僕まで余計な心配をかけて、実に済まない。 そう言ってくれりゃよかったのに。 ほんとにどんな気持だい?」 彼が悪い口実をもあまり 真面目 ( まじめ )に取ってるので、コーンは愉快なおかしさがこみ上げてくるのをつとめて押し隠しながらも、相手の 滑稽 ( こっけい )な 純朴 ( じゅんぼく )さに気が折れてしまった。 そのうえコーンはまた、自分一身のことをクリストフが心配してくれるのを、感動せずにはいられなかった。 彼は世話をしてやりたい気持になった。 「ちょっと思いついたことがあるんだがね。 」と彼は言った。 「 稽古 ( けいこ )の口があるまで、楽譜出版の方の仕事をしないかね。 」 クリストフは即座に承知した。 「いいことがある。 」とコーンは言った。 「ある大きな楽譜出版屋の重立った一人で、ダニエル・ヘヒトという男と、僕は懇意にしてる。 それに紹介しよう。 何か仕事があるだろう。 僕は君の知るとおり、その方面のことは何にもわからない。 しかしあの男はほんとうの音楽家だ。 君なら訳なく話がまとまるだろう。 」 二人は翌日の会合を約した。 コーンはクリストフに恩をきせて追っ払ったので、悪い気持はしなかった。 翌日、クリストフはコーンの店へ誘いに来た。 彼はコーンの勧めによって、ヘヒトへ見せるために自分の作曲を少しもって来た。 二人はヘヒトを、オペラ座近くの楽譜店に見出した。 二人がはいって来るのを見ても、ヘヒトは 傲然 ( ごうぜん )と構えていた。 コーンの握手へは冷やかに指先を二本差し出し、クリストフの儀式張った 挨拶 ( あいさつ )へは答えもしなかった。 そしてコーンの求めによって、二人を従えて隣りの室へはいった。 二人にすわれとも言わなかった。 火のない暖炉にもたれて壁を見つめたままつっ立っていた。 ダニエル・ヘヒトは、四十年配の背の高い冷静な男で、きちんと服装を整え、いちじるしくフェーニキア人の特長を有し、 怜悧 ( れいり )で不愉快な様子、渋めた顔つき、黒い毛、アッシリアの王様みたいな長い角張った 頤髯 ( あごひげ )をもっていた。 ほとんど真正面に人を見ず、冷やかなぶしつけな話し方をして、 挨拶 ( あいさつ )までが侮辱の言のように響いた。 でもその 横柄 ( おうへい )さはむしろ外面的のものだった。 もちろんそれは、彼の性格のうちにある 軽蔑 ( けいべつ )的なものと相応じてはいたが、しかしなおいっそう、彼のうちの自動的な虚飾的なものから来るのであった。 こういう種類のユダヤ人は珍しくない。 そして世間では彼らのことをあまりよく言わない。 彼らのひどい剛直さは、身体と魂との不治の 頓馬 ( とんま )さ加減に由来することが多いけれども、世間ではそれを 傲慢 ( ごうまん )の 故 ( ゆえ )だとしている。 シルヴァン・コーンは、 気障 ( きざ )な 饒舌 ( じょうぜつ )の調子で 大袈裟 ( おおげさ )にほめたてながら、世話をしようというクリストフを紹介し始めた。 クリストフは冷やかな待遇に度を失って、帽子と原稿とを手にしながら身を揺っていた。 コーンの言葉が終わると、それまでクリストフの存在を気にもかけないでいたようなヘヒトは、 軽蔑 ( けいべつ )的にクリストフの方へ顔を向け、しかもその顔をながめもしないで言った。 「クラフト……クリストフ・クラフト……私はそんな名前をまだ聞いたことがない。 」 クリストフは胸のまん中を 拳固 ( げんこ )でなぐられたようにその言葉を聞いた。 顔が赤くなってきた。 彼は憤然と答えた。 「やがてあなたの耳へもはいるようになるでしょう。 」 ヘヒトは 眉根 ( まゆね )一つ動かさなかった。 あたかもクリストフがそこにいないかのように、泰然と言いつづけた。 「クラフト……いや、私は知らない。 」 自分に知られていないのはくだらない証拠だと考える者が、世にあるが、彼もそういう人物だった。 彼はドイツ語でつづけて言った。 「そしてあなたはライン生まれですね。 ……音楽に関係する者があちらに多いのには、実に驚くほどです。 自分は音楽家だと思っていない者は、一人もないと言ってもいい。 」 彼は冗談を言うつもりであって、悪口を言うつもりではなかった。 しかしクリストフは曲解した。 彼は答え返そうとした。 しかしコーンが先に口を出した。 「ですけれど、」と彼はヘヒトへ言った、「私だけは音楽を少しも知らないことを、認めていただきたいものですね。 」 「それはあなたの名誉ですよ。 」とヘヒトは答えた。 「音楽家でないことをあなたが喜ばれるなら、」とクリストフは冷やかに言った、「残念ですが私はもう用はありません。 」 ヘヒトはやはり横を向きながら、同じ無関心な調子で言った。 「あなたは音楽を書いたことがあるそうですね。 何を書きましたか。 もとより 歌曲 ( リード )でしょう?」 「 歌曲 ( リード )と、二つの 交響曲 ( シンフォニー )と、交響詩や、四重奏曲や、ピアノの組曲や、舞台音楽などです。 」とクリストフはむきになって言った。 「ドイツではたくさん書くものですね。 」とヘヒトは 軽蔑 ( けいべつ )的なていねいさで言った。 この新来の男が、そんなにたくさんの作品を書いていて、しかも自分ダニエル・ヘヒトがそれを知らないだけに、彼はなおいっそう疑念をいだいていた。 「とにかく、」と彼は言った、「あなたに仕事を頼んでもいいです、友人のハミルトンさんの推薦があるので。 ただいまちょうど 青年叢書という 叢書 ( そうしょ )物を作っています。 たやすいピアノの曲を出すのです。 で、シューマンの 謝肉祭を簡単にして、四手や六手や八手に直すことを、あなたにしてもらえましょうか。 」 クリストフは飛び上がった。 「そんなことをさせるんですか、僕に、僕に!……」 その率直な「僕に」という言葉に、コーンは面白がった。 しかしヘヒトは気分を害した様子をした。 「あなたの驚く訳が私にはわからない。 」と彼は言った。 「そうたやすい仕事ではないですよ。 やさしすぎるように思われるなら、なお結構です。 今にわかることです。 あなたはりっぱな音楽家だと自分で言ってるし、私もそう信ずべきですが、しかし、要するに私はあなたを知りません。 」 彼は心の中でこう思っていた。 「こんな元気な奴の口ぶりでは、まるでヨハネス・ブラームスよりりっぱなものが書けるとでもいうようだ。 コーンは笑いながらそれを引き止めた。 「待ちたまえ、まあ待ちたまえ!」と彼は言った。 そしてヘヒトの方へ向いた。 「あなたに判断してもらうために、ちょうど作品を少しもって来てるんです。 」 「そう、」とヘヒトは迷惑そうに言った、「では拝見しましょうか。 」 クリストフは一言も言わないで、原稿を差し出した。 ヘヒトはぞんざいに眼を注いだ。 」 彼は無関心を装いながらも、深い注意を払って読んでいった。 彼はりっぱな音楽家で、自分の職業に明るかった。 がもとよりそれ以上には出ていなかった。 彼は初めの小節を少し読むや否や、相手の真価をすっかり感じた。 そして 軽蔑 ( けいべつ )的な様子で楽譜をめくりながら、口をつぐんでしまった。 楽譜の示してる才能にひどく心を打たれた。 しかし元来の無愛想さのために、またクリストフのやり方に自尊心を害されていたために、それを少しも示さなかった。 彼は一つの音符をも見落とさないで、黙って終わりまで読んだ。 「なるほど、」と彼は保護者的な調子でついに言った、「かなりよく書けている。 」 激しい非難の方がクリストフにはもっと 癪 ( しゃく )にさわらなかったかもしれない。 「そんなことを言ってもらう必要はありません。 」と彼は 激昂 ( げっこう )して言った。 「それでも、」とヘヒトは言った、「この曲を見せる以上は、私の考えを聞くためではないですか。 」 「いやちっとも。 」 「そんなら、」とヘヒトはむっとして言った、「あなたが何を求めに来たのか私にはわからない。 」 「僕は仕事を求めに来たので、他のことは求めません。 」 「先刻言った仕事以外には、当分やっていただきたいこともありません。 あの仕事にしても、たしかにお頼みするかどうかわからない。 お頼みするかもしれないと言っただけです。 」 「他に方法はないのですか、僕のような音楽家を使うのに。 」 「あなたのような音楽家ですって?」とヘヒトは侮辱的な皮肉の調子で言った。 「少なくともあなたに劣らないほどのりっぱな音楽家で、そういう仕事を体面にかかわると思わなかった人がいくらもあります。 いちいち名を 指 ( さ )してもいいですが、今パリーで名を知られてるある人たちは、かえってそれを私に感謝していました。 」 「それは彼らが卑劣だからだ。 」とクリストフは叫び出した。 まともに顔を見なかったり口先だけで物を言ったりするやり方で、僕をへこませるとでも思ってるんですか。 はいって来た時だって、僕の 挨拶 ( あいさつ )に答えもしないで……。 僕に向かってそんな態度をして、あなたはいったいなんです? 音楽家とでも言うんですか。 何か書いたことでもありますか。 ……そして、作曲を生命としてる僕に向かって、作曲の仕方を教えようとでもいうんですか。 ……そして、僕の音楽を読んだあとに、小娘どもを踊らせるために、大音楽家の作品を去勢してくだらないものになすこと以外には、何も頼むような仕事はないというんですか。 ……パリーの者はあなたから甘んじて教えを受けるほど卑劣なら、そういうパリー人を相手になさるがいい。 僕は、そんなことをするよりくたばってしまう方がまだましです。 」 激烈な調子を押えることができなかったのである。 ヘヒトは冷然として言った。 「それはあなたの勝手です。 」 クリストフは 扉 ( とびら )をがたりといわして出て行った。 ヘヒトは肩をそびやかした。 そして、笑ってるシルヴァン・コーンに言った。 「皆と同じように、また頼みに来るようになりますよ。 」 彼は心中ではクリストフをかっていた。 かなり 聡明 ( そうめい )だったから、作品の価値ばかりではなく、また人間の価値を感ずることができるのだった。 クリストフの攻撃的な憤りのもとに、彼は一つの力を見て取っていた。 しかし自尊心の反発があった。 いかなることがあっても自分の方が誤ってるとは承認したくなかった。 クリストフの真価を認めてやりたいという公平な心はもっていたが、少なくとも向こうから頭を下げて来ない以上は、認めてやることができなかった。 彼はクリストフがまたやって来るのを待った。 彼は悲しい悲観思想と人生の経験とによって、困窮のためには人の意志もかならずや卑しくなるということを、よく知っていた。 クリストフは宿に帰った。 憤りは落胆に代わっていた。 万事終わった気がしていた。 当てにしていたわずかな支持も、こわれてしまったのである。 ただにヘヒトばかりではなく、紹介の労を取ってくれたコーンとも、永遠の敵となったのだと疑わなかった。 敵都における絶対の孤独だった。 ディーネルとコーンとのほかには、一人の知人もなかった。 ドイツで 交誼 ( こうぎ )を結んだ美しい女優のコリーヌは、パリーにいなかった。 彼女はまだ他国巡業中で、アメリカに行っていて、こんどは独立でやっていた。 有名になっていたのである。 新聞には彼女の旅の 華々 ( はなばな )しい記事が出ていた。 また彼は、思いがけなくも職を失わせた結果になってる、あの若い家庭教師のフランス婦人については、長い間考えることに 苛責 ( かしゃく )の種となったので、パリーへ行ったら捜し出そうと、幾度みずから誓ったかわからなかった(第四巻反抗参照)。 しかし今パリーへ来てみると、たった一つのことを忘れてるのに気がついた。 それは彼女の姓だった。 どうしても思い出せなかった。 ただアントアネットという名だけしか覚えていなかった。 それにまた、もし思い出すことがあろうとも、こんなにたくさんの人が集まってる中で、一人の若い家庭教師たる彼女をどうして見出せよう! 彼はできるだけ早く、 糊口 ( ここう )の道を立てなければならなかった。 もう五フランしか残っていなかった。 彼は主人へ、でっぷりした飲食店の主人へ、この付近にピアノの 稽古 ( けいこ )を受けそうな人はいないだろうかと、 嫌々 ( いやいや )ながらも思い切って尋ねてみた。 主人は日に一度しか食事をせずにドイツ語を話してるこの宿泊人を、前からあまり尊敬してはいなかったが、一音楽家にすぎないことを知ると、そのわずかな敬意をも失ってしまった。 音楽を 閑人 ( ひまじん )の 業 ( わざ )だと考える古めかしいフランス人だったのである。 彼は馬鹿にしてかかった。 「ピアノですって……。 あなたはピアノをたたくんですか。 結構なことですな。 ……だが、すき好んでそんな商売をやるたあ、どうも不思議ですね。 私にゃどんな音楽を聞いても雨が降るようにしか思えないんですが……。 あとで私にも教えてもらいますかな。 どう思う、君たちは?」と彼は酒を飲んでる労働者らの方へ向いて叫んだ。 彼らは騒々しく笑った。 「きれいな商売だ。 」と一人が言った。 「 汚 ( きたな )かねえよ。 それに、女どもの気に入るからな。 」 クリストフにはまだフランス語がそうよくはわからなかった。 悪口はなおさらだった。 彼はなんと言おうかと考えた。 怒 ( おこ )っていいものかどうかわからなかった。 おかみさんは彼を気の毒に思った。 「まあ、フィリップ、冗談にしてるんだね。 」と彼女は亭主へ言った。 「でもたぶん、だれかあるでしょうよ。 」 「だれだい?」と亭主が尋ねた。 「グラッセの娘さん。 ピアノを買ってもらったっていうじゃないの。 」 「ああ、あの見栄坊どもか。 なるほど。 」 クリストフは肉屋の娘のことだと教えられた。 両親は彼女をりっぱな令嬢に育てたがっていた。 たとい近所の評判になるためばかりにでも、娘が 稽古 ( けいこ )を受けることを承知しそうだった。 宿屋のおかみさんがあっせんしてやろうと約束した。 翌日彼女は、肉屋のおかみさんが会いたがってるとクリストフに知らした。 彼は出かけて行った。 ちょうどおかみさんは、獣の 死骸 ( しがい )のまん中に帳場にすわっていた。 顔 艶 ( つや )のよい 愛嬌 ( あいきょう )笑いのある美しい女で、彼がやって来た訳を知ると、 大風 ( おおふう )な様子をした。 すぐに彼女は報酬の高を尋ねだして、ピアノは気持のよいものではあるが必要なものではないから、たくさん払うわけにはゆかないと急いでつけ加えた。 一時間に一フラン出そうときり出した。 そのあとで彼女は、半信半疑の様子で、音楽をよく心得ているのかとクリストフに尋ねた。 心得てるばかりでなく自分で作りもすると彼が答えると、彼女は安心したらしく、前よりも愛想よくなった。 自分で作るということが彼女の自尊心を喜ばした。 娘が作曲家から 稽古 ( けいこ )を受けてるという 噂 ( うわさ )を、彼女は近所に広めるつもりだった。 翌日クリストフは、肉屋の娘といっしょにピアノについた。 それはギターのような音がする、出物で買った恐ろしい楽器だった。 娘の指は太くて短く、 鍵 ( キー )の上にまごついてばかりいた。 彼女は音と音との区別もできなかった。 退屈でたまらなかった。 初めから彼の眼の前で 欠伸 ( あくび )をやり始めた。 そのうえ彼は、母親の監視や説明を受け、音楽および音楽数育に関する彼女の意見を聞かされた。 すると彼はもう、非常に 惨 ( みじ )めな気持になり、惨めな恥さらしの気持になって、腹をたてるだけの力もなかった。 彼はまた失望落胆に陥った。 ある晩などは食事することもできなかった。 数週間のうちにここまで落ちて来た以上は、今後どこまで落ちてゆくことであろう。 ヘヒトの申し出に反抗したのもなんの役にたったか。 現在甘受してる仕事の方が、さらに堕落したものではなかったか。 ある晩、彼は自分の室で涙にくれた。 絶望的に寝台の前にひざまずいて祈った。 だれに祈ったのか? だれに祈り得たのか? 彼は神を信じていなかった。 神が存在しないことを信じていた。 ……しかし、祈らざるを得なかった。 自己に祈らざるを得なかった。 かつて祈ることのないものは、凡人のみである。 強い魂にも時々その聖殿に隠れる必要があることを、彼らは知らないのである。 クリストフは一日の屈辱からのがれると、心の鳴り渡る沈黙のうちに、自分の永久存在の現前を感じた。 惨めなる生活の波は、彼の下に立ち騒いでも、両者の間には共通なものが何かあったか? 破壊を事とするこの世のあらゆる悩みは、その 巌 ( いわお )にたいして砕け散ったではないか。 クリストフは、あたかも身内に海があるように、動脈の高鳴るのを聞き、一つの声がくり返し言うのを聞いた。 「永遠だ…… 俺 ( おれ )は……俺は。 」 彼はその声をよく知っていた。 記憶の及ぶ限り昔から、彼はいつもその声を聞いてたのである。 ただ時々忘れることがあった。 往々幾月もの間、その力強い単調な 律動 ( リズム )を、意識しないことがあった。 しかし彼は、その声がいつも存在していて、暗夜に怒号する大洋のように、決して響きやまぬことを知っていた。 その音楽のうちに浸ることに、静安と精力とを見出してはくみ取るのだった。 そして慰安を得て 起 ( た )ち上がった。 否、いかほどつらい生活をしていても、少しも恥ずべきではなかった。 顔を赤らめずに自分のパンを食し得るのだった。 かかる代価をもって彼にパンを買わしてる人々こそ、顔を赤らむべきであった。 忍耐だ! やがて時期が来るだろう……。 しかし翌日になると、また忍耐がなくなり始めるのだった。 彼はできるだけ我慢をしてはいたが、ついにある日、馬鹿でおまけに横着なその 女郎 ( めろう )にたいして、 稽古 ( けいこ )中に 癇癪 ( かんしゃく )を破裂さした。 彼女は彼の言葉つきをあざけったり、小意地悪くも彼の言うところと反対のことばかりをしたのである。 クリストフが怒鳴りつけるのにたいして、この馬鹿娘は、金を払ってる男から尊敬されないのを憤りまた恐れて、 喚 ( わめ )きたてて答えた。 打たれたのだと叫んだ。 亭主 ( ていしゅ )の方もやって来て、プロシャの 乞食 ( こじき )めに娘に手を触れさせるものかと言い切った。 クリストフは 憤怒 ( ふんぬ )のあまり 蒼 ( あお )くなり、恥ずかしくなり、亭主や女房や娘を、締め殺すかもしれない気がして、 驟雨 ( しゅうう )を構わず逃げ出した。 宿の者らは、彼が 狼狽 ( ろうばい )してもどって来るのを見ると、すぐ事情をうち明けさした。 隣人一家にたいして好意をもたなかった彼らは、その話を面白がった。 しかし晩になると、ドイツ人の方こそ娘をなぐるような畜生だという 噂 ( うわさ )が、その 界隈 ( かいわい )にくり返し伝えられた。 クリストフは方々の楽譜店に新しい交渉を試みた。 しかしなんの 甲斐 ( かい )もなかった。 彼はフランス人を冷淡な人間だと思った。 そして彼らの乱雑な行動に驚かされた。 傲慢 ( ごうまん )専断な官僚気風に支配された無政府的社会、そういう印象を彼は受けた。 ある晩彼は、奔走の無結果にがっかりして大通りをさまよってると、向こうから来るシルヴァン・コーンの姿を認めた。 仲 違 ( たが )いをしたことと信じていたので、彼は眼をそらして、向こうの知らないうちに通り過ぎようとした。 しかしコーンの方で呼びかけた。 「あの日からどうしてたんだ?」と彼は笑いながら尋ねた。 「君のところへ行こうと思ったが、宿所を忘れたものだからね……。 君、僕は見違えていたよ。 君は実にえらい男だ。 」 クリストフはびっくりしまた多少 極 ( き )まり悪くもなって、相手の顔をながめた。 「僕に 怒 ( おこ )ってはいないのかい。 」 「君に怒るって? 何を 言 ( い )ってるんだ!」 彼は怒るどころか、クリストフがヘヒトをやりこめた仕方を、たいへん愉快がっていた。 おかげで面白い目に会ったのだった。 ヘヒトとクリストフとどちらが道理だか、そんなことは問題でなかった。 彼は自分に与えてくれる面白みの程度によって、人の顔を見てるのだった。 そして、きわめて面白い興味の種を、クリストフのうちに見て取って、それを利用したがっていた。 「会いに来てくれるとよかったんだ。 」と彼はつづけて言った。 「僕は待っていたんだ。 ところで今晩は、どうしてるんだい? 飯を食いに行こう。 もう放さないよ。 ちょうど仲間が集まることになってる。 何人かの芸術家だけで、半月に一度の会合なんだ。 こういう連中も知っておく必要がある。 来たまえ。 僕が紹介してやろう。 」 クリストフは服装がひどいからと断わったが 駄目 ( だめ )だった。 シルヴァン・コーンは彼を引っ張っていった。 二人は大通りのある料理店にはいって、二階へ上がった。 そこには三十人ばかりの青年らが集まっていた。 二十歳から三十歳ばかりの連中で、盛んに議論をしていた。 コーンはクリストフを、ドイツから来た脱獄者だと紹介した。 彼らはクリストフになんらの注意も向けず、熱心な議論を中止しもしなかった。 コーンも来る早々から、その議論に加わりだした。 クリストフはそういうりっぱな連中に 気後 ( きおく )れがして、口をつぐんだまま、懸命に耳を澄ました。 いくら耳を澄ましても、ようやく聞き取り得るのは、「芸術の威厳」とか「著作者の権利」とかいう言葉に交ってる、「トラスト」、「 壟断 ( ろうだん )」、「代価の低廉」、「収入額」などという言葉ばかりだった。 がついに、商業上の問題であることに気づいた。 ある営利組合に属してるらしい幾人かの作家が、事業の独占を争って反対の一組合が設けられるという計画にたいして、憤慨してるのであった。 数名の仲間が、全然敵方へ移った方が利益だと見て裏切ってしまったので、彼らは激怒の絶頂に達しているのであった。 頭をたたき割りかねないような調子で話していた、「……堕落……裏切り……汚辱……売節……」などと。 また他の者らは、現在の作家を攻撃してはいなかった。 印税なしの出版で市場をふさいでる故人を攻撃していた。 ミュッセの作品は近ごろ無版権となったので、あまりに売れすぎるらしかった。 それで、過去の傑作を廉価に 頒布 ( はんぷ )するのは、現存作家の商売品にたいする不公平な競争であって、それに対抗するために、過去の傑作には重税を課するという有効な政府の保護を、彼らは要求していた。 彼らは両方とも議論をやめて、昨晩の興行で某々の作品が得た収入額に耳を傾けだした。 その批評家は正直者であった。 一度約束をするとそれを忠実に果たした。 そういう話の間々に彼らは、たいそうな言葉を口にしていた。 「詩」のことを話したり、「 芸術のための芸術 ( ラール・プール・ラール )」の話をしていた。 騒がしい収入問題の中ではそれが、「 金銭のための芸術 ( ラール・プール・ラルジャン )」と響いていた。 クリストフは、フランス文学の中に新しくはいってきたこの周旋人的な風習に、不快の念を覚えた。 彼は少しも金銭問題がわからなかったので、議論を傾聴するのをやめてしまった。 そしてヴィクトル・ユーゴーの名前が聞こえたので、クリストフは耳をそばだてた。 それは、ユーゴーがその夫人から欺かれたかどうかの問題だった。 彼らは長々と、サント・ブーヴとユーゴー夫人との恋愛を論じ合った。 そのあとで彼らは、ジョルジュ・サンドの多くの情夫やその価値の比較を語りだした。 それは当時の文学批評界の大問題だった。 偉大な人々の家宅探索をし、その 戸棚 ( とだな )を検査し、引き出しの底を探り、 箪笥 ( たんす )をぶちまけた後、批評界はその寝所をまでのぞき込んだ。 国王とモンテスパン夫人との寝台の下に 腹匐 ( はらば )いになったローザン氏の姿勢は、ちょうど批評界が歴史と真実とを 崇 ( たっと )んで取ってる姿勢と同じだった。 この真実の探求においては、彼らは疲れを知らなかった。 彼らは過去の芸術にたいすると同じく、現在の芸術にたいしてもそれを試みていた。 そして正確さにたいする同じ熱情をもって、最も顕著な現代人の私生活を分析した。 普通だれからも知られないようなごく細かな情景にまで、彼らは不思議なほど通じていた。 あたかもその当事者らが率先して、真実にたいする奉仕の念から、正確な消息を世間に提供してるかと思われるほどだった。 クリストフはますます当惑して、隣席の人々と他のことを話そうと試みた。 しかしだれも相手にしてくれなかった。 それでも初めは、ドイツに関する 漠然 ( ばくぜん )たる問いをかけてくれた。 ハウプトマン、ズーデルマン、リーベルマン、ストラウス(それもダヴィドかヨハンかリヒャールトかわからない)、などという幾人かの偉人の名前を、彼らはようやく耳にしてるくらいのもので、そういう人たちのことをも、おかしな取り違えをしはすまいかと恐れて、用心深く話してゆくのであった。 それにまた、彼らがクリストフに尋ねかけるのも、ただ一片の 挨拶 ( あいさつ )からで、好奇心からではなかった。 彼らは少しも好奇心をもっていなかった。 彼の答えにもろくろく注意を払わなかった。 そしてすぐに、他の連中が夢中になってるパリーの問題の方へ、急いで加わっていった。 クリストフはおずおずと、音楽談を試みようとした。 がそれらの文学者中には、一人も音楽のわかる者はいなかった。 内心彼らは、音楽を下級な芸術だと見なしていた。 しかし数年来音楽が成功の度を増してゆくので、ひそかに不快の念をいだいていた。 そして音楽が流行になってるというので、それに興味をもっているらしく 装 ( よそお )っていた。 ことにある新しい 歌劇 ( オペラ )のことを盛んに口にしていた。 その歌劇こそ音楽の初めであり、あるいは少なくも、音楽に一新紀元を画するものであるとまで、唱えかねまじき様子だった。 彼らの無知と軽薄とはそういう考えによく調和して、彼らはもう他のことを知る必要を感じなかった。 その歌劇の作者は、クリストフが初めて名前を聞いたパリー人だったが、ある人々の説によれば、以前に存在しているすべてのものを一新し、あらゆる作を改新し、音楽を改造したのであった。 クリストフは驚いて飛び上がった。 彼は何よりも天才を信じたがってはいた。 しかしながら、一挙に過去を 覆 ( くつがえ )すそういう天才があろうか。 ……馬鹿な! それは 猪 ( いのしし )武者だ。 どうしてそんなことができるものか。 人々は説明に当惑し、またクリストフから 執拗 ( しつよう )に尋ねられるので、仲間じゅうでの音楽家であり音楽の大批評家であるテオフィル・グージャールへうち任せた。 グージャールはすぐに七度音程と九度音程とについて話しだした。 クリストフはその点で彼を追求した。 グージャールの音楽の知識は、スガナレルのラテン語の知識程度だった……。 )カブリキアス、アルキ・チュラム、カタラミュス、シンギュラリテル……ボニュス、ボナ、ボニュム……。 ところがグージャールは、「ラテン語を知っている」男を相手にしていることを見て取って、用心深く美学の 荊棘 ( けいきょく )地に立てこもった。 その攻略不可能な避難所から、問題外のベートーヴェンやワグナーや古典芸術を射撃し始めた。 (フランスでは、ある芸術家をほめる場合には、かならず他派の者すべてを血祭りにするのである。 )過去の因襲を 蹂躙 ( じゅうりん )して新芸術が君臨するのを、彼は宣言した。 パリー音楽のクリストファー・コロンブスによって発見された音楽の言葉のことを、彼は語った。 それは古典の言葉を死語となして、それを全然廃滅させるものであった。 クリストフはその革命的天才にたいする意見を差し控え、作品を見てから何か言うつもりではあったが、人々が音楽全体をささげつくしてるその音楽上のバール神にたいして、疑惑を感ぜざるを得なかった。 また楽匠らにたいするかかる言を聞くと、不快な気がした。 つい先ごろドイツにおいて彼自身、他の多くの楽匠らのことを 云々 ( うんぬん )したのは、もう忘れてしまっていた。 あちらでは芸術上の革命者をもって任じていた彼であり、批判の大胆さと血気に 逸 ( はや )った率直さとで他人の気を害した彼でありながら、フランスで一言発しようとすると、保守的になってるのをみずから感じた。 彼は論争しようとした。 しかも理論を提出はするがそれを証明しようとはしない教養ある人間としてではなく、正確な事実を探求しそれで人を押えつけようとする職業家として、論議するの悪趣味をもっていた。 彼は専門的な説明にはいることをも恐れなかった。 論じながら彼の声は、この選良たちの耳には聞き苦しいほど調子高くなっていった。 彼の議論とそれを支持する熱烈さとが、ともに彼らには 滑稽 ( こっけい )に思われた。 批評家グージャールは、一言の警句を吐いて、その途方もない議論を片付けようとあせった。 クリストフは、自分の言うところを相手が少しも知っていないのに気づいて、 呆然 ( ぼうぜん )としてしまった。 それから、この 衒学 ( げんがく )的な 陳腐 ( ちんぷ )なドイツ人にたいして、人々は一つの意見をたててしまった。 だれも彼の音楽を知らないくせに、くだらない音楽に違いないと判断してしまった。 けれども、ただちに 滑稽 ( こっけい )な点をつかむ 嘲笑 ( ちょうしょう )的な眼をもってる、それら三十人ばかりの青年らの注意は、この奇怪な人物の方へ向けられていた。 彼は手先の大きな 痩 ( や )せ腕を、拙劣に乱暴に振り動かし、金切声で叫びながら、激越な眼つきで見回すのだった。 シルヴァン・コーンは、友人らに茶番を見せてるつもりだった。 話はまったく文学から離れて、婦人の方へ向いていった。 実を言えば、それは同じ問題の両面であった。 なぜなら、彼らの文学中ではほとんど婦人だけが問題だったし、婦人の中ではほとんど文学だけが問題だった。 それほど婦人らは、文学上の事柄や人に関係深かった。 パリーの社交界に名を知られている一人のりっぱな夫人が、自分の情人をしかと引き止めておくために娘と結婚さしたという 噂 ( うわさ )に、彼らの話は落ちていった。 クリストフは 椅子 ( いす )の上でいらだちながら、 渋面 ( じゅうめん )をしていた。 コーンはその様子に気づいた。 そして隣りの者を 肱 ( ひじ )でつつきながら、あのドイツ人が話にやきもきしているところを見ると、きっとその婦人を知りたくてたまらながってるに違いないと、注意してやった。 クリストフは 真赤 ( まっか )になって口ごもっていたが、ついに憤然として、そういう女こそ 鞭 ( むち )打つべきだと言った。 人々はどっと笑い出してその提議を迎えた。 するとシルヴァン・コーンはやさしい声で、花や……何……何……をもってしても、婦人にさわるべきではないと抗議した。 (彼はパリーにおいて、愛の騎士であった。 人々はやかましく異議をもち出した。 クリストフは言った、彼らの 任侠 ( にんきょう )は偽善であって、婦人を最も尊敬しているらしい口をきく者こそ、最も婦人を尊敬しないのが常であると。 そして彼はその破廉恥な話を憤慨した。 人々はそれに反対して、この話には少しも破廉恥な点はなく、自然な点ばかりだと言った。 そしてこの話の女主人公も、ただ優美な婦人であるばかりでなく、卓越した 女性であるということに、皆の意見は一致した。 ドイツ人は叫びたてた。 それなら女性とはどういうものだと思っているのかと、シルヴァン・コーンは 狡猾 ( こうかつ )に尋ねた。 クリストフは 罠 ( わな )を張られているのを感じた。 しかし彼は奮激と確信とに駆られて、それにすっかり引っかかった。 彼はそれらの 嘲弄 ( ちょうろう )的なパリー人に向かって、自分の恋愛観を説明しだした。 しかし適当な言葉が見つからずぐずぐずその言葉を捜し求め、記憶をたどってはほんとうらしからぬ表現をばかりあさり、とんでもないことを言い出しては 聴 ( き )き手を愉快がらせ、しかもこの上なく 真面目 ( まじめ )くさって、笑われてもさらに平気で、泰然と言いつづけた。 いくら彼でも、厚かましく嘲笑されてることに気づかないではなかったが、それを気にかけなかったのである。 ついに彼は、ある文句にはまり込んで、それから脱することができず、テーブルを 拳固 ( げんこ )で一撃し、そして口をつぐんだ。 人々は彼をさらに議論の中へ引き込もうとした。 しかし彼は 眉 ( まゆ )をしかめて、恥ずかしげないらだった様子で、テーブルの上に両肱をつき、もう誘いに乗らなかった。 食ったり飲んだりすること以外には、食事の終わるまで、もはや歯の根をゆるめなかった。 葡萄 ( ぶどう )酒にろくろく口をつけようともしないそれらのフランス人に引き代え、彼はやたらに痛飲した。 隣りの男は意地悪く彼を励まして、たえず杯を満たしてくれたが、彼は何の考えもなくそれを飲み干していた。 彼はかかる暴飲暴食には慣れなかったけれども、ことにそれは数週間の節食の後ではあったけれども、よくもち堪えることができて、人々が望んでるような 滑稽 ( こっけい )な様子は見せなかった。

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ロマン・ローラン Romain Rolland 豊島与志雄訳 ジャン・クリストフ JEAN

異世界で土地を買って農場を 作 ろう 漫画 バンク

grand t"" 1909- UK Collection Solomon R. Guggenheim Museum cat. Guggenheim Foundation. New York. All rights reserved. Printed in Japan by Dai Nippon Printing Co. , Led. c June 20 - September 1 , 1991 GENHEIM M U S N e w York 本書 は 以下の 展覧会に 際して ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術館が 発行した カタログ である。 「グッ ゲン ノ 、ィ ム 美術館 名品 展 —— ピカソ 力、 ら ポロックまで」 1991 年 6 月 20 日 一 9 月 1 日, セ ゾン 美術館 主催: セゾン 美術館 朝 曰 新聞社 ソロモン 'R. Guggenheim Museum - cat. 45 I グッゲンハイム 美術館 名品 展 ピカソから ポロックまで —— モダン' ァ— 卜 50 年 一夢 '心' 実験 セゾン 美術館 1991 年 層 あいさつ 古今東西の 偉大な 鬼 集 家た ちが, その 情熱, 審美眼, 財力 を 注いで, 時には さまざまの 逸話, 奇行 を 残して 築き上げた 美術 コレクション は, 人類 そして 時代の 大きな 遺産です。 このたび セゾン 美術館で 開 催いた します 〈グッゲンハイム 美術館 名品 展 —— ピカソから ポロックまで〉 は, そうした 遺産の ひとつで ある ソ ロモン. グッゲンハイム 財団の コレクション を 展観す る ものです。 グッゲンハイム 美術館 は, 1937 年の 財団 創立 以来 一貫して, 時代に 先駆ける 国際主義と 前衛の 精神 を 運営の 基本 方針と してきました。 それ は コレクション や 展覧会, 1959 年に フランク 'ロイド• ライトに よって 設計 完成され た 美術館 建築に よって 如実に 示されて います。 新い、 ものの 伝統 を 築き上げる ことに 情熱 を 燃や した グッゲンハイム 家の 一族 は, 時代の 精神 を 芸術に 求め, 近• 現代の 美術に とって かけがえのない コレ クシ ヨン を 私たちに 残して くれました。 本展 は, ソロモン• 色, 形, 精神の 既成概念 を 解体 し, 実験的な 前衛 精神で 未知の ヴィジョンに 挑んだ モダニズムの 手探りの 創造 は, 芸術の 原点です。 1988 年, グッゲンハイム 美術館の 新館 長に 就任した トーマス• クレンズ 氏 は, 美術館と いう 施設 を 単な る 美の 収蔵 庫, 美の 墓場 力 、ら 解き放つ 大胆な 運営 構想 を 発表し ました。 現在の ニューヨーク, ヴヱネ ツイ ァの両 グッゲンハイム 美術館に 加えて, オーストリアの ザ ルツ ブルクに, ハンス• ホラインの 設計に よる 地下 美術館 を 建設し, 国際的な 協力 関係 を 樹立しょう という ものです。 さらに アメリカ 国内に おいて は, ニュー ヨークの ソ 一ホー 地区に 新 展示 スペース を 建設す る 構想, および マサチューセッツ 州の 文化 村 構想が 進 めら れ ています。 特定の 地域に 文化 を 限定 させずに, 広く 享受の 機会 を 与える という グッゲンハイム 美術館 の 新 構想に, 本展 共催 者と いたしまして 深い 敬意 を 表する 次第です。 本展 は, ニューヨークの ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術館の 増 改築に 伴い, 巡回 展 として 企 両 され, 1990 年 秋, ヴ エネ ツイ ァの パラ ッッォ 'グラッシ, 1991 年初 頭, マドリードの レイナ' ソフ ィァプ 術 館, そして このたび 東京の セ ゾン 美術館で 開催 される 運びと なりました。 本 展開 催に あたり, 貴重な コレクション を 貸し出して くださいました ソロモン 'R. グッゲンハイム 財団, そ して 日 本での 展覧会 実現に むけて 精力 的に 交渉 を 進めて こられました 卜一 マス• クレンズ 館長, マイ ケル• ゴヴ アン 副 館長, 学芸員 リサ 'デニソン 女史, 20 世紀 美術部 門 学芸員 カルメン 'ヒメネス 女史に 深甚なる 感 謝の 意 を 表します。 特に, ヒメネス 女史と その スタッフの シュナ イダ一 女史に は, 曰 本展の 責任者と して 企画 段階 力、 ら 多大な ご 尽力 をいた だきました。 謹んで 御礼 申し上げます。 最後に ご 後援いた だきました 外務省, 文化庁, ァメ リカ 大使館, イタリア 大使館, および 関係者 各位に も 心から 感謝の 意 を 表します。 1991 年 6 月 セゾン 美術館 朝日 新聞社 謝辞 1937 年の 創立 以来, ソロモン• グッゲンハイム 財団の 運営 指針と なって きた 国際主義の 精神 は, コレ クシ ヨンの 質 や 規模, ならびに 展覧会 プログラムの 奥行きの 深さに 反映され ています。 20 世紀 美術の さま ざ まな 国際的 局面に 深く 関与して きた グッゲンハイム 美術館 は, そうした 活動の 一環と して, 世界 各地で 開 かれる 重要な 展覧会へ 定期的に 収蔵 品 を 貸し出し, また 前例 は 少ない な 力; らも, 収蔵 品から 選び出した 作品に よる 海外 特別 展も 企画して きました。 し 力、 しな 力; ら, このたび セゾン 美術館で 開催され る 展覧会 は, こうした これまでの 活動と は 比較に ならない 規模 を もつ プロ ジヱ クト であり, 財団 所蔵の コレクションの 中核 をな す 20 世紀 美術の 最高 傑作が 数多く 出品され ています。 このような 大規模な 展覧会 を 実現させる にあたって, 私たち は ニューヨーク, ヴヱネ ツイ ァ, 東京の 多く の 方々 から, 深い 理解と 惜しみの ない 協力 をいた だきました。 この プロジェクト はまず 最初に, セゾン' コ一 ポレー シ ヨン 会長で あり, セゾン 美術館の 創立者で も あられる 堤 清 二 氏との 東京での 会談に 端 を 発し まし た 力;, 国際的な 文化 振興に おいて 大役 を 務めて こられた 堤 氏の 啓発 的な ヴィジョン は, 今回, 日本 展実 現に 向けて 努力して きた 人々 すべてに とって 大きな 励み ともなりました。 また, ともに 力 を 合わせて きた 仲間と して, セゾン 美術館の スタッフ 全員に 感謝の 意 を 表します。 とり わ け, こうし た 複雑 な プロ ジ ェク ト に は 不可欠の 揺る ぎない プロフェッショナル 精神 を 発揮され た セ ゾ ン 美術 館 館長の 紀 国憲 一氏に は, 心から 敬意 を 表します。 さらに 学芸 部長の 難 波英夫 氏お よび 学芸員の 荻 原 佐 和 子 女史 は, グッゲンハイム 側の スタッフと 協力して, この種の 展覧会に はっき ものの 複雑な 企画 運営 上の 実務 を 遂行し, 異文化 間の 難問 を 見事に 解決され ました。 本展 のよう な 規模と 質 を 備えた プ ロジェ 外 は, 関係 各位の 絶大なる 後援, 財政 的 支援な くして 実現す る こと はでき ません。 本 プロジェクト を 可能なら しめた セゾン' グループ ならびに 朝日 新聞社の 寛大なる ご 支 援に 深甚なる 感謝の 意 を 表します。 特に 朝日 新聞社の 中 江利忠 社長, 奥 尾 幸 一文 化 企画 担当, 富 岡 隆夫 文化 企画 局長に 対して, 謹んで 御礼 申し上げます。 本展 は, その実 現と 成功の ために 時間と 専門知識 を 惜しみな く 提供して くださった 多くの 人々 の 努力 に 負って います。 グッゲンハイム 財団の 理事, 飛 島 章 氏に は, 日本での 個人的 援助 や 助言 をいた だきました。 国際的 人脈 を もたれる 江 頭啓輔 氏に は, 特異な 日本の 文化 制度 や スポンサー 'シップの 在り方 を 理解す るう えで, 大いに 助けられました。 さらに は 東京 在住の 広報 コンサルタント, ジ エイムズ• ルディ 一氏に も, 多 くの 会合の 場で ご協力 を t けこ だきました。 ニューヨーク 市の ソロモン' R. グッゲンハイム 美術館, ヴ エネ ツイ ァの ペギー' グッゲンハイム' コレ クシ ョ ンの両 館の スタッフ は, この 一年 半, 本 プロ ジヱ クトを 実り ある ものにするべく, 誠意 を もって 惜しみな くその 時間と エネルギー を 提供して きました。 事実上 この プロジェクト は, ふたつの 美術館の すべての 部門, すな わち 学芸, 管理お よび 技術 部門まで, 全館 あげての 一大事 業と なりました。 全部 門が 一致 協力のう え, 出品 作品の 準備から 作品 輸送, 会場 構成な どの 複雑な 手続き, カタログ 資料の 編 慕まで, 資任を もって 職務 を 遂行して きたので す。 作品の 保全, 研究に は 終わりが ありません。 このような 大規模な 展覧会に 協力 を 惜しまな 力った スタッフ 全員 を ここにに; d する こと はでき ません 力;, プ ロジェ 外の 中心的役割 を 担った 何人 かにつ いて 名前 を 挙げて 感謝の 意 を 表したい と 思います。 作品 修復 の 主任で 技術 部門の 次長で も ある ポール• シュ ワルツ バウ ム氏, レジス トラーの エリザベス. カー ベンター 女史と ァソシ エー 卜 レジス トラーの ヴィク ト リア' ハーツ 女史, 業務 部門 マネージャ一 の スコット. ウィク ソ ン氏, 準備 調整 役の ァニ 'リヴ エラ 女史, 写真家の デ イヴ イツ ド 'M. ヒールド 氏, そして ここに 名前 を 挙げた 人々 の もとで 働く 有能で 勤勉な スタッフ 全員。 本展の 学芸なら びに 運営 上の 諸問題 は, 学芸 助手の クロ一 ディア' ダヴ イダ• ディ フヱン ディ 女史の 手腕で 見事に 解決され ました。 カタログ は 献身的な 著者 や 写真家 の グループの 貢献で 無事に 出版され ました。 彼らの 名前 は カタログに 記されて いる 通りです。 なかで も 研 究 担当の ァソシ エー 卜 キュレーター, ナンシー' ス ベクター 女史, 編集部 門 マネ 一ジャーの アン ソニー' 力 ル ネック 氏, 編集 助手の ローラ 'モリス 女史の 三人に は, 特に 感謝の 意 を 表します。 管理 運営に ついては, 財務管理 担当の 副 館長, ゲイル• ハリ ティー 氏, 法律 顧問の ジュデ イス• コックス 女史, 予算 企画 担当 マネ 一 ジャー, ハイディ 'オルソン 女史, 運営 担当 コ一 ディネ一 タ一の ブルック' バ 一バンク 女史な ど, 彼らの 協 力なく して は, 本展は 到底 実現し えなかった と 思います。 一方, ヴ エネ ツイ ァ において は, ペギー• グッゲ ン ハイム. コレクション 副 館長の フィリップ. ライ ランド 氏, 開発 広報 担当 コーディネーターの クロー ディア 'レツ ク 女史, 副 館長 アシスタントの レナ 一タ' ロッサー 二 女史な どの 理解と 協力に より, 展覧会の 企画から 実現 までの 各 段階に おいて, 円滑な 業務 遂行が 可能に なりました。 また マドリード では, マル ティナ 'ローザ 'シ ュナ イダ一 女史が 当地での 展覧会 開催に あたり, あらゆる 局面に おいて 尽力して くれました。 私 はこ こで 特に, 当初から この プロジェクト 全体 を 総監して くれた コレクション 学芸員の リサ 'デニソン 女 史, および 彼の 貢献な しに はこの ような 大規模な プロ ジヱ 外の 基盤 作り は 不可能であった マイケル' ゴヴァ ン副 館長, この 二人に は 深い 敬意 を 表します。 そして 最後に, 20 世紀 美術部 門の 学芸員, カルメン 'ヒメ ネス 女史に 対して, 私 は 心 力、 ら 感謝の 意 を 表したい と 思います。 彼女 は 今回, ニューヨークと 東京の 間 を とりもつ 強い 胖 となり, セゾン 美術館での 会場 構成に も 尽力して くれました。 ソロモン' R. 作品 索引 Index of Artists and Works ふ' ヤ"' 铺瞻咖 I き Ik. 序文 : コレクションの 成長に 関する メモ トーマス• クレンズ Z カルメン. ヒメネス 20 世紀 も 残す ところ 10 年と なり, ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術 節 は, 創立 以来 半世紀 を 経た ことにな る。 1937 年に 設立され た ソロモン 'R. グッゲンハイム 財団 は, ニューヨーク にある 同 美術館の 運営 を 総監す ると 同時に, この 15 年間 はヴ エネ ツイ ァ にある ペギー' グッゲンハイム. コレクションの 運営 を も あわせて 管理 してきた。 この 短い 年月に, グッゲンハイムの 両 コレクション は 世界で も 比類のない 近. 現代 美術館の ひと つと して, その 名 を 知られる ようになった。 コレクションに は, 19 世紀末から 今日に 至る までの 傑作の 数々 が 収められ ている。 例えば 戦前の 巨匠と して は, フィン セント. ファン' ゴ ッホ, ポール. セザ ンヌ, パブロ. ピカソ, ジョ ルジュ 'ブラック, ヮシリ 一' カンディンスキー, ノ 《ウル' クレー, カジ ミール• ラウ シ ェンバ ーグ, ロバート 'ライマン, ョ ーゼフ 'ボイス, ロイ' リキ テンス タイン, クレス' オルデン バーグ, リチャード. セラ, ダン 'フ レイヴ イン, ロバート 'モリス, ブルース. ナウマン など, 歴史的に もき わめて 重要な 作家の 名 を 列挙す る ことができる。 こうした コレクションの 質の 高さ や 奥行きの 深さ, 拡がり を 鑑みる につけ, 人はグ ッ ゲン ハイム 美術館が 熟慮の もとに 計画的な 収集 活動 を 展開し, 20 世紀 美術の 動向 やそこに 生まれた 主 要な 芸術家た ち を, 先見の明 を もって 捉えて きたと 想像す る ことだろう。 それ はむし. ろ, 収集と いう 行為 そのものの 適切 さと 幸運な 偶然と が 相 まって, 結果と して このように 偉大な 傑作が 一堂 に 集められ たという, ひとつの 稀 有な 事例な ので ある。 アメリカ や ヨーロッパの 他の 美術館に 同じく, 20 世 紀も 終わろう とする 今日に あって, 実際のと ころ グッゲンハイム• コレクションが 際立った 存在と なって いるの は, 情熱 的 かつ 往々 にして 風変わりで すらあった 好みに 従って 個人 コレクション を 形成して きた ひと 握りの 人々, すなわち 元来の 所有者た ちが 抱いて いた 興味 や 熱望が そこに 如実に 反映され ている からこ そな の である。 ともに これらの 個人 コレクション は, 最終的に ひとつの 公的 機関の 管理 下に 収められ たわけ だが, この 機関, すなわち グッゲンハイム 美術館 自体 もまた, 20 世紀 初頭に 深遠 かつ 難解な 信条 を 掲げて 設立 された きわめて 特異な 組織と いえる。 つまり それ は, ほとんど 非現実的 ともい える 神秘的な 抽象 概念に 則つ て 発足した 組織な ので ある。 こうした 個人 コレクション および グッゲンハイム 美術館 力; ともに 目指して いた も の は, 歴史, 文化 振興, あるいは 視覚 芸術に おいて 卓抜せ る もの, といった 観念に 深く 関与す る ことで あ つた。 個人 コレクションが 公的な 美術館の コレクションへ 変貌す る こと は, 特例 的で は あるが 美術館に とって は ン。 :!丄: ン'、 仏纖 不可欠な 移行で あり, この 過程な くして 美術館 は 存在し えない。 美術館 は 学芸 上の 考察に 則った 作品の 13 展示, および その 修復 や 保管な ど を 日常の 業務と する 機関 だ 力;, そうした 活動 を 通して, 文化が 生み出 す 有形の 作品 を 直接 目に する ための 環境 を 私たちに 提供して くれる。 それ は 美術館が 果たす 最 たる 社会 的 機能と もい える だろう。 世界 は 目まぐるしく 変化し, 過剰と もい える 視覚 イメージ は 日常の なかに 氾濫し て, 私たちの 感覚 を 圧倒しつつ ある。 し 力 七, そうした 現実に あって 刻々 と 育まれる 文化の 歴史 を, 本質 的に 認識し, 正しく 体験す る こと を, 美術館 は 現在の, そして 未来の 世代に 保証して くれる ので ある。 す なわち それ は, 本来 的に 脆弱な 美術 作品 を, 嗜好の 変転 や 時の 経過 力;' もたらす 破損から 守って くれる も のな ので ある。 それゆえに こそ, 美術館 は 私たちの 社会に あって 有意義な 存在と なって いる。 そうした 観 点から すると, 「恒久性」 と 「卓越 性」 は 美術館 学と いう 力学に おける 最 重要の 試金石と いえる。 すなわち そ れは, 美術館 運営と いう 社会的 役割 や 実践の 中で 反映され るべき, プロ フヱ ッシ ョナル としての 第一義の 尺度な ので ある。 し 力 七 一方で 同時に 美術館 は, 文化の 発展の 原動力 ともいうべき 革命 性 や 時代の 変化 にも 鋭敏に 反 しなければ ならない。 そして 当然の ことながら, 運営 そのもの を 時代 性 を 鑑みながら 用心 深く 進めなければ ならない ので ある。 「美術館に 相応しい 質」 を 備えた 作品と して 選ばれる もの は, ある 時 代の ある 瞬間に ユニークな 洞察 を 加えた 作品と いえる だろう。 美術館と は, 要するに 古き ものと 新しき もの との 間で, ダイナミック かつ デリケートな バランス を 保ち 続けなければ ならない 機関な ので ある。 そうした 際 に 個人 コレクションが 果たす 役割の 重要性 は, 強調 されても されす ぎる ことはないだろう。 それ は 作品と 公 的 機関との 間の 架け橋と して 機能し, あるとき は 全面的に 美術館へ 委託され, また あるとき は 絶え間なく 成 長し 展開し 続ける 美術館の 収集 活動の 対象と なる。 個人的な 興味 や 芸術 観に 則って, 個人 レヴェルで 作 品が 集中 的に 収集され 始める こと は, 最終的に 公的な レヴ ヱルの 機関 を 強化す る ことに 繋がる プロセスの 第一 段階と いえる。 グッゲンハイム 美術館が 迪 つた 歴史, そして この カタログに まとめられた 今回の 〈グ ッゲ ン ハイム 美術館 名品 展 —— ピカソ 力、 ら ポロックまで〉 は, ともに そうした 特異な プロセスの 豊かな 変遷 を, 雄弁に 物語る ものな ので ある。 17 世紀の オランダ 絵画 を 専門と する 高名な 美術史 家で, 長年に わたって ハーヴ ァード 大学の フォッグ 美 術 館の 館長 を 務めて きた シー モア' ス ライヴ 教授 は, 「優れた 美術館 コレクション は 優れた 個人 コレクション を 収蔵す る ことによって 形成され る」 と つねづね 語って きた。 この 言葉の 裏に は, 管理 運営 上 あるいは 学芸 上の 配慮から, 美術館 自体が ある 特定の 作家 や 傾向に 深々 とのめり こむ こと は 通常 不可能で ある, という 含意が ある。 つまり, 美術館の 館長 や 学芸員 は 職務 上の 責任に おいて, 慎重に 多方面の 知識 を 網羅す る ジ エネ ラリス ト た ら ねば ならな t 、 —— それ を ひとりの 美術館の 専門家と して ス ライ ヴ 教授 は充 分 に 認識 し ている, という ことで ある。 公的 財産の 管理者で ある 彼ら は, 情熱 的, 個性的, 時に 非理 性的 ともなりが ちな 特別な 関与 を, ある 一定の 作家 や 傾向に 対して 示して はならない。 たとえ それ 力;, 焦点 を 絞り 込ん 14 だ 奥の 深い 独創的な コレクションの 形成に 繫 がる 関与 だとしても である。 一方で まったく 反対の 立場に ある 個人 コレクター たち は, 公的な 基金 や 組織の 予算 を 使う わけで はない ので, 作品 購入に 際して 委員会 や 理事会な どの 承認 を 得る 必要 はいつ さいない。 その 意味で 彼ら は, 自分自身の 個人的な 視点で 自在に 作品 を 選ぶ ことができ, のちに 歴史に よって 正当化 されたり, あるいは 僅か 数年 後に 美術館 入り を 果たし たりし うるよう な クォリティー を もつ 貴重な 作品 を, 特権 的な 状況 下で 収集す る ことができ るので ある。 グッ ゲン ハイム 美術館の 歴史 は, まさに このような 個人 コレクション 形成の プロセス を 結集した 例と して 眺める こ と 力;' できる だろう。 それ は 基本的に 六 人の 優れた 個人 コレクター たちが 作り出した 物語と いえる —— ソロ モン 'R. グッゲンハイム, ジャス ティン•! ら 現代に 至る まで, すべての 偉大な 蒐集 家に 共通し た 側面, すなわち 所有 欲 あるいは 蒐集 癖 を, 巧みな 技術に より 迫真の 筆 使いで 描写して いる。 蒐集 家 は, 所有 せんがた めに 隠し, 力つ 隠す ために 所有した ので ある。 古代の このような コレクション は, 現代の 『ニューヨーク. タイムズ』 紙の 日曜版と 同じ こと をして いると もい える。 つまり, 日曜版の 情報量と 内容 は あ まりに も 膨大で, 大仰に 言えば 何百 ページに も わたるた め, 一週間 かけても 読み切れない という 現象が お きている という ことで ある。 量 への 盲目的 崇拝が, 嗜好, 審美眼 を 凌駕して いたので ある。 蒐集 家 は, 喩える に, 「性の 狩人」 (いわ ゆ る プレイボーイ) のよう だった。 彼ら は 深い 心の 結びつき など は 無視し, 相手 かまわず, ともかくも 自分の 意 のま まになる 女性の リストに, ひとりで も 多くの 女性 を 加える こと, それの みに 喜び を 見出す といった 類の 人 種で ある。 貴族で ある 蒐集 家 は, 金に あかせて, また ある 時には 盗んで まで も, 当時 誰もが 見る こと すらで きな か 19 つた 品々 を 独り占めに したの だった。 その後, 市民階級の 手に よる 美術館が 誕生して, 一般人が これら 個 人 コレクション を 鑑賞で きる ようになった にもかかわらず, 美術館す らも またもや フヱテ イシ ズムの 罪に 陥って しまう ことにな つた。 そして 昔の 王侯貴族 さながら, ひたすら 溜め こむ ことに 打ち込ん だので ある。 この 意味 で 美術館 は, 訪れる 人まで を もこう した 蒐集 家 病に 感染 させて しまう らしい。 つまり そこ を 訪れる 人々 にも, 自らが 持つ フェティシズム 的, 熱狂 的な 所有 欲 を —— もちろん 来 館 者に とって これ は 視覚 的で 一過性の 所 有 欲で しかない の だ 力; —— 呼び起こさせ るので ある。 美術館の 中の 全 作品 は, すべから く 「見る 」 ことが で きる からに は 「鑑賞」 されねば ならぬ ものと なり, その 結果, ゆったり と 「楽しんで」 鑑賞で きる 作品 は 皆無と な つてし まう ことが 往々 にして ある。 そして 二重の 犠牲的 儀式 を 行なう こ とになる。 すなわち 芸術愛好家 である 自分 達に 対する 自殺 行為と, 彼らが 愛して いる はずの 芸術作品に 対 する 殺害 行為の ふたつで ある。 真の 芸術愛好家 は, こうした 行動の 愚 力 七 さ をす ベて 承知して いるので, 美術館 を 訪れても, 一時に 一点ない し 二 点の 作品 を 鑑賞し, 発見す るに とどめて おくので ある。 いずれにせよ, それらの 作品が 当然 要求す る 情熱 や 注意力 を もって 作品 を 鑑賞す るなら ば, 他の 作品 を 同様に 見る ための 気力 は 残されて い ない というの が 実情であろう。 だから こそす ぐれた 美術館の ほとんど 力;, 喫茶 室 や 庭園 や ショップ など を設 けて いるので ある。 これら は, 未だに 美術館す なわち 墓場と 考えて いる 人々 の 多くが 思うよう に, 消費者 社 会に おける 妥協の 産物で はなく, 休息 や 小休止の ための 場な ので ある。 時間 を かけて 見て 回る 人々 に 適 切な ペース, リズム を 与え, また 美術館が 時として 誘発す る 不健全な のぞき 趣味 を やわらげて くれる 場と も なり 得る ので ある。 現代の 美術館 論に よれば, 美術館 所蔵の 宝 を 「隠す」 というより は 「見せる」 ための 新しい 方法が 確立 さ れ ている。 つまり, ひとつの テーマに 基づいた 特別 展ゃ, 取捨選択 を 可能に する 変化に 富んだ 展示 内容 などで ある。 優れた 美術館で は, 何よりも ゆっくりと 作品 を 見て 回る こと 力 《でき, また 見たくない 作品 を 取捨 選択す る 時間 も 与えられる ものである。 一例 を あげる と, グッゲンハイム 美術館で は 館内の 螺旋 構造に よ り, 必然的に 昇り 勾配 を 上がって ゆかなければ ならない ことから, 各人に 最適の ペースが 生まれ, ひたす ら先を 急ぐ といった ことがない ので ある。 しかした とえ 今日, 多くの 美術館が かっての 絵画 ギャラリー や 彫刻 コレクションの 抱えて いた 諸問題 を 解 決し 得た としても, およそ コレクションと 名のつ く すべてに 本質的に 内在す る 限界の 問題 は, 未解決の ままで ある。 美術 作品 は 特権 的な 場所に 収蔵され てし まう のが 普通で あり, 次の 二種 類の 人々 しか 簡単に 近づ けない。 原則として 関心が 薄い 地元の 人お よび 旅行者で ある。 旅行者 は 時間がない ために, せいぜい 20 ソロモン -R. グッゲンハイム 美 Photo: Robert た. Mates I 二, 三時 間, まるで 空襲の ように わつ と 侵入して くる 人達で ある。 この 限界と いうの は, 従って 展示され て いる 作品の ユニーク さに 力、 かってい る。 こうした こと 力、 ら, 何年 か 前に 高名な 建築家の コン ラッド• ヴ アクス マンが ひとつの 提案 をした。 巡回 美術 館, 巨大な 移動 コンテナ, 一種の サーカスの テントで ある。 テントの 壁に 最新 かつ 最高の プロ ジヱ クタ一 を 使って, 実物大の 美術 作品 を 映し出そうと いうので ある。 こうすれば, 地方 都市に 住む 人々 にも, 一週間 も あれば ルー ヴル 美術館 ゃェ ルミ ター ジュ 美術館の 傑作の 数々 を 楽しんで もらえる ので ある。 もちろん この 場合の 作品 は 本物で はない。 しかし 何もない より はずつ と 良いで はない 力、。 事実, フェラーラ にある 形而上 絵画 美術館 は, スライド のみの 収蔵ながら 成功して いる。 このように 歴史的 そして 教育的 配慮に 基づく 展 示 内容が 上手に 企画され, 力つ 優れた 技術的 手段が 使われるならば, そこ を 訪れる 人々 は, オリジナル に 基づいた 一定 水準の 複製 作品 を 充分 理解し, 楽しみ 得る ので ある。 何 世代に も わたり 音楽 愛好家 達 は, 今日で はとても 認めが たい レヴ ヱルの 録音 や 素人に よる 演奏 を 通して, 各 時代の 傑作 を 見出し, 楽し ん できた ではない か (し 力、 も 今日 ス カラ 座 や カーネギー' ホールに 集まる 聴衆, または コンパクトディスク を 買 つて 聴け るよう な 人々 と 比較しても, それら 昔の 愛好家 達の, バッハ, ベートーヴェン, ヴェ ルディに 対する 理解力が 劣って いたと は 考えられない)。 最近で は, 輸送の 便が 改良され, 梱包の 技術 も 進歩した おかげ で, さらに 新しい 現象 も 起きて いる。 すなわち 美術館 そのもの 力;', オリジナル 作品と ともに 移動す るので あ る。 今後こう した 展開 は 一層 盛んと なり, 美術 教育の あらゆる 分野に おいて 大きな 変化 を もたらす こと だろ ラ。 しかしながら, 私 は 安易な 楽観主義 を 唱え, こうした 新しい 試みに も 問題点の ある こと を 否定す る もので はない。 例えば 観光が ますます 盛んになる ことから, 芸術 都市と いわれる 街に 群衆が 殺到す る こと も 問題の ひとつで ある。 しかし この 問題に はもう ひとつの 側面が あり, それ は 現代が 抱えて いる 深刻な 矛盾の ひとつと もい える。 批評家, 歴史家, 教育家, 啓蒙 政治家の すべて は 口を揃えて, レモンの 花咲く 国々 へと 芸術の 旅に 出か け, スタン ダール 'シンドローム を 増長させる ような 少数の 幸運な 金持ち 紳士 淑女に のみ, 芸術作品 を 堪能 させて いて はいけ ない, と 言い 続けて きた。 とはいえ, 万民の ための 芸術と いう 民主的な 夢の 実現が 可能 になって みると, 万民と いう もの は あまりに も 多すぎる し, 群衆 は 芸術の 都, そして そこに 存在す る 数々 の 作 品 を, 危機に 陥れる 危険な 存在と なり 得る ことに 気付いた ので ある。 この 矛盾の 解決策 は 容易に は 見つ 力、 ら ないだろう。 だ 力;, 移動 美術館 や 特別 展の 開催に より, 社会的 階層に よってで はなく, 熱意の 度合に よって 訪れる 人々 を 選別す る ことが, ある 程度 は 可能で ある こと を 忘 22 れて はならない。 また 願わくは, これら 特別 展 などが すでに 観光の 名所と なって いる 都市で はなく, 辺鄙な 地方で, 未だ 芸術作品に 接する 機会 も 少なく, 新鮮な 感動 を 期待で きる ような 土地で, 数多く 開催され た らと 思う。 そうな つて こそ, 芸術 は 美術館から 外へ と 足 を 踏み出す ことにな り, 美術館 自身 も 自ら を 解き放つ ことと なろう。 訳 註 1 タ ビネ ズミ, 時に 大群で 移動す る。 また その 繁殖が 極に 達した 場合, 海に I ら j 力って 大 移動 を 起こし, 多数が 海中で 溺死す る ことで も 有名, 俗に 「レミ ングの 集団 自殺」 という。 ライトの 設計に よる かの 有名な 建物が 1959 年に オープンした とき, グッゲンハイム 術 館 はすで に 20 年の 歴史 を もち, さらに 30 年以 ヒ にわた つて 収集した コレクション を 保持して いた。 当初 はョー 口 ツバの 前衛 芸術の 傑作 を 集めた 個人的な コレクションに すぎな 力った ものが, ''1 リ j を 経て, 次第に 芸術 に 関心 を もつ ようになつ てきた 大衆 を 啓蒙, 教育す るた めの 専門 機 閱 へと 発展して いったの である。 この ヴィジョン, すなわち 純粋な 抽象 絵画と いう 基本 理念 は, ヒラ' リベ ィに よって 明確に 打ち出され, 画家 ヮシ リー. カンディンスキー によって 具体的に 提示され, ソロモン 'R. グッゲンハイム によって 財政 的に 支援され た。 こうして グッゲンハイム 美術館 は, 特異で ありながら も 目 を a はるよう な 作品, 数々 の 絵画 や ドロー イン グの 傑作 を 収集して ゆく ことにな つたので ある。 美術館 名に その 名が 冠され ている 創立者の ソロモン 'R. 教養 ある 裕福な 名門の 常と して, グッゲンハイム とその 夫 人 アイリーン• ロスチャイルド は 慈善の 精神 や 芸術的な 鑑識眼 を 養う 教育 を 受け, フランドル 派の 絵画 を 含 む 古典的 大家の 作品 や アメリカの 風景画 ,フランス' バル ビゾン 派の 油彩 両, あるいは オーデ ュ ボンの 版画 や 東洋の 彩 飾 写本な どと いった 美術 作品 を 収集す る, 熱心な 芸術の パトロン となった。 ヘン リ 一'フリック や 丄 P. モルガン といった 実業家に よる アメリカの 模範的な 美術 コレクションに 触発され, それに 倣おうと した グ ッ ゲン ハイム は, 専門知識の 欠如 や, 漠然とした 嗜好, そして 競争の 激しい 美術 市場への 参加が 比較的 ヒラ 'リベ ィ ""- 'ゾ ;哪 ""觀 遅かった ことな どに よって, 作品 収集 を 進めて ゆぐ ヒ での 指針 を もち かねていた。 し 力、 しな 力; らグッ ゲン ハイ ムの 美術の 嗜好 は, ドイツの 若き 男爵夫人, ヒラ. リベ ィ 'フォン. エー レン ヴィー ゼンと 1927 年に 出会う こと によって 大きく 変わった。 彼女 は, 同時代の ヨーロッパ 絵画の なかで も 最も 実験的な 動向に 彼 を 弓 I き 合わせ たので ある。 プロシア 軍人の 令嬢 ヒラ 'リベ ィは, 幼い 頃から 美術と 音楽 を 学び, 優れた 木版 両家お よび 画家と なった。 卓抜した 肖像画 家であった にもかかわらず, リベ ィは 最終的に ヨーロッパ 美術の なかで も最 も 急進的な 動向に 惹 きつけられ ていった。 前衛 芸術の 世界に 初めて 彼女 を 招き 入れた の は, 19 ほ 年から 17 年までの 間 リベ ィに 求婚し 続けて いた ダグの 芸術家, ジ ヤン' アル プ であった。 例えば 1916 年の クリス マ スに, 彼 は カンディンスキーの 著作 『芸術に おける 精神的な もの』 を 彼女に 贈り, また その 年, ベルリンの デ ァ. シュト ウルム 画廊の オーナー, ヘル ヴァル 卜 ヴァルデン を 引き合わせ ている。 彼女 は 1917 年, この 画廊 での 展覧会に 自らの 絵画 を 出品した。 同じ 展覧会に 出品して いた 口 ベール 卟' ローネー, アル ベール' グレ ーズ, カンディンスキー, なかで も 永年の 親友お よび 恋人と なった ルドルフ 'バウアー などの 芸術家に 感銘 23 を 受けた リベ ィは, 美術に おける 非 対象 性の 概念 を 様式の 上で も, 思想の 上で も 信奉す るよう になった。 現実 世界に 存在す る 形態 を 美的に 抽象化した 絵画と, 純粋に 美的な 結晶で ある 非 対象の 抽象 絵画 を 区 別して, リベ ィは 神秘的な 要素に 満ちて いると 信じた 後者に 身 を 捧げた。 14 歳の 時 ルドルフ' シュ タイナー の もとで 学んだ 難解な 神智学 も, 生涯に わたって 芸術に おける 精神 性 を 探求した 彼女の 思想の 形成に 深 く 寄与した と 思われる。 「非 対象 (ノン' ォブジ ヱクテ イヴ)」 という 言葉 は ドイツ語の 「ゲ一 ゲン シュ タント ロス」 を リベ ィが 翻訳した ものである。 これ は 文字通り 「対象がない」 こと を 言う。 カンディンスキーの 論文の なかに も 記され, また バ ゥァ 一と リベ ィの 間に 交わされた 書簡に も 頻繁に 現われる この 言葉 は, 彼女に とって 最も 高尚な 美的, 精神 的 原理の 統一 体 を 意味す るよう になった。 自らの 芸術的 使命 を 明らかにし たのち, 数年 経って から リベ ィ は 書いて いる。 「歴史が 始まって 以来, 物質 性から 精神 性への 発展に おいて, 対象 性から 非 対象 性への 絵画の 展開 ほど 重要な ものが 他に あるだろう か。 人間 は 創造力 豊かな ものと して 運命 づけら れ, 精神 性 を 深めて ゆく こと を 宿命と して 負って いるので ある。 それゆえ 偉大な 芸術, すなわち 素晴 しい 非 対象 絵画の 傑作 を 通し, 人間性 はより 優れた 直感的 能力 を 備え, 発揮す るよう になる の だ。 」 " 1927 年, リベ ィが アメリカに 移住す る 際に 堅く 心に 決めて いたの は, 非 対象 美術の コレクション を 確立す る ことであった。 その 年 ソロモン 'R. グッゲンハイムの 肖像画 を 依頼され た リベ ィは, 自身が 深く 傾倒して いた 非 対象 美術 を 広めて ゆく ため, 啓蒙 活動 を 始めた。 リベ ィの 熱意に 刺激され, また 収集の 対象と して さほど 注目 を 浴びて いなかった 美術の 分野 を 開拓で きる という 考えに 魅了され, グッゲンハイム は 1929 年 から, 非 対象 美術の 作品 を 計画的に 購入し 始めた。 グッゲンハイム (左から), バウ ハウス' デッサウ 校の カンディンスキー の 住居に て, 1930 年 夏 Photo: ! mm the A jt lures or the Solomon R. ijuggenheim Museum 26 1929 年 春, グッゲンハイム 夫妻 は リベ ィを 伴って ヨーロッパ 旅行に 出かけた。 デッサウの アド リエで カン デ インス キーに 紹介され た グッゲンハイム は, 重要な 油彩 画 《コンポジション 8》(1923 年 制作) を 購入した。 これ はの ちに 彼の コレクションに 入る 150 点 余りにの ぼる カンディンスキーの 作品の 購入 第一 号と なった。 バ ゥァ 一の 制作 費 を 全面的に 援助し, 彼の 作品 を コレクション に加えて ゆく 報酬と して, 月 々の 収入 を 彼に 与 える 約束 を グッゲンハイムに とりつける など, リベ ィは 自らの 非 対象 美術の ヴィジョン のなかで バウアー を特 別な 地位に 置いて いた 力;, 最終的に コレクションの 方向 を 定めた の は カンディンスキーの 作品の 存在で あ つた。 ロシア 生まれの ヮシ リー 'カンディンスキー は, 純粋な 非 再現 的 絵両の 先駆と も L 1 うべき 芸術家と 考えら れ ている。 大胆に 交わる 線 や 対照的な 形態が 描かれた 色彩 豊かな カン ヴァス は, お 名な 彼の 著作 『芸術 における 精神的な もの』 (1911 年) や 『点• 線 力 1 ら 面へ』 (1926 年) において 定義され ている 抽象 性の 哲学 を 明確に 体現して いる。 リベ ィと 同様, ルドルフ' シ ユタ イナ一の 神智学 や, 象徴主義と それに 先立つ ロマン 派, フランスの フォー ヴ イスム や ドイツ 表現主義の 画家た ちが 示した 強烈 かつ 直接的な 新しい 視点, ある いは アル ノルト' シェ一 ン ベルクの 無 調音 楽な どに 啓発され, カンディンスキー は 彼のい うと ころの 精神的な 調和と 共鳴す る 絵画 技法 を 編み出した。 色彩 を 音楽の 諧調に, 形態 を 特定の 感情に なぞらえる ことによ り, 彼 は 作家 自身の 「内なる 必然性」 ともいうべ きもの を 表現す る 手段 を 提示した。 カンディンスキーの 非 再 現 的な 形態 は, 実際に は 文学 や 生物学 上の 現象から 引用され た モデル を 抽象化した ものである ことが 研 究者 により 立証され ている 力;', 論文に 表わされた 彼の 思想 や 想像力 を 喚起す る その 作品 は, ヒラ 'リベ ィ自 身が 画家と して 目指して いた もの, あるいは 非 対象 美術の キュレーター として 希求して いた もの を, まさに 具現して いたので ある。 プラザ' ホテル 内の グッゲンハイムの 私室の 壁 は, まもなく 新しい コレクションで 一杯に なった。 当然の ことながら 彼 は これらの 作品 を 一般 公開し ようと 思いつき, 1937 年に 「芸術の 振興, 奨励, 教育と 大衆の 啓 蒙」 2 を 目的と した ソロモン 'R. グッゲンハイム 財団 を 創設した。 財団の 発足と ともに, グッゲンハイム は 増 え 続ける コレクション を 管理す るた めに 美術館 建設の 構想 を 立てる。 彼の 意図 を 知った ヒラ 'リベ ィは, この 夢 を 最良の かたちで 実現で きる よう 計画 を 練り 始めた。 1930 年代 以降の 彼女の 書簡 は, 非 対象 美術の 「神殿」 を 建設す るた めの 提案で 満ち 溢れて いる。 計画の なかには フレデリック' キースラーと エドムンド' ケ ルナ 一の 設計で ロック フヱ ラー 'センターに 展示場 を 作る こと や, グッゲンハイムが 土地 を 所有す るサ ウス キ ャロ ライナ 州の チャールストンに それ を 移設す る こと, また 1939 年の ニューヨーク 万国博覧会 において 円形 27 非 対象 絵画 美術館, 東 54 丁目 24 番地 Photo: fn Mttsetim Archives of the :Mlomon R. uuggenheitr パヴ イリオン を 特設し, そこで デビュー を 飾る ことな どが 含まれて いた。 結局 1939 年, グッゲンハイム は 東 54 丁目に あった 元 自動車 展示場の 建物 を 借り受け, 建築家の ウィリアム' ム一 シヱン ハイムの 助け を 借りた リ ベ イカ;, 機能的な 仮設 展示 スペースに 改築して, 「非 対象 絵画 美術館」 が 開設され る ことにな つた。 新し I 、美術館に は, 非 対象 美術の なかで も 最も 純粋に この 傾向 を 体現して t 、る 作品 だけ を 選んで 展示し, 通 常の 抽象 作品 や この頃す でに コレクションに 加えられ ていた 先駆 的な 前衛 芸術家の 作品 は, プラザ' ホテ ルの 私室に 残された。 美術館の 初代 館長に 就任した リベ ィは, 展示 室の 壁面 を ひだつ きのべ ロア 生地で 装飾し, 床 を 厚地の グレーの 滅毯で 覆った。 ビロード 張りの 凝った 椅子, 微妙な 間接照明, ショパンと バ ッハの レコード 音楽, 室内で 焚かれた 香な ど は, 訪れる 人々 に 精神 面での 啓発と 審美的な 快楽 を 与える た めの 工夫であった。 この 美術館 は 大成功 を 収め, のちに リベ ィが 歓迎し, 支援し, その 作品 を 展示す る ことにな つた アメリカ の 若手 抽象 作家た ちの 多く を 魅了した。 旺盛な 行動 力と 決断力 を 兼ね備えた リベ ィは, 東 54 丁目の 展示 室で さまざまな 美術展 を 企画す ると 同 時に, グッゲンハイムの コレクション を もとにした 巡回 展を 計画, 実施した。 チャールストンの ギプス 美術 画 廊 (1936 年 3 月 1 日〜 4 月 12 日), フィラデルフィアの アート' アライアンス (1937 年 2 月 8 日〜 28 日), および ボ ルティ モア 美術館 (1939 年 1 月 6 日〜 29 日) で 行なわれた 巡回 展 のために, 財団 は 非 対象 美術の 理論と 目 標 について リベ ィが 書いた 教育的 小論 を 掲載した カタログ を 出版した。 この 小論 は, 彼女が 形而上 的な 思考に 心酔し, 歴史 や 文化の 目的論 的な 進歩 を 決然と 信奉して いた こと を 示して いる。 リベ ィの 表明 は 今 日で は 時代遅れに 聞こえる かもしれ ない 力;, このような モダニズム 特有の 発想に 共鳴した 彼女の 著作 は, その 時代の 注目すべき 記録 資料と して 依然 貴重な ものである。 1943 年に ヒラ 'リベ ィは, その 頃に はすで に 華々 しい 活動 を 展開して いた 非 対象 絵画 美術館の 要請に 応じて, グッゲンハイム 'コレクション 全体 を 収蔵し, 財団の 諸 活動 を 円滑に 進める ために, 常設の 建物 を 建設す る 計画 を スタート させた。 この プロジェクトの ため, リベ ィは ただちに 有名な アメリカの 建築家, フラ ンク. ロイド. ライトに 設計 を 依頼す る こと を 決定した (この 依頼に ついては 明らかに アイリーン• グッ ゲン ハイ ムの 賛助 を 受けて いる)。 1910 年に ベルリンで 開かれた ライトの 展覧会 を 見て, また 彼の 著作 を 読んで, リベ ィは 彼の 芸術 性と 表現 方法に 自らと 同質の 精神 を 見出して いたので ある。 有機的 建築に 関する ライト の 記述 は, 彼女が 信奉して いた 芸術, つまり 創造者の 魂 を 率直に 表現した かの ような 倫理的, ユートピア 的 含蓄に 富んだ 革新的な 芸術 を 思い起こさせる。 ライト は 次のように 語って いる。 「地面から 光の 中へ 一 そうです。 建物 は そのよう に 造られるべき なのです! 建物ば かりではありません。 私たち は そのよう に 有機 的な 社会 を 造るべき なのです。 さもな くば 有機的な 建築な ど はありえ ません! …… 建築 を 愛する 私たち, 音 楽 や 絵画 や 彫刻, あるいは 生命 そのもの —— 何で あれそう した ものの なかに 見出される 偉大な 構造の 感 28 性 を, すべて 建築と して 捉えて いる 私たち は, ある 意味で 媒介 者, もしくは 伝導 者と して ft を 舞わなければ ならない のです。 ' ライトに 宛てた 最初の 手紙の 中で, リベ ィは 彼の 力強い 芸術的 感性と, 統合 的な お 機 的 境 を 設計せ ん とする 確固たる 意志に 訴えて, 次のように 書いて いる。 「私たちの 非 対象 絵画 コレクション を 収蔵す る 建 物の 建築に ついて, ぜひ ニューヨークに いらして 私と 話し う 機会 を 作って いただき たいと 存じます。 この 傑 作の 数々 は, それぞれ 空間の 中の し 力、 るべき 場に 配置され なければ なりません。 そして あなた こそ, その 可能性 を 探って 下さる 唯一の 方 だと 確信して います。 これらの 絵画 は いわゆる イーゼル 絵両 では ありませ ん。 それ は 秩序 そのもの であり, 新しい 秩序 を も 生み出す 作品です。 収められた' 今: 間に 呼応して 姿 を 変 え, それ を 修正し さえす るので す …… 私 は 挑戦す る 人, 空間 を 愛する 人, 独創的な 人, 勇気 を もって 実 験 を 試みる ことので きる 人, 聡明な 人 を 必要と しています …-" 精神的な ものの 神殿, モニュメント を 建設し たいので す! そして あなたの ご 助力 こそ 力;, それ を 実現させる もの だと 思う のです……」" この 最初の 手紙 を 皮切りに, ライトと リベ ィの 間で 頻繁な, 熱意に 溢れた 書簡の やりとりが 始まり, 1959 年に ライトが 亡くなる まで それ は 続いた。 この 年 は 美術館の 建物が 落成した 年で もあった。 何十 通に もの ぼ る 手紙に は, 16 年間に わたって 進められた 美術館 建設の 過程で, コンセプト や デザイン, 実際の 構造な どが 幾度と なく 変更され た 事実 力 《 うかがえ ると 同時に, 美術 や 建築に 関する 二人の ユニークな 哲学 や 思想 も 記されて いる。 1943 年 6 月に フランク 'ロイド' ライトと 財団の 間で 契約の 署名が 交わされて まもなく, 建物の 形態と 構造 非 対象 絵画 美術館, 5 番街 1071 番地. 1948 年頃 は 周囲の 環境に 合わせて 考えられるべき であると いう 信念 を もっていた ライト は, 適切と 思われる 用地の 選 定に 取り かかった。 候補地と して, ノ、 ド ソン川 を 見お ろす ブロンク ス, リバーデールの 緑 豊かな 土地, ニュ 一 ヨーク 近代 美術館に 隣接す る 西 54 丁目の 一角, および マディソン 街 東 37 丁目の 一区 画な どが 挙げられ た。 1944 年に は, 螺旋 構造の 建物の プランが 浮かび上がつ てきた。 螺旋 形 は, ライトが 1924 年に メリー ラ ンド 州の ゴードン. スト ロング' プラネタリウムの デザインに 初めて 取り入れ, のちに は サンフランシスコの V. モリスの 店舗に おいて 実際に 形と なった モチーフ である。 リベ ィ への 手紙の 中で 彼 は 「美術館 は 下方 か ら 上方に かけて バランス よく 延びた ひとつの フロアで あるべき です。 どこに も 切れ目が あって はなり ませ ん。 」 5 と 説明 している。 1947 年から 56 年まで, コレクション はこ こに 収蔵, 展示され る ことにな つた。 1956 年に 工事が 開始され ると, コレクション は 東 72 丁目 7 番地に 再び 移された。 リベ ィは東 54 丁目の 建物が もつ ていた 神殿 を 思わせる 雰囲気 を, 五番 街の 新しい 空間に も 再現 させよう とした。 豪華な 額縁に 入れられた バウア— や カンディンスキーの 作品 は, グレーの 布 張りの 壁に 展示され た。 リベ ィは 低い 位置に 架けられた 29 絵画 は 物理的, 精神的 経験 を 観る 者に 与える とし, 床 すれすれに カン ヴァス を 掛ける 展示 方法 を 用いた と ころ, 「•••••• 絵 をう まく 見る こと 力;' できる の は, カーペットに とまった ハエ だけで ある -…" 」 と 『サ タデー• レヴュ 一』 で 批判され た。 6 1945 年に ライト は, 「ザ• モダン 'ギャラリー」 と 称する 建物の 最初の プ レキシ グラス 模型 を 完成 させた。 ラ イトが 頭に 描いて いた 革新的, 急進的な デザイン, および 装飾的で 不自然な 雰囲気 を もった 五番 街の 元 住宅の 建物と は 正反対の 建築 理念が, この 模型に よって 明らかにされた。 コンクリート 製の 切れ目の 無い 傾 斜路 が, 約 100 フィート (30 メートル) の 高さに ある ガラスの 天窓に 向 力って 螺旋 状に 延びる ライトの 美術館 プラン は, 展示 スペースの 新しい 可能性 を 示す ものと なった。 全長に わたって この 傾斜 路に 隣接して いる 壁がん のよう な 個々 の 空間 力;', 主たる 展示 スペース となって いる。 ニューヨークの 碁盤の目の ような 区画に 合わせた 長方形の 基礎 部分に, キャン ティ レヴァ 一構造の 巨大な 螺旋 形の 建物が 屹 立して いる。 はじめは リベ ィの 住居と して 設計され, 今 は 「モニタ一' ビルディング」 として 知られて いる 小さな 円柱 形の 管理 用 棟 が, これにつ ながって いる。 建物 全体に わたって 中心的な モチーフ となって いる 円形 は, 窓の 格子の 細部 の 装飾 や, テラゾー (訳 註: 代理 石な どの 碎石を ちりばめた 研ぎ 出し モルタル のこと をい い, 通例 床に 用い る。 ) の 床, 外部の 舗 床, そして エレベーター 'シャフトと いったよ うな 内部構造にまで 使われて いる。 美術 館の 中心部 は 円柱 形の 吹き抜け になって いて, 建物の 内部 全体 を 見渡せる ようになつ ており, 来 館 者 は 館 内の どの 地点に いても, 自分た ちが どこに 向かって いるの 力、, どこ を 通って 来たの か を 知る ことができる。 また 傾斜 路を 降りながら 絵画 を 鑑賞す る ことができ, すでに 目に した 作品 も 改めて 同時に 眺める ことが で きる。 この 美術館の ために 描かれた 初期の デザインから, ライトの インスピレーションの 源泉 を はっきり とつ かむ ことができる。 上方に 向かって 延びて いる 螺旋 は, 祈りの 場所だった 古代 メソポタミアの 階段 状 神殿 ジ ッグ ラト を, ライトが 曲線 的に 解釈した ものである。 おそらく 彼 は 「非 対象 絵画の 神殿」 の 建設 を 望んだ リベ ィの 思い を 念頭に 置き, この 形態 を 選んだ ものと 思われる。 しかしながら, ライトの 建築が もつ 社会的 意味 30 合いに も 注目し なければ ならない。 リベ ィと ライト はしばしば 頃 想の 場と しての 美術館の 役割 を 論じて いた が, 一方で ライトの 方 は, 公共 的な 目的 を も 果たしうる 場と して 美術館 を 考えて いた。 通り抜け できる ォー プンな 車寄せ, 円 を 描く 傾斜 路, 庭, 取り払われた 間 仕切り, カフェ, 地下の 講堂な ど, すべての 要素 は 間断な く 人の 流れ を 誘導す るよう 設計され ていた。 そこで は 従来の 近代的な 美術館 建築 力; もつ 白く 四角 い 環境と は 反対に, 流動性 や 動き, 絶え間なく 変化す る 光景な どに 重きが 置かれて いたので ある。 1946 年, 新 美術館の 建設が いよいよ もって 急務と なりつつ あった 時期, 外観と 内部の 模型が 報道 関係 者に 公開され る ことにな つた。 「新 美術館 は ニューヨークで 最も 風変わりな 建物になる」 という 見出しで 書かれた 記事 は, 完成す る 前から この 螺旋 構造の 建物の 存在 を, 良い 意味で も 悪い 意味で も 世に 知らし める ことに なった。 そんなな かで ライト は 1952 年, ニューヨーク 近代 美術館の 建築. デザイン 部門の ディレクターで, 31 建設 中の ソロモン 'K. グッゲンハイム 美術館, 1957- 58 年頃 Pholo: William H. Short 建設 中の ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術館, 1958-59 年頃 Photo: William 建築家で も ある フィリップ 'ジョン ソンから 次の ような 提案 を 受け取った。 「ニューヨーク 近代 美術館 は あなた の デザイン を 展覧す る 個展 を 開く ことで, あなたの 設計す る 美術館に 対して 正式な 祝辞 を 述べたい と 考え ます -"… 一般の 人々 もこの 展覧会に 大きな 興味 を 覚える ことでしょう し, グッゲンハイム 財団に とっても 良い 宣伝と なること でしよう。 」 7 ライト は 彼に 同意した 力;', この 展覧会 は 結局 開催され なかった。 そして 一般の 人々 はこの 建物の 完成 を, さらに 7 年 もの 間 待つ ことにな つた。 殘ェ までに これほどの 時間 を 要した 原因 はいくつ かあつた 力;, 途 中で 用地が 拡張され たこと も その ひとつで ある。 東 89 丁目と 88 丁目の 角地が (それぞれ 1948 年と 51 年に) 購入され た 際, 螺旋の 構造 は 基本的に 変わらな 力った ものの, ライト は 建築 プランに 大きな 修正 を 加えた ので ある。 戦後の インフレ を 理由に 故意に 建設 を 遅らせて いた ソロモン 'R. グッゲンハイムが 1949 年に 亡 くなる と, 美術館の 新体制が 整う まで, さらに 工事 は 延期され た。 増大す る 一方の 建設費 を 憂慮して, 空 前 絶後の 規模の プロ ジヱ 外へ 抵抗 を 見せ 始めた 美術館の 理事に 対し, ライト は, この プロ ジヱ クトは ソロ モ ン 'R. グッゲンハイム を 記念す る 建物と して, 捉え 直されるべき だと 巧みに 提議した。 そして 美術館 は 1952 年, 正式に ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術館と 改名され る ことにな つた。 グッゲンハイム 美術館」 へ 名称が 変更され たこと は, 創立者の 死と ほぼ 同時 期に, 美術館の 基本 方針の いくつかが 修正され たこと を 反映して いる。 1948 年, 美術館 は ドイツ 絵画 を 専門に 扱って いた ニューヨークの 画商 カール 'ニー レン ドルフの 遺産 を そっくり 購入した。 これによ つて 18 点の カンディンスキー, 110 点の クレー, 6 点の シャ ガール, 12 点の ファイニンガー を 含む およそ 730 点の 作品が コレクションに 加えられる ことにな つた。 ニー レン ドルフの 遺産 力;', コレクション 拡大に 貢献した という こと 以上に, 美術館の 将来に とって 決定的な 意味 を もってい たの は, そのな 力、 に 表現主義 ゃシュ ルレ アリス ムの 重要な 作品が 含まれて おり, なかで も オスカー' ココシ ユカの 名作 《さまよえる 騎士》 (cat. 71 などが その後の 作品 収集の 視点 を 拡張する きっかけ となった ことで ある。 1950 年代 初頭, 美術館の 企画の 閉鎖 性 は 各方 面から 批判され ていた。 ヒラ' リベ ィは 台頭して くる 若手 芸術家た ち を 常に 受け 容れ, 支援して きたが, 彼女の 抱いて いた 非 対象 絵画の 基準 は 許容範囲が 狭く, 偏りす ぎている と 多くの 人が 見なして いたので ある。 1951 年, 『ニューヨーク 'タイムズ』 紙の 美術 評論家 ェ イリ一 ン. ローシュ ハイム (のちの エイ リ一ン. サー リネン) は, グッゲンハイム 美術館 力び 教育機関 として 免 税 措置 を 受ける こと は 正当 力り という 疑問 を 投げ かけ, また, 「そこ は 神秘的 言語が 話される 秘教 的, 才力 ルト 的な 空間」 8 と 評した。 このような 深刻な 諫言 を 受けて, 当時の 財団 総裁 ハリー 'F. グッゲンハイム は, 「有 対象」 な 近• 現代 美術の 作品 も 含めて 展覧して ゆく という 企画 方針の 修正 を 表明した。 9 ' リベ ィの 指揮 32 下に 美術館が あるかぎり は, 展覧 方針の 真の 改革 はもたら されな t 、と 実感した 理事た ち は, 彼女の 辞職 を 要求し, 彼女 は 1952 年 3 月に 辞任す る ことにな つた。 7 力; j 後, ジ ヱイ ムズ. ジョン ソン. ス ウイ一 ニーが 彼 な- の 後任と して 館長 職に 収まる ことが 発表され た。 現代 美術の さまざまな 動向の 作品 を 収集して ゆく 方針 を掲 げ, 学芸 的な 面に おいても, また 美術館 運営と いう 点に おいても, リ ペイよりも 幅広い 感性 を もって その 任 務に 取り組んだ。 リベ イカび 具体的 物質」 であるが ゆえに 彫刻の 価値 を 認めな 力った ことから, コレクション に は 彫刻 作品が ほとんど 収められ ていな 力、 つた。 こういった 欠陥 を 補正す るた めに, ス ウイ一 二一 は 積 Hi: 的 な 購入 計画 を 展開した。 1960 年に 辞任す るまで, 11 点の ブラン クーシ, 3 点の アル キ ペン コ, 7 点の カル グー, そして マックス 'エルンスト や アル ベルト' ジ ヤコ メッ ティの ブロンズ 彫刻 を 購入し, また そのほかの 重 要 作品と して は, ポール' セ ザンヌ の 《腕 を 組む 男》 や ジャクソン 'ポロック, フランツ. クライン, ヴィ レム. クーニン グ などの 抽象 表現主義 絵画 を コレクション に加えた。 ス ウイ 一二 一が 購入した 作品の ほか, 美術 館 は マルセル 'デュシャンと 共同で 「ソ シェテ• アノニム」 を 設立した キャサリン. ドライア 一の 遺産 28 作品 を 遺贈され ている。 このうち 最も 重要な 作品と して, ブラン クーシの 《フランスの 少女》 (1914—18 年 制作 , アル キ ペン コの ブロンズ 作品 (1919 年 制作), モンドリアンの 《コンポジション》 (1929 年 制作), グリスの 無題 の 静物画 (1916 年 制作), そして 1920 年代 初期の シュヴ イツ ター スの コラージュ 3 点な どが 挙げられる。 ス ウイ一 二一 が 館長 就任と ともに すぐさま 着手した 大 改革 は, 作品 購入 方針の 変更 だけにと どまら なかつ た。 就任した その 日に ヒラ 'リベ ィの もとで 働いて いた スタッフ のうち 10 人が 解雇され た。 1 の 美術館 運営の 専門家 ス ウイ一 ニー は ただちに レジス トラ一 を 採用し, 作品 修復の プログラム を スター 卜させた ほか, 写真 部門 を 新設し, 図書室 を 拡張した。 また 館内 展示 室の 大 改装が 行なわれ, ビロードの カーテンが 取り払 われた 清潔な 白い 壁に は, 金 や 銀の 華美な 装飾 付きの 木製 額縁から 解放され た 絵画が 架けられた。 さら にス ウイ 一二 一は, 倉庫 や プラザ' ホテルの 私室に 放置され たま まに なって いた 数多くの 有 対象 絵画の 傑 作 を 救い出し, 就任 後 まもなくして シリーズで 開いた 〈名品 展〉 の 目玉と した。 コレクション を 主体と した 美術 展と 交互す るかた ちで ス ウイ 一二 一が 企画した 特別 展は, 高い 評価 を 得て いる。 その なかには アメリカで は 初めての 口べ一 ル' ドローネーの 大 個展, ブラン クーシの 彫刻の 初の 回顧 展, そして 美術館と して 初め て 包括的に 作品 を 展覧した ジ ヤコ メッ ティの 個展な どが あった (三展 とも 1955 年 開催)。 さらに ス ウイ 一二一 は, 重要で は あるが それほど 高額で はない 作品 を 集めた 展覧会 を 企画し, 近' 現代 美術の コレクション を 持たない アメリカの 小さな 美術館 や 大学の ギャラリーに, 6 力 月から 9 力 月の 期間 貸し出した。 この 企画 は 実践 を 重ねて さらに 洗練され, 1980 年代に は 「グッゲンハイム 'コレクション 'シェアリング 'プログラム」 として 完全 化されて いる。 『非 対象』 は 言葉の 上での 迷妄で ある。 」 とス ウイ 一二一 は 述べて いる。 「グッゲンハイムが 収蔵す る 傑作の 重要性 は, 作品 そのものの 本質的な 美的 価値に あるので あって, 用語 上の 分類に 適合す る ことに ある わけ ではない —— とス ウイ一 ニー は 確信して いる。 これ こそ はさら に 注目すべき 点で ある。 」 と 記事 は 続いて い る。 11 ス ウイ 一二一 流の 展示 方法 は, 主題 上 あるいは 概念 上の 細分 化に よるので はなく, 作品 同士が 生み出 す 様式 的, すなわち 視覚 的な 相互関係 を 重視した ものであった。 例えば 彼 は, 美術 作品 は 自ら 語り, そ れ 自体と して 存在す る ものであるから, 教示 的な 解説 パネルで 補足す る 必要 はない とした。 彼 は 次の よう に 語って いる。 「作品と 作品の 間の 位置 関係 や 力関係 を 頭に 入れながら 展示す ると, 知識 を もっている だ けで は 理解で きない 視覚 的な 対比が 明確になります。 このような 相互関係 や 対照 関係 こそ, 年代 的, 史 的 論拠よりも, はるかに 重要な 視点 を 我々 に 与える ものな のです。 」 1 2 新 美術館に 関して ス ウイ 一二 一と ライトの 意見が 激しく 対立した 点 力;, この 展示 方法に あった。 当初, 美 術 館の 環境に 対する ス ウイ 一二 一の 実用主義 的な 意見 は, 美術館 を 膜 想, リラックス, 芸術 体験の ための 安息の 場で あると する ライトの 考え方と 真っ向から 対立した。 両者の 間で 交わされた 書簡に は, 建築の 細 部 だけでなく, 美術館の 果たす 役割に ついて しばしば 闘わされた 辛辣な 論争が 記録され ている。 ライトに とって 好運だった の は, ハリー. グッゲンハイム とその 夫人 アリシ ァが 味方に 付いて くれた ことで ある。 夫妻 はス ウイ 一ニーの 進める 抜本的な 改革 を 支持して はいた 力 《 , ソロモン 'R. グッゲンハイムと リベ ィが 抱いて いた 新 美術館 建設の 夢 を 受け継いで もいた。 管理 部門の オフィス や, 近代的, 専門的な 美術館に は 不可 欠の 修復 部門, 写真 部門, 作業用の スペース などの 拡充 をス ウイ 一ニーが 何度も 要求した 際に は, ライ トは 彼の 要望に 応える 努力 をした。 し 力、 し ライト は, 自然 光 を 採り 入れる デザイン や 緩やかに 傾斜の ついた 展示 室の 壁面, 彼が 選択した 全体の 色調に ついては, 館長の 反対意見 を 聴き 入れなかった。 ス ウイ 一二 一が 美術館の 内装 プランに 従う つもりがない こと を 知る と, ライト は 展示の 様子 力 巧 かがえ る 一連の 立 面 図 を 準備した。 「入口」 から 始まって 「水 彩の 世界」, 「ァヴ ヱ レー ジ 一 彫刻と 絵画」, 「道程」, そして 「名作 の 部屋」 へと いうよう に, それぞれの 展示 室に 名称が 与えられ ている 立 面 図 は, ライトが 思い描いた 展示 例 の 順路 を 図式 化した ものであった。 ライト は これら 一連の 立 面 図に 「ソロモン. グッゲンハイム 美術館: 三 次元 空間に おける ひとつの 試み」 という 小論 を 添えて, 美術館の 理事 を はじめ さまざまな 建築 雑誌に 配布 し, 彼の 意図 を 広めよう とした。 この 設計図に おいて ライトが 特に 強く 主張した の は, ガラスの ドームから, そして 螺旋 状の 外壁に 沿って 開いた 細い 帯状の ガラスの 隙間 を 通して 作品のう しろ 力 1 ら 入って くる 自然 光 34 フランク• ロイド• ライト, ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術館に て Photo: William H. Sliorl 33 であった。 彼 はまた, 降り注ぐ 光 を とらえて 屈折 させ, 自然が 作り出す スポットライトの ような 効果 を 出す た めに, 天窓 下の 壁に 鏡 を 取り付け たいと 考えて いた。 人工の 光 は 天候の 悪い とき や 夜間に のみ 使用され る ことになる。 この 照明 計画 を 弁護す るた め, 1955 年ス ウイ 一二一 へ 宛てた 手紙に, ライト はいつ もの 激しい 口調で 次のように 書いて いる。 「ご 承知の ように グッゲンハイム 美術館の 長所 は, 作家 自身が 見て いたと お りの 移ろい ゆく 光の 中で, そうした 光の 中で 見られるべく して 生まれた 作品 を, 正しく, つまり 『あるがままの 姿で』 鑑賞で きる 空間で あると いう 点に あります。 人間性 豊かな 人なら ば, 固定された 光の 中に ある 絵画 は 『固定された』 絵画に すぎない と 思う ことでしょう! このように 固定され る ことが 理想で あると すると, それ はつ まり 死が 人間の 理想の 状態 だとい うこと になります。 そこ は モルグ (死体置き場) となって しまう ので す 1. 13 螺旋 状の 傾斜 路に 沿った 絵画の 展示 プラン は, ライトの 立 面 図で 明らかにされ ている。 そこで は カン ヴ 了 入が, 緩 や 力、 に 傾斜した 床と 壁 を 背景に, まるで イーゼルの 上に 置かれて いるかの ように 少しう しろに 反 つて 展示され ていた。 ライト は 観る 者と 絵画との 距離 を 狭く する ことによって, この 建築の なかで 彼が 徹底的 に 追究して いた 等身大 (ヒューマン• スケール) の 概念が 具現され ると 考えた。 ス ウイ一 ニーと 理事た ち は, この 意図に 従えば 絵画が 建築に 従属し かねないと 懸念し, それより は 壁 力ち 突き出た 棒状の 支えに 絵画 を 架けて, 壁から 「浮かび上がらせたい」 と 思った。 自分の 案 を 弁明す るた めに ライト は 再度 ハリー. グッ ゲン 36 ハイムに 対して, 「美術の 世界に かって 一度 も 存在した ことのなかった, 途切れる ことのない 流れの ある, 美しい シンフォニー としての 建物と 絵画」 を 考えて いるの だと 説明した。 1" このような 理論 上の 闘い は, 内 装の 色彩 選びに も 及んだ。 ライトが 壁 を 柔らかい アイボリーに しょうと 考えて いたのに 対し, ス ウイ一 二一 を はじめと する 管理 側 は 建築家の 落胆 をよ そに 純白 を 好んだ。 ライト は 説得力の ある 大袈裟な 文体で この 件 について 考え を 綴った。 「色彩の 中で も 最も 自己主張の 強い 白 は 全 色 を 混ぜ合わせて できる 色で, そこに 強い 光が 当たる と 死人の ような 色調が 生まれます。 そうした 白 を デリケートな 絵画の 背景に 無理に 使用す ると いう こと は, 音楽で いえば オーケストラの 基音 を 高い ハ 調に とる ような ものです。 耳が遠い 人 は 別と し て, これが 音楽 そのもの を 破壊 するとい うこと は 容易に わ 力、 る はずです。 色盲の 人 は 別と して, 絵画の もつ 繊細な 色彩に とって, 背景の 白が 破壊的で ある こと は 一目瞭然 なのです。 背景の 方が 表面に なって しま う。 そして さまざまな 色彩 や 明暗の バランス も, 死人の 顔に とってかわられる 悲劇が 起こって しまう のです。 しかし 柔らかな アイボリーなら …… 競合 反応 を 起こさず, 共鳴しながら も 決して 目立たない 背景になります …… 」15 自身の デザイン, 建築 論 を 擁護して, 冴え渡る 口調で ライトが 闘わせた この 論争 は, グッゲンハイム 美 術 館 開館の 半年 前, 1959 年 4 月に 彼が 亡くなる まで 続いた。 ス ウイ一 二一 と ライトが 敵対 関係に あつたに も 力せ ホら ず, 1953 年に グッゲンハイム 美術館 は ライトの 業績 を 称える 海外 巡回 展を 行なった。 組み立てが 簡易で コストの 低い ュ一ソ 二 アン' ハウスの 例と して ライトが 設計した 7, 300 平方 フィートの 仮設 展示 館の 中に, 60 年間の キャリア のなかで 彼が 完成 させた さまざまな 建築 や プロジェクトが 多角的に 展示され た。 その なかには グッゲンハイム 美術館の 模型 も 含まれて いたが, その 内容が 明らかに なると, 人々 は 設計 段階の この 建物に 興味 を 力、 きた てられた。 当時の. 『ニューヨーク• タイムズ』 紙 は, 52 日間の 会期中 80,241 人の 観客が 同展を 訪れた と 報じて いる。 エイリーン 'B. サ一 リネン は 「グッゲンハイム は 五番 街 東 89 丁目の 一角 を, 少なく ともこの 時期, アメリカで 最も 活気に 満ちた 現代 美 術 館に してし まった。 」 と 書いた。 その 建築 を 肌で感じ, グッ ゲン ハ ィム. コレクション 力、 ら 選び 抜かれた 傑作に よる 開館 記念 展を 見ようと, 大勢の 人が 列に 並んだ。 オープン 初日 だけで 約 3, 000 人が 来 館した と 新聞 は 報道して いる。 ライトの 建築に 対する 意見 は 全般的に 好意的 ではあった 力 《 , 構造に 関して は コメントが 差し控えられ たようで ある。 両極端な 例 を 挙げる と, 『ァ一 キ テクチ ユラ ル' フォーラム』 誌に エミリ一' ジヱノ —ァ 一は, 美術館 は 「アメリカ 随一の 美しい 建物と なった …… 展示され ている 絵画から 主役の 座 を 一分た 37 りと も 奪う こと は 無い …… 」 と 書き, 別の 見方と して 『ニューヨーク 'タイムズ』 紙の エイダ' ル イーズ 'ハク スタ ブルの 記事 は, 「この 建築 は 美術館な どで はなく, フランク 'ロイド' ライトの 記念碑 以外の 何物で もない …… 」 と 述べて いる。 ' 7 工事の 終わる 2, 3 年 前 頃から, ライト はこの 建物 を 「ァ ーキ ミュージアム (建築' 美 術 館)」 と 呼び 始めて, 理事の 間に かなりの 警戒心 を 呼び起こ していた 力;, それ は 後に なって 評論家の 見 解 を 裏付ける 言動と して 取り上げられ たにす ぎなかった。 しかし 時が 経つ につれ, 芸術家 や 学芸員た ち は この 特異な スペースで さまざまな 試みが 実践で きる ことに 気付き 始めた。 ライトが 意図して いたよう に, 包み 込む ような 純粋な 曲線の みで 構築され た 内部 空間 は, 展示 方法, 展覧会, 美術 鑑賞の 新しい 可能性 を 示唆した ので ある。 開館 後 まもなく, ジ ヱイ ムズ' ジョン ソン' ス ウイ一 ニー は 館長の 職 を 辞し, 1961 年 トーマス 'M. メッサーが 新館 長に 就任した。 メッサーの 就任に 先立って, ミネアポリスの ウォー 力一 'アート' センタ一 所長 を 務めて 38 いた H. グッゲンハイムに 在籍した 間, ァ一 ナソ ンは 数々 の 重要な 美術展 を 企画し, フィリップ. ガストンの 回顧 展ゃ ニューヨーク では 初めてと なった 抽象 表現主義 を 概観す る 展覧会 を 企画した。 グッゲンハイム 美術館の 三代 目 館長の 任 を 受諾して すぐ, メッサー は 開館す る やた ちまち 世界的に 有名 になった ユニークで 新奇な この 美術館の, 事業 拡大に 着手した。 ス ウイ 一二 一の 仕事の 後 を 継いで, 彼 は 美術館 スタッフと 運営 組織の 近代化, 専門化 を さらに 進めた。 27 年間に わたる 館長 在任 時代, メッサー は 企画 展 のみならず, 増大す る 収蔵 品 を まとめた 意欲 的な 出版 事業 を 手がけた。 これ は 綿密な 分類 作業 と 学術 的な 研究 組織 を 必要と する 事業であった。 収蔵 品の なかの 傑作に 関する 詳細な 資料 は, 例えば ァ 39 ンジ エリカ' ザンダ 一'ルーデン シュ タイン 著の 二 巻から なる 『グッゲンハイム 美術館 コレクション: 絵画 1880- 1945 年』 や, ヴ イヴ イアン' エンディコット' バーネット 著の 『グッゲンハイム 美術館 ジャス ティン 'K. タン ハウ ザ—• コレクション』 の 中に 収められ ている。 グッゲンハイム 美術館 所蔵の 主要な 彫刻 作品 や 紙の 作品に つ いて は, 同じく バーネットが 現在 詳細な カタログ を 作成 中で ある。 美術館 開館から 3 年 経って, メッサー はス ウイ 一二 一が 排 した ライトの 斬新な 展示 プランのう ちいくつ か を 取り入れる ことにした。 当時 グッゲンハイム 美術館の 学芸員であった 口 一レンス' ァ ロウ ヱイ は, 画家 フラ ン シス. ベーコンに 宛てた 手紙の 中で メッサーが 手がけた 改装に ついて 次のように 述べて いる。 「開館した ての 頃, 壁 は 白く, 絵画 作品 は 壁面から 突き出す ような 格好で 飾られて いました。 現在 は そのような 方法 を とらず, 普通に 壁に 架けて います。 さらに 美術館の 壁面 は 真っ白で はなくな つたので, 以前の ように 来 館 者 力ぶ まぶし さ を 感じる こと もありません。 それば 力、 りか 絵画 は 傾斜 路の 角度に 合わせて 架けられ ており, 昔 のように 完全な 水平 垂直に 準じて 並べられて はいません。 人間の 視覚の 範囲 を 考える と, この 方が 安定し て 作品 を 鑑賞す る ことができる のです。 」' 8 メッサーの 指揮 下で, 企画 展と 出版 事業が 活性化され, それに 合わせて 学芸お よび 他の 専門 スタッフ が 増員され た。 作品の 購入に 関して はス ウイ一 ニーの 考え方 を 受け継いで, 広範囲に 収集す る 方針が 採 られ た。 レジ ヱの 後期の 絵画 《大 パレード》 ( 1954 年 制作 , エゴン. シ一レ の 《ヨハン' ハルムスの 肖像》 1916 年 制作 , フラン ティ シェーク• クプカの 《色彩に よる 平面 構成, 裸婦》 (1909- 10 年 制作, cat. 45 , コン スタン ティン• ブラン クーシの 大理石 彫刻 《ミュー ズ》 (1912 年 制作, cat. 32 の ほ 力、 ホアン' ミ 口, アレクサンダー. カル ダー, パウル 'クレー, ジ ヤコ メッ ティな ど 多数の 作品 力;', 近代 美術の 傑作と して コレクションに 加えられた。 現代 美術の 作品に も メッサー は 目 を 向け, (彼のお 気に入りの) ジ ヤン 'デ ュビュ ッ フエの 絵画 数 点, フランシス• ベーコンの 三連 画の 大作 《磔刑 図の ための 三 点の 習作》 (1962 年 制作 , デ イヴ イツ ド 'ス ミスの ステンレス 彫刻 《キュー ビ XXVIDM1965 年 制作 , ロバート' ラウシェンバーグの 《レッド• ペインティング》 (1953 年 制作), アン ゼルム 'キーファーの モニュ メンタルな 作品 《熾 天使た ち》 (1983-84 年 制作) など を 購入した。 国際的な 視野 を もった 前衛 芸術の 支持者 メッサー は, 在任中 ラテンアメリカ や 東 ヨーロッパの 作品 も 収集した。 彼お よび 学芸 スタッフが 企画した 美術展 も 多彩な 内容 を もつ ものであった。 1963 年の 〈カンディンスキー 大 回顧 展〉 は, 近代 美術の 先駆者 を 紹介す る 一連の 企画の ひとつで あり, また 同じ カンディンスキー でも, 1982 年から 85 年に かけて 三回の シリーズで 開かれた 展覧会 は, 時代 ごとに 異 なる 彼の 様式 を 学術 的に 探求した ものと なった。 1965 年の 〈グスタフ• クリムトと エゴン' シーレ 展〉, 1967 年 の 〈クレー 回顧 展〉, 1971 年の 〈ピート' モンドリアン 生誕 100 年 記念 展〉, そして 1973 年に 開かれた 〈ミロ 展〉 で 作家と 詩の 世界の 関わりに 焦点 を 当てた ものな ど はほんの 一例に すぎない。 また, 昨今の 現代 美術の 40 作家 を 取り上げた 展覧会と して は, 1969 年の 〈ロイ' リキ テンス タイン 展〉, 1970 年の 〈カール. アンドレ 展〉, 1971 年の 〈ジョン• チヱ ン バレン 展〉, 1972 年の 〈ェ ヴァ 'ヘッセ〉 展, 1979 年の 〈ョ -ゼフ 'ボイス 展〉, さらに 1986 年の 〈エンツォ 'クッキ 展〉 などが ある。 1963 年, ジャス ティン 'K. タン ハウザー 'コレクションの 中から, 印象派, 後期印象派, 近代 フランス 絵画 などの 貴重な 作品 を 永久 寄託され, グッゲンハイム 財団の コレクション は 一挙に 豊かな ものと なった。 (その 後 1976 年に はこの 寄託 作品 すべてが 法的に 財団の 所有と なった。 ) タン ハウザー 'コレクションの 寄託に よ り, 既存の 収蔵 品に 先立つ 時代の 様式 を 歴史的に 概観す る 重要な 作品 群が 付加され, また ピカソ ゃェコ ール 'ド' パリの 作品が さらに 充実す る ことにな つたので ある。 美術館 は, これによ つて 新たに 加わった セザ ンヌ, ゴーギ ヤン, ピカソ, モ ディ リア一 二 を はじめと する 作家の 絵画 や 彫刻 作品 を 適切に 展示す るた め, スペース を 拡張する 必要に 迫られた。 1965 年, モニタ一' ビルディング (管理 用 棟) の 二階に ジャス ティン• タン ハウザー 'ウィングが 増築され, 事務所, 図書室, 収蔵 庫の 移転が 行なわれた。 実務 スペース も 拡張する ことにな り, 財団 は ライトの 建築 思想 を 受け継いだ タ リア セン 建築 設計 事務所に 依頼して, 以前 ライトが ァ ネック ス 用に 考えて いた 美術館の 裏地に, 本館と 隣接す る 建物 を 増築す る 計画 を 立てた。 ライ トの 女婿 ウィリアム' ゥヱス リー' ピータースの 設計で 1968 年に 完成した 新しい ァ ネック スは, 当面の 機能 上 の 問題 を 軽減す る ことにな つた。 例えば 螺旋 構造の 建物の 7 階に あった 修復 部門が ァ ネック スに 移った こ とに より, 初めて この 建物 全体が そっくり 展示に 使用され る ことにな つた。 ァ ネック スは 6 階 建になる はず だ っナ こが, 予期し なかった 予算の 削減で 4 階 建に 変更され た。 しかし 運営 陣は いずれにせよ 将来 さらに スぺ ースを 拡張せ ざる をえ なくなる と 予測して, 基礎 部分 を 10 階 建の 容量に も 耐えられ るよう 設計し 施工す るよ うにした。 グッゲンハイム 美術館の 歴史 は, 美術館 内部の 成長と, 刻々 と 変化す る 社会の 文化的な 欲求の 双方に 左右され た 紆余曲折の 変遷, あるいは それらに よって 必然的に 要求され た 変革の 歩みと もい える。 タン ハ ゥ ザ—. コレクションが 遺贈され て 以来, グッゲンハイムの コレクションに は 続々 と 寄贈 作品 や 購入 作品が 加 えられて いった。 また その 間に も, 館内の スペース や 諸 施設が 絶えず 整備され, 来 館 者に 新しい サ ーヴィ スを 提供す るよう になった。 館内の 配置転換 や 環境 整備が 進められ ていた 時期, グッゲンハイム 美術館が 最も 大きな 関心 を 示した の は, 収蔵 品の 中から 限られた 作品の みならず, ある 程度の 量の 作品 を 常設 展 示で きる スペース を 確保す る ことであった。 さらに 近年, 傾斜 路 沿いの 展示 スペースに は 収め きれない 大 きさの 現代 美術 作品 を, 適切に 展示し うる スペース も 必要 だとす る 声が 上 力ら た。 展示 スペース 確保の た めに 何度も 繰り返された 事務所の 移転, それによ つて 生じる スタッフへの 物理的な 制約, および 美術館 業 務の 急速な 拡張 は, 1980 年代 初頭に は 素早い 対応と 解決 を 要する 案件と なった。 1982 年に 財団 は グァ一 41 ス メイ 'シ 一 ゲル 建築 設計 事務所と 契約 を 結び, ライトの 建築 を 損なう ことなく, 新 展示 室 を 増設し, 同時 に 運営 管理 部門の スペース 不足 を 解消で きる ような デザイン を 依頼した。 1988 年に 館長 を 辞任す る 前, メッサー は 新たに タワー を 建設す る こと を 提案した。 これ は 螺旋 構造の 本館に 隣接して 建設す る 予定 だつ た ライト 設計の 12 階 建の 別館 を 基に した アイディアであった。 この 別館が 完成 すれば, 事務 関係の ス タツ フが そこに 移転して, スタッフ 以外 は 立ち入り禁止だった モニター 'ビルディング も 一般に 解放され る ことに なる。 新設され る 4 つの 四角い 展示 室 は, 中央の 螺旋 状の 吹き抜け スペースに 向かって 開く かたちになる ため, 人の 流れが 妨げられる こと はなく, ライトの 建築の 根底に ある 基本 理念と も 一致す る。 現存の 建物の グ アース メイ. シ— ゲル 建築 設計 事務所に よる 増築 各部が 空間 上 連結され る ことによって, 初めて 来 館 者 は ライトが 設計した ふたつの 建物の 内部 をく まなく 見 工事, 1990 年 Photo: David HeaU 学し, 収蔵 品の 総合的な 展示 を 鑑賞 できるようになるの である。 グッゲンハイム 美術館 は, 異なりながら も 密接に 連関した ふたつの 歴史的 側面 を 展開して きた。 それら は 美術館 を ユニークな 文化 機関と して 成長 させた 基本的な 姿勢と もい える。 第一の 側面 は 美術館 建設に ' 関連して いる。 創設 期の 運営 陣は新 美術館 建設に あたって, 単なる 機能的な 建物で はなく, 生きた 記念 碑の ごとき 建物 を 設計す る ライトの ような 建築家 を 指名した わけ だ 力、 それ は 芸術的な 形態と 革命的な 精 神 を 敬愛す る 姿勢だった といえる。 今日の 美術館 員た ち は, ライトの 素晴らしい 建物の 住人で ある だけで なく, この 文化財の 管理人で も ある。 現在 は大 改築 計画の 初期の 段階に あるが, 美術館の 建物 を 構成す るすべ ての 要素 を 元の 状態に 戻したい という 運営 陣の 希望に 従って, この 事業 は, 文化財 修復 を 主 目的 とする かたちで 史実に 則って 正確に 進められる ことにな ろう。 第二の 側面 は コレクションに 関連して いる。 グッゲンハイム 美術館の コレクション は, のちに 拡大され 補充 され はした 力;', 忘れられた ことのない ひとつの 夢に 端 を 発した ものである。 現在の 美術館の 収蔵 品 は, 大 半が かって 個人 コレクションであった もので あり, 今日で も その 形跡 は 構成 上の 分類に 残されて いる。 それ は ソロモン 'R. グッゲンハイムの 個人 コレクション を はじめ, ヒラ 'リベ ィ, カール 'ニー レン ドルフ, キャサリン 'ドライア一, ジャス ティン 'K. タン ハウ ザ一 などが 収集した 美術品で あり, 最近で は ジュゼ ッぺ' パンツ ァ' ディ' ビゥモ の 優れた ミニ マル 'アートの コレクションが 加えられた。 これら は 歳月と ともに ひとつの コレ クシ ョ ンに まとめられ, 網羅 的で はない にせよ, 19 世紀末 力、 ら 20 世紀の 美術 を 通観で きる ような 広 力; り を もつ よう になった ので ある。 グッゲンハイム 美術館が 優れた コレクション を 形成して ゆく 過程で, 陰ながら も 大きな 貢献 を 果たした 人 物の 筆頭に, ペギー• グッゲンハイムの 名 を 挙げなければ ならない。 運営 管理 上 はまった く 自立し, 力つ 地 理 的に は 完全に 離れた ところに ありな 力; ら, ヴ エネ ツイ ァの ペギー. グッゲンハイム 'コレクション は, ペギー が 彼女の コレクション とそれ を 収蔵す る パラ ッッォ 'ヴ ェニェ 'ディ' レオ一 二と を あわせて, ニューヨークに 42 本拠 を 置く ソロモン 'R. グッゲンハイム 財団に 移管した 1976 年 以来, 財団に とって 不可欠な 一部と なって い る。 300 点 以上の 作品 力、 ら 成る この コレクション は, 特に キュ ビス ム, シュ ルレ アリス ム, そして 抽象 絵画の 名高い 傑作 を 数多く 擁して いる。 彼女の 叔父 ソロモンと は 異なり, 時代の 流れに 鋭敏に 反応す る 感性 を備 えていた ペギー は, とりわけ シュ ルレ アリス ムゃ 戦後 まもなく 台頭した アメリカの アクション 'ペインティング などの 動向に 注目した。 結果 的に 彼女の コレクション は, ニューヨークの ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術館 の コレクションの 中で 欠落して いた ジャンルの 作品 を補塡 する ことにな つた。 ふたつの コレクションの 統合に よって, 複雑 かつ 多様な 展開が 見られた 20 世紀 美術の 足跡 を, 両 大陸に わたって 迪る ことが 初めて 可能 になった ので ある。 一世 代 前に 一族が 後に した ヨーロッパへ, 逆に 脱出した ぺギ 一グッゲンハイム は, 常に 反逆児 的な 生 き 方 をして きた。 裕福で, 活発で, 反骨精神に 満ち 溢れて いた 彼女 は, 一族の 多くの 者が 次々 と 事業 を 拡大し, 帝国 を 築き上げて ゆく の を 横目に, 冒険と 刺激 を 求めて やまなかった。 40 歳 を 迎えた とき ペギー は, 彼女の 天職 ともいうべき 役割に 目覚めた。 それ はま さしく, 芸術の パトロンと なること であった。 1938 年 1 月, グッゲンハイム 'ジ ユー ヌ 画廊 を ロンドンに 開いた ペギー は, 創設に あたって 彼女の 友人で あり, 芸術 仲間で もあった マルセル 'デュシャンと サミュエル• ベケットの 二人から, 学識 的, 芸術的 側面からの 助言 を 得た。 1939 年 3 月, ペギー はこの ギャラリーの オーナーの 座を讓 り, 力、 わりに 近代 美術 を 専門と する 美術館の 設立 を 決意し た。 美術史 家お よ び 批評家の ノ 、一バート' リードに 館長の 任 を 要請し, 共同 で 20 世紀の 美術 を 正確に 体現して いる 作品の 創造者, すなわち 代表的な 画家 や 彫刻家の 選出 をまず 行なった。 のちに デ ュ シャンと ネリー 'ファン' ドゥー ス ブルフに よって 改訂され る ことに なるこの 選択 を もとにして, ペギー は 彼女 の 個人 コレクションの 核と もなる 作品 を 収集して いった。 迫りく る 戦争の 影, 適当な 美術館 建設 用地が 見つ からなかった こと, そして 何よりも ペギー 自身の 熱が 冷めて しまった ことから, 結局 この 美術館 構想 は 立ち 消 えとな つた。 しかし ペギー は, ヒットラーの 軍隊が パリに 迫り, いよいよ この 地 を 離れざる をえ なくなる まで フ ランスに 留まり, 絵画 や 彫刻 を 購入し 続けた ので ある。 当時 彼女 は 「一日に 一枚の 絵 を 買う こと」 を モットー にして おり, 自叙伝 『今世紀から』 によれば, この モット一 は 忠実に 守られたら しい。 こうして ブラン クーシの 《マイ ァス トラ》 (1912 年? 制作, cat. 31 , 《空間の 鳥》 (1932- 40 年 制作), ジ ヤコ メッ ティの 《喉 を 斬られ た 女》 (1932 年 制作, cat. lll , さらに ヴィク トール' ブラウ ネル, サ ルバ ドール. ダリ, ジ ヤン' エリオン, マン. レイ, フェル ナン' レジェら の 作品 力;', フランス を 去る までに 彼女の コレクションに 加えられ ていった。 第一次世界大戦が 勃発し アメリカに 帰国した ペギー は, 1942 年, ただちに ニューヨークの 57 丁目に 近' 43 ペギー• グッ ゲン 作品の 前で Photo n. この 「今世紀の 美術」 画廊の 設計 を 依頼され た フレデリック' キー ス ラ 一は, きわめて 実験的な 空間 を 作り出した。 叔父 ソロモン カラ イトに 新 美術館の 設計 を 依頼す るより 一年 早く, ペギー は その 空間 自体が ひとつの 芸術作品 となる ような 画廊 を 現出 させた ので ある。 「キースラー は 実に 素晴らしい 画廊 を 作って くれた。 まるで 劇場の ようで, し 力、 も 限りなく 独創性が ある。 」 と 彼女 は 自叙伝 のなかで 述べて いる。 「かって このような 画廊 を 見た ことがあ るだろう 力、。 あまりに も 展示 方法が 奇抜す ぎて 絵画の 影が 薄れて しまう という 危惧 は ある 力、 とも 力べ その インテリア は 素晴らしく, 人々 の 間に 驚くべき センセーション を 巻き 起 こした。 」 1 9 この類い 稀な 内部 空間の 様相 を, ペギー は 続けて 以下の ように 詳細に 述べて いる。 「シュ ルレ アリス ムの 展示 室に は, ゴムの木で 作られた 壁が 曲線 を 描きながら 続いて いる。 額縁の ない 絵 は 野球の バットの 上に 置かれて おり, し 力 4; どんな 角度に も 傾けられ, 壁から 1 フィート ほど 突き出し ていた。 一枚 一 枚に スポット 'ライトが 当てられ, 最初 は 展示 室の 半分, 次 は 残りの 半分と いった 具合に, 三 秒 ごとに 照明 がつ いたり 消えたり していた。 抽象 絵画お よび キュ ビス ムの 展示 室で は, 群青 色の カーテンが 掛かった 壁 面が 二列に なって, 緩やかな 曲線 を 描きながら 室内 空間 を 横切り, まるで サーカスの テントの ような 抽象的 形態 を かたちづく つていた。 絵画 はこの カーテン に対して 垂直に ひもで 吊るされ ていた。 部屋の 中央に は 三 角 形に 絵画が 飾られ, まるで 宇宙に 漂って いるかの ように 天井から 吊り下げられて いた。 」 2。 ペギー は 卓抜した ヨーロッパ 近• 現代 美術の 作品 を ニューヨークの 人々 に 紹介 するとと も に, ピエール 'マティス や ジュリア ン' レヴィ などと いった 同時代の 画商と 同じように, 当時 ほとんど 無名に 近 力った アメリカの 画家た ち (才一 ト マティックで 表現主義 的な 彼らの 様式 は, シュ ルレ アリス ムの 影響 を 受け ていた) の 作品 を 展示した。 その なかには, ロバート• マザゥ エル, ウィリアム' パジョー ッ, マーク. ロスコ, クリフォード' ス ティル, ジャクソン 'ポロック などの 画家が 含まれて いる。 特に ペギーの 「大 発見」 ともいうべき 存在だった ポロック は, 1943 年末に 「今世紀の 美術」 画廊に おいて, 彼の 最初の 個展 を 開いて いる。 また 1950 年に は ヴヱネ ツイ ァの コッ レール 美術館の ナポレオンの 間で, ヨーロッパ では 初めての 個展 を 開いた 力;, これ も ペギーの 主催に よる ものだった。 この 個展に ついて ペギー は 次のように 語って いる。 「夜間 を 通 して 照明 は あかあかと つけられて いました。 私 は サン マルコ 広場に 座って, 美術館の 開かれた 窓に 明るく 浮 かび 上がる ポロックの 作品 を 見た とき, 何ともい えない 喜び を 覚えた のです。 それ はまる で ポロックが 現代 における 大 芸術家の 一人と して, 歴史の 中の しかるべき 位置に 掲げられて いるかの ような 光景でした 44 1947 年に 戦争が 終結し, また マックス 'エルンストとの 結婚 生活に も 破綻 をき たした のち, ペギー は 再び ヨーロッパへ 戻った。 1948 年, 彼女の コレクション は 〈ヴ ヱネ ツイ ァ. ビエンナーレ〉 に 出品され, 弓 I き 続き フ ィ レン ツエの スト ロッツ イナ, ミラノの パラ ッッォ 'レ アーレと 場所 を 変えて 展示され た。 ヴ エネ ツイ ァに 深く 魅せ られた ペギー は, 大 運河に 面した 最も 大きな 建物で, ロレンツォ 'ボス チヱ ッ ティに よって 設計され た 18 世紀 の大 邸宅, パラ ッッォ 'ヴヱ ニェ. レオー 二 を 購入した。 この 建物 は 未完成の まま 残されて いた 一階 建 の 館であった。 ペギー は 1949 年から, この 巨大な 館の あちこちに 彼女の コレクション を 飾って 一般に 公開 し, 1979 年に 没す るまで, ここ を 個人 美術館と して 主宰し 続けた。 1982 年, ペギー' グッゲンハイム 'コレクション 遺贈 を 記念して, 同 コレクションと ソロモン. グッ ゲン ハイ ム 美術館が 別々 に 所蔵して いた 非 対象 絵画, キュ ビス ム, シュ ルレ アリス ム, 抽象 表現主義の 作品 を 合わ せた, 注目すべき 初の 合同 美術展が ローマの カンピ ドリオで 開かれた。 この 展覧会 は, ふたつの 優れた コ ペギー• 7 ッ ゲン ハイム 'コレクション, ノ 《ラ ッッォ. ヴ ェニェ 'ディ' レオ一 二, ヴ エネ ツイ ァ Photo: David Heald 45 レ クシ ヨンが 統合され る ことによって 美術史 学 的 一貫性が 生まれた こと を 証明した と 同時に, グッゲンハイム 財団の 国際 性 を 世に 知らし める 結果 を もたらした。 両 コレクションの 二回 目の 合同 展は, グッゲンハイム 美 術 館 創立 50 周年 を 記念して, 1988 年末に 開催され た。 その 際 ペギー' グッゲンハイム 'コレクションの 中 か ら 選ばれた 多数の 名作が, 海 を 渡って ニューヨークまで 運ばれた。 20 世紀が 終わろう とする 今, 世界 各地の 美術館お よび 各種の 文化 施設 は, 重要な 決断 を 下さねば なら ない 危機に 直面して いる。 グッゲンハイム 美術館 も その 例外で はなく, 多くの アメリカ, ヨーロッパの 美術館 と同じように, 将来の 在り方に ついて 重大な 決定 を 迫られて いる。 今後と も 収集 活動 を 続けて ゆく 上で 問わ れ るの は 作品の 収容力で あり, さらに 美術館の 中心的な 使命で ある 作品の 保存 や 管理 能力に 関して, 正 当な 判断 を 下して ゆかなければ ならない というの が 当面の 課題と いえる。 これから 数年の 間に グッ ゲン ハ ィム 美術館が とるべき 方向 は, すでに 最近の いくつかの 出来事 を 通して うかがう ことができる。 グッゲンハイム 財団の 将来 を 大きく 左右す るであろう 注目すべき 80 年代の 進展 は, ペギー' グッ ゲン ハイ ム. コレクションの 体制 を 着々 と 改革して いった ことと いえる。 この 改革に よって 同 コレクション は, 未完成の ヴ エネ ツイ ァの 邸宅に 保管され ていた 純粋に 私的な コレクション という 姿から, 最先端の 美術館 運営 法に よ つて 管理され る, きわめて プロ フヱ ッショ ナルな 水準 を もった 近• 現代 美術館へ と 変貌 を 遂げて いったので ある。 トーマス• メッサーの 指揮 下, 作品 目録の 作成, 研究活動の 展開, 温 湿度 管理 技術の 導入な ど, 高度な システム を 確立す る ことによって, コレクション および その 収蔵 館で ある パラ ッッォ 'ヴェ 二 ェ' ディ' レオー 二の 管理 体制 は 整備され, かつ 新たな 視野 を もつ ことができる ようになった。 パラ ッッォ の 物理的な 改善と あわせて 専門の 美術館 スタッフが 増員され, 年間の 展覧会 プログラム を 計画的に 外部へ 発表で き るよう になった。 こうした さまざまな 改革案が 実施され た 結果, ペギー' グッゲンハイム 'コレクション はヴ エネ ツイ ァを 代表す る 文化 施設の ひとつと なった。 そして スペース 的に は 比較的 こじん まりした 美術館ながら も, 年間 17 万 5 千 人 もの 観客が 訪れる 場所と なった ので ある。 80 年代 末までに, ヴ エネ ツイ ァ における 一連の 方針 や プログラム を 刷新した グッゲンハイム 財団 は, その 経験 を 活かして, 二 力 所に 分散しながら も ひとつの 統合 的な コレクション を もち, 完全に 一体化 された 国際 的 組織 を 樹立しょう という, より 明確な ヴィジョン を 抱く ようになった。 グッゲンハイムの 基幹 ともいうべ きこの ふたつの 組織 は, 80 年代 末に 至る まで それぞれに 独立した プログラム を 展開 させて きた 力;', 今後 は 相互の 協力な しに 単独で それぞれの 目標 を 達成して ゆく こと は 不可能と なる だろう。 単一の 理事会の もと 一人の 館長に 率いられた ふたつの 組織と いう 現状 は, 実際に は ほとんど 意味 をな さなくな つてい る。 両 組織の 間により 緊密な 協力 体制 を 築こうと す る 努力が 重ねられ たが, 二 大陸に またがる ひとつの 統括され た 美術館と いう 構想に とって 最大の 難問と な つたの は, ヴ エネ ツイ ァの スペースが 絶対的に 小さす ぎる という 点であった。 コレクション 力;, グッゲンハイム 美術館の 完全な パートナー として 機能す る こと は 難しい。 そのため 経営の 経済性お よび コレクション 活用の 利点 を 活かす た めの 大前提と して, 学芸員 グループの 統合 や 共通の 管理 運営, 合同 企画 や 共同の 収集 活動な どが 提議 されても, その実 現 は 具体的に は 困難と なる ので ある。 すなわち, ヴ エネ ツイ ァの 組織 は, ニューヨークの グッ ゲン ハイム 美術館が 果たして いる 役割 を 同じように 担う 規模 を もたない ため, ニューヨーク 側 で 企画 さ れた 大会 場 向けの 展覧会 を, ここで 開催す る こと は 不可能 だとい うこと でも ある。 こうして 必然的に ヴ ヱネッ ィァの 施設 を 拡張し, グッゲンハイム 財団 全体の 活動へ より 積極的に 参加で きる よう 改善しょう という 計画 が 生まれる ことにな つた。 1988 年, グッゲンハイム 美術館の 運営 体制の 改革に 伴って 開かれた 理事会に おいて, 理事た ち も, ぺ ギ 一. グッゲンハイム. コレクションの 方針, 要求な どが, ニューヨークの グッゲンハイム 美術館が 打ち出して いるものと 重複し 始めた こと を 次第に 実感す るよう になった。 同年, ニューヨークの グッゲンハイム 美術館の 拡張, 改築 工事が 実行に 移された。 しかし 着工と 同時に, この プロ ジヱ クトも 現在の 計画の ままで は, ニュ 一 ヨークの グッゲンハイム 美術館の 要望に も, また 財団 全体の 長期的な 目標に も 応じ きれる もので はない と いう ことが 不幸に も 判明して きた。 着工す るまで 論争の 的に はなって いた 力 《 , ニューヨークの 増 改築が 完成 する ことによって, 常設 展示に 必要な スペースが 充分 確保で き, また 1991 年 秋に は, 西 47 丁目に 建つ 保 存 および 修復 部門の 建物の 改築が 終わり, 未陳の 収蔵 品 を 厳しい 管理の もとで 保管す る ことが 可能と な る 予定であった。 し 力、 し, ニューヨーク 市が 直面して いる 政治的, 財政 的な 現実 問題 を 考慮して, この 計 画 は 大幅に 縮小され てし まった ので ある。 そのため 10 年 近く も 前に 計画の 草案が 編まれた 段階で は, 総合 的な コレクションが 必要と する 諸 条件が 熟考され, 明確に 盛り込まれ ていた にもかかわらず, それらす ベて を 満たす こと は 現段階で は 難しくな つてし まった。 この 計画が 完了しても, 財団が 使命と してきた 20 世紀お よび 現代の 美術の 作品 収集, 保全, 展示 活動, そして 教育 活動に ついては, 依然として いくつかの 不自 由が 残される であろう という 事実 を, 理事会 もこの 時点で 把握した。 そうなる と ヴヱネ ツイ ァの ペギー' グッ ゲン ハイム• コレクションの 存在が 注目 を 浴びる の は, きわめて 当然の 成り行きであった というべき であろう。 もし ヴヱネ ツイ ァに, たとえ コレクションが 収蔵され ている パラ ッッォ に 隣接して いなくても, たとえば その 近 辺に 新たな スペースが 確保で きるならば, 主要 目的の いくつか を 達成す る こと も 可能になる という 構想が そこから 浮上して きた。 つまり, ニューヨークの コレクション をより 頻繁に ヴ エネ ツイ ァで 展覧し, その 逆 もま 47 た 可能になる という 構想で ある。 また ニューヨークの 美術館で 企画, 開催され た 特別 展を, ヴヱネ ツイ ァに 巡回す る こと も 考えられる。 そして 何よりも, 国際的 組織の 樹立と いう 壮大な 目標の 実現に 向けて, 一歩 を 踏み出す ことができ るので ある。 このような 魅力と, 迫り 来る 必要性から, ヴヱネ ツイ ァ における 開発の 戦略 は 現実 味 を 帯びた ものと なって きた。 一方, 当地 ヴ エネ ツイ ァ市 では, 〈ヴ エネ ツイ ァ' ビエンナーレ〉 および その 会場 ともなった パラ ッッォ 'グラッシの 成功に よって, 近• 現代 美術に 対する 関心と 需要が 高まって いる。 また 国際情勢 を 概観 すれば, さまざまな 問題が 山積みに されて はいる ものの, 東西の 冷戦が 緩和され, 幅 広い 分野に おける 社会的, 経済的 協力の 気運が 高まって きている。 こうした 世界の 動向 は, 文化に おい て も 同様で ある。 つまり 文化財 を 革新的な 方法で 活用して ゆく 可能性 を ふまえた 国際的な 協力 関係 こそ は, 今世紀の 残りの 十 年, および それ 以降の 将来, 文化交流に は 欠かす ことので きない 創造的な 基盤と なる はずな ので ある。 グッゲンハイム 財団 は, 90 年代の 幕が 開いて まもなく, パンツ ァ' ディ' ビゥモ 'コレクション を 購入した 力 S これによ つて 20 世紀 美術 を 専門と する 世界 有数の 指導 的な 美術館と しての 地位 を 不動に した。 コレクション によって, 奥深さと 質の 高さ を もつ 戦後の 作品の コレクションが 一層 充実され る ことにな つた。 それら は 美術館の 収蔵 品の 中で もす でに 定評の あった 高い 水準の 戦前の 作品に 匹敵す る ものである。 この コレクションの 購入 を はじめ, さまざまな 情況の 変化 や 経緯な ど を 総合的に 検討した 結 果, ヨーロッパ における グッゲンハイムの 存在 を 拡張する 必然性が ますます 明らかになつ てきた。 そしてす でに 足場 を もつ イタリア, すなわち ヴ エネ ツイ ァカ 《 , そのための 第一 候補地と なった こと はいう まで もない。 具体的に は, 大 運河の 端に 建つ 昔の 税関, プンタ• デッラ 'ドガ ナが 有力な 候補と して 選ばれ, イタリア 進出の 是非に ついて 非公式な 話し合い 力 《 もたれ 始めた。 イタリア 側の 交渉 相手 は, ヴ X ネ ツイ ァ 市長の ァ ン トニ ォ 'カセラ ッ ティ, パラ ッッォ 'グラッシ, ジョル ジョ' チーニ 財団な どで, 同席 者と して 外務省, 文化. ヴ エネ ツイ ァ での プロ ジェ外 をめ ぐって, 討議, プ レゼ ンテー ショ ン, 交渉と いった 複雑な 手続きが 開始され て まもなく, 1988 年 7 月に 突然, 新たな 候補地の 提案が 浮上 した。 グッゲンハイム 財団 総裁の ピーター• 当初 は, ヴヱネ ツイ ァの ほかに さらに 候補地 を 増やす こと は, まったく 非現実的な ことと 思われた。 同市の 規模, ヴヱネ ツイ ァに 比較的 近い 地 理, 音楽の 中心地と いう イメージ, そして 街並の もつ 強い バロック 的 色彩な ど, ザ ルツ ブルクと いう 土地の 特色す ベて は, 国際的 発展 を 志向す る 財団の 姿勢 を もってしても, 新 美術館 建設の 検討に 不利に 働く こ と は 間違いなかった。 オーストリア 側からの 変わらぬ 強い 誘致 は, 提案が あった 翌年 も 続いた が, グッ ゲン 48 ハンス• ところ 力;, その 姿勢 を 一変させる 出来事が 起き た。 これ こそ 力;, モン ヒス ベルクに おける 美術館 建設 を 想定した ハンス' ホラインの 非凡な 設計 案で ある。 この 作品 は, 本来 カロ リノ' ァ ゥグス ティ ゥム 美術館 プロ ジヱク 1、 として 設計され た, 同市 主催の 国際 コンペ の 優勝 作であった。 ホラインの プロ ジヱ クト において 強烈に アピール されて いるの は, 現代 建築お よび 近• 現代 美術 節への 伝 統 的な 先入観に 対する 挑戦であった。 フランク 'ロイド' ライトの 建築と 必ずしも デザイン 卜. の 外観 や 要素 は 共通して いると はいえない が, そこに は 美術館 建築の 本質に おける 表現 法に おいて, まさしく ライトの 精神 に 通じる 革新 性が 見られた ので ある。 地下 美術館と いう ホラインの 異色の 構想が 何よりも 優れてい る 点 は, この 建築が ザ ルツ ブルクに ある 建物 すべてと 完璧に 融合で きる よう 設計され ている ことで ある。 フ アサ ードを まったく もたない 建物, 完璧な 不可視 性に よって 周囲の 環境と 完全に 一体化し ている 外観, そして 見 事な 創造性が 発揮され つつ も 基本的に 伝統 を 固持して いる 展示 空間な ど, これほど 完全に ポスト' モ ダニ ズムを 体現し うる デザインが かってあった だろう か。 この プロ ジヱ クト における 最も 精巧 かつ 基本的な 側面, すなわち 現代の 既存の 美術館 建築と ははつ きり 一線 を 画して t 、る 特徴 は, ホ ライ ン によって 美術館と t。 建 築 物が 内包す るふた つの 主要な 機能, それでいて 相反す る 機能が 完全に 分離され ている という 点に あ る。 美術館 は, 建物の もつ コンセプトの クオリティで 来 館 者 を 魅了し, 強い 印象 を 与えなければ ならない。 一方で, 美術 作品 を 展示す る 空間と L 、う 本来の 機能 を 果たすべく, 建物 自体 は 中身の 作品 を 越える 存在 とならぬ よう 常に 従の 位置に 甘んじなければ ならない。 ホライン はこの プロ ジ主 外にお いて, 美術館と いう 施設が もつ 特殊 かつ 複雑な 二 面 性 を 見事に 克服して t 、る。 これ は 現代の 美術館 設計の ほとんどに: m 、て 曖昧に なって いる 点で ある。 彼 は モン ヒス ベルクの 特殊な 地形と 構造 を 活かして, 岩山 を 掘りお こし, 中 央に 塔の ような ドラマティックな アトリウム を 設け, その上 方に 巨大な 天窓 を 地面と 同じ 高さになる よう 覆い かぶせて いる。 その 結果, 力って 誰もが 創造し えなかった 壮麗な 内部 空間が 誕生す る ことにな つた。 しか も 岩山 をぐ ぬいて 作られた アトリウムに 隣接す る 展示 室 は, 負の 空間 性と いう 特質 を 備えて おり, 展示され る 美術 作品に とって は 心地良い 空間, し 力、 も ある 種の 適切な 重々 しさ を もった 空間が 現出され えてい るよう である。 建築と いう 観点で 注釈 をつ けるならば, ホラインの プロジェクト は ある 意味で, ニューヨークの ライ 卜の 建築の 対 極に 位置す ると 同時に, それ を 補完す る 側面 を もっている といえる。 ライトの 建築 は, そこに 展 示される 作品に 困難な 要求 を 強いてい ると いわれて いるよう に, 建築物と して は あまりに も 自己主張が 強 い。 しかし それ にもかかわらず, そこに は ある 種の 芸術的 体験 を 可能に して くれる ような 不思議な 包容力が ある。 この 10 年の 間に 開かれた 〈ョ一 ゼフ 'ボイス 展〉, 〈リチャード 'ロング 展〉, 〈マリオ• メルツ 展〉 などが 見 事に 証明した 通り, 特に 彫刻 作品 は グッゲンハイム 美術館の 「ポスト' ニュートラル」 な 空間の 中で 存分に 引 49 き 立てられる。 20 世紀の 価値観 —— これ は 同時代の 芸術 や 文化に 密接に 関連して t 、る — の 表象と し て, ライトの 建築 は それ 自体 ひとつの 非凡な 芸術作品 となって いる。 この 意味で, 建築に おける 特異性お よび 建築に おける 冒険心 は, もともと グッゲンハイム 美術館が 創立 以来 一貫して 示して きた 志向な ので あ る。 そして ホラインの 提案す る 岩山の 美術館に も, 同様の 姿勢が うかがわれる こと はいう まで もない。 1989 年の 春 以来, グッゲンハイム 財団 は ザ ルツ ブルク• プロ ジ ヱクト 実現の 可能性 を 真剣に 検討して き た。 ホラインの 建築 そのものに 大いに 魅了され たこと は 事実 だ 力;, グッゲンハイム 財団に とってより 重要 だつ た 点 は, 20 世紀 美術の 最良の 作品 を 可能な 限り 収集し, そうした 作品に 接する 機会 を 可能な 限り 多くの 人 々に 提供しょう という 財団の 使命 を 全うする 可能性 力" この 設計に うかがえた ことにあった。 グッゲンハイム 美術館の 歴史 や 伝統, 収集され た コレクションの もつ 拡がり, 優れた 文化に 対する 献身的な 態度, すべてが これらの 新しい プ ロジェ 外に 結集され る ことに なる だろう。 これらの プロジェクト はまた, 財団が 進むべき 将来の 方向 を も 示して いるので ある。 この カタ 口 グに 掲載され ている 名作の 数々 を 実際に 展覧す る ことによって, グッゲンハイム 'コレクションの もつ 力強 さと 質の 高さ は 充分に 堪能され うる はずで ある。 また 同時に, グッゲンハイム という 名の 文化 事業 力、 いかに 真 剣な かつ 期待に 溢れた もので あるかが 理解され うればと 願う ものである。 註 1 H. Rebay , "Definition of Non-Objective Painung. Catalogue of the Solomon R. Guggenheim し olkctwn of Non-Objective Painting. exh. cat. , Charleston. South Carolina, 1936. 2 Charter of The Solomon R. Guggenheim Foundation, June 25, 1937. 3 "An Organic Architecture: The Architecture of Democracy. " 1 he Mr George Watson Lectures of the Sulgrave Manor Board for 1939. The text of four lectures delivered by Wright at the Royal Institute of British Architects in May 1939. Excerpted in F. Wright, Frank Lloyd right: Writings and Buildings. selected by E. Kaufmann and B. Raeburn , New York , London and Scarborough. Ontario, 1974, p. 278. 4 Letter dated June 1 , 1943 in F. Wright. Ine Guggenheim Correspondence , selected by B. Ffeiffer. Carbondale and Edwardsville. Illinois. 1986, p. 5 Letter dated January 20. 1944 in The Hilla von Rebay Foundation Archives. Solomon R. Guggenheim Museum , New York. 6 J. Soby , "Resurrection of a Museum," Saturday Review , April 4, 1953, p. 7 Letter dated April 3. 1952 in F. Wright. Letters to Architects, selected by B. Pfeiffer, Fresno. California. 1984. 152. 8 Quotations are from Aline B. Saarinen, "Lively Gallery for Living Art, fhe Neiv York Times Magazine. May 30, 1954, p. The initial critical article, "Museum in a Query," appeared in The New York Times , April 22. 1951. 9 Quoted in "Museum Changing Exhibition Policy, " The New York Times , August 5. 1951. Saarinen's cnticism of the Museum is documented in Toni Ramon a Beauchamp, James Johnson Sweeney and The Museum of Fme A rts , 50 Houston: 1961-1967 , Master's thesis, University of Texas at Austin, 1983. 10 Beauchamp, p. 11 Aline B. Louchheim. "A Museum Takes on a New Life, " The New York Times , March 1, 1953. 12 Quoted in Dore Ashton. "Museum Prospect: Director of Guggenheim Discusses his Plans," The New York Times , November 18. 1956. このよ うな 展示 方法 は 今日, 美術史 学の 教育 を 受けた 学芸員の 間で は 一般に 採 けおされない。 彼ら は 形式 上の 分析 を 避け, 社会的な 文脈から 作品 を 捉えよう とする ためで ある。 彼 は 作品 間の 視党 的な 対照 関係 や 相補 関係 を 強調し, 制作 年 ft を 追う かたちで 作家の 展開 を iili ろう と はしなかった ので ある。 それ は メルツの 作 品が 示唆す る 共 時 的な 特質 を 考慮 しての 展示 方法であった といえる。 13 Lruggenheim Correspondence , p. 234. 14 Letter dated July 15. 1958, ibid. , pp. 269-70. 15 Ibid. 248. 16 Saarinen, "Lively Gallery for Living Art," p. 17 Quoted by Peter Blake in "The Guggenheim: Museum or Monument?. " Architectural Forum , December 1959; Ada Louis Huxtable, "That Museum: Wright or Wrong? ," The New York Times , October 25. 1959. Both cited in Beauchamp, p. 18 Letter dated May 16, 1963 in Solomon R. Guggenheim Museum Archives, New York. 19 P. Guggenheim, Out of This Century: Confessions of an Art Addict. New York. 1979, p. 274. 20 Ibid. , p. 229. 21 Quoted in J. Davis. The Guggenheims [1848-1988 : An American Epic , New York. 1988, pp. 370-71. 翻訳 : 前田洋 子 31 情熱の 遺産 フ レッド• リヒト 美術品 収集の 背後に ある 何ら かの 教育的な 動機と, 美術品 自体が 備えて し 、る 教育的な 意図と は, かな り 矛盾した 関係に ある。 美術品に 教訓的な 目的が 感じられる 間 は, 収集の 対象と されない からで ある。 記 念 レリーフ, 祭壇の 装飾, 英雄の 像, 偶像 画 等 は, 歴史的, 宗教 的 あるいは 王統 賛美の g 的が 薄れた 頃に なって, 初めて 美術品 収集家の 注目の 対象と なり 得る ので ある。 ポル ティナ一 リの 三連 両も, そ も そ もの 信仰の 証としての 性質が 時と ともに 失われた からこ そ, メディチ 'コレクションの 至宝の ひとつと なった の である。 16 世紀 後半から 17 世紀 以降, 美術品 その他の 収集 を 通じて 個人名 あるいは 家名 を 高める ことが 大変 盛んになった。 はじめは 中小 貴族の 間で 盛んと なり, しばらく すると 富に より 名 を 成して きた 平民 階級の 間 で, 特にそう した 傾向が 顕著と なった。 例えば ャバク 'コレクション など は, ノくッ としない 家名に 箔を つける ために 何でもかんでも 収集した 結果な ので ある。 しかし 同じ 時代に, ごく 少数ながら 優れた 鑑識眼 を 持つ 人々 もいて, こちら は 美しい 物に 囲まれて 暮 したいと いう 純粋な 美の 追究 心から 美術品 収集 を 始めた。 偉 大な コレクションが 作られる 背景と して, 対外 的な 顕示 欲と 芸術に 対する 深い 愛と が 半分 半分の 割合で 共 存 している の はき わめて 稀な ことであった。 マザラン 枢機卿 コレクション は, そういった 意味で 最も 著名な 例 である。 美術品 収集の もつ 教育的 側面 は, 大方に おいて は 二次的な ものである。 メディチ 家, レオポルド 大公, フ ヱリぺ 二世の コレクション を 例に 挙げる と, これら は 所有者の 政治的 栄光 を 増す ための ものだった と 同時 に, 持主の 眼 を 楽しませ, かつ 文化的 威信 を 高める ための ものだった。 16 世紀, カピト リー ノ 博物館に 集 めら れた 教皇 コレクションに 見られる ように, 教育的な 目的 を もった もの も 確 力、 にあった 力;, これ は 口一 マ史 の 研究 や 古代の 学問 研究の 分野に 限られた ものだった。 美術の 教室で 古代の 彫像が 教材と なった の は 後世, 美術学校が 生まれて からの 話で あり, そのために 石膏像 や 複製品, 模造 作品 等が オリジナル にと つて かわって 使用され るよう になった。 啓蒙 主義 は, 魂の 救いの 源と して 教育に ほとんど 狂信的な 重き を 置いた 力;', この ことから 美術品の コレ クシ ヨンの 意味と 目的 も 大きく 変化した。 ヨハン' ヴ インケルマンの 理論な どから も, 美に ついての 瞑想 は, そのこと 自体 有益な 行為 だと 考えられる ようになった。 芸術作品に 内在す る 美徳と いった もの は, 知的 かつ 鋭い 感性に 基づく 瞑想 を 通して, 鑑賞 者に 伝わって ゆく とされた。 こうして 大衆の 精神 を 高める 場と して, 美術館が 誕生した ので ある。 19, 20 世紀に なると, 芸術の 教育的 目的への 厚い 信仰 は, より 現実的な 方向へ と 向かった。 すなわち, 過去の 芸術作品に 見られる 美学的 原 う 3 マン' レイが 撮影した ペギー' グッゲンハイム 則に 適うよう デザイン された 工業製品 は, 販売 力が 優れてい ると いう 考え方で ある。 また 政治的な 1 1 的 も 重要視され るよう になった。 愛 固 心 や 国家の 誇り を 高揚す る ことが, 近代の 大きな 美術館 や 個人 コレクター の 収集の きっかけ となって いる こと は 否めない。 ナポレオンが ルー ヴル 美術館 を 創った の も, まさに そのため であった。 新興国が, より 由緒 ある 国々 の 既存の 文化と 十分 肩 を 並べ 得る こと を 証明した いがため に, 美 術 作品 を 買い漁つ たという 解釈 こそ, ベルリンの カイザー 'フリードリヒ 美術館が あんなに も 早急に 建てられ た 理由な ので ある。 同じ ことが ボストン 美術館 や ニューヨークの メトロポリタン 美術館に ついても 言える。 し 力 七 何と 言っても 最も 民族主義の 色彩が 濃 いのは, スト ラス ブール 美術館で ある。 ドイツが 仏 戦争 終結 後に アルザス 地方 を 併合す ると, 当時 最も ダイナミックで 想像力 豊かな 美術館 館長の 一人と された ヴィル ヘルム• フォン• ボーデが 責任者と なって, スト ラス ブール 美術館の 所蔵 品の 充実に 務める ことにな つたの だが, その 際, 帝室の コレクションから 惜しみな く 寄贈 を 受けたり, あるいは 大々 的に 派手な 購入 を 行なつ たこと は 周知の 事実で ある。 一方 イタリアの 場合 は, 経済的な 理由から 政府 主導での 新 美術館 建設 は不 可能だった。 そこで 同じく 市民お よび 国家の 誇り を 高める こと を 目的と しながら も, 多少 性質の 異なる 美術 館が 生まれた。 ポル ディ• ペッツ ォーリ 'コレクション 力;' ミラノ 市に 寄託され たの もそう した 目的から だった。 し かしこれ が 重大な 結果 を もたらした。 これ を 真似て 裕福な 資本家 や 権力者が 同じような かたちで 寄付 を 行なった ばかり か, 若き 日の イザベ ラ' スチュ ワート' ガードナー は ミラノ を 訪れた 際, ポル ディ' ペッツ ォーリ 美術館の 豊かで 美い ロレ クシ ヨンに 感動した あまり, その 場で 自分 も 同じ こと を 行なう 決心 をした と 言わ れる。 そして 彼女 は 文化的な 博愛主義, フ イラン ソロ ピーの 理念 を, 世界中の どこよりも それが 盛んと なる ベく 運命 づけら れ ていたと いえる アメリカへ 輸入した のだった。 そっくり そのまま 美術館と なった アメリカの 個 人 コレクション (これ は 既存の 美術館の 所蔵 品の 一部と して 個人 コレクションが 吸収され る 場合と は 違う の で 区別して 欲しい) の 一覧表 は, ぶ 厚い 小冊子になる ほどだろう。 そうした 一覧の 中で も, ニュー ョ一ク の ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術館と ヴ エネ ツイ ァの ペギー' グッゲンハイム 'コレクション は 特筆すべき 存在 となって いる。 美術 作品の 収集 または 寄贈に まつわり, 通常 考えられる 動機の すべて を, これら ふたつの コレクション 形 成の 過程 力、 ら迪る ことができる。 グッゲンハイム 一族の 多く は, 伝統的な ユダヤ 流 博愛 活動 (病院, 大学 等) を 通して すでに 名声 を 得て いた 力;', ソロモンと ペギー, この 叔父と 娃の 二人 は, 文化 や 芸術の パト 口 ン となる ことで, 彼らと は 異なった 慈善 活動 を 展開しょう としたよ うに 思える。 それ は ともかく, 芸術, 収集, 慈善 活動に 対して まったく 異なった 姿勢 をと つていた にもかかわらず, 二人に はき わめて 情緒 的 かつ 伝統 的 ともいうべき 共通の 意図が 見られた。 学習 や 学問, 知的 修練に 対する 崇敬の 念で ある。 二人とも, 自ら の コレクションが 学習の 源と なるべく 意図した。 そして 各々 まったく 異なって いながら, 補完 的と もい える やり 55 方で その 目的 を 達成した。 ヒラ 'リベ ィと ソロモン 'R. グッゲンハイムが 作った コレクション は, 多くの 面で 厳しい 伝道師 的な 内容と な つてお り, 訪れる 人々 にも 同様の 献身的 態度 を 要求して t 、るかの 趣きが あった。 1930 年代 末から 40 年代に かけて, ニューヨークに は 20 世紀 美術 を 公開して いる 非営利 目的の 美術館が 三 館あった 力;', そのな かで ソロモン 'R. グッゲンハイム 'コレクション すなわち 「非 対象 絵画 美術館」 が 最も 意欲 的であった。 当時 8 丁 目にあった ホイット 二一 美術館 は, 「見る 見ない はお 好きな ように」 とで も 表現したら よいの 力、 とても 心地良 く 暖かい 雰囲気に 溢れて いた。 好みの 如何に かかわらず, そこに 行けば 楽しく 鑑賞で きる 作品に 出会え た。 印刷物と いえば せレ 1 ぜ! 一方で 近代 美術館 は, 社会的に はまった く 異なった 世界に 属して いた。 ホイットニー 美 術 館 にぶらり と 立 寄る ような 感覚で 近代 美術館に 行く 人 はいない し, また 雰囲気 も はるかに 静かで 地味で あった。 もちろん 近代 美術館に も, 訪れる 人 それぞれが 楽しめる ものが 必ずあった。 そこに は, 近代 美術 の 里程標と もい える 第一 級の 作品が, 年代 を 追ってし かるべき 場所に きちんと 展示され ていたの である。 そうした 作品に 出会う こと は, 質的に も 歴史的に も 意義深い ことで あり, それ は 長い 時間 を かけて 徐々 に 確 実に 心の中に 吸収され て ゆく。 近代 美術館の 出版物 は, その 種の ものと して は 断然 優れてお り, 資料室 は 比較的 少数の 人に しか 利用され なかった とはいえ, 他に 例の ない 存在であった。 ホイットニー 美術館が 平 等 主義 を 唱えて いたのに 対して, 近代 美術館 は 一種の 階級 主義 を 承認して いた。 これみ よ 力;' しに 一般人 に対して は 立入禁止 となって いる 美術館 内の 諸 施設 を, 特定の 人々 だけに 利用させる 会員制 度 は, はっき りした 社会的 分水界と もい える もの だ 力;', 会員に なっても 新 会員の 場合に は, 微妙な 格付けの 違いが いろ いろ 目立った という。 非 対象 絵画 美術館 は, 他の ふたつの 美術館と は 完全に 別の 方法 をと つた。 近代 美術館で は 当然と され た 社会的, 知的な 差 を まったく 考慮し な 力った し, さりと て ホイットニー 美術館の ような 無差別な 仲間意識 といった 風潮に 傾く わけで もなかった。 芸術家 だろうと 貴婦人 だろうと, 高校生 だろうと 高名な 文筆家だろう と, あるいは 中西部から 来た 気後れして いるよう な 旅行者 だろうと, 57 丁目の 画廊の 気取った 従業員 だろ うと, すべて 共通の 分母で くくって しまったの である。 つまり, 現実の 生活に 何ら かの 価値 を 与え 得る もの や, 頭で は 理解し 難い ものへ 到達す るた め, 神々 しいが 開放 的な 入口と なって いるの が 芸術で ある, とい う 直感的で ありながら も 揺るがぬ 信念 を この 美術館 は 基軸と していた ので ある。 近代 美術館が 重んじた 知的 探究心 は, 非 対象 絵画 美術館の 場合に は 二次的な ものと された。 もちろん, 来 館 者に は 当然す でに そのような 心が 備わって いると 考えて いた 力、 または 美術館 を 離れた 所でそう した 心 は 養って 欲しい と 期 う 6 待して いた はずで ある。 一方, 近代 美術館に 比べて 非 対象 絵画 美術館に 決定的に 欠落して いたの は, 娯楽 的 要素だった。 心 を 静める ため, あるいは ニューヨークの 中心部での アポイントメントの 合間に 2 時間 ほど を 埋める ため, 近代 美術館 を 訪れる 人 は 少なくない。 だが 非 対象 絵両 美術館の 場合, そうした 理由 で 訪れる 人 はまず いない はずで ある。 そこへ 行く 理由 は 唯一, 精神的な 交わりと でもい うべき もの を 求め て, そうした 目的 を 感じた 時の みであった。 かとい つて 非 対象 絵画 美術館が, 崇高で 一種 宗教め いた 場 所だった 力、 というと, そういう ことではなかった。 断じて 違った。 ただ はっきりして いるの は, とも 力べ も 少し 周 囲と は 異なった 超然と した 場所であった こと だ。 近代 美術館で は 大都会の 中心部に あると いう 思いが 頭 を 離れる ことはなかった 力;, 非 対象 絵画 美術館の 中に いると, それ をす つ 力め 忘れて しまえた ので ある。 館 内に 一歩 足 を 踏み入れた 途端, マンハッタン ははる か 彼方に 感じられた。 時間 も 気にならなくなる し, また 館内で メモ をと つたり, 順番に 作品 を 一点 づっ 注意 深く 見て 回る 人 はまず いな 力った。 大方の 人 は あら か じめ 決めて おいた 一 部屋 か 二 部屋の み を 訪れ, 心の 欲求 を 満足させる のだった。 最も 印象的だった 点 は, 作品の 質が 均一で 最高 レヴ ヱル であった こと もさる ことながら, その 展示 方法で あった。 壁面に 不規則に 架けて あったり, 意図的に 左右 非 対象に 置いたり, あるいは 照明 を 抑えたり とい うだけ なら, ニューヨークで はもち ろん とりたてて 目新しい 方法と は 言えない。 商業 ベースの 画廊な どに は お馴染みの 手法であった。 たとえば 近代 美術館 は, 生き生きとした 展示の 巧み さが 何よりの 特徴で あつ た。 では 近代 美術館 や 一般の 画廊 等と どこが 違って いたかと いえば, それ は 展示に 対する 考え方の 違い であった。 ホイット 二一 美術館の 場合, 作品の 架け 方が 不規則な の は, 技術 不足に よる 力、 または 芸術に 対する 姿勢 そのものが やや 瞹昧 なた めであった。 全体が 乱雑な アド J ェの 名残りと でもい うべき リラックスし た 調子に なって しまって いたので ある。 近代 美術館の 展示に は, 常に 教育的, 魅力的に という 心配りが な されて いた。 学芸員の 考え方に 従って, 特別に 強調され ている 重要な 作品の 存在に, 誰もが すぐさま 気付 くよう 展示され ていたの である。 また 展示に は 宣伝 広告の 部分 ももち ろん ある。 結局のと ころ 訪れる 人 を 楽 しませ, 再び 訪れた くなる ような 好 印象 を 与えなければ ならない からだ。 非 対象 絵画 美術館で は, 照明 は 他に 比べて はるかに 均一だった。 カンディンスキーの 作品が ところどころ 壁に 架ける かわりに 床に 置かれて いたの は, 単調 さ を 破る ため, 見る 人に 驚きと ユーモア を 与える ためではなかった。 むしろ そのような ェキ センド リックな 展示に より, 絵画 は 完全に 自主 独立した もの だとい う 意識 を, 衝撃 的に 呼び起こしたかった た めで ある。 この 絵画 は 壁に ずらり と 並んで いる 作品の 中の 単なる ひとつで はない の だ, この 絵画に は 先輩 も 後輩 もない, 過去と も 未来と も 関係 はない の だと。 見る 人に 対して この 絵画 を, そこに あるがままの 存在 として 提示したかった の だ。 ゲ一テ は ヨハン' ヴ インケルマンの 著作に ついて 次のように 述べて いる。 「ヴィ ンケ ルマンの 書物から 学ぶ こと は 何もない。 だが 読んだ 後, 人 は 何者かになる。 」 ヒラ 'リベ ィは, こうし 51 たゲー テゃヴ インケルマンに 同じく, 古代への 憧憬の 伝統に 根差して いたので ある。 芸術の 知的 認識, 美 術史ゃ 技法に 関する 知識, そして その 社会的 義務, これら すべてが 包括され, 壮大な 一種の 神秘的 状況 に 似た 意識 を 力、 もし だした ので ある。 ニュ一 ヨークに ある これら 三つの 近代 美術の 美術館の 違い は, 単に 懐かい 、ノスタルジー として 記憶に とどめられるべき もので はない。 アメリカン 'アートと 呼ばれる もの 力 s', 徐々 に その 伝統, アイデンティティ 一, 潜在的な 力 等 を 意識す るよう になった 数十 年間に, これら 三つの 美術館 は ニューヨーク 独特の 環境 を 作り上げ たからで ある。 今日の 美術 (近' 現代 美術) を 作り上げて いるもの は 何 か, いかに それと かかわ る 力、 その 目的と 将来 はどうな るか 等の 問題に ついて, 広範囲に わたる 異なった 考え方が 存在し, また そ れ 故に アプローチ は 多彩で かつ まったく 自由であった。 そして この こと は, ニューヨーク という 都市の もつ 特 性で もあった。 各々 の 美術館の 考え方 はまった く かけ 離れて いた。 時には 個人的, 時には 組 織 的と いった 具合に。 しかし 共通の 目標 を ひとつ 掲げて はいた。 すなわち 訪れる 人す ベて を 教育す る こと である。 ペギー• グッゲンハイムの 「今世紀の 美術」 画廊 もや はり 同じ 目標 を 掲げて いた。 彼女と その 師 ハーバー ト 'リード 卿 は, 特定の 好み や 理想 を 掲げる ので はなく, ひたすら 20 世紀 美術の 主要な 流れと 業績 を 記録 する ために コレクション を 作って いった。 ペギー は 我 ままな 性格 にもかかわらず (一国の 女王の ように 名前で 呼ぶ のが 最も ふさわしいで あろう), コレクション に関して はあくまで も 厳格で, 自己 否定の 姿勢 を 守った。 個人的に は, 当時 例えば 現存 作家の 中で 誰よりも マティス を 熱愛して いたの だが, 決して 一枚たり とも 彼 の 作品 を 買おうと はしなかった。 何故なら, マティスの 作品 は 19 世紀の テーマと された 視覚 的, 美的, 知 的なる もの を 追求して いると 彼女が 判断した からで あり, 一方 彼女の コレクション は, 20 世紀 美術の 収集に 限定して いたから である。 大きな 話題 を 呼んだ ニューヨークでの オープンの 瞬間から, 「今世紀の 美術」 画廊 は ニューヨークで 四 番目の 同時代の 美術の 中心と なり, 近代 美術館, 非 対象 絵画 美術館, ホイットニー 美術館と 並び 称せら れ るよう になった。 高く そびえる 存在だった 他の 三つの ライバルとの 区別 は, 創始者の 個性 そのものの 中に 見出せよう。 先見の明の ある 慎重な 現実主義と, 何でも 試して みる 活発 さが 相 まった 彼女の 個性が, 「今 世紀の 美術」 画廊の 大変 ユニークな 雰囲気の 決定的な 要因と なって いる。 各々 独自の プレゼンテーション をして いると はいえ, 他の 三つ はすべ て 美術館と いう カテゴリーに 属して おり, 美術館と しての 類似 性 はま 38 ぬがれ 得ない。 一方, 徹底して アナ一 キーで アメリカ 的であった ペギーの やり方 は, 何で あれ カテゴリー に 属する こと を 忌み嫌つ たため, 「今世紀の 美術」 画廊 は 既存の 芸術 機関の 範囲に は 収まらない 存在と な つた。 それ は 非常に 洗練され た コレクションであった とともに, この 世界で は 下流と 見なされた 商業 画廊で もあった。 ただし あまり 成功 はしな 力、 つたが。 (ヒラ 'リベ ィ はこの 点 を 悪趣味な ものと して, ペギー を グッゲ ン ハイムの 名 を 金儲け ビジネスの 泥で 汚した と 非難した。 だが ペギーの 方 は, 自分の 曾祖父が 行商人 だ つたこと をむ しろ 誇りと していた。 ) 商業 画廊と 美術館と いう 二重の 機能の ために, 「今世紀の 美術」 画廊の 多彩 さが 損なわれる こと はな 力、 つた。 それ どころ 力、 パリの サロンの ニューヨーク 版と なり, 時には 若い 芸術家 達の 騒々 しい 争いの 場と もな OOC べギ一 ,グッゲンハイムの 「今 紀の 美術」 画廊, ニューヨーク Photo: Berenice Abbot I 59 つた。 ペギーの 度重なる 節約の 警告に も 耳 を かさなかった フレデリック• キースラーが 作り上げた 革新的な 空間 は, 明るく 広々 とした 美術館の 展示 室と は 根本的に 異なる ものだった。 喩えて 言えば, ルナ• しかし この 効果 は 爆発的で, 芸術作品の 環 境に 一種の ラブレー ばりの 諷刺の タツ チを 加え, なおかつ, 真面目で 教育的な 意図 を 損なう こと もなかつ た。 その 壁 は 常識的な 縦, 横の 世界 を まったく 否定した 曲線の 世界で あり, 作品 はい わば 空中に 浮かんで いた。 レヴァ 一で 動く 車輪 状の 装置で, 小型の 絵画 や ドローイング 力;' ピクチャー 'ウィンド 一の 中に 飾られ る 仕掛けに なって いて, それ は 不思議な 現実離れした 効果 を 与えて いた。 台座 は 椅子 ともなり, 自由に 座 つて 展示 を 楽しむ ことができた。 これらの 椅子 兼 台座 は, 70 年代の マン ゾ 一二の 作品 《魔法の 台》 (鑑賞 者 自身が そのまま 即席の 彫刻と なる ように, わざと 空の まま 置かれて いる) を 予告す る ものだった し, 同じく キ ース ラーの 曲線 的な 壁面 は, ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術館の 設計に おいて, フランク' ロイド. ライト 力; 断固と して 垂直 性 を 拒否した ことの 先駆けと なった。 何より 大切な こと は, 訪れた 人が 感じる 「未完成 二進 行中」 の 印象で ある。 常設 展示され ている ピカソ, ミロ, ブラン クーシ, エルンスト 等の 作品 は, 「今世紀の 美術」 画廊の 企画 展示 室に ある 若手の 作品と は 当 然 異なる 扱い を 受けて はいたが, 彼ら 巨匠の 作品と いえ ども, さらなる 議論 や 批評に さらされない 作品, あるいは 今後 展開す る ことのない 完成した 古典的 芸術作品 として 掲げられて いたわけ ではない。 力、 たや ホイットニー 美術館に おいてで さえ, 比較的 乱雑な 雰囲気 は あるに せよ, 展示され る 個々 の 絵画, 彫刻 作 品 は, すでに 完成され た 作品と して 扱われて いた。 美術館に つきものの 悪名高い 荘重な 雰囲気と いった も の は, 「今世紀の 美術」 画廊に は 無縁であった。 常に こちら 力ち 語り 力、 ける, また 良き につけ 悪しき につけ, 人で も 物で も その 真価に よって 受け 容れ る, という まったく 反 ヨーロッパ 的な 態度 こそ, 「今世紀の 美術」 画 廊の 基本 姿勢であった。 「同時代の 美術 作品 を 所有す るか, 美術館 を 所有す るか は, ふたつに ひとつで あり, 両方 を もつ こと はでき ない」 と は, 的確な 警句で 有名な ガートルード 'ス タインが アルフレッド• バー (近 代 美術館 館長) に 言った とされて t 、る 言葉 だが, バ一 はこの ス タイ ンの 断定に 対して 果敢に 挑戦し, それ を 覆す ことに 何回も 成功した。 し 力 も 独特の 鍊金術 を 用 t 、てこう した 困難 を 解決し 得た の は, むしろ 「今 世 紀の 美術」 画廊で あり, 近代 美術館ではなかった。 ス タインの 警告に 対する 「今世紀の 美術」 画廊の 答 は, あらゆる カテゴリーの 廃止に あった。 「今世紀の 美術」 画廊が 美術館た る 根拠 は, 頻繁に 数 を 増して いった 最高 レヴ ヱルの 恒久 コレクションであった。 しか し 「今世紀の 美術」 画廊に は 美術館と しての 組織 もな く, また 責任 もなかった。 芸術の 世界に, 「今世紀の 美術」 画廊 ほどの 熱心 さ を もった 理想的な 形の 自 由 企業が 実現し たこと は, それまでに なかった ので ある。 60 近代 美術館で は 確かに 近代 美術の 過去と 現在が より 綿密に 展望で きた。 一方で 「今世紀の 美術」 画廊 は, 網羅 的で ないか わりに 「未来」 に対する 予見 を 付け加え たので ある。 例えば ジャクソン. ポロック, ウイ リア ム'バ ジョ一 ッ, クリフォード' ス ティルな どの 特別 展に は, 実際に 「未来」 が 組み込まれ ていた ことが 今日 では 理解で きる。 しかし それ は 後に なって 解かる ことで あり, 当時 は 今 ほど 明確に その 「未来」 性が 認めら れ てはいなかった 力 1 もしれ ない。 ともあれ 予知で きない 意外な 驚きに 対する 期待 力 てると いう 点 こそ, ぺ ギ 一の コレクション 中 最高 傑作と される 作品に も, 別の 展示 室に 飾られた 無名の 前衛派の 作品に も, 両方 に 一層の 魅力 を 与えた ものだった ので ある。 「今世紀の 美術」 画廊 は 自信と 活力 を 常に 人々 に 感じさせた。 すでに 名 を 成した ヨーロッパの 大家と 若い アメリカ人が, 堅苦しい 美術館 的 雰囲気から 解放され て 出会える ような 場 を 提供した とともに, 楽し さと美 術と は 完全に 両立し うる こと を ニューヨーク 中の 人々 に 教えた ので ある。 ふたつの グッゲンハイム 'コレクションの イデオロギーの 違い, あるいは 「今世紀の 美術」 画廊と 非 対象 絵 画 美術館の 根本的な 展示の 原則な どに ついて 語る こと は 特に 難いに とで はない。 だが ペギーの 遺贈に より ふたつの コレクションが 一緒にな るまで 両者 間に 存在し, 時には 真っ向からの 対立にまで 至った, 各々 の 秘め やかな, それでいて 激しい 個性 を 説明す る こと は 容易な ことで はない。 それぞれに 長所, 短所が あ つた 力 《 , 最終的に 両者 は 合併して, 互い を 補い 合って 完全な ものと なった。 両 コレクションの 最も 顕著な 差 は, 主唱 者の ヒラ 'リベ ィと ペギー 'グッゲンハイムの 性格の 違いに よる もの であった。 前者 は アメリカナイズ された ヨーロッパ 人, 後者 はョ一 口 ピア ナイ ズ された アメリカ人, 挫折した 元 芸術家と 作品 制作に は 無縁の 人間, 女 教師 然とした 気質の 人間と 時として 道楽に 耽る 人間, かた や 他 人の 資産 を 使う 者と 常に 現実的な 経済的 責任感 を 意識して いた 者, というよ うに, 数え あげれば その 差 は 数 限りない。 " 芸術に 関して 非現実的な 理想 を 一途に 抱き, 追求し 続けた こと, これ は ソロモン 'R. グッゲンハイム' コレ クシ ヨンの 際立った 特色であった とともに, 最大の 障害 ともなった。 歴史的な 観点で 見る と, ヒラ 'リベ ィが 芸術に 精神 性 を 要求した こと は, その ル一ッ を カント, ヘーゲルと いった 思想家の 伝統的な 考え方 や, 芸 術 面で は ドイツ• ロマン派の 流れに 見出す ことができる。 ドイツ' ロマン派の 音楽 は 常に アメリカ では 歓迎 さ れ, 受け 容れ られ た。 シューベルト, シュ一 マン, ワグナー 等と いう 名前 は, アメリカ人なら 誰でも 知って いると 言って よい。 ロマン派 ドイツ 哲学と なると, 大学生なら 在学 中 必ず 学ぶ もので は ある 力 i', その 受け 容 れの 範囲 はかなり 限定され る。 ところが 文学 や 芸術と なると, 今日に 至る まで ドイツ' ロマン派 は, アメリカ 人の 好みと は 相容れな いものと なって いる。 有名な ノヴァ一 リスの 『ザ イスの 弟子た ち』 を 読んだ ことが なく て も, 文芸 評論家と して 名声 を 得る こと は アメリカ では 十分 可能 だし, 時として ドイツ' ロマン派と はまった く 61 無関係な 方が 好まれる 場合 すら ある。 カルステンス 等 はごく 一握りの エリート 専門 家し か 知らないし, アン ゼルム 'フォイ エル バッハ や アル ノルト. ベックリンに 至って は 芸術家の 典型的 悪例 としてし か 知られて いない。 芸術愛好家 とされる 一般人の 間で は, ダヴ イツ ド から 始まって, ド ラクロア, ク —ル ベ, 印象派, そして デュビ ユッフ ヱまでの 近代 美術の 展開 こそ 力;, 鑑賞の 対象と なり 判断の ベースに なって いる。 フランス 以外の 近代 美術 は 無視され 続けて きたので ある。 2 それゆえ, 一貫して 軽視され 疎 まれ 続けても いた 分野に アメリカ人 を惹 きつけよう という 至難の 事業に 挑戦した リベ ィの 勇気に は, 敬意 を 表したい。 だが せつ 力、 くの 試みが 部分的に しか 成功し なかった の は, ほとんど 狂信的な, 宣教師 風の 偏り を もった 彼女の 方法が その 眼 をく もらせて, 自分自身 ロマン派 を 誤解して いた こと を 見えな くさせて しまった ためで ある。 また 自分の やり方に 固執す る あまり, アメリカの 大衆に 必要だった 忍耐強い 準備 教育の 必要 性 も 見落して しまった 力、 ら である。 リベ ィは いわば ロマン派 的 騎士道 精神で, アメリカ という フランス 一辺倒 の 城塞 を 陥落 させようと 試みた のであった。 リベ ィの 収集した コレクション は, 今日 変容し, 同時に 應大な 量に 増大した が, いまだに 根本的な 部分で, 近代 美術に 対する アメリカ人の 主流の 見方と は どこか ずれた ままに なって いる。 知識 不足の ため アメリカの 大衆 は, 今日で も, 自分 達の 馴れ 親しんだ フランス 近代 美 術, またはす でに 受け 容れ られ ている 抽象 表現主義の 考え方に 基づく ような 展覧会 を 好みが ちで ある。 例 えば フヱ ルディ ナント• グッゲンハイム 美術館の 存在意義 は, これまでに 作り上げ られた 近代 美術の 系譜と される ものに, あえて 異議 を 唱えたり 修正した りする 挑戦者の 代表と なること なの たが, それ はい まだ 充分に 実現され ていない。 グッゲンハイム 美術館 は, 未完の 使命 を 背負った 美術館 なので ある。 ヒラ 'リベ イカ、 あれほど 熱心に 説き 続けた 思想に 対して アメリカの 大衆が 示した 抵抗 をつ いに 理解し 得 なかった の は 不幸だった 力、 それでも 彼女の 頑な 信念が, 後の 館長の 作品 選択に 際しても 活かされ 続け たこと は 注目したい。 強い 独立心と 危険 を 恐れない 勇気 こそ, グッゲンハイム 美術館の 大きな 魅力と なった ので ある。 もう ひとつ 不幸と 言えば, 他の 美術館が 出版物 や 付随 的な プログラム を 通して 盛んに 行なった 教育的な 活動 を リベ ィが 拒絶した ため, 彼女が 辞めた 後 も そのまま になった ことで ある。 グッゲンハイム 美 術 館が, 今後 さらに 充実す るた めに は, この 方面の 改善が 必要であろう。 もう ひとつの リベ ィの 欠点 (彼女の 成し遂げた 成功の 大きさに 比べれば, 小さく かつ 容易に 改め 得る 欠点 では ある 力り は, 「精神 性」 に関する きわめて 狭義な 彼女 自身の 解釈で ある。 カンディンスキーの 熱狂 的な 信奉者と される リベ ィを 何より 魅了した の は, 空想的な 絵画が 備えて いる 音楽 的な 要素だった。 色が 魂に 62 及ぼす 感覚的 作用, 3 線の もつ リズミカルな ビート, 多様な フ オル ムの 緊張が 削り 出す 神秘的な 間隔 等が, リベ ィの 芸術に 対する 基本的 戒律と された。 喩えて 言えば, 彼女 は 純潔の 尼僧, すなわち, 人類の 憧憬 すべて を 合わせて, それ を 優雅 かつ 永遠の 境地へ 昇華せ しめる 才能に 恵まれた ごく 小数の 選ばれた 人間 たち (芸術家) —— 彼らが 発する 微妙な ヴ アイ ブレー シ ヨン を 無形の まま 感じと る ことので きる 巫女であった といえる。 音楽お よび 二次元の (それゆえに 超俗 的な) 絵画 芸術 こそ 力;, 彼女の 理想 を 表現し 得る ものと さ れた。 彫刻 は 絵画に 比べて より 難しい, と リベ ィは 考えて いたらし く, その 理由に はかなり 疑問の 余地が あ る 力、 終始一貫して 彼女の 選択に 入れようと しなかった。 彫刻に 対する こうした 頑な 態度 を 考える と, 唯一の 例外と して 彼女の 心 を 妥協 させた の 力;', アレクサ ン グー 'カル ダ 一であった こと は 不思議で ある。 彼の モビールが もつ 麻酔薬の ような 効用の せいだった のか, あるいは 知り合う 人 すべてが 魅せられ たという 彼 自身の 魅力の ためだった のか は, 判断が 難しい。 また ブ ラン クーシの 場合 は, 自ら 信奉者の 一人と ならな いまでも, その 才能 を 充分 認めて はいた。 ただし 官能的 であく まで も 肉体的であった 彼の 作品の 存在 感が, リベ ィには 受け 容れ 難かった ので ある。 しかし 自分の 領分で ある 絵画に 関して, 彼女の 鑑識眼 は 絶対であった。 美術館 所蔵 用 あるいは 自身の 個人 蔵 用に 取得した どの 作品 も, 最高の ものば かりだった。 リベ ィ 以後の 館長の 時代に なると, 彫刻 や 具 象 絵画 等, タブ一 だった 分野 も 受け 容れ るよう になった。 表現主義の 作品が 増えた し, 何よりも タン ハウ ザ 一家の コレクションの 寄贈に よって 画期的な 拡大が なされた。 しかし リベ ィの 定めた ある 基準 は, 後々 まで 守られた。 質お よび 歴史的 重要性 を 問う, 限りなく 厳しい リベ ィの 鑑識眼に 適う 作品 以外 は 所蔵 品に 加え ない という 鉄則で ある。 他の 美術館に も 同様に 素晴らしい ピカソ, ドロー ネ一, グレー ズ, カンディンスキー の 作品が ある ことだろう。 しかし ソロモン 'R. グッゲンハイム 美術館の 所蔵 作品 を 凌駕す るよう な もの はない はずで ある。 これ は リベ ィが 定めた 規準 だ 力、 永遠の 規準, 指標と なった。 非 対象 絵画 美術館の コレクション を 語る にあたって は, ソロモン 'R. グッゲンハイムの 与えた 影響に つい てもう 少し 触れて みたい。 彼の 裁量 権が どの 程度 大きな もので あつたか, リベ ィの 方針に ついても, 彼が いつ どのように 修正したり, 却下した りした かに ついては 知る 由 もない。 しかし プラザ' ホテル 内の ソロモン の 私室に 飾られた モ ディ リア一 二の 《裸婦》 と ボナ一 ルの 《庭に 面した 食堂》 の 二 点の 選択に 際して は, 公 けに はされ ていない 力;', ソロモンと リベ ィの 間に 激しい 反目が あった こと は 確実と 思われる。 20 世紀の 絵画 すべて を 見渡しても, この 二 点 ほど 肉感的, 官能的 力つ 感覚的な 作品 は 他に 見当たらないから である。 一方, ペギー. グッゲンハイムに は 禁欲主義 信奉者と いった 気配 はみ じん もなかった。 ヒラ 'リ ペイの 霊感 の 源と なって いた 気高い 神秘的 法則 は, ペギーに は ほとんど 理解で きない ものであった。 叔父の 相談役 リ ペイが 美術に 対して 確固たる 自信 を 抱いて いたのに 対して, ペギーに は, 他人の 助言 を 聞き入れ, しか 63 も 優れた 知恵と 鋭い 洞察力で 助言者 を 選び出す という, 見過ごされ がち だが 大切な 才能が あった。 例え ば ハーバート. リード, マルセル. デュシャン (当時 は 今日の 絶対的 名声と は 無関係だった), アルフレッド. 近代 美術との 出会い は, リベ ィの ように 美術の クラスに 通った からで はなく, パリでの ボヘミアン 暮 しの 際に 出席した 数々 の パーティ一 を 通して であった。 ローランス' ヴェーユ 4 との 結婚に より, ニューヨークの 上流 ユダヤ人 社会 を 逃れて パリで 自由 奔放に 暮らす 間に, ペギー は ピン から キリまでの ありと あらゆる 近代 美術の 真只中に 身 を 置いた のだった。 まったく 新しい 環境の 中で, 派手 で 目 くるめく ような 日々 にす つ 力 今 満足しながら, 同時に クールな 観察眼 を 備えて いた ペギー は, 華麗 だが 短命な ものと, 永続きす る 才能と を 見分ける 術 もす ぐに 覚えた。 そのため 苦い経験 も いろいろ 重ねた 力;, く じけ る ことなぐ あやまち 力 1 ら 学びつつ 修練 を 積んだ。 彼女の 自叙伝の 行間 や 対談の 話から, ヴ ヱーュ との 破綻に より, 力、 えって 二人で 募した 日々 に 養った 洞察力 や 批評眼に 対する 恩義 を 感じる ようになった という ふしが 見られる。 さらに 夫の 指導な しで も, パリの 芸術家 社会の 中で 一人で やって いける こと を, 自分 自 身に 証明した いという 思い もあった ようで ある。 また 同時代の 作家た ちが 直面 させられ ていた 世間の 無理 解, 冷たい 敵意な どに 対する 激しい 憤り もあった。 彼らの 作品 を 買う ことで 援助の 手 を 差し延べ るの は, 従 つて 至極 当然の ことだった。 きわめて 当然と 思える そうした 援助が 充分に 行なわれ ていない こと 力;', 彼女の ような 積極的な 人間に は 我慢で きなかった ので ある。 もう ひとつ, ペギーが 心の奥底で, 学ぶ こと そのもの に対する 尊敬の 念 を 常に 抱いて l" 野に 進出し ていった の は 主に 女性であった (メアリ一' カサット, キャサリン 'ドライア 一, ぺギ 一' グッゲンハイム, メアリ 一. レイノルズ, ガ一 卜 ルー 卜'' ヴ アンダー ビルト' ホイット 二一, ガートルード' ス タイン, アルマ' スプ レック ルズ, リリー, P. ブ リス), ヨーロッパに U を ずるなら ば, 近• 現代 美術の 収集と 助成と いう 点での 女性の 関与 は ほとんど 見られない。 もちろん 例外 はあった。 アル ベール. ギャラ タンの 比 類のない コレクション 力' その ひとつで ある。 あるいは イザベ ラ' スチュ ワート' ガードナーの ような 一匹狼の 存在 も 忘れて はならない。 彼 女 は 古典 絵画 も 近代 美術 作品 もと もに 収集した。 2 アメリカの 学者に よる この 分野の 研究 書の 傑作の ひとつ, ロバート• ローゼン ブル ム著 『北方の 伝統』 は, いわゆる 「玄人 受け」, つまり 批評家 筋に のみ 認められる 著作と いう 評価し か 受けられな 力' つた。 メトロポリタン 美術館 も, ニューヨークの 市民に ドイツ' ロマン派の 絵 画 を 紹介 するべく 〈ドレスデンの 輝き 展〉 を 開催した のた' 力;, それ は 中途半端な 内容に とどまって しまった。 そうした 中途 'f. 端な 姿勢 は、 会場 構成, 宣伝, 地味な カタログ など すべてに よく 現われて おり, この 展覧会の?; 敗 を あらかじめ 決定して いなよう である。 アメリカ人が 彼らの 作品に 昆 出し, 評価し えた もの は, 一般に 政治的な 偏向 や 大胆な 色 使いが もたらす 効用ば 力' りであった。 同 じ 意味で, アメリカに はかなり 偏狭た が 熟 狂的と もい える 抽象 表現.

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